北の旅人

旅行や、ちょっといい話などを。そして、時には言いたいことを、ひとこと。

「1956」ー14歳の心象風景⑭

2009-07-19 11:21:18 | Weblog

<作文>
         
 スキー

             (S・T)

僕は今年まで、4尺5寸の短いスキーを持っていた。ところがお父さんが此の間、長いスキーをくれた。僕はうれしくて、すぐ乗りにいった。このスキーはみんなのよりも、ものすごく細かった。そして、ぐんにゃりとしのる。

お母さんが、僕に「そんなに長いスキーにのって大丈夫かい。ころんで足を折らない様にね」と注意してくれた。僕は「大丈夫だよ」と、平気で答えて乗りに行った。F君やY君と一緒に火防線に行った。

僕は長道の方をすべった。はじめの時は下からすべったが、だんだんと上に登っていった。その内に日が暮れてきたので皆と一緒に帰った。この日は何ごともなかった。

次の日、学校から帰ってすぐR君と一緒にまた火防線に乗りにいった。 昨日よりも高い所からすべれた。R君は僕よりも下ですべっていた。大分、すべっているとR君が手ぶくろを替えに家に帰った。もうしばらくして来るといったので、待っていると又すぐ来た。

此の日も一日いっぱいすべって最後にうんと高いところからすべろうと思ってすべった。そしてすべって、曲げる気になったらスキーの先は馬力がついていたので「バリン」という音と共に折れてしまった。 僕は「さぁ、困った」と思った。

仕方がないので家に帰ってお母さんに「スキーを折ってしまった」といったら、お母さんは「ほら見れ!そんなに長いスキーに乗るからよ」と言った。僕はおこられるのかと思って、ひやひやしたがおこられなかった。

        ☆        ☆

われわれの間では、冬はスキーが一番人気のある遊びだった。ちようど、その頃、イタリアのコルティーナダンペツッオで行われたオリンピックスキー回転で、猪谷千春選手が、冬季五輪日本初の銀メダル(アジアでも初)を獲得し、スキー熱が一層盛り上がっていたときだった。

どれだけ高い所から滑ることができるかということは、結構勇気のいることであり、ちょっとした冒険心を満たされることでもあった。また、それが出来るということは、クラスの中で存在感を示すことになり、尊敬の眼差しで見られるという一面があったので、競い 合って高い所からすべった。可愛いものだったな~と思う。


「1956」ー14歳の心象風景⑬

2009-07-18 10:06:44 | Weblog

<作文>

         スキー作り
               
(T・K)

僕は父さんにスキーをつくってもらいました。今日はとなりからスキーをまげる台をかり、スキーを2時間あまり、かまに入れてふかしました。

そしてスキーをまげる台でぼくのスキーをまげ、母さんと僕は片方ずつまげましたが、まげるところがふとくて、まげたとたんはじけ、それを見て僕はなきそうでした?

父さんが弟のスキーとそんなに変わらないから弟のをやるからといって、それから夜8時15分から10時30分までふかしました。そして母さんと片方ずつそらしてまげました。

そして、そのスキーが成功したので僕はうれしくておどりだしたくて、はねまわりました。それを見た母さんは、Kはばかになったのではないかと笑いました。

そして、まげたところにローソクをぬりました。母さんは「スキーによくしみこまさなかったらだめだよ」と言いました。僕はけんめいにあたためてぬりました。        

        ☆         ☆

子どものころのスキーのスタイルは、スキー板に簡単な金具が付いていて、革ひもで長靴を固定するというものであった。それを大事に長く使った。

本来は、身長に合わせてスキーの長さを変えていかなければならないのだが、経済的にそんな余裕はなかった時代だ。兄のお下がりをもらったりしていた。 今のように、スキー靴をカンダハーと言われる金具で止めるというものになったのは、だいぶん後だったと思う。

北国の冬の遊びと言えば、スキーかスケートだったし、学校でも体育の授業にスキー学習というのがあり楽しみだった。それだけに、皆の作文にはスキーを題材としたものが多い。どれも、それぞれの楽しさが伝わってくる。


「1956」ー14歳の心象風景⑫

2009-07-17 10:40:58 | Weblog

<作文>

       思い出のお姉さん

                 (N・Y)

私のお姉さんは今から6、7年前に亡くなりました。私はお姉さんのアルバムを見ていると、優しかったお姉さんの生きていた頃が、今更の様に浮び出て来るのです。

一緒に山にブドウ取りに言ったり、苺取りに言った事などが、思い出されるのです。 何故、あんなに優しかったお姉さんが、死んでしまったのでしょうか。私は諦めきれませんでした。しかし、それがお姉さんの運命なのだと思うと、諦めるほかはありません。

ある夜、私は理科の宿題を出されたので、空を見ると鱗の様な星が輝いていました。ふと又、お姉さんの思い出が瞼に浮かんで来るのです。そうだわ、お姉さんの死んだ夜も、この様に星の綺麗な夜だったわ。そして北斗七星が北の空で、キラキラと輝いていたのでした。

私のお姉さん、何故あんなに若かったのに早く死んでしまったの?いくらそれが運命といっても、あまり短かい一生なのではないでしょうか。可愛そうなお姉さん…… もうこの世にはいないお姉さん。いくら会いたくても、もう二度と会えないお姉さん。私はただ星ばかりを見つめているのでした。

そして、この間亡くなった様な感じなのに、もう6年もたっているのでした。 その時、ふと又、自分にかえり、宿題について考えていました。いつの間にか、あの瞬いていた星はどこへやら、空には灰色の雲が空一面におおいかぶさっていました。そして雲は、ただぐんぐんと流れていました。

もう夜の9時頃、家の人達はもう皆眠りに入っていました。弟の歯ぎしりする音が、いかにも寒時を現わしていた。

       ☆         ☆

私は6人兄弟姉妹だったが、姉二人が近隣の町に次々と嫁いで行き、兄が進学で上京、弟、妹と3人になった頃は、しばらくの間、やっぱり寂しいものだった。ましてや、亡くなったということになれば……

親も多分、6人の子どもたちが皆な独立して家を出て行った時は、嬉しい半面ほんとうに寂しかったんだろうなと今になって良く分かる。一人息子が進学、就職して別々に暮らすようになっただけでも、寂しいのを実感しているのだから。


「1956」ー14歳の心象風景⑪

2009-07-16 19:55:50 | Weblog

<作文>
               
 南極への希望

                          (A・Y)

南極に宗谷も海たか丸もぶじに着き、いろいろな準備もすんで、今日のりんじニュースでは、越冬隊員11名だけがのこり、残りの隊員は15日の午後6時にオングル島を出発したと報告があった。

今日のは予備かんそくで、本かんそくは来年です。それまでに越冬隊員はいろいろなかんそくをしているのでしょう。南極大陸はそうとうの地下資源があると、一年の社会の時間に先生から聞きました。

そこで来年の本かんそくには、日本や他の9ケ国が力を合わせて一生県命かんそくして良い成績をつくって帰国できるようにしてほしいと思います。

   (注)海たか丸=海鷹丸は宗谷をサポートする隋伴船

              ☆         ☆

今年は南極観測50年目に当たる。当時、私も新聞記事を切り抜き、ノートに貼って保存していたものだ。南極大陸に上陸したというニュースを聞いた時は、多分、人類が月面に降り立った時の感動というかロマンというか、そんな気分だったのではないかと思う。

南極観測船「宗谷」は今、東京お台場にある「海の科学館」で一般公開されているそうだ。


「1956」-14歳の心象風景⑩

2009-07-15 20:09:15 | Weblog

<作文>

       「私は木である」

                (S・T)

私は雨の日も風の日も長い間にそだった木である。私の年はもう160年もたった老木である。

私は、ついに木こりの手によって、私の命はもうこの世界から消えてしまうのだろう。あのあつい火の中にくべられたりして、苦しんでいるのを思いうかべてみただけで私はおそろしい。

私は人間と言うものは「万物の霊長」とゆうのであって、ほんとうに私達の生活をこわす、もうじゅうであるように思う。私達が無いと人間はほんとうに困るのであると思うのでありますが、私も何年も命をつないで来たので、一生が終わるまで、いきていたいのに私はもう町につくまでの命だな―とおもいました。

 私の思いも知らないで、私が苦しんでいるのは人間の心にはわからないだろう。私は木に育って本当に不幸であった。

       ☆        ☆

あの時代に、人間と自然という、まさに現代的なテーマについて取り上げていることに驚いた。同時に、10代の若者の感性の鋭さにも凄いなーと思った。

私たちの町は林業が盛んだったので、森林で伐採され製材などに姿を変えていくという風景を日常的に目にしていたので、このような視点で人間と自然の関わりを捉えていたのだろう。

先日、ふるさとに帰って、50年ほど前に植林した山一帯を見たが、やっと当時のような森林に戻ったのかなと感じた。貴重な自然を守ることの大切さを改めて思った。


「1956」-14歳の心象風景⑨

2009-07-14 10:31:18 | Weblog

<作文>        作文  

                           (N・M)

私の作文を見て、だれも上手だと言ってくれる人は少ないであろう。私は生まれつき作文が大嫌いである。その第一としては、題をなににしたらと言う事。題ぐらい簡単だと言う人がいるかもしれない。私にはその題で終わりまで綴ることは不可能なのである。

 この前、先生から、「作文をかいてきてください」といわれて、どきっと胸がなるような気持ちでした。私は作文を書かなければならないと思いながらも、机に向かった。帳面をひらいて書く。だが、そのたびにこの題はだめだとかきなおした。

私の父兄妹は文を書くのがすきで、五月五日の日にK村の作文の部に一等になったほどです。それなのに、どうして、私だけが作文を嫌いでしょう。 

評 何も下手ではありません。この調子で書けば良いのです。

              ☆         ☆

私も作文と図工が一番苦手だった。特に、400字詰めの原稿用紙を目の前にした時は思案投げ首だった。しかし、高校卒業後は浪人、進学などで家を離れたこと、また将来はマスコミ関係の仕事に就きたいという希望もあって、文章を書けなければ駄目だと思い、家や友達に意識的に手紙や葉書を書いたものだ。また、今のように、電話を気軽にかけられる時代ではなかったので、なお更だった。

書いているうちに、少しずつ文章を書くことが苦痛ではなくなっていった。これが、結構よい練習になったように思う。結局、マスコミの世界には行かなかったが、書くこととは縁が深かったので、必要に迫られて書いているうちに、楽しくさえ思えるようになっていた。中学生の頃のことを思うと、全く皮肉なものだ。


全く呆れたぞ!自民党

2009-07-13 12:52:14 | Weblog

東京都議選は民主党の圧勝に終わった。当然といえば当然だが。それにしても、麻生総理と今の自民党執行部のお粗末さには、ほんとうに呆れるばかりだ。

麻生総理といえば、自民党の都議選候補者全員の応援に入ったというが、自分が行けば票が増えると思っていたらしい。来てもらう側は有難迷惑だったというのがほとんどだったらしいのだ。全く空気が読めていなかった。

さらに、再三にわたって「都議選は直接国政とは関係ない」と強調していたが、過去の都議選と、その後の衆院選などの結果を見れば明らかなのだ。この期に及んでも、「地方選の結果は、国政に影響しない」と語っているが、この一言が、どれほど有権者の気持ちを逆なでしているかが全く分かっていない。衆院選での大敗北が目に見える。

党幹部にしても、同じようなメッセージを流し続けていたが、こんなレベルの低い発信力では、政権政党としてあまりにも情けない話だ。そんなことを有権者は、誰一人信じる者はいない。

自民党の体たらく、石原都政への強い批判が、この結果なのだ。振り返ってみれば、デタラメ極まりない年金問題の対応をはじめ、あの迷走の挙句に実施した定額給付金という愚策に対し、ほとんどの国民が反対した。それにも拘わらず、定額給付金が行き渡れば、国民の支持率が上がるなどと、国民を馬鹿にしたような発言が総理サイドから流されていたが、そんなアメ玉に騙されるはずがないのだ。ほんとうに困っている人たちに給付すべきだと言うのがほとんどの国民の思いだったのだから。

ある作家が書いていたことだが、あの2兆円を47都道府県に一律(というのは、検討の余地ありだと思うが)に配分したとすると、425億5000万余になり、福祉関係や中小企業など助けを必要とする人たちに渡るようにしたほうが、どれだけ有効に、しかも喜ばれたか分からないというのだ。全く同感だ。

これとて、公明党に引きずられて、やむなく実施したことだが、選挙協力にヒビが入ることを恐れたがための愚策だった。その上、麻生総理の資質の問題もあるし、石原都政に対しても、新銀行東京などの失政に明確なNO!を突き付けたのだ。

さらに言えば、折りもおり、都議選を直前にしての、あの東国原知事を巡るドタバタ劇ときた。古賀選対委員長は「ここ1週間は、マスコミがびっしり、このことを取り上げたでしょ」と得意げに語っていたが、どれだけマイナスに働いたか、まるで分かっていない。以前にも書いたが、即刻退場すべきだ。

自民党は、謙虚に、かつ猛省の上に立ち、下野を恐れず、「明日の日本をどうするのか」、堂々と政策で勝負し、新しいリーダーの下で血を入れ替えて出直すしかない。

☆ニュースによれば、麻生総理が解散を決断したという。まさに「破れかぶれ解散」以外の何物でもない。その前に辞任すべきだ。

総理と会談した古賀氏のコメントが、ふるっている。「保守本流に戻って、王道を行く選挙をやろうじゃないかと総理と話してきた」というが、あれだけお粗末な言動を繰り返してきて、何を今更だ!ほんとに、笑っちゃうしかない。


「1956」-14歳の心象風景⑧

2009-07-12 10:48:50 | Weblog

<作文>

         思い出          

   (H・T)

私は中学2年になってから色々な事がありました。 4月1日朝、学校へ行くと皆なうれしそうな顔です。私はうれしいような、いやなような気持ちがした。それは勉強がむずかしくなるからです。

そう思いつつ6月になりました。毎日毎日運動会の練習があり、6月20日朝6時の花火とともに運動会はすることになりました。あの時は朝起きてみると小雨がふっていたが、花火がなったので心配しながら学校へ行きました。

学校へ行くと先生がたが皆なてんてこ舞でした。お昼になると日本晴れのような良い天気になりました。運動会が終わり、又勉強が始まりました。7月22日はM町地区の運動会があリ、まもなく夏休みになりました。夏休みには家の手伝い、又勉強と毎日毎日やっていました。

 9月27日に、先生が29日に遠足だといわれました。「中学2年生はどこへ行く」と先生にきかれ、皆で相談しKへ行くことにきめました。29日は朝から良い天気でした。8時に学校を出発し神社のKさんの裏をKへ歩いて行きました。宿についてから風呂に入り、I山を見てから5時の列車にて帰って来ました。

それからしばらくたち、11月14日に学芸会がありました。14日は曇後小雨の天気でした。それから色々と試験があり、やがて12月25日ジングルベルの歌とともに第二学期が終わりました。そして31日除夜の鐘とともに1年も早過ぎ去りました。

1月1日に学校へ行き式を行ってから、家へ帰ってから皆で遊びました。そして、もう早三学期も始まります。中学三年生も目の前に見えるようです。今年こそは、しっかり勉強しようと思っています。   

                ☆        ☆

私たちの住んでいた町は、3,000人ほどの小さな町だった。それだけに地域の連帯感は強く、地域としての運動会は一大イベントだった。とくに子どもから大人までの混成で組む地区対抗のリレーは最大の呼び物で、応援団の熱の入れようは大変なものだった。リレーのメンバーに選ばれた選手は、ちょっとしたヒーロー扱いで、私も何回か選ばれたが緊張したのを覚えている。

こんな地域の雰囲気だったので、大人から子どもまで、顔見知りが多く、よく声をかけられたりしたものだ。振り返ってみると、「温かさがあったな~」と、つくづく思う。先日、51年ぶりの中学時代のクラス会で、久しぶりにふるさとに帰ったが、学校のグラウンドに立ったとき、そんなことを懐かしく思い出した。

 


「1956」-14歳の心象風景⑦

2009-07-11 10:48:46 | Weblog

<作文>

           朝の光

                  (M・M)

M ! 母の呼ぶ声に目をさますと、すぐとびおきた。戸のすみから朝日がさしこんでいた。 きのうから降っていた雪が晴れ、野も山も銀世界のように輝いていた。僕はポケットに手を入れて立っていると風は顔をたたいて遠ざかった。朝、風は大変寒かった。

母のよぶ声に家へ入った。モヤモヤと立ちのぼるごはんの湯気、その向こうでせっせと母が茶わんにごはんを盛っていた。「いただきます」というが早いか僕はあたたかなごはんをほうばらせた。後から父もごはんを食べた。

家の前も雪の山になっていた。6時57分の汽車のきてきが聞こえてきた。鼻にしみるような寒さ、スコップに雪を入れ気合いを会わせて打ちこむ。手ぶくろには白い雪がついた。自然に流れでるあせがハンケチいっぱいにしみた。

 雪はねをおえて家の中へ入った。ストーブが赤々と燃えていた。手ぶくろをほして、やっとおちついた。窓からもれでる太陽の光が家一面を照らしていた。

              ☆         ☆

子供の頃の記憶では、冬は最高マイナス35℃位になった。そんな時は、風呂上がりのタオルを暖房がない部屋に掛けておくと、あっという間にパリパリになった。

笑い話だが、「おはよう」と言ったら、そのまま言葉が凍ってしまうと言うぐらいに寒かった。考えてみれば、建物の構造や暖房設備が今のように充実していなかったので、当然のことだ。

 雪は、多い時には2m近く積もった。そんな時は、2階建ての家の窓から出入りした経験がある。汽車やバスなどがストップすることが結構あった。スキーで登校し、校舎の周辺を除雪してから授業を開始するということもあった。

しかし、そんな邪魔者扱いされてきた雪も、今や「さっぽろ雪まつり」のように冬のイベントとしては世界最大と言われるまでに成長した祭りの主役だ。

冬の漁を拒むオホーツク海の流氷も、近年は大きな観光資源として存在感を示している。

物の見方を変え、活用の仕方を工夫すれば欠点が利点に変わることを教えてくれている。


「1956」-14歳の心象風景⑥

2009-07-10 09:44:16 | Weblog

<作文> 

「3人で迎えた32年の年」

                    (G・S)

 昨年の大晦日だ。私の家では兄と姉と妹が札幌へ遊びに行く日だった。午後6時頃の汽車でたつので、私と母は送りに行った。汽車が出発する時、なんとなく寂しい感じがした。

私と母は妹達が窓から手を振るのをぼんやりと立ち、見送った。母は心配そうな顔をしていた。無理もないのです。妹は、母の手から今はじめて離れて行ったからです……。

 すぐその足で私達の年をとる用意をするので、Kさん(店の名)で買い物をして来た途中、ふと後ろを向くと母は私の後ろからぽとぽと、なにかを考えているようにしてついて来た。

 家につくと父は、一人ぽつんと火をたいてまっていた。それからいろいろと仕事をして、3人で御膳についたのは、7時すぎであった。

普通だったら5人も6人も、テーブルにつくのに今日は3人だ。とっても物たりないので、私はから元気を出してさわいでいた。

 だんだんと夜も更けて来た。3人はラジオに耳を傾けていると、10時過ぎごろ歌合戦が始まった。私達は、真剣にきいていた。

すると何時ごろだったろうか。きっと10時半頃だったでしょう。隣の家でお風呂に入りにおいでとよびに来たので、私は喜んで行きました。お風呂に入ってからトランプなどをして遊んでしまいました。

12時頃、私はかえって来ました。すぐ床について元旦のプランを立てながら寝ました。 元旦は、とっても良い天気で、私はなんとなく気がさわやかだった。

朝から夕方まで友達の家で遊んでいて5時頃まで帰らなかった。母と父は、2人で何も話をしないでぽつんとしている。母は私が家にいないととっても寂しいといっていた。

 その晩も3人で御膳についた。すると母は「子供のいない家はこんなにさびしいものなんだろうか」と父に話かけていた。私もつくづくと姉妹がいないと、つまらないものだと思った。

         ☆         ☆

そう言えば、あの頃、冬の間は家族や友達と結構トランプで遊んだものだ。私の場合は、百人一首(下の句かるた)が大好きで、中学生の頃は冬休みに、街の大人たちに交じって遊んでいた。

夜遅くまで出かけていて、よく親に怒られたものだ。しかし、正月などには、かるた大会があり、上位入賞の経験もある。楽しい思い出の一つだ。