北の旅人

旅行や、ちょっといい話などを。そして、時には言いたいことを、ひとこと。

政界の現状に一言

2008-03-29 17:11:02 | Weblog

政治が混迷を深めている。政界は「一寸先は闇」と言われるが、まさにその通りの状況が続いている。

期待されて総理の座に就いた福田氏だったが、国民からは「首相の目指す政治がよくわからない」というマイナス評価が定着している。支持率も下がる一方だ。

確かに、私も官房長官時代の福田氏のイメージからすれば、一度は総理にしてみたいと思ったのだが。リーダーシップの問題もあると思うが、総理を支えるべき官房長官や自民党幹事長の発言などを聞いていると、どうもしっくりいっていないのではないかと思わざるを得ない場面が垣間見えて仕方がない。

野党との交渉力も、かつての自民党よりはるかに劣っている。ここはタイミングをみて陣容を一新する必要があるのではないか。

一方、民主党と言えば、もっと支持率が上がってもよさそうなものだが、そうでもない。やはり、こちらも小沢党首のリーダーシップに問題があるように思う。

大連立の失敗以降、強硬路線に転換しテロ特措法、日銀総裁人事、ガソリン税の暫定税率などの問題に対する民主党の対応は、甚だ疑問だ。民主党の主張が、本当に日本のためになるのか、国民の
ためになるのか、地方のためになるのか。

具体的な対案があるのかと言えば、必ずしもそうではない。政権交代を焦るがゆえに「政局」が先行していることが見え見えだ。

その上、小沢氏個人が政治家として「最後の勝負」を賭けるということで、これまた焦っているのではないか。

最近の読売新聞の世論調査では、小沢氏の仕事ぶりについて65%が評価しないという結果が出ている。「強引」「わがまま」というイメージが定着しているのではないかと思う。

福田内閣は期待外れだが、かといって民主党に政権を任せるのも危険だと言わざるをえない。与野党ともに国民の立場に立ち、ルールに則って審議を進めるよう強く望みたい。

      


アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km<29>

2008-03-15 08:58:24 | Weblog

1972・9・21(木) 晴れ 東京→札幌

午前6:00起床。6:30から、朝のつどい。国旗掲揚、君が代斉唱。食 
事のあと、荷物移動。8:30から自由時間。9:00新宿駅で妻と待ち合
わせ。妻のお袋さんも一緒に来る。息子は1か月以上見ないうちに、
ずいぶん成長していた。1歳の誕生日を過ぎたので当然だろうが。30分ほど会って別れる。

その後、かつて勤めていたS社に立ち寄る。常務などと会う。社長
はヨーロッパへ旅行中だった。その足で、当時の直属の上司であつ
たK氏が社長を務めるP社へ。簡単な挨拶だけして、代々木へ戻る。相変わらず東京は目まぐるしく動いていて、巨大なエネルギーを感じる。道路も大変な混みようだ。

正午、代々木を出発。高速道路から見る東京も久しぶり。東京独特の、どんよりとした空だ。2:10羽田発で札幌へ。息子も妻も同じ便に乗ることが出来て、一緒に帰ってきた。1時間10分、息子を抱っこしていた。3:30千歳空港着。5:30北海道庁着。解団式を終え、
6:30解散。タクシーで自宅へ。夕食は寿司を取り寄せて乾杯!35日
間の旅よ、さようなら。     

    ☆          ☆ 
                    
こうして「青春回帰への旅」を終えてみると、若さというのはやっ
ぱり素晴らしいものなのだと、つくづく思う。今では20時間もバス
に乗って移動することなど、想像することさえできない。若いとき
には「何でも見てやろう」という精神で、とにかく貪欲に吸収して
いくべき時代だ。
何よりも、ホストファミリーの人たちとの触れ合いが最も心に残っ
た。外国人というと、当然のごとく、われわれとは全く違う人種な
のだという先入観が強い。しかし、たとえ3日間でも寝食を共に
し、「おはよう」から「おやすみ」までを英語で通してみると、だ
んだんアメリカ人が日本人に見えてくるから不思議だ。心と心の触
れ合いがそうさせるのだろうか。人間と人間が分かり合えることの
素晴らしさ、大切さを改めて学んだ気がした。

サラリーマン時代を振り返ってみると、あの時のアメリカの35日間
というのは、私の人生に、どれほど役に立ってきたか分からない。同じ釜の飯を食べてきた仲間たちに、ずいぶん助けられもした。有難いことだ。あの経験は年月が経つほどに、キラキラと輝いて見え、その重みを増していく。

リタイアして4年、ここ1年余りは夫婦して入院・手術・リハビリな
どの闘病生活を強いられていた。とくに私は、神経鞘腫という病気
で、脊髄(頚椎)に2㎝強の腫瘍が出来ていたのだ。10万人に一人と
言われ、肩・首・左腕の激痛と痺れに襲われた。熟睡が出来ず、酷
い時は眠っていて無意識のうちに、「痛い!」と叫んで飛び起きる
こともあった。 診てもらった医者4人のうち3人は後遺症のリスク
を考えて、手術には消極的だった。最悪の場合、車いす生活になら
ないとも限らないという医者もいた。半年間、悩んだ末、幸い信頼
できると感じた医者に出会い、手術を決断。ほとんど後遺症も残ら
ずに何とか乗り越えられた。 

そんなこともあり、やりたいと思っていたことに、手をつけようと
いう気概が湧き上がってきた。今の私の気持ちを勇気づけてくれる
コピーがある。ときどき開いて見る好きな本の中にある。アメリカ
を代表する企業の一つ、ユナイテッド・テクノロジー社の企業広告
を集めたもので、アメリカの1980年代を代表する「時代の言葉」と
なったと言われるほど、感動を与えたというものだ。

    引退しても
    さびつかないで

  引退は            
  赤信号である必要はない。
  青信号にもなり得るのだ。
  オスマー・アーマンも
  きつと賛成するはずだ。
  60歳で
 「引退」したあと、
  いろんなことをやった中で
  彼は設計も手がけ、
  コネチカットと
  ニュージャージーの高速道路、
  ピッツバーグ市民競技場、
  ダラス空港、
  スロツグス・ネック橋、
  そして
  ベラザー橋をつくった。
  ポール・ゴーギャンは
  立派に成功した株屋として
 「引退」し
  そのあとで
  世界にとどろく画家となった。
  ハインリッヒ・シュリマンは
  実業界から「引退」し
  ホーマーの書いた
  伝説の都市
  トロイを探し、
  ついにそれを見つけ出した。  
  チャーチルは世界的な政治家として
  名を上げたあと、
  ペンをとり
  79歳でノーベル文学賞を受賞した。
  あなたも引退したら
  釣りにばかり行かないで
  狩りにも行きなさい。
  あなたがいつも 
  やりたいと思っていたことをする
  チャンスを探す狩猟です。    
  そして見つけたら、やってみるのです。
                                     <完>

<参考資料> 下記資料を参考にさせていただきました。深く感謝申しあげます。

○ 第三回北海道中堅青年海外派遣事業報告書(北海道青少年育成推進 協議会)
○ フリー百科事典「Wikipedia」
○ 同志社ナビ用語集
○ 続・北へ…異色人物伝(北海道新聞社)
○ 北海道歴史人物事典(北海道新聞社)
○ WEB HAKODATE WHAKO .COM
○ 読売新聞社「10大ニュースに見る戦後の40年」(読売新聞社)
○ 野茂英雄公式HP
○ 「博物館 明治村」HP
○ 「北海道開拓の村」HP
○ ワシントン桜物語-アメリカと日本の友情を深める花 (http://www2.osk.3web.ne.jp/%7Earanishi/index.htm)
○ 「広島平和記念資料館・原爆資料館」HP
○ 外務省HP
○ 国際キワニス日本地区HP
○ 豊田市HP
○ 「私には夢がある」 (http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/2431/mlk.html)
○ 海外の地方自治体 (自治体国際化協会ニューヨーク事務所HP)
○ ディベートで決まる米大統領選挙(田中宇の国際ニュース解説HP) ○ ロータリーの友 1992年3月号
○ リンカーンの三分間-ゲティズバーグ演説の謎(共同通信社 ゲリー・ウィルズ著 北沢栄訳)
○ 日本人の系譜-先人の心と生き方に学ぶ(自由広報センター 上田三三生著)
○ 公文書に見る岩倉使節団(アジア歴史資料センターHP)
○ 岩倉使節団「米欧回覧実記」(アイオワ州政府日本事務所HP)
○ モルモン教は信ずるに足るか? 岩倉使節団の見たモルモン教(1)(2) 「るうの部屋」 (http://garyo.or.tv/index.htm)
○ 素顔のモルモン教 新教出版社 高橋弘著
○ ユタ州HP
○ アメリカの日本食 (http://blog.livedoor.jp/maxmasahiro/archives/50517963.html) ○ 月刊「装道」増刊号「装道の時代」
○ サンフランシスコ観光局・国際空港HP
○ アメリカの心-GRAY NATTER-全米を動かした75のメッセージ(学生社)


     

アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km<28>

2008-03-14 06:52:32 | Weblog
1972・9・19(火) 晴れ 
サンフランシスコ→ホノルル


午前7:00起床。いよいよ、サンフランシスコともお別れだ。女性リーダーのS先生、Kさんと一緒に朝食。土産店の江戸屋で、コインホルダーを再度買う。(ケネディのコイン35枚、アイゼンハワーのコイン20枚)、結局、日本円にして20,000円近くをお土産用に確保。

10:00集合。荷物をバスに積み込み、空港へ。トンプソン女史の見送りを受け、ジャンボジェット機内へ。Wさんと同席。さすが、ジャンボだ、400人は乗れるという。映画、音楽(ステレオ)、落語などを自由に聴くことができる。ただし、ホノルル-東京、香港-東京間は、協定によって、800円(2時間)を支払う。映画は邦画(家族)、洋画(野生のエルザ)の2本立て。約5時間でホノルル空港に到着。(時差3時間)

空からはダイヤモンドヘッド、マウイ島がクッキリと見える。きれいだ。ここには2時間だけの立ち寄り。女性にレイをかけてもらう。パインを食べ、絵葉書を買う。4:35離陸、いよいよJAPANへ。(日付変更線通過、時差5時間)午後7時到着予定。機内では、ほとんど寝られなかったので眠いこと。ジャンボは予定通り、東京へ。

1972・9・20(水) 晴れ ハワイ→東京

午後7:30到着。久しぶりに見る東京の灯だ。無事旅を終えて帰ってきたことは、実に素晴らしい青春の記念碑であると思う。「百聞は一見に如かず」、一度は見ておくべきところだ。

東京は、9月だというのに、まだ暑い。税関を通って出てきたのは8:30。実家に帰っていた妻が迎えに来てくれていた。久しぶりだったせいか、キレイに見えた。 5分ほど会って別れる。バスで、代々木のオリンピック青少年総合センターへ。9:30着。荷物は重いし、さすがに疲れた。風呂に入って寝る。明日は、いよいよわが家だ。

    ☆       ☆ 
             
     飛行機での出来事

飛行機には、これまで幾度となく乗ったが、怖い思いをしたことが三度ある。一度目は、1987年5月、友人3人と、「おじさんたちの探検ごっこ」と称して、インド・タイ・ネパールへ行っての帰り。深夜の1時頃、デリーからバンコクへ向けて離陸しようとしたとき、突然、雷鳴が轟き、猛烈な雨が降り出した。いわゆるスコールというやつだ。

これは、しばらく飛び立てないなと思っていたら、多少遅れたが離陸した。すると、機体がガタガタと音を立てて揺れ、風がビュービューと吹き込む。窓の外を覗いても視界はほとんど利かない。30分ぐらい激しく揺れながらの飛行だったように思う。緊張して、ぐったりしたのを覚えている。

二度目は、やはり同じ年の1987年10月、友人と二人だけでソ連を旅したときのこと。ハバロフスクからイルクーツクへ向う飛行機に乗ったのだが、この機内が何ともオンボロなのだ。

カーペットは、ところどころ破れているし、座席のリクライニングは壊れていて、一度倒したら、なかなか起こすことができない。離陸したと思ったら、あちらこちらから風がヒューヒューと音を立てて入りこんでくる。こりゃ、大丈夫かなとヒヤヒヤしたものだ。

機内サービスも酷いもので、缶ジュースが配られたのだが、そのフタの部分は錆びついている。缶きりはどうするのかなと思っていたら、しばらくたって、前の方から1個の缶きりが回ってきて、使ったら手渡しで後ろへ回してくれという。全く驚いた。当時、ソ連では、同じ機種が多く飛んでおり、墜落事故が起こるたびに、「あの時、よく何でもなかったなー」と胸をなでおろしたものだ。

もう一度は、1993年1月、カンボジアPKO視察団に同行した帰り、香港から新千歳空港へ向っていたノースウエスト航空機でのこと。後部座席で寝ていたら、アナウンスがあって、起こされた。何かと思ったら、機内に油のような匂いが広がっていた。聞けば、どうも燃料漏れを起こしているらしいという。

全員前のほうへ移動するようにとの指示が出た。香港へ引き返すという。窓の外を見ると、どうやら沖縄上空辺りらしかった。さすがに、この時は家族のことや、色んなことが頭を駆け巡ったが、カンボジアには1,000万個の地雷が埋まっていると言われた中で、無事帰ってこられたのだ。こんなところで死んでたまるか!と思った。

香港に着くまでの時間が、長く感じたこと。幸い何事もなく無事着陸したのだが、空港には消防車や救急車が何台も待機していて物々しい光景だった。別便で帰ってきたが、実に疲れた旅だった。あのとき以来、もう飛行機には乗りたくないと真剣に思ったが、実際には、そうもいかず、結構海外などへも行っている。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)
 



    

アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km<27>

2008-03-13 07:51:12 | Weblog
1972・9・17(日) 曇りのち晴れ 
サンフランシスコ (カリフォルニア州)

午前9:00起床。10:00からサンフランシスコ市内見学。市役所、日本人街、フィッシング・ファーマシー、山上の展望台、ゴールデンゲートブリッジなどを見学。日本人街には、ほんとうに多くの商社が入り乱れていて、とてもアメリカだとは思えない。行く先々で「メイド・イン・ジャパン」に出合うのには参る。

金門橋はさすがに長くて美しい姿を見せている。今は、ゴールデンではなくレッドと言ったほうがいいような感じだ。サンフランシスコには日本的な家の建て方をしたところが少なくない。市内見学は14:00で終了。

あとは、フリータイム。仲間と一緒にギフトショップを見たり、昼食をとったりする。徒歩で坂を上り下りして3:30にホテルに到着。坂の多い街だが、そのかわり、すごく見晴らしがいい。意外と近いところにスラム街があり、ヒッピーの溜り場になっている。

5:30、ミーティング。7:00から仲間と街へ出かける。日本料理店の「松屋」で食事しょうとしたら、あいにく休み。「やまと」というスキ焼屋に入る。久しぶりに、サッポロビール、サシミ、貝のみそ汁、漬け物などの日本食を味わう。(5ドル) なぜか、恋愛や結婚の話になる。ビールの小瓶6本、酒2~3本飲む。9:00切り上げる。

そのまま、街を歩く。東京や札幌と、さほど変わらない。ダンスホールに入る。黒人や若い女の子が、かなり来ていた。私は踊らなかった。10:30引き揚げる。部屋で、途中から別行動をとった、4人がなかなか帰ってこないので心配する。特に、リーダーのH先生が「遅いな!」と怒り出し、私とK君がなだめ役となる。なかなか大変だった。やがて、帰ってきたが、大事にならずに済んだ。リーダーは少し頑固なところがあるから、少しばかりハラハラしたが、一件落着。シャワーを浴びて、0:30就寝。      

     ☆          ☆
             
      日本食と日本の伝統文化

今や日本食は、アメリカ、フランス、イタリアなど、世界の多くの国で大抵のものが食べることができる時代だ。納豆、豆腐、てんぷら、寿司、すき焼き、刺身、ラーメンから始まって、味噌、醤油などの調味料まで、ほとんど揃っている。

イチローや松井などが寿司などの日本食を食べに出かけたという記事を、時々目にする。 5~6年前、スイスアルプスの麓にあるスーパーに入ったら、インスタントラーメンが売っていて、びっくりしたことがある。また、アメリカでは、日本食はオシャレだとされ、箸を使って日本食を食べられるということが一種のステータスになっているという話をインターネットで読んだことがある。やっぱり日本食は美味しい。

海外旅行で、食事が旨いと思ったのは香港だけだ。アメリカは、「まず,まず」という感じ。ドイツなどは、何でも、しょっぱくて参った。あれは、ビールを飲みながら食べるには、ちょうどいい味になっているのかもしれない。イタリアのパスタも口に合わなかった。ツアーでの食事が殆どだから、その国のほんとうに美味しい料理に出合っていないということかもしれないが。

最近は、日本食が、健康に良いという評価が高まってきているということもあって、一種のブームになっているようだ。世界一の長寿国とあれば、分かるような気がする。

「食」について書いたので、「衣」についても触れておきたい。日本の代表的な精神文化の一つである「きもの」。このきものを茶道や華道と同じように「装道」というものを提唱し、40年以上にわたってその普及に情熱をかけてきた人がいる。「装道礼法きもの学院」学長・山中典士氏である。

私がPR会社に勤めていた時代に出会った。山中氏は1970年から海外へ「装道きもの文化使節団」を毎回100人以上派遣しており、昨年で100か国訪問を達成したというから凄い。きものパレード、きものショー、講演などを開いて、きものを通して日本の精神文化を世界にアピールしてきた。故パウロ二世への謁見や国連からの招請による二度の講演も行って大きな反響を呼んだ。

このように、日本の「食」や「衣」の文化などを通して、日本の心を伝え、日本に対する理解が深めることは、結局、政治や経済などにも良い影響を与えることになる。われわれも、「21世紀は日本の時代だ」というぐらいの気概で前進したいものだ。とくに、各界のリーダーには、是非とも、そんな気概で頑張ってもらいたい。

   ☆          ☆             

1972・9・18(月) 晴れ 
サンフランシスコ(カリフォルニア州)

午前7:45起床。今日はお土産を買わなければならないので、10:00出発。江戸屋という日本人経営の店に行って、30,000円を両替(96ドル)。市内のデパート巡りをしたが、あまり気の利いたものはない。

そこで、昨日行ったフイッシング・ファーマシーまで、一人でタクシーに乗って出かける。ここで、考えていた通り、ほとんどの買い物ができた。ケネディコイン、ネックレスなど。お土産のことを考えると頭が痛かったが。帰りも一人で歩いてホテルまで帰ってきた。

サンフランシスコには東洋人が非常に多いので、ほかの都市ほど外国という印象はあまりしない。荷物の整理をして、夕食会の中華料理レストラン「ジョー・ジョーンズ」へ。

ここでのトンプソン女史(今回のプロジェクトにおけるアメリカの責任者)の日本語による話には、大変感銘を受けた。「われわれは、言葉は十分ではないけれど、心と心で話しましょう!」「われわれの経験を北海道の人たちにも大いに分けてあげましょう」。M団長の言葉も、含蓄に富んだものだった。われわれの35日間の足跡を振り返り、データを示して明らかにした。

考えてみれば、この旅は充実した内容、スケールの大きさなど素晴らしいものだった。感動、感激の連続だった。ISS(今回の事業での受け入れ側)の方々のような仕事は、感謝とともに、ほんとうに見習うべき点が多い。心から「ありがとう!」を言いたい。8:30夕食会終了。

K君、T君と街を歩く。派手なネオンが輝く建物の前を通りかかると、「日本人どうぞ」「お父さん、チチあるよ」「最初は実演」などと、若者が呼び込みをやっている。まぁ、どこにも日本人が行っているということだ。

裏通りを歩いていると、車に乗った女性の二人連れに呼び止められ、「Do you like Geisha?」ときた。なかなかの美人。20~22歳ぐらいか。一緒のK君は、英語の教師だが、札幌オリンピックの通訳を務めたほどの英語達者。もちろん、遊ぶつもりもないが、興味半分、彼が聞いてみると、40ドルで、彼女たちが指定するホテルへ先に行っているようにとのこと。後から、彼女たちが来るという。
2日前には、リーダーのH先生が昼間の2:00ごろだというのに、そばに寄ってきて、手のひらをコチョ、コチョと、いたずらされたと驚いていた。 

35日間のアメリカ生活で、飲み屋が少ないのには、少しばかり参った。確かに、ビールは安いが、女性はいない。フロアは、ただ広いだけ。こうした店でのサービスは、日本のバーなどとは全く違う。酒や女性に対する考え方が基本的に違うからだろう。キリスト教は、酒、タバコ、コーヒーなどを禁じている。要するに、刺激のあるものはダメだということらしい。

11:00ホテルへ。K君が、まだ帰ってきていないということで、ロビーで待つ。0:30ごろ帰って来た。シャワーを浴びてから、ホテルのバーへ行く。1:30だった。それから、ちょいと街へ出ようと、30分ほどブラブラ。タクシーで帰ってくる。2:30就寝。       

    ☆           ☆             

       日本人は狙われている

海外旅行で日本人が犯罪に巻き込まれるケースが増えている。甘い話には、くれぐれもご注意だ。20年前のゴールデンウィーク、仲間3人とタイ・インド・ネパールへ10日間の旅をした。一番のお目当てはヒマラヤの大パノラマを上空から見る1時間のマウンテン・フライト。

当日は曇り空で、あまりクリアには見えなかったが、前日、ドゥリッケルという1,524mの高原から、エベレストをはじめ、8,000m級の山々が連なるヒマラヤ山脈を一望した。 

旅の始まりはタイのバンコク。失敗は第一日目に起こしてしまった。空港へ現地のガイドが迎えに来ているはずが、なかなか見つからない。そこで、仲間の一人が、自分の名前を「○○でーす」(こんなことを言ってはいけなかったのだが)と言ってガイドを捜していたところ、「○○さん、○○さん」と言って、3人の若い連中が駆け寄ってきた。

そして、すぐに、3人のスーツケースを待たせてあった車に乗せてくれた。いやに親切だなと思っていたら、車はなかなか出発しない。そのうちに、「チップをくれ」という。もちろん、「冗談じゃない!」と撥ね付け、車を走らせた。

そこで、「これは、おかしいぞ」ということになった。 運転手は、ちょっとした日本語を話すので、「何分ぐらいでホテルに着くか」などと聞きながら車に乗っていた。30分ぐらい走ったあたりから、だんだん灯りが暗くなり、ホテルがある中心部とは違う方向に走っているらしいことに気づいた。

「コノヤロー、どういうことなんだ!」と、3人で怒鳴りつけた。すると、運転手は、「日本語がよく分からない」と言い出した。挙句の果てに、「女性がいる、いいところがあるから、そこへちょっと寄って行って欲しい」という。夜10:00頃の話だ。

そうこうするうちに、煌びやかなネオンに彩られたホテルのような建物が見えてきた。何と売春宿だったのだ。運転手は、そこで車をストップさせて走らせる様子はない。われわれは、「責任者を出せ」と凄んだところ、中年の女性が出てきた。これが何と日本人だった。聞けば、経営者だという。

事情を話し、タクシーを呼んでもらい、さらにタクシー代2,000円はいらないということで、目的のホテルまで送ってもらった。 ホテルに着いたのは11:00を回っていた。現地のガイドは渋滞で迎えが遅れたのだという。当時はケータイもなく、連絡もうまく取れなかったための大騒動だった。

それから、確か1年も経たない頃だったと記憶するが、同じバンコクで日本人の新婚さんが、タクシーの運転手に殺されるという痛ましい事件が起こり、ぞっとした覚えがある。

14年前のアンコールワットでは、物売りと物乞いにしつこく付きまとわれたことがある。6年前には、パリでタクシーの運転手に、ニセ札をつかまされたことがあるし、3年前には、ローマ三越前で写真を撮っていたら、突然若い女二人が肩を引っ張って仲通りに行こうと強引に誘ってきた。「うるさい、コノヤロー!」と、どなりつけて追い返したこともある。とにかく、日本人は狙われているから気をつけることに越したことはない。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)
 



   

アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km<26>

2008-03-12 08:04:35 | Weblog
1972・9・15(金) 晴れ ソルトレーク・シティ→車中

午前9:00起床。11:00 Miss.Paulが迎えに来る。今日は、「Storn Mountain」へ、ピクニックだ。サラダやハンバーグなどを持参してくれた。豆炭、コンロなども用意してくれた。実にキメ細かなアレンジメントだ。20分ほど車で走り、キャンプ場に到着。よく整備が行き届いている。

途中、彼女たちのボーイフレンドの自慢話で盛り上がった。彼女たちは、ほんとうにフランクで、髪の色、スタイル、目、笑顔、趣味、スポーツなど色々と教えてくれた。明るく、伸び伸びと育った感じだ。ピアノやドライブが趣味。わが息子も、伸び伸びと明るく育ててやりたいと思った。ホストファミリーの男の子は、ピアノのレッスンをやっているが、スポーツも万能らしい。

お昼は、早速、彼女らの手料理でランチ。リスやブルーバードが小川のほとりや木々の枝に遊んでおり、ゆったりと時間が流れていることを実感。1:00ごろから2時間ほど、ハイキング。山道の両側の紅葉が、ひときわ美しい。新鮮な空気を胸いっぱいに吸いながらの森林浴は、実に気持ちがいい。自分の足でロッキーを歩くことが出来て、感激だ。われわれを、このようなスタディ・ツアーに案内してくれたことは、この上なくありがたいことだ。

4:00ホストファミリー着。軽い食事。シャワー。私と息子にと、プレゼントを貰う。息子へは、ABCの絵本と童話、私にはソルトレーク・シティの案内書。7:30家を出る。3日間の楽しく充実した思い出を胸に、アン、ピーター、スーザンと別れる。スーザンはバスターミナルで泣いていた。ほんとうに、別れは、いつも悲しい。「Goodbuy is always sad.」

7:00ソルトレーク・シティを出発。一路サンフランシスコを目指す。ネバダ州を通って走る。月がきれいだ。ネバダ州はギャンブルが盛ん。ラスベガス周辺は不夜城で、煌びやかなネオンが目に付く。バス車内で、全く眠られない。ビールやウィスキーを飲みながら、隣のメンバーと話しながら過ごす。      

     ☆       ☆             

        ロッキー山脈

ロッキー山脈は、北はカナダ・ブリティッシュコロンビア州最北部から、南はアメリカのニューメキシコ州のサンタフェの近くまで、4,800kmを超えるスケールの大きさだ。最高峰は、コロラド州のエルバート山(4,399m)。この地域には、国立公園、世界遺産に登録されている自然遺産も多く観光地としても名高い。

アメリカ側のエリアだけでも、ロッキーマウンテン国立公園、イエローストーン国立公園、グランドキャニオン国立公園、グレイシャー国立公園があり、カナダ側のエリアにはバンフー国立公園など5つがある。日本人観光客も多く訪れるところだ。今、心が動いているのは、カナディアンロッキーと、世界最大級の紅葉高原といわれる「ローレンシャン高原」だ。いつかまた、ロッキーに会いたいものだ。

   ☆          ☆             

1972・9・16(土) サンフランシスコ
(カリフォルニア州)

ソルトレーク・シティから、夜通しバスで走りっぱなし。午前7:00頃、途中で軽食をとる。バスが故障し、2時間待たされる。少しだけ寝た。12:30サンフランシスコ着。18時間かかった。途中、太平洋が見えたときは、さすがに感激した。とにかく、5,000㎞をバスで走破してきたわけで、素晴らしい経験をしてきたものだ。大げさな言い方だが、青春の一ページに新しい歴史を刻むことができた。実に幸せなことだ。

コモドール・ホテルに到着後、すぐに昼食。ビールの美味かったこと! 疲れたので、K君と部屋で一眠り。5:30頃起きて、街を散歩。さすが、サンフランシスコは都会だ。チャイナタウンなどを歩いて9:00に帰ってきた。ホテルで飲みながら話し込む。明日からは全団行動だ。      

    ☆            ☆

 人気の高い都市「サンフランシスコ」

「霧のサンフランシスコ」「アジアと西欧との接点」と言われるサンフランシスコ。アメリカの旅行雑誌「コンド・トラベラー」誌の調査によれば、1988年以来7回も、アメリカで最も人気の高い都市に選ばれている。世界各国の文化に出会うことができる開放的で、魅力的な街だ。世界で最も美しい吊り橋と言われるゴールデンゲートブリッジを中心にした景観は見事だ。

日本からの移民は1880年代から本格的になり、苦労の末、今日の生活基盤を築いた。サンフランシスコ・ベイエリアには、10,000人以上の日系人、日本人が暮らしており、ピースプラザには五重塔もある。「チャイナタウン」もあり、アジアの雰囲気がそこここに感じるためか、われわれもすぐに溶け込める街だ。

135年前の1871年1月15日、岩倉使節団の鉄道によるアメリカ横断は、サンフランシスコから始まった。31日まで滞在し、われわれがバスでやって来たのと似たようなコースをワシントンに向けて進んだ。以後、半年以上かけてアメリカ国内を視察した。そうしてみると、われわれも、「昭和の岩倉使節団」の気分を多少なりとも味わうことが出来たような気がする。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)
 


   

アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km<25>

2008-03-11 07:12:23 | Weblog

1972・9・13(水) 晴れ ソルトレーク・シティ (ユタ州)

午前7:30起床。9:00にウェストミンスター大学の学生2人が迎えに来る。教育学部専攻の4年生(女性)とフレッシュマン。卒業後は、教師になるという。彼らの案内で銅山へ。街から15マイルほどのところにあり、120年間も銅を掘っている。まことに雄大な景観だ。ローマのコロッセオを思わせるような掘り方だ。ここもロッキー山脈の一部。紅葉もなかなか見事だった。

次の目的地は、「グレート・ソルトレーク」。塩分が多いので、泳げない人でも浮くという。私とT君は海水パンツを持っていかなかった。そのほかのメンバー4人は泳いだのだが、寒かった!と言っていた。お土産屋を覗いてみたが、「made in japan」が多かった。

海の側に銅山があるので、煙がもうもうと上がり、美しい湖の景観も損なわれて惜しい。街へ帰ってきて、軽い食事。「タコ・ハンバーガー」とミルク。

その後、スノーバードという山へ行く。やはりロッキーの一部だ。ケーブルカーで(1ドル25セント)3,300mの頂上まで行く。10年前、大学の探検部時代に登った南アルプス連峰(3,000m級の山を縦走)を思い起こした。ソルトレーク・シティやロッキー山脈が一望でき、久しぶりに山の空気を吸うことができた。

紅葉も今が最高潮。イエロー、グリーン、レッドを基調とした色彩は実に鮮やか。山頂には20分ほどいて下山。アメリカに来て、ロッキー山脈を越え、しかも登山まで出来たことは素晴らしい思い出だ。

スノーバードから帰ってきて、ゆっくりする。レコードや、中学3年生になる女の子(アン)がピアノを弾いてくれるのを聴いていた。「ロミオとジュリエット」など、なかなか上手い。ビールを注いだり、もてなしも堂に入っている。奥さんが、北海道のことについて色々聞いてくる。今日は早めに寝る。10:00。       

      ☆          ☆              

       ロミオとジュリエット

ソルトレーク・シティの名前を久々に思い出したのは、2002年の冬季オリンピックだった。この時の日本選手の成績は、あまり振るわなかった。メダル獲得は、スピードスケート男子500mで清水裕保選手の銀メダル、フリースタイルスキー女子モーグルの里谷多英選手の銅メダルだけだった。

その後、2004年秋、イタリア旅行した折に、あの「ロミオとジュリエット」の舞台となったヴェローナの町に立ち寄り、モデルとなったジュリエットの家にも行ってきた。さすがに観光客が多かったが、私にとっては、ボルチモアのホストファミリーの「ローリー嬢」や、ソルトレーク・シティのホストファミリーの「アン嬢」が弾いてくれた「ロミオとジュリエット」が、楽しい思い出として胸に深く刻まれている。        

      ☆           ☆
                          
1972・9・14(木) 晴れ ソルトレーク・シティ (ユタ州)

午前7:30起床。9:00 子どもたちが通っている小学校へ行く。Peterが、われわれのこと、北海道のことをクラスメートに話してくれる。実に記憶力がいいのにはビックリした。彼は、級長を務め、フットボールのAチームに所属している。

5円硬貨を全員にプレゼント。箸や紙幣を見せてあげる。ここでの授業は、勉強しているのか遊んでいるのか区別がつかないような雰囲気だ。先生も来校者と冗談を言い合っているような感じだ。

10:00 Miss.Paulが迎えに来る。ユタ大学3年生で、ブリジッドバルドー似のmischieviousな女の子だ。彼女と、Miss.Cristeeneがガイドをしてくれるという。これまた、good!だ。

まず、ユタ大学へ。学生数は約23,000人。広大なキャンパスで緑が多い大変環境に恵まれた大学だ。Miss.Paulはナースの仕事を目指している。続いて、博物館で絵を観たり構内を散策。

正午、教会。ソルトレーク・シティにはモルモン教の総本山「テンプル・スクエア」がある。立派な教会が多い。教会では素晴らしいオルガン演奏を聴いた。正面の立派な席にグループのK君たちが座っていた。

昼食はマクドナルドのハンバーガー。これは、すでに日本に上陸している。美味い! 2:00 ごろ、ナショナル・ピースガーデンへ。各国の平和を願う心を表現した庭園だ。日本の仏像は残念ながら破壊されていた。お花畑は各国の花が植えられている。

その後、市役所を見て帰宅。シャワーを浴びる。 4:30にNさんという「PROVE.YOUG UNIVERCITY」の経済学専攻の学生のフィアンセが来る。Sさんのアパートまで約40分。大学やマジソンスクエアガーデンよりも大きいというスタジアムを見る。ユタ湖も見える。

Sさんは、アメリカ生活3年。なかなか面白い人だ。彼女は日本にもいたことがあり、ジンギスカンが好きで、北海道にも行きたいと言っていた。12月に結婚予定。将来は日本に住みたいそう。Sさんのアパートは月約30ドル、3部屋に風呂つきで3人で住んでいる。

Sさんは、アメリカに住んでみての感想を語ってくれた。それによれば、アメリカは、これからの国だという。日本人や外国人は過大評価している面がある。ケネディは、若い人の間には結構人気が根強く残っている。日本に対しては、貿易面で、①製品の質の向上が必要②政府が買い上げて高く売っている-という問題点を指摘していた。車は、最近、「MAZDA」が人気。 7:15帰宅。

夕食の後、2人の訪問客あり。20~30分話す。8:00「ステイト・フェア」見物。国際見本市のようなものだ。キャンピングカーを多く見かけた。人気が高いらしい。夜景が抜群にきれいだ。メリーゴーランドに乗ったが、お尻が痛くて参った!大学生の男の子、女の子、それにホストファミリーの女の子と一緒。夜店も出ていて子ども心に帰った。11:00帰宅。

それから、「ジャパニーズ・フェア」と洒落込み、英語で「オールドブラックジョー」や、「帰れソレントへ」などを歌う。アンが、ピアノの伴奏をしてくれ、「ラブストーリー」などの曲を聴かせてくれる。0:30、遅く帰ってきたご主人にお礼の挨拶。明日はお別れだが、会えないかもしれないということなので。「われわれは、英語のスピーキングもヒヤリングも十分ではないけれど、皆さんの親切や思いは十分に感じている。ありがとうございます」と言うと、奥さんは涙を浮かべていた。1:30就寝。      

     ☆           ☆              

  ソルトレーク・シティとモルモン教

ソルトレーク・シティは人口約18万人の街だが、その7割がモルモン教信者だ。モルモン教は、19世紀初め、アメリカで誕生した宗教で、キリスト教の一宗派と言われ、世界には1,000万人以上の信者を有するという。

モルモンとは、モルモン教団の聖典モルモン書に登場する古代アメリカの預言者モルモンに由来する。アメリカで最も会員数を伸ばしている教団の一つともいう。白人中心主義でコーヒー、紅茶、酒は飲まない。また、男の子は11歳になると、全員ボーイスカウトに加入し、その加入率は全国一で並外れていると言う。日本には、12万人の信者がいるという。

日本人で最初にモルモン教に出会ったのは、おそらく岩倉使節団の一行だったと言われている。サンフランシスコからワシントンDCに向う途中、ロッキー山脈が未曾有の大雪で、ユタのオデングから南下して、急遽ソルトレーク・シティで開通を待つことになった。ここで、ダニエル・H・ウエルズ市長(モルモン教徒)らの歓迎を受けた。
このことは、地元の「ソルト・レークヘラルド」紙の地方ニュースでも報じられている。また、「欧米回覧実記」にも次のように記録されている。  

ロッキー山脈の西手前の「コリンネ」駅で車中夜明けを迎えた一行はオグデン駅に7時30分着、鉄路の乗り換えのため下車、「朝食ヲ弁ス」(朝食を摂る)とあります。ここで「『カントリー』太平会社ノ鉄道ハ、此駅ニテ尽キ、是ヨリ『ユニヲン』太平会社ノ鉄道ニ接ス、落機山ノ大雪ニテ、鉄軌ヲ埋没シ、会社ヨリ数千人ヲ発シ雪ヲ撥スレトモ、路未夕開カサルトノ報アリ」と大雪で先に進めないことを知ります。

そこで、「『ユタセンタラール』会社ノ蒸気車ニ移リテ、南方ノ『ソールトレイキ、シチー』ニ赴ケリ」とあります。オグデンからソルトレーク(湖)の東岸を南に下り塩湖府(ソルトレークシティ)到着しますが、町の様子は詳しく描写しています。

「市中ノ街路ハ、其寛キハ百尺ニモ及フ、縦横井々トシテ、両側ニハ轢樹(くぬぎ)ヲ植テ、馬車人行ノ道ヲ分ツ、固リ甃石モナサ丶レハ、雨雪ノ後ハ塗泥履ヲ没ス、人道ニハ沙ヲ撒シ、較潔ニシテ歩スヘシ」道路は広く升目に整然としていてクヌギの木を植えて馬車道と歩道とを分けているが、敷石がないため、雪雨の後の道は泥んこであり、砂を撒いて対応しているというのです。

結局、岩倉使節団は、1872年2月4日~22日(明治4年12月26日~明治5年1月14日)まで滞在することになった。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)
 

 


 

アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km<24>

2008-03-10 07:45:43 | Weblog

1972・9・11(月) 雨のち曇り オマハ→シャイアン(ワイオミング州)

午前5:40起床。雨。昨夜は、かなりの雨が降って、時々、目を覚ました。朝、Mr.Johnsonが、車でオマハのバスターミナルまで送ってくれた。6:30着。メンバーの中で一番乗りだ。バスが遅れて、結局8:00に出発。

激しい雨だったが、コロンバス、グランドアイランド、シドニーなどを経て、午後7:30無事シャイアン(ワイオミング州)着。それにしても、雄大な岩肌がそびえる中を、どこまでも西部劇の舞台そのままに広大な荒野が続く。シャイアンはホテルに一泊するだけ。

到着後、すぐにビールを飲みに行く。グッとこたえた。ダンスホールもあったが、誰も踊っていない。夕食も食べて満腹。ここで、学生と、サラリーマンであるという二人の日本人に会った。彼らも途中で一緒になったそうだ。T君とホテルに帰る。ロビーで皆と10:30まで話し込む。その後、すぐに就寝。
      
        ☆        ☆

           西部劇の思い出

田舎育ちである私が、西部劇を観るようになったのは高校を卒業して札幌で浪人生活を送っていた頃から、大学時代にかけてである。

とにかく広い西部をバスで走っていると、映画の「駅馬車」「シェーン」「荒野の用心棒」「荒野の七人」、テレビ映画でやっていた「ラミー牧場」「ローハイド」などの場面が実感として伝わってきて懐かしい思いに駆られた。

ジョン・フォード監督やジョン・ウェイン、バートランカスター、スティーブマックイーン、チャールズ・ブロンソン、などという名前を知ったのも、この頃だった。

ところが、大学の探検部に所属し、夏合宿で1か月間テント生活をしているとき、たまたま映画の話になった。そのメンバーの中に、やたらと映画に詳しい男がいて、何時間でも話しているのだ。もちろん、横文字の映画スターの名前などをほとんど覚えている。全く話についていけなかった。正直言って、このとき、初めてカルチャーショックというものを感じた。

その彼は今、売れっ子の直木賞作家として大活躍している。北海道の田舎から東京へ出て行った割には、それほどのカルチャーショックを受けなかったのだが。

   ☆          ☆

1972・9・12(火) 晴れ シャイアン→
ソルトレーク・シティ(ユタ州)


午前6:45起床。軽い朝食。8:30一路ソルトレーク・シティへ。今日は見通しも良く、最高のバスツアー日和だ。アメリカの広いことを、まざまざと見せつけられた。昨日は、緑の広大な原野を、そして今日はロッキーの山越えだ。

これが地球上かと思われるほど、果てしなく続く直線コース。まるで、地平線に向って走るような錯覚を起こした。映画でお馴染みのララミー牧場も通ったが、自分がカウボーイにでもなったような気分だ。

山並みは、すでに紅葉し始めており、その美しさは格別だ。広大な平原を走っていると、この厳しい自然の中に、われわれ人間が道をつくり、橋を架け、汽車を走らせたが、果たしてどんなに過酷な歴史があったのか、想像するに余りある。途中、岩石群に囲まれた街が幾つかあったが、一体どんな生活をしているのだろうか。

ララミーには牛や馬が放たれ、実に牧歌的というか詩情豊かな風景に出合った。午後5:30ロッキーを越えると、眼下に湖とソルトレーク・シティが見えた。オマハを出発してから20時間、やっと着いた。

私とT君が美人の奥さんの車に乗せられ、調子よく「グッド!」などと言って期待していたら、なんと、ホストファミリーは別の家だった。しかし、子どもが3人いて楽しそうだ。夕食後、トランプをしたりして遊ぶ。お土産に、箸、舞妓さんの下駄、鈴、バッジ、扇子などを渡す。なかなか寝付かれなくて参った。      

   ☆          ☆

  北海道開拓と島義勇・坂本龍馬

人間が厳しい大自然に挑み、今日の豊かな社会を築いてきた歴史を見たとき、やはり北海道の開拓も想像を絶する日々だったのだろうと思った。なにしろ、熊や狼が生息し、とくに冬は極寒の地だ。本州から開拓のため渡ってきた人たちの多くは、二度と帰れないという悲壮な決意をもってやってきたのだ。

開拓にはアイヌの人たちや囚人たちの力も必要としたという。北海道開拓には、外国人を含め多くの人たちが足跡を残しているが、その代表的な一人は北海道開拓史初代判官・島義勇(よしたけ)だろう。

北海道の冬の風物詩「さっぽろ雪祭り」や、夏の風物詩「よさこいソーラン祭り」の舞台となっている大通り公園。これを画定(明治2年)したのが島判官だった。島の都市計画はスケールの大きいものだった。その心意気を、自ら次のように歌っている。

河水遠く流れて山隅にそばだつ 平原千里地は膏腴(こうゆ) 四通八達宜しく府を開くべし他日五洲第一の都 

その意味は、遠くゆるやかに川が流れ、一方の隅に山がそびえている。ひろびろとした平原が千里のかなたまで続き、地味は豊かだ。北海道の各地へ道を通じるに便利で、首府をおくに最適のところ。何時の日か、おそらく世界第一の都となるであろうーというものである。

そして、意外な人物が北海道開拓に夢を馳せていた。坂本龍馬である。本人は北海道に行ったことはなかったが、尊攘の浪士約200人で、北辺の開拓と防備に当たらせるという屯田兵の先駆的構想を立て、幕府の勝海舟などから資金を出させる約束を取り付けていた。しかし、池田屋事件や、その後の情勢から龍馬の夢は叶わなかった。

それでも、龍馬の姉夫婦の次男・坂本直寛が新天地開拓を志し、東部の訓子府や空知の浦臼などで農場を経営したりしていたので、多少なりとも龍馬の夢を引き継いでいたとも言えよう。

この直寛の長女直意の婿養子が弥太郎で、その次男に坂本直行という画家がいた。十勝の開拓や山の絵を描く画家として知られるが、今や全国ブランドとなった六花亭のお菓子の包装紙は、坂本直行が描いたもので、こんなところにも龍馬と北海道の縁があったと思うと、明治維新の立役者も少しばかり近い存在に思えてくる。

今年は、北海道洞爺湖サミットが開かれ、北海道は今、世界に向って大きく羽ばたこうとしている。それは、140年近く前に島義勇が描いた壮大な夢への挑戦でもある。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)




 

アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km<23>

2008-03-09 08:11:27 | Weblog

1972・9・9(土) 曇りのち晴れ オマハ
(ネブラスカ州)

午前7:30 get up。雨。8:00過ぎ朝食。9:30まで新聞を見たり(・・・)、家の周りを散歩する。気づいたことはゴミがたくさん出ていること。日本の何倍もの多さだ。使い捨て文化が顕著に表れている。

ご主人は月に1~2回、芝生を刈る。そして、毎週、2時間ほどかけて買い物に出かける。「シアーズ」や「ペニーズ」といった、デパートやスーパーへ行く。私もお供する。昼前に帰宅。絵葉書などを買ってもらう。

すぐに、リンカーン市に向う。ネブラスカ州の首都。車で40分ほどかかる。途中、オマハ市内にあるニクソンの選挙事務所に立ち寄る。秘書からバッチ、ステッカー、ニクソンのキャンペーンに関する本をもらう。お返しに、北海道の形をしたバッチ(摩周湖)をあげ、写真を撮る。ニクソンのシンボルである象のバッチを買う。大変参考になるPRツールを手に入れた。

この後、軽食をとり、リンカーン市に。庁舎はすごく立派な建物だ。約120mの高さだ。その芸術的な雰囲気は抜群だ。ここでは、ネブラスカ州の歴史がそのまま感じられる。勇敢な軍人、この地のパイオニア、詩人などの像が建っている。庁舎の入り口には、リンカーンの言葉も彫られていた。州の鳥=ひばり、 花=アキノキリンソウ、 木=エルム、 モットー=「法の下では平等」、ニックネーム=トウモロコシの皮をむく人。ミズリー河があり、平原も丘も広がっていて素晴らしい景観だ。

次の目的地は、ネブラスカ大学だ。2,300人の学生がいて、寄宿舎なども大変立派なもの。日本の一流マンション並みだ。ロビーでは、女子学生と男子学生が戯れている。台湾の学生に出会う。この大学もリラックスムード。ネブラスカ大学の博物館へ。

ここがまた凄い!ネブラスカに棲んでいたという巨大サイなどは、高さ18フィート、長さ30フィート、まさにお化けそのもの。アジアには1,800万年前に、ネブラスカには3,500万年前に棲息していた。そのほか、バッファローなど初めて見る動物や化石が沢山あり、見に来た価値が大いにあった。

2日間一人で苦労しながら英語を話していたので疲れた。自分で言いたいことは何とか伝えられるが、相手の言っていることを理解しようと全神経を集中しているので非常に疲れるわけだ。帰りは車の中で少し昼寝をしてしまった。

ディナーをご馳走になる。チキン、サラダ、アップルパイ、牛乳など。家に帰ってきたら、息子さんが遊びに来ていた。JCのメンバーでもあり話が弾む。この辺りのリーダー的存在らしい。大統領選挙ではニクソン支持だ。しかも、ケネディのファンだという。こちらも、知る限りのケネディの話をしたら彼も感激して、彼が持っていたケネディの本を6冊もくれた。まさにビッグプレゼント!! 

私は日本のJCのバッチと北海道の形をしたバッチ、それに日本の硬貨(5・10・50円)をあげた。大変安いものだが。明日は彼が迎えにくるということなので一緒に出かけることになった。思わぬスケジュールが飛び込んだが、何でもやってみよう。散髪に行く。9:45ベッドルームへ。充実感抜群!

    ☆         ☆

   ニクソンとケネディの選挙戦

ニクソンといえば、やはり思い起こすのは1972年2月の電撃的な中国訪問だ。1949年に成立した共産政府を、アメリカの大統領が初めて訪れたのだから世界中が驚いたのも無理はない。この時、水面下で交渉に当たっていたのがキッシンジャー補佐官であった。日本にとっては、いわゆる頭越し外交であった。

そういうこともあって、訪中を発表してから3か月後の1971年10月、大統領特使としてリーガン氏(後のレーガン大統領)が来日、訪中は世界の緊張緩和のためであり、従来の同盟関係を変更するものではないなどと説明した。この時、リーガン氏は、日本のほか、台湾、タイ、ベトナム、韓国なども訪れた。

そして、正式に国交が樹立されたのは1979年1月、ジミー・カーター大統領の時だった。われわれは、その年の8~9月にアメリカを訪れたので、あちこちで、「中国人ですか?」と聞かれたものだ。

ニクソンに関して、もう一つ興味があったのは、ケネディと戦った選挙キャンペーンについてだ。よく言われることだが、現職副大統領として知名度が高かったニクソンだが、上院議員だったケネディとのテレビによるディベートに負けたというものだ。

ニクソンは顔色が良くなく、側近がメーキャップを勧めたが断って臨んだ。しかも、足を痛めていたという。立ったままの状態で行うので、姿勢も悪く不健康に映った。一方、ケネディは、スポーツで日焼けしていて健康的に見えた。洋服もテレビ映りの良いものを選ぶなど、完全なイメージ選挙を展開した。

こうした作戦が功を奏して、このディベートを境に、世論調査では、ケネディが逆転し、結局、最後は僅かの差でケネディが勝利した。このようなイメージ選挙は、その後、日本でも行われるようになった。

私も多くの選挙キャンペーンに関わってきたが、政治家がテレビに登場している際、一番興味を持って観ているのは、もちろん政策だが、その話し方と言葉にも注目している。限られた時間で、いかに分かりやすく説明するか、いかに観ている人たちの共感を得るか。その能力を身につけることは、現代のようにマスメディアが発達した中では、政治家にとって必須科目だ。今、アメリカ大統領選挙でオバマ候補が注目を集めているが、その演説の上手さが大きな魅力の一つだと言われている。

アメリカでは上院議員などの秘書の中に「スピーチライター」がいると聞く。大統領の演説などでも、「スピーチライター」を起用しているそうだ。クリントン政権時代には、専門のライターがジョークまで用意していたという話もある。そういう意味では、小泉純一郎前総理は、情報化社会という空気を読める最も現代的な政治家の一人だと言えるかもしれない。

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1972・9・10(日) 雨のち晴れ オマハ
(ネブラスカ州)

午前9:00起床。小雨。軽い食事の後、教会へ。1時間ほど賛美歌を歌う。アメリカで教会へ行くのは2回目だが、この雰囲気というのは落ち着くし、実に素晴らしい。教会の建物自体も美しい。お昼は、近くのかなり高級のレストランで食事。昼間からビールを飲めと勧められ、ご機嫌だ。とても、ザックバランな夫婦だ。

食事の後、街をドライブ。午後1:30に、近くの空手道場で息子さんと待ち合わせ。ガールフレンドも一緒に来ていた。空手の試験とかで、近くの州から50人ほどが集まっていた。この道場では柔道も教えていて、息子さんは青帯でO先生に習っていて、練習はリンカーン市でやっている。女性も何人かいたし、黒帯も5人ぐらいいた。見学者も50人ぐらい来ていた。空手も柔道もかなりの人気だ。そういえば、デモインにも空手の道場があった。4:00まで、見学。

彼のガールフレンドも一緒に帰宅。7:00まで、のんびり過ごす。アンケートの記入をお願いする。わざわざ、洗濯をしてくれる。7:00からテレビでオリンピックを観戦。9:30まで。シャワーを浴びてからベッドルームへ。ここでも大変お世話になり、楽しくて充実した3日間だった。体調も万全だ。
       
        ☆       
☆             

       頼むぞ柔道ニッポン!

柔道や空手を通して、日本の伝統や文化を世界に伝えている人たちの役割は大きい。柔道と言えば、昨年の全日本選抜体重別選手権の女子48㌔級で、谷亮子選手(31)
が敗れたのに、世界選手権の代表に選ばれたことは納得できないことだった。以前、書いたことがあるので詳しくは書かないが、決勝で勝ったのは福見友子選手(31)だった。

いくら金メダル獲得が絶対条件だと言っても、努力したものが報われないのでは、あまりにも気の毒だ。伸びていく若手の成長を阻害してしまうことになる。もちろん、谷選手の今までの素晴らしい実績を認めた上での話だ。柔道連盟も発想を新たにして、選考に際しても「あわせ技」などではなく、「技あり一本!」という、すっきりした形で決めてほしい。

国際的にも、「有効」だの「効果」だのというルールを見直そうという動きが出てきているというから、本来の柔道の魅力が戻ってきそうだ。柔道ニッポンの復活を期待したい。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)
 



 

アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km<22>

2008-03-08 22:27:17 | Weblog

PCの故障で連載を中断していました。2日分づつ書いていきます

1972・9・7(木) 曇りのち晴れ デモイン

(アイオワ州)

午前8:00起床。簡単な食事のあと、卓球で体ならし。9:30からプリマスプレイス(老人ホーム)見学。円形の12階建ての近代的な建物で、要するに老人専用のアパートメントハウスだ。建設費195万ドル(6億円)で、州からのローンのようなものを借りている。

緑も多く各階からの眺望も素晴らしい。198室あり、シングルルーム、ダブルルームがある。1か月最低が78ドル、最高が120ドル。68歳以上なら入居できる。男性40人、女性158人が入居している。毎週、曜日を決めて、読書会、お花、裁縫など勉強や趣味の会を行っている。ビリヤードなどもできる。部屋には管理室と話ができるようにインターフォンがあり、緊急用のもある。日本でも、このようなものを建ててみてはどうだろう。

お昼は、Mrs.Bakerの家に招待される。ビール、パン、サラダ、キュウリの酢の物などが旨い。久しぶりに食事らしい食事だ。家はゆったりとして大変広い。ご主人はIBMのシステム・プログラマーで社長。日本にも大変興味があるらしく、こけし、銚子、お雛様などが飾ってあった。

その後、市役所へ。ここでは、リンカーンやワシントンが今に生きている。リンカーンの「-and that government of the people ,by the people,for the people,shall not perish from the earth.」(-そして、人民の、人民による、人民のための政治は、地上から決して滅びない)という言葉や、議会の正面にはリンカーンやワシントンの写真が飾られている。また、壁面を上手に利用して図書館に活用していて、本がギッシリと詰まっている。日本にもあるかもしれないが、なかなかいいアイデアだ。

フリータイムはデパートへ。カメラのフラッシュが調子悪く、カメラショップを探したがない。酒屋を、やっと1軒見つけて、男6人でpassport(5ドル35セント)を買った。夕食は、中国料理店でチャーシューメン(1ドル65セント)。ライスはオムレツみたいだ。夜は酒盛り。ここでの3日間も、大変お世話になった。日記を書いて11:30就寝。  

       ☆       ☆              

          終の棲家

今や日本は世界一の長寿大国であり、2001年の平均寿命は女性84.93歳、男性78.07歳である。今世紀半ばには少子高齢社会が更に進み、3人に1人が65歳以上になると予想されている。私たち夫婦も60代半ばになり、この先の「終の棲家」を現実のものとして考えるようになった。35年前に見たアメリカの施設は、街の中の素晴らしい環境にあり、漠然とだが「年をとったら、こんなところに住むのもいいなー」と思った。

日本では、公設の高齢者用の施設が足りず、民間の高齢者用賃貸マンションが次々に建設されている。この種のマンションは、かつては入居の際に何百万単位の保証金を必要としたため、一部の富裕層にしか手が届かなかったが、最近は札幌あたりでも僅かな保証金と月々の家賃を年金で賄える程度のマンションが増えている。

私の知人も、100戸の賃貸マンションを2棟建てたが、いずれも即満杯になった。その秘密の一つは、病院が経営しているということだ。病院が近くにあるので、入居者に対してキメ細かな健康管理ができる体制になっていることが、大きな魅力になっている。各種の趣味を楽しめるように多彩なプログラムも用意され、お年寄りたちの明るい笑顔が広がっている。人気が高いことから、今後も、引き続き建設していく予定だという。

私たち夫婦も、将来的には、そうした生活を志向していきたいと考えている。新潟県中越沖地震では、亡くなった11人のうち、10人が70歳代~80歳代の高齢者で、一人暮らしのお年寄りもいた。これからは、一軒家や持ち家ということに拘らず、年代や家族構成に合わせて住み替えるということを考えてもいいのではないか。

    ☆          ☆       
      
1972・9・8(金) デモイン→オマハ
(ネブラスカ州)

午前7:00起床。K君に起こされる。昨夜のうちに荷物を整理したので何も用意しなくてよい。朝食は、ミルク(15セント)だけで済ませる。タクシーでバスターミナルへ。途中、バス・デモで、第二分団の仲間たちと思いもよらぬ再会。3時間半でオマハ(ネブラスカ州)に到着。

ホストファミリーは、Mr.Arnold Jonson宅。ここでは一人で泊まる。ご主人はエンジニア。3人の子どもさんがいるが、みんな結婚している。大学生でも、結婚している。つい、2か月ほど前に結婚したという。軽い昼食の後、「ボーイズタウン」へ。

ボーイズタウンは、恵まれない子どもたちのために1917年に建てられたもの。今では、広大な敷地に3,000人の子どもたちが教育を受けている。日本にも是非、このような施設があったらいいと思う。広い土地がある北海道であれば、このようなプランを実現することができる。ぜひ、提案してみたい。

その後、アメリカで8番目に大きいというショッピングタウンに寄って帰宅。夕食はご主人と一緒に屋外で食べる。ビールを飲む。大統領選挙では、ニクソン支持者で、ケネディよりも良いという。ケネディは失敗したが、ニクソンには失敗がなく、内政面では人気があるということらしい。ケネディは外国で人気がある。選挙事務所が見たいといったら、一生懸命探してくれて、明日、リンカーンの市役所と、ニクソン陣営の作戦本部に連れて行ってくれることになった。ここは、度胸だ、どこへでも行ってみることだ。どんな収穫があるか分からないから。

昼食後、近くの公園を散歩する。近くにミズリー川が流れていて、実に美しい眺め。車で移動中、オマハの歴史について語ってくれた。ミシシッピー川に橋を架けたのはオマハが最初だった。従って、鉄道も一番初めだった。人口の10%は黒人だ。ホームスティ先に帰ってきて、ワインを飲みながら、テレビでオリンピック観戦。日本がバレーボールの準決勝でポーランドに勝つ。シャワーを浴びて、寝る。ここのご夫婦もなかなか楽しい。明日から、どんな体験が出来るか楽しみだ。

    ☆            ☆            

  第35代アメリカ大統領 ジョン・F・ケネディ

ケネディほど、世界に影響を与えたリーダーはいないかもしれない。1961年、43歳という若さで大統領に就任し、その就任演説は時代を変えたと言われるほどの名演説として語り継がれている。

「Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.」(アメリカ国民諸君、諸君の国が諸君のために何をなしてくれるかではなく。諸君が諸君の国のために、何をなしうるのかを問おうではないか)。いわゆる、「アクティブ・シチズン」ということだ。そして、こう続けている。

「My fellow citizens of the world. . .ask not what America will do for you, but what together we can do for the Freedom of Man.」(わが友である世界の市民諸君、アメリカが諸君のために何をなしてくれるかではなく、われわれが共に何をなしうるのかを問おうではないか!)

ケネディで思い起こすことの一つは、東西冷戦時代に西ドイツと東ドイツをめぐる第二次大戦の戦後処理をめぐる問題で、ソ連のフルシチョフ書記長兼首相と対立したことだ。ケネディが「西ベルリンを守り抜く」と決意表明すれば、フルシチョフは「ベルリンの壁」を建設して対抗した。冷戦時代のシンボル「ベルリンの壁」は、28年後の1989年に、ようやく破壊された。

キューバ危機は、世界を震撼させた出来事だった。1962年10月、アメリカ空軍のロッキードU-2偵察機が、ソ連がキューバに建設していた核ミサイルサイロの写真を撮影したことに端を発した。ケネディは海上封鎖を決断し実施に踏み切ったが、ソ連船が引き返したり、停船したりしたため攻撃をせず、危機一髪のところで回避した。

ベトナム戦争に関しては、正規軍派遣は国際的な反発を恐れ、軍事顧問団として就任時に4,000人を派遣、2年後には15,000人に増やしていた。一方では、撤退を模索していたとも言われる。ケネディの平和戦略と言われる基本的な考え方は次のメッセージによく表れている。アメリカン大学の卒業式において行った「平和のための戦略」という演説の一部である。

「私の言う平和とは何か?我々が求める平和とは何か?それはアメリカの戦争兵器によって世界に強制される『パックス・アメリカーナ』ではない。そして墓場の平和でもなければ奴隷の安全性でもない。(中略)ソ連への我々の態度を再検討しようではないか。

(中略)我々のもっとも基本的なつながりは、我々全てがこの小さな惑星に住んでいることである。我々はみな同じ空気を呼吸している。我々はみな子供たちの将来を案じている。そして我々はみな死すべき運命にある。

(中略)我々の基本的、長期的なジュネーブでの関心は全面的かつ完全な軍縮である。この軍縮は段階的に行われるよう計画され、平行した政治的な進展が兵器に取って代わる新たな平和機構を設立することを可能にするものである」

ケネディの政策や強いリーダーシップに対し、世界中でケネディ人気が高まった。日本においても、多くの政治家が尊敬する人物に挙げたし、当時、選挙の際に「○○のケネディ」というキャッチフレーズを掲げて戦った候補者が随分いた。あの中川一郎代議士(北海道5区)もその一人だった。

1963年、中川代議士は「道東のケネディ」というキャッチフレーズを謳い文句に初挑戦し、見事に奇跡といわれる当選を果たした。確かに、中川氏の風貌がケネディばりたったことや、38歳という若さだったこともあり、イメージが重なる部分があった。 

実は、中川代議士が当選したのは11月21日だったが、何と、その翌日、初めてのアメリカからの衛生中継の映像が「ケネディ暗殺」の大ニュースだったのだ。実に衝撃的だった。私が東京の大学を1年間休学し、郷里(中川代議士の選挙区にあった)で親父が経営する事業を手伝いながら学習塾を開いていたころで、今でも鮮明に思い出す。

1983年1月8日、最後の舞台となった札幌での「新年交礼会」の終了後、中川代議士から「ありがとう」と声を掛けられ、握手していただいた。北海のヒグマと親しまれ、温かい人柄の政治家だった。「北海道から初の総理・総裁を!」という夢は叶わず、誠に残念だったが、今、中川代議士の薫陶を受けた多くの政治家が日本の中枢で、そして地方政治の場で活躍しており、その政治的遺産は非常に大きなものがある。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)



  

アメリカ大陸横断「青春日記」-1972・35日間・5000km<21>

2008-03-01 07:03:10 | Weblog
1972・9・6(水) 曇り デモイン
(アイオワ州)


午前8:00起床。9:00デモインの小学校を訪問。幼稚園も一緒になっている。特に気づいたことは、小学校の高学年では新聞を読ませ、そのあと記事について話し合うということ。時事問題に関心を持たせるには、いい方法だと思う。地元紙を利用していた。

教室は日本のように並列的ではなく、円形になっており、テストなども、終わった生徒は後方で自由に勉強したり、ドイツ語やフランス語などの易しい本を開いたりしている。極めて、のびのびとした雰囲気だ。

この学校には、550人の生徒と21人の先生がいる。コーヒーを自由に飲める先生方の談話室もある。PTAとの話し合いは昼食会などを持ち、家庭訪問などは行わない。女の先生が多い。教師の年収は、およそ310万円。講堂などは大学並みの立派さであった。11:30まで。

YMCAで昼食を済ませる。午後はフリータイム。少しの時間、卓球をして遊び、郵便局、銀行へ。銀行でケネディ・コインに両替してもらう。極めて愛想よし。夕食後、街を散歩。ここでも酒屋がないのにはビックリした。ピッツバーグでもそうだったが、ほんとうに少ない。

デパートに入ってみる。営業時間は日本と逆で、土・日は5:30ぐらいで閉店だ。休みや営業時間は、どんな職場でも徹底しているようだ。われわれが宿泊している場所が中心街(ビジネス街)だからだろうけれど、閉店時間は実に早い。日本人は働く!と言われるのがよく分かる。

デモインの街にはパーキングが非常に多い。街の中心には市役所の駐車場があるが、まるでビルディングのようだ。自動車文明が如何に発達している国かがよく分かる。中古車が多いのも同じことだ。帰りがけにビール1本(50セント)買って、帰ってくる。9:30 。

今日は絵葉書、手紙を結構書いた。アメリカ人は酒をあまり飲まないし、タバコもあまり吸わないようだ。昨日、仲間の一人が、ビールを飲むのに、20歳以下と見られ、飲めるまでに10分以上かかったとか。アルコールに関しては、日本は天国のようである。       

         ☆        ☆             
             スローライフ

日本では、デパートの営業時間は、遅くなっていく傾向にあり、通常は午前10:00―午後8:00だが、場所によっては、地下の食品売り場やレストラン街がある上の階などは、夜11:00まで営業しているところもある。

現在は分からないが、かつて旅行したイタリア(ローマ三越などは別)や台湾のデパートなどは、お昼休みが2時間ぐらいあって営業しておらず、ビックリした経験がある。それに比べ、われわれは、何て慌しい日常を送っているのだろうかと思ったものだ。

しかし、最近は日本人の働き過ぎの解消やスローライフという考え方が定着しつつある。そのため、祝日を増やしたり、祝日と祝日の間を休みに変えた。また、「成人の日」「体育の日」を第二月曜日に、「海の日」「敬老の日」を第三月曜日に変更して休みが重ならないように配慮されている。

私の場合は、すでに365連休というスタイルなので、直接の影響はないが、現役の皆さんのことを考えると、一生懸命働くことは日本人の美徳であるとは思うが、働き過ぎはほどほどにと申し上げたい。休日が増えていく傾向は好ましいことだ。

(参考資料は最後に一括して掲載させていただきます)