北の旅人

旅行や、ちょっといい話などを。そして、時には言いたいことを、ひとこと。

鉄道で12日間 日本一周⑱輪島→金沢→トワイライトエクスプレス

2010-09-21 09:55:36 | Weblog
<総持寺祖院>

輪島市にある、総持寺祖院。
元享元年(1321年)に瑩山禅師が開き、永平寺と並ぶ曹洞宗の修行寺として栄えてきた。
明治31年(1898年)の大火で多くを焼失し、本山は神奈川県の鶴見へと移された。
現在では、祖院として、6万6千㎡の境内に大本山のおもかげを偲ばせる









<兼六園>

言わずと知れた金沢にある兼六園は、岡山の後楽園、水戸の偕楽園と並ぶ日本三名園の一つ。加賀100万石の文化を映す。








ここでも、ラッキーなことに桜と出合う。



<トワイライトエクスプレス>

平成元年にデビューした、大阪ー札幌間を結ぶ寝台列車。
今回は金沢発15:40→札幌着9:52







個室が確保出来なかったため、B寝台に4人だったが、かえって話が弾んで楽しい時間を過ごした。学生時代、上野発の夜行列車に乗って帰省したが、そんな気分を久しぶりに味わった。







日本海を眺めつつ、12日間の旅を終えた。
列車による長旅は、高校生の修学旅行以来。二組のご夫婦と仲良くなり、「旅友」として交流をしている。
47都道府県を一回りしたが、日本には、またまだ見たいところが沢山ある。これからも、情緒溢れる日本の四季を大いに楽しみたい。

鉄道で日本一周12日間⑰琴平→和倉温泉(加賀屋)

2010-09-18 13:14:38 | Weblog


JR琴平駅。



駅のホームにも、「こんぴら歌舞伎大芝居」のタレ幕が。



琴平発9:34「南風6号」→10:33岡山着。



岡山発10:58「ひかりレールスター550号」、新大阪11:44着。



新大阪12:16発「サンダーバード19号」、和倉温泉16:05着。
今日は、移動日で、ひたすら列車に乗った。





和倉温泉「加賀屋」。 「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」において、30年連続総合1位の名旅館。今回は2回目(1回目は2008年10月)だが、おもてなしの心は、さすが。

前回のブログ。
 http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=99d549ffa1c9be3903bc782041a04773 
 


中国や韓国からのツアー客も多く、玄間には中国語の歓迎看板も。



夜も楽しめるように、歌あり、踊りあり、落語もある。



専属の「雪月花」歌劇団。



本格的なショーで、素晴らしい。



鉄道で12日間 日本一周⑯徳島<かずら橋>香川<こんぴら歌舞伎大芝居>

2010-09-12 11:50:37 | Weblog

<かずら橋>

平家落人伝説が残る秘境・祖谷川に架かる日本三大奇橋の一つ。
自生する「シラクチカズラ」で編まれた、全長45m、高さ14mの吊橋で、3年に一度架け替えられる。

他の二つは、山口県岩国市の錦川に架かる錦帯橋(日本最大の多連式木造アーチ橋)、山梨県大月市の葛野川に架かる猿橋。









4月中旬というのに[桜に雪」という、珍しい光景に出合った。




<四国こんぴら歌舞伎大芝居>

“こんぴらさん”で有名な、四国は香川県琴平町にある、国指定重要文化財「旧こんぴら大芝居(通称:金丸座)」は、「四国こんぴら歌舞伎大芝居」の復活により、全国から熱い注目を浴び、四国路の春を告げる風物詩として昭和60年から毎年行われている。

天保6年(1835年)に建てられた、こんぴら大芝居は、現存する芝居小屋としては日本最古のものである。

当時、こんぴら大芝居は芝居小屋の規模としては、江戸、大阪、京都の大都市にある小屋に匹敵するものであり、東西の名優たちは、こぞって四国にある、こんぴら大芝居の桧舞台を踏んだという。このことは、いかに“こんぴら”が門前町として栄え、こんぴら大芝居が全国有数の芝居小屋として、その名をとどろかせてたかということを物語っている。
 








通称、金丸座









出演俳優は、
中村 翫雀、市川 亀治郎、片 岡 愛之助、中村 亀鶴 、中村 壱太郎 、
尾上 右近 、上村 吉弥など、将来の歌舞伎界を担っていく花形俳優が出演。

上演したのは、通し狂言
 「敵討天下茶屋聚」(かたきうち てんかちゃや)。
4月としては異例の寒さだったが、日本の伝統文化の一つを3時間あまりを楽しんだ。












小沢氏の立候補は、「自己保身」のみ!

2010-09-09 14:13:09 | Weblog

小沢氏よ、国民をなめるのも、いい加減にしてほしい。

例の土地購入に関わる4億円の問題について、当初の事情聴取前には、「検察と徹底的に闘う」と凄んでみせたが、今では、「強制捜査権があるプロが2回もシロと判定しているのに、一般の素人がいいとか悪いとかいう仕組みがいいのか」と言い、制度のあり方についても疑問を呈している。検察の調べでは、全くのシロではないのだ。完全な証拠がないというだけ。

 

4億円もの資金がどこから出たのかについて、最初は「政治資金」と言い、2回目には「銀行融資」と言い、3回目に「個人資金」と変わってきているのだ。このことだけを見ても、ウソをついていることは明白だ。「やましいことは何もない」と胸を張るのなら、どうして、クルクルと話しが変わるのか。状況証拠は限りなくクロに近いのだ。

 

「国民目線が大事」「国民の生活が第一」などと広言しているのとは裏腹に、都合が悪くなると国民を「素人」呼ばわりする始末だ。だから、国民は小沢氏の説明を信用しないし、ましてや日本のトップリーダーなどにはできないと思っているのだ。

 

「政治生命をかけて」「命をかけて」と叫んでいるが、「信なくば立たず」という言葉の通り、いくら立派な政策を語っても、信ずることなど出来るはずがない。初めから立候補の資格など、ありはしないのだ。それを、「この難局を乗り越えるには、小沢先生しかいない」と持ち上げている民主党議員には、呆れるばかりだ。

 

難局、混乱、国益の損失を招いている原因をつくっている民主党政権と、それを牛耳っている小沢氏に、その大きな責任があることを棚に上げておいて、何というレベルの低い言動を繰り返していることか。

 

日本のトップを決める選挙で、このような事件の説明から始めなければならないとは、何と情けないことか。何と厚かましいことか。こんな疑惑を抱えた政治家が立候補するというのは、どのように弁明しようと、「自己保身」以外の何ものでもない。権力さえ手中にすれば、この疑惑から逃れられると思っているのだろうか。

 

そして、今また、総理になったら挙党一致の名のもとに、菅氏、鳩山氏を入閣させ、輿石氏も党の要職に起用すると語っている。顔は党内にしか向いていない。3か月前、ともに「政治とカネ」「普天間問題」などで辞任し、引退するとまで言った(例によって、早くも撤回しそうな発言をしているが)鳩山氏を起用するとは、何を考えているのか。国民をなめきっている。こんな政治家を日本のトップにさせては絶対にダメだ。

ほんとうに、民主党でいいのか、ほんとうに小沢総理でいいのか、今こそ、国民も試されている。


鉄道で12日間 日本一周⑮高知(高知城・であい博)

2010-09-08 13:22:49 | Weblog


1601年、山内一豊によって創建され高知城。
以来約400年余りの歴史を有する南海の名城として名高い。

1727年、城下町の大火で追手門を残して、ほとんどの建物を焼失。
1746年、本丸の再建に着手し、1749年、現在の天守閣が完成した。
 
 



坂本龍馬の甥・坂本直寛。

土佐の自由民権運動家として活動し、「言論集会の自由」などを訴え、投獄されたこともある。獄中で聖書に親しみ、自由や平等に貫かれた理想の国をつくろうと北海道開拓を決意し、浦臼町(空知管内)に骨を埋める覚悟で移住した。

 

1897(明治30)年、北見にキリスト教をバックボーンとした「北光社」を設立、翌年、浦 臼に移り農場を開き、伝道、教育、治水対策など幅広い活動を展開した。その後、旭川、札幌などで伝道活動に力を注ぎ、59歳でその生涯を終えた直寛は、札幌の円山墓地で眠っている。(浦臼町郷土史料館パンフレットより)

 

龍馬は、北海道に新しい国をつくるという夢を抱いていたが、果たすことが出来なかった。しかし、龍馬の遺志を継いだ直寛らが、その夢を北の大地に実らせていった。

                    

 

龍馬のふるさと・高知を舞台に開かれている「であい博」。
高知駅南口すぐにある、[高知・龍馬ろまん社中」では、
日本の夜明けを駆け抜けた龍馬33年の生涯を体感できる。

このほか、「安芸・岩崎弥太郎こころざし社中」「ゆすはら・維新の道社中」
「土佐清水・ジョン万次郎くろしお社中」も開かれている。
今年1月16日~来年1月10日まで。











高知県の地場産品であり、日本を代表する「宝石珊瑚」を粒状にした珊瑚抹でつくったもの。

 

土佐は「であい博」一色。

鉄道で12日間 日本一周⑭松山・高知

2010-09-07 15:28:49 | Weblog



松山市の道後温泉本館。27年の建築で、城郭式木造三層楼の共同浴場。
毎朝6時の「刻太鼓」の音を合図に開館。夏目漱石の名作「坊っちゃん」にも
登場する道後のシンボル。

関連ページあり。
http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=67b0625ee3e7908a30b575bd88754f6f

      商店街で。

道後温泉駅前にある名物の「坊っちゃんカラクリ時計」。
道後温泉本館の振鷺閣をモチーフにした時計で、軽快なメロディて時計台がせり上がり、
夏目漱石の小説「坊っちゃん」の登場人物が現れる。



坂の上ミュージアムから見た「萬翆荘」。



1922年、松山藩主の子孫、久松定謨
(ひさまつ さだこと)
伯爵が建てた、フランス・ルネッサンス風の別邸。
この日は休館日で中は見られなかった。

司馬遼太郎の小説ゆかりの「坂の上の雲ミュージアム」。
近代国家へと歩み始めた明治日本の特徴などを展示している。

司馬遼太郎は、正岡子規、秋山好古、真之の松山出身の三人の主人公を
中心としながら、日本における近代国家の形成を大きな時代の流れのなか
でえがいた。
坂の上の雲ミュージアムにおいては、司馬作品のメッセージに耳をかたむ
けると同時に、過去から現在、未来に至る時の流れについて、それぞれの
立場から思索深めていくことが期待されている。(松原館長)

産経新聞夕刊に、1968年(昭和43年)4月22日~1972年(昭和47年)8月4日まで、
1296回続いた連載のコピーも展示されている。

土佐電気鉄道。明治36年創立。はりまや橋を中心に東西南北に走る路面電車で、
現存する中では日本で一番長い歴史を持つといわれる。総延長も日本最大級。

ご存知、はりまや橋。
江戸時代、堀川で隔てられていた土佐の豪商「播磨屋」と
「」櫃屋」(ひつや)の両家が行き来するために渡した「播磨屋橋」が
元になっている。

はりまや橋交差点にある「からくり時計」。時間毎に「よさこい節」のメロディー流
れ、「よさこい踊り人形」や「高知城」「龍馬像」「はりまや橋」などの高知の観光名
所が出てくる。 

 


鉄道で12日間 日本一周⑬桂浜・龍馬像、司馬遼太郎メッセージ

2010-09-03 16:47:04 | Weblog
              


 

ここへ来たのは2回目。初めて来たのは、8年前だった。
今年は、とくにNHK大河ドラマ「龍馬伝」の放映もあり、観光客が多かった。


龍馬の銅像が建てられてから、今年で82年になる。

 

昭和63年5月、銅像建立60年に当たり、桂浜で銅像発起人物故者追悼会が行われたが、司馬遼太郎は、銅像還暦によせて、メッセージを寄せている。多くの示唆に富んでいるので掲載しておきたい。

             
                          

                                 メッセージ

            ~銅像還暦によせて~
                           司馬 遼太郎
 
銅像の龍馬さん、おめでとう。

 あなたは、この場所を気に入っておられるようですね。私はここが大好きです。世界中で、あなたが立つ場所はここしかないのではないかと、私はここに来るたびに思うのです。

 あなたもご存知のように、銅像という芸術様式は、ヨーロッパで興って完成しました。銅像の出来具合以上に銅像がおかれる空間が大切なのです。その点、日本の銅像はほとんどが、所を得ていないのです。
 昭和初年、あなたの後輩たちは、あなたを誘(いざな)って、この桂浜の巌頭(がんとう)に案内して来ました。
 この地が、空間として美しいだけでなく、風景そのものがあなたの精神をことごとく象徴しています。

 大きく弓なりに白線を描く桂浜の砂は、あなたの清らかさをあらわしています。この岬は、地球の骨でできあがっているのですが、あなたの動かざる志をあらわしています。さらに絶えまなく岸うつ波の音は、すぐれた音楽のように律動的だったあなたの精神の調べを物語るかのようです。

 そしてよく言われるように、大きく開かれた水平線は、あなたの限りない大きさを、私どもに教えてくれているのです。

 「遠くを見よ」
 あなたの生涯は、無言に、私どもに、そのことを教えてくれました。いまもそのことを諭(さと)すように、あなたは茫(びょうぼう)たる水のかなたと、雲の色をながめているのです。
 あなたをここで仰ぐとき、志半ばで斃(たお)れたあなたを、無限に悲しみます。
 あなたがここではじめて立ったとき、あなたの生前を知っていた老婦人が、高知の町から一里の道を歩いてあなたのそばまで来て

 「これは龍馬さんぢゃ」
 とつぶやいたといいます。彼女は、まぎれもないあなたを、もう一度見たのでした。
 私は三十年前、ここへ来て、はじめてあなたに会ったとき、名状しがたい悲しみに襲われました。そのときすでに、私はあなたの文章を通じて、精神の肉声を知っていましただけに、そこにあなたが立ちあらわれたような思いをもちました。

 「全霊をあげて、あなたの心を書く」
 と、つぶやいたことを、私はきのうのように憶えています。
 それよりすこし前、まだ中国との国交がひらかれていなかった時期、中国の代表団がここにきたそうですね。

 19世紀以来の中国は、ほとんど国の体(てい)をなさないほどに混乱し、各国から食いあらされて、死体のようになっていました。その中国をみずから救うには、風圧のつよい思想が必要だったのです。
 自国の文明について自信のつよい中国人が、そういう借り衣(ぎぬ)で満足していたはずはないのですが、ともかくもその思想でもって、中国人は、みずからの国を滅亡から救いだそうとしました。ですから、この場所であなたに会ったひとびとは、そういう歴史の水と火をくぐってきた人だったのでしょう。

 その中の一人の女性代表が、あなたを仰いで泣いたといわれています。あなたの風貌と容姿を見て、あなたのすべてと、あなたの志、さらには人の生涯の尊さというものがわかったのです。

 殷(いん)という中国におけるはるかな古代、殷のひとびとの信仰の中に、旅人の死を悼む風習があったといわれています。旅人はいずれの場合でも行き先という目的をもったひとびとです。死せる旅人は、そこへゆくことなく、地上に心を残した人であります。

 殷のひとびとは、そういう旅人の魂を厚く祀りました。この古代信仰は、日本も古くから共有していて、たとえば「残念様信仰」というかたちで、むかしからいまにいたるまで、私どもの心に棲(す)んでいます。

 ふつう、旅人の目的は、その人個人の目的でしかありませんが、それでも、かれらは、残念、念を残すのです。
 あなたの目的は、あなた個人のものでなく、私ども日本人、もしくはアジア人、さらにいえば、人類のたれもに、共通する志(こころざし)というものでした。

 あなたは、そういう私どものために、志をもちました。そして、途(みち)半ばにして天に昇ったのです。その無念さが、あなたの大きさに覆われている私どもの心を打ち、かつ慄(ふる)えさせ、そしてここに立たせるのです。

 さらに私どもがここに立つもう一つのわけは、あなたを悼(いた)むとともに、あなたが、世界中の青春をたえまなく鼓舞(こぶ)しつづけていることに、よろこびをおぼえるからでもあります。

 「志を持て」
 たとえ中道で斃れようとも、志をもつことがいかにすばらしいことかを、あなたは、世界中の若者に、ここに立ちつづけることによって、無言で諭しつづけているのです。

 今日ここに集った人々は百年後には、もう地上にいないでせう。あなただけはここにいます。百年後の青春たちへも、どうかよろしく、というのが、今日ここに集っているひとびとの願いなのです。私の願いでもあります。

 最後にささやかなことを祈ります。この場所のことです。あなたをとりまく桂浜の松も、松をわたる松藾(しょうらい)の音も、あるいは岸うつ波の音も、人類とともに永遠でありますことを。