北の旅人

旅行や、ちょっといい話などを。そして、時には言いたいことを、ひとこと。

「1956」-14歳の心象風景⑤

2009-07-09 15:22:46 | Weblog

<作文集>

 映画「母さん行ってまいります」を見て

                  (S・S)

1月10日のことであった。僕はNの家にいました。5時ごろ、僕らは大きなテーブルをかこんで食事中であった。「Kちゃん」という元気な声がしてガラガラと戸があいた。FさんのTちゃんとUちゃんが「映画に行こう」と、さそいに来たのでした。

僕とKちゃんとM子と三人は食事をおえて、僕はラックを着た。おばさんは、お菓子をわけてくれました。おばさんから100円もらい5人で家を出ました。劇場に行くと20人位来ていました。

 いよいよ映画がはじまりました。終戦以後の映画です。母は赤ん坊を背負い、重い荷物を両手に持って汽車からおりてくるのでした。駅のホームには身内の人がリヤカーを引いて来ました。親るいの家に落ち着いた時の母の気持ちはどんなんだったでしょう。

赤ん坊は7才になりました。大川で小さな子供達がメダカすくいをしていました。夕方までには、よその子供達は父達がよびに来て帰りました。その子は一人ぼっちになりました。その子の父は、となりの国のかん国にとらえられていたのでした。

近所の女学生が自転車で大川にかかっている橋を通りかかりました。その子は何を思ったのか沢山のメダカを川にはなしてやりました。その子は女学生にメダカの歌をおしえてもらいました。

月日は流れ、親るいの家に父から手紙がとどきました。その手紙は「面会のゆるしを受けた」という手紙でした。その手紙を持って、その子はいちもくさんに母の働いているところに走って行きました。

その子の母は長い間むりをして働いていたので病気になり、面会に行けませんでしたが、その子供は一人でこう空会社のガールさん達のおかげで、かん国の父に会いに行く事になりました。

その子は父に見せるのだと、その土地の風景を書きました。 いよいよ飛行機で出発しました。病院では、その子の母が見えない目で飛行機を見送るのでした。かん国に着き、ぶじ父と面会をしました。

        ☆          ☆

◎ 当時の娯楽と言えば、映画の存在が大きかった。田舎町だったが、劇場があり、確か月に2~3回上映していたと思う。まだテレビが家庭まで普及していなかった時代、映画を観るのは大きな楽しみだった。

私が一番好きだったのは、何といっても「アラカン」こと嵐寛十郎主演「鞍馬天狗」。いいところで鞍馬天狗が登場すると皆で拍手しながら観たものだ。 もう一つのお目当ては、一か月位遅れて観るプロ野球のスポーツニュースだ。

ON時代が到来する前で、何故か阪神ファンだった。藤村、別当、土井垣などの活躍に心躍らせた。今は日ハムファンとして、時々、札幌ドームへ応援に行っているが、50年前にはライブで野球観戦できるとは、夢にも思わなかった。

 ◎ 私は終戦時、3歳だった。空襲のサイレンの音と、防空壕に逃げた記憶が微かに残っている。だが、戦争というものを実感したのは、小学生のころ、友達のお父さんが戦死し、白い布に覆われた遺骨となって帰還し、町内の人たちが駅へ出迎えた時だ。その光景を見たとき、戦争は絶対にしてはならないと、子ども心にも強く思ったものだ。

 後年、沖縄、知覧、長崎、広島を訪れたが、戦争の悲惨さ、残されたものの苦しみなどを改めて見聞きするたびに、「平和」の尊さを思った。そして、それを、次の世代に引き継いでいく責任があることも。