北の旅人

旅行や、ちょっといい話などを。そして、時には言いたいことを、ひとこと。

信州の旅⑨-涼やかな「上高地」

2014-07-31 14:46:44 | Weblog

 
上高地(かみこうち)は、長野県西部の飛騨山脈南部の梓川上流の景勝地。中部山岳国立公園の一部ともなっており、国の文化財(特別名勝・特別天然記念物)に指定されている。標高約1,500m。全域が松本市に属する。

「かみこうち」の名称は本来「神垣内」の漢字表記だが、後に現在の「上高地」の漢字表記が一般的となった。「神垣内」とは、穂高神社の祭神・「穂高見命」(ほたかみのみこと)が穂高岳に降臨し、この地(穂高神社奥宮と明神池)で祀られていることに由来する。 温泉があり、穂高連峰や槍ヶ岳の登山基地ともなっている。

バスで上高地へ入ると、まず「大正池」がすぐそこに。

雄大な穂高の姿を映す大正池。上高地を代表する風景。
大正池は1915(大正4)年6月6日の午前に突然あらわれた池です。焼岳が大噴火をおこし、その際に噴出した多量の泥流により梓川がせき止められてできた。。

現在の大正池は、標高1490メートル、深さ3.9メートル、周囲2.4キロメートル余。焼岳の噴火でできた当初の湖面積は3.9平方キロメートル。現在の2倍以上だったという



ビジターセンター。

空気が美味しい!

梓川。松本、長野を経て信濃川になる。

河童橋。

梓川の水源。

宿泊した上高地ルミエスタホテル。100%天然温泉と本格フレンチが売り。 
夜、天気が良ければ星空を期待していたのだが、残念!
しかし、ホテルのすぐ側で、ホタルが飛び交っているのを見られてラッキー!

 

清冽な水の流れ…。8月の平均気温19.7℃、日中でも22℃。

上高地が、「特別名勝 特別天然記念物」とは、知らなかったな~。

ネイチャーガイドの案内で散策していると、道端にニホンザルが。人に慣れているらしく、逃げる気配は全くなし。

上高地のシンボル的存在の河童橋と焼岳。
1927(昭和2)年、作家・芥川龍之介は小説『河童』に河童橋を登場させている。その数年前、芥川龍之介は北アルプスを登山し上高地に来ていた。 


翌朝、ホテルの窓からの風景。刻々と変化する。

 

 


信州の旅⑧-「国宝・松本城」・安曇野「大王わさび農場」

2014-07-30 14:45:39 | Weblog

<松本城> 
現存する日本最古の五重天守にふさわしい風格ある松本城。

400年以上前に築城された。

<長篠の合戦>
1575年五月,長篠城の西方設楽原(したらがはら)で行われた織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍との戦い。連合軍は多量の鉄砲を用いて大勝利を得た。鉄砲が初めて効果的に使われ,以後の戦術・戦法に大きな影響を及ぼした。


<大王わさび農場>
東京ドームを11個分に相当する、広大なわさび田。年間を通し、平均13度という北アルプスの湧水が、毎日12万トンも畑全体から湧き出してきます。この安曇野の豊かな自然を活かし、そしてより多くの方に体験してほしいという思いから、広大な駐車場や入園は一切無料。風情ある水車小屋や趣豊かな遊歩道など、安曇野を体感できる45,000坪の自然の王国です。(HP) 1917年開場。


北アルプスからの伏流水が流れ、水車が回る。日本のふるさとを感じさせる。

川端康成、井上靖、東山魁夷は、安曇野の風景について、「残したい静けさ美しさ」という名句を残している。

 

 

 


信州の旅⑦-扇温泉「明神館」

2014-07-29 15:05:06 | Weblog

明神館は、松本から車で30分ほどの森の中にある。八ヶ岳中信高原国定公園の一角。創業1931年(昭和6年)、標高1050mの天空の宿。JAS有機 認定の自家農場で育てた有機野菜や旬の地元の食材を使用した身体にやさしいマクロ ビオティック料理、渓谷の景色を望む自慢の「立ち湯」、プライベート癒し風呂等、自然を満喫できる素晴らしい宿だ。

バスが、やっと通れるぐらいの道路をゆっくりと進む。こんな山道、冬は雪で大変だろうと思ったが、ここは県道なので除雪はしっかり行われるし、松本と結ぶ定期路線バスも走っているので大丈夫とのこと。

緑の森に抱かれているので全景を見渡すことはできない。

ロビーのすぐ目の前が緑一色。

部屋に行く廊下の到る所に、花や絵画が飾られている。

驚いたのは、この消火器だ。すべての消火器が紙袋で包装している。このような心遣いに接したのは初めてだ。

部屋に入ると、しずかなクラシック音楽が流れていた。テレビの横を見ると、小型オーディオの「BOSE」だった。いつも聞いている大好きな音色が、ここで聴けるとは思っていなかったので、感激! 窓を開けると、すぐそこにも緑が…

自慢の「立ち湯」。ガラスも何もなく、自然と一体となったような気分で温泉を楽しむことができる

立ち湯から見える風景。川の流れの音、鳥のさえずり、爽やかな風…

       レストランの入り口。

夕食は「モダン和食」(これを選択)「懐石料理」「オーガニックフレンチ」から選ぶ。美味しかったし、体にも良さそう。

             <メニュー>

 

望めば夜食を用意してくれるというのでお願いすると、焼きおにぎり2個と、「自然の音色と共にステキな夢を…おやすみなさいませ」という女将のメッセージを添えて届けてくれた。

今まで色々な宿に泊まってきたが、それぞれに素晴らしい「おもてなし」を体験した。ここでも、お客との程よい距離を保ちながらの細やかな心遣いを感じた。それは、今まで味わったことのない「おもてなし」と言ってよい。ロケーションを含めて、大変気に入った宿の一つで、また行きたい!と思う。

 

 

 


信州の旅⑥-諏訪大社

2014-07-28 14:48:17 | Weblog

天竜川舟下り→諏訪大社へ。

信濃國一之宮。神位は正一位。全国各地にある諏訪神社総本社であり、 国内にある最も古い神社の一つとされております。

諏訪大社の歴史は大変古く古事記の中では出雲を舞台に国譲りに反対して諏訪までやってきて、そこに国を築いたとあり、また日本書紀には持統天皇が勅使を派遣したと書かれている。(HP)

6年に一度、御柱を人力で引きずり新たに建てる豪快な神事「御柱祭」が有名。

254102(2場所)という通算成績を誇り、大相撲史上最強の力士と言われている江戸時代の横綱、雷電為右衛門(らいでん・ためえもん)の像。

『幕末に信州東部町が生んだ名力士で、氏子出身の彫刻家故矢崎虎夫氏の文部大臣賞受賞作品。モデルは横綱・柏戸と佐田山及富士錦。勝負に強い御神徳の當大社に奉納されました。』(案内板)

諏訪大社の特徴は、諏訪大社には本殿と呼ばれる建物がなく、代りに秋宮は一位の木を、春宮は杉の木を御神木とし、上社は御山を御神体として拝している。

古代の神社には社殿がなかったとも言われている。つまり、諏訪大社はその古くからの姿を残している。

諏訪明神は古くは風・水の守護神で五穀豊穣を祈る神。また武勇の神として広く信迎され、現在は生命の根源・生活の源を守る神として御神徳は広大無辺で、多くの方が参拝に訪れる。(HP)


信州の旅⑤-天竜川舟下り

2014-07-27 13:11:29 | Weblog

 2日目。妻籠から天竜川舟下りへ。
天竜川は流路213km、日本で9番目の川で長野県の諏訪湖を源流とし、静岡県の遠州灘に注いでいる。

飯田市の弁天港から時又港まで35分間の川下りだ。
生憎の雨で、初めはシートをかけてのスタートとなった。

シートの合間から眺めながら…

急流の箇所ではビニールシートを上げて波しぶきを避ける。

運よく雨が止んで、気分爽快!
思っていほどの急流ではなかった。

記念写真を撮るカメラマンが待機するも、雨で中止に。

こんな写真が撮れるはずだったのだが。

天竜橋。ここを過ぎれば時又港。

 下り終えた舟は、出発した弁天港へトラックで運ばれるとのこと。

 


信州の旅④-妻籠宿

2014-07-26 13:09:50 | Weblog

2日目 妻籠宿へ。
南北に連なる6kmの細長い山峡の村。

江戸と京を結ぶ中山道は、山深い木曽路を通ることから木曽街道とも呼ばれていた。
中山道69次のうち江戸から数えて42番目となる妻籠宿は、中山道と伊那街道が
交叉する交通の要衝として古くから賑わっていた。

 

国の重要文化財・脇本陣奥谷。
代々脇本陣・問屋を勤めた家で、現在の建物は明治10年にそれまで禁制であった桧をふんだんに使い、 当時の粋を集めて建てたもの。島崎藤村の初恋の相手「ゆふ」さんの嫁ぎ先でもある。 平成13年6月、国の重要文化財に指定された。(妻籠観光協会HP)

「郵便史料館」も併設されている。昭和53年に復元されたもので、明治4年~現代までの年代別ポスト(ミニチュア)10個などの資料が展示されいる。全国唯一の「黒いポスト」が珍しい。この郵便局は藤村の『夜明け前』にも描かれている。

妻籠では【売らない、貸さない、壊さない」という三原則を守り、生活しながら江戸時代の町並みを後世に伝えている。

 

 

光徳寺。石垣を築き、白壁をめぐらせた気品あるお寺。明応9年(1500年)に開山されたと言われている。

妻籠宿本陣は、代々島崎氏が務めた。島崎藤村の母の生家。
平成7年に江戸時代後期の間取り図を基に忠実に復元されたもの。

なんとも風情がある木造の水車。

 『夜明け前』の書き出しの通り、「木曽路はすべて山の中である」。

 


信州の旅②-南木曽温泉「ホテル木曽路」

2014-07-23 15:02:02 | Weblog

信州への旅一泊目は、「ホテル木曽路」。広大な自然に囲まれた 温泉リゾート。



山岳地帯だけに、あっという間に風景が変わる。

黒く点のように見えるのは、子育て中のツバメ。

ホテルの廊下から見た外景。まるで一幅の絵のよう。

ここの売りの一つは、温泉だ。2011年には、日本旅行のお客様アンケート入浴施設部門で全国第一位に輝いている。内湯から続く温泉露天風呂は、周囲を山々に囲まれて開放感抜群。湯加減も良く、まさに「湯ったり」できた。

妻籠、馬籠へはすぐ。この旅行から帰ってきてすぐに、あの台風被害が出た所と分かり驚いた。明日は妻籠宿に立ち寄る。

 


信州の旅①-童心にかえった「赤沢森林鉄道」

2014-07-22 13:40:18 | Weblog

7月初め、3泊4日で「あの上高地に泊まり扉温泉『明神館』で寛ぐ絶景遊覧とゆとりの休日4日間」ツアーに行ってきた。

中部国際空港から、「赤沢自然休養林」へ。 

バスで信州の木曽川を上流へ

「森林浴発祥の地」の碑。ここは、長野県木曽郡上松町の『赤沢自然休養林』。
赤沢地域は、昭和44年に日本初の「自然休養林」に指定された。標高1080m以上
あり、涼風が心地良かった。

大正5年から昭和50年まで森林鉄道(木材運搬用)が活躍しており、昭和62年に復活させた。少し登ったところに乗り場がある。

森林鉄道記念碑

職員は家族と離れて生活していたので、こうした散髪用の車両もあった。

木材運搬に活躍したアメリカ製上記機関車「ボールドウイン号」が展示されている。
大正5年から昭和35年まで、約42万キロを走った。

乗り場の隣には「森林鉄道記念館」がある。

今は小さなジーゼル機関車に引かれ、往復2.2kmを20分ほどで走る。

自然休養林だけに、美林を散策できるように色々なコースを歩けるように整備されている。

この「森林鉄道」という言葉は、北の旅人にとっても大変懐かしい乗り物。確か、昭和30年頃まで走っていた。小さい頃、木材の町に育ったので、森林鉄道に乗せてもらって遊んでいたので、すっかり童心にかえった。

初の国産11トン機関車「雨宮21号」。東京の雨宮製作所で製造されたもの。現在、北海道遠軽町丸瀬布で観光用に2キロの軌道を走っている。当時の機関車が走っているのは、ここだけと言われている。(遠軽町HPより)

 

 

 

 

 

 

 


佐渡金山の人形「早く外に出て酒を飲みてぇ、なじみの女にも会いてぇな~」

2014-07-20 14:34:23 | Weblog

7/11日のテレビ朝日「モーニングバード]」で、佐渡金山の話題が取り上げていた。70体の人形が展示されている新潟・佐渡ヶ島の観光名所、史跡・佐渡金山について、県議会で一体の人形が話す「早く外に出て酒を飲みてぇ、なじみの女にも会いてぇな」という音声が「品がない」と異議が唱えられたという。

疑問を投げかけたのは新潟県議会・志田邦男議員。総務文教委員会、佐渡金山の世界遺産登録に向けての議論の集まりだった。

しかし、これは歴史的事実であって、罪人たちの過酷な労働実態として記録にも残っているものだ。単に世界遺産に登録させるために都合よく変えたりしてはならない。事実を正しく伝えることこそが最も大事なことなのだ。

このニュースを観て感ずることがあった。

実は、4月に島根の世界遺産・石見銀山を訪れた。ここでの体験を記しておきたい。12~3人ほどで、地元ボランティアガイドの案内で大森地区(石見銀山の政治経済の中心地)の町並みを散策した。散策を始めて間もなく、参加者の女性が「佐渡金山では罪人などが金を掘り出していたけれども、石見銀山でも、そういう人たちが働いていたのですか?」と質問した。

すると、ガイドは、「罪人とは10人殺したら罪人ですか、100人殺したら罪人なのですか?今日、こうして私たちが暮らしているのはその人たちのおかげです。だから、そういうことを言うべきではないのです。もしかしたら、貴方はその罪人の子孫かもしれないのです。」とのたまった。これには驚き、呆れた。

まず、ガイドは質問に答えていないし、罪人とは、たとえ一人であっても罪人なのだ。挙句に、罪人の子孫かもしれないとは、失礼極まりない!その女性は、すぐに、そのガイドの案内から離れたし、私も、冗談じゃないと一人で見学して歩いた。だから、その後ガイドの説明を聞いていたのは3~4人しかいなかったようだ。質問への答えとしては、「ここでは罪人は使っていなかった」「やはり罪人を使っていた」「はっきり分からない」かのどれかだろう。
また、こうも言った。質問する人は、「貴方のような質問する人と、そうでない人の二つに分かれます」と。

やはり、石見銀山を訪れた人が、「ガイドさんが、石見銀山では罪人を一人も使っていなかったと強調していたことに驚いた」とレポートしていたのを読んだことがある。だから、そうした質問自体は、別におかしなことでもなんでもないことなのだ。世界遺産なのだから、そうしたマイナスになるような話は出来るだけ避けようとしているのか?甚だ疑問だ。

石見銀山には、「千人壺」(多くの罪人を放り込んだので、このように呼んでいたらしい)と呼ばれる刑場跡がある。銀を盗んだ者や回復見込みのない病人などを処刑した。明治期に建てられた石碑には、ここに処刑場があったことが明記されていた。そして、かつては、観光スポットの一つとして案内もされていた。しかし、市が世界遺産に向けて活動を始めたと同時に一斉に存在が抹消された。負の遺産は官民一体となって触れない基本方針に転換したという見方も多い。事実、石見銀山史料館では、それらに関する資料は撤去したという。

したがって、こうした背景があるため、ボランティアガイドも、まったくおかしな返答をしたのではないかと思われる。いやしくも世界遺産の地だ。歴史的事実は事実として伝えていかなければならない。佐渡金山も世界遺産の看板が欲しくて事実を曲げてはならない。それでは、何の意味もないからだ。