北の旅人

旅行や、ちょっといい話などを。そして、時には言いたいことを、ひとこと。

山形への旅②

2009-09-18 14:43:53 | Weblog

羽黒山は、月山、湯殿山とともに、出羽三山と言われ、1400年以上の歴史を持つ山岳信仰の聖地。月山、湯殿山を合際した日本随一の大社殿。(高さ28m)萱葺きの屋根、総漆塗りの内部は見事。

           御縁年に参拝すると、12回参拝したことになる。

          米どころらしく、農耕の神様(雨や水など)を祭っている。

           松尾芭蕉も1週間、泊まった。  
           
句碑には「涼しさや ほの三日月の羽黒山」とある

             天然記念物の見事な杉林が生い茂る。

         蔵王のシンボル「お釜」。周囲1000m、深さ27mの火口湖。
         霧がかかっていたが、幸運にも、ほんの一瞬だが、見えた。エメラル
         ドグリーンが、何とも神秘的。


          
  庄内平野。藤沢周平の作品に出てくる「海坂藩」は、
氏の出身地・鶴岡がモデルといわれる。


          西暦860年に開山された立石寺、通称「山寺」の遠望。
          芭蕉の「閑かさや 岩にしみいる 蝉の声」で知られる。
          山門から石段が八百段ほどあり、50分ぐらいかかる。今回は上る
          時間がなかった。

                松島へは3回目となった。

松島のシンボル・五大堂は、807年、坂上田村麻呂が東征のとき、毘沙門堂を建立。天長5年(828)慈覚大師円仁が延福寺(現在の瑞巌寺)を開基の際、「大聖不動明王」を中心に、「東方降三世」、「西方大威徳」、 「南方軍荼利」、「北方金剛夜叉」の五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれる。現在の御堂は、伊達正宗が1604年に創建。(観光協会案内から)

      瑞巌寺の山門。本堂へと続く参道は、両脇に鬱蒼たる杉木立が続く。

瑞巌寺の境内。 崖際には、修行僧が生活した場所、苔むした洞窟,石碑,石塔,石像郡があり,静寂で厳粛な雰囲気がある。

芭蕉さんも一休み。
 「松島や ああ松島や 松島や」の句は芭蕉が詠んだと思われているが、違う。
江戸時代後期の狂歌師・田原坊の作だと言われる。

「松嶋や さてまつしまや 松嶋や」と詠んだが、「さて」がいつのまにか、「ああ」に変わったらしい。
奥の細道で芭蕉が訪れたので、芭蕉の句という誤解になったようだと。
芭蕉は松島の句を読んでいないのだそうだ。

 

 

 

 

 


山形への旅①

2009-09-12 10:14:25 | Weblog

先日、山形県へのツアーに参加。米沢・上杉神社(ドラマ天地人ゆかりの地)、銀山温泉、最上川、羽黒山、蔵王など、なかなか見どころが多かった。


      米沢市にある上杉神社。上杉謙信公、上杉鷹山公を合祀している。
      1578年の建立だが、大正8年の大火で類焼し、12年に再建。

                    上杉神社の境内。

米沢藩中興の名君・上杉鷹山公の像。ジョン・F・ケネディが、最も尊敬する日本人として鷹山公の名前を上げたという。ケネディが来日前に、英訳された内村鑑三の「代表的日本人」で知ったのではないかといわれるが、真相は定かではない。ケネディは来日前に銃弾に倒れた。 ビル・クリントンも鷹山公の名前を上げたと言われる。

再建されたとき、謙信公、二代景勝公、直江兼続公、十代鷹山公の遺品、遺墨などを収めた「稽照殿」。平安から江戸期にわたる重要文化財など多数が展示されている。ここに、「愛の兜」がある。撮影禁止。
                 
               

           言うまでもなく、戦国時代の越後(新潟)の武将。
           近世上杉家米沢藩の祖。                        

    「銀山温泉」。大正ロマンあふれるレトロな街並みの温泉街で知られる。
    ドラマ「おしん」の舞台となった。

芭蕉も旅した最上川。約1時間の舟下りは、なかなかグッド!樹齢800年の天然杉が茂る両岸の景観よし、女船頭さんの最上川舟歌は聞かせる。秋の紅葉も見たくなった。「五月雨を 集めてはやし 最上川」は、中学校のころ習った。



最上川48滝中、
最大の白糸の滝。120m。



芭蕉も、こんな舟に乗ったのかな?

          米どころ・酒田市にある築100年を超える「山居倉庫」。
          今も現役の農業倉庫。ケヤキ並木も美しい。

                   山居倉庫の表側。

       江戸時代から続いた酒田の料亭「相馬屋」を修復した「相馬楼」。
       当時、酒田の賑わいは「西の堺、東の酒田」と称され、豪商の栄華が偲
       ばれる。こ中に、竹久夢二美術館も併設されている。

          京・大阪との交易でもたらされた料亭文化「酒田舞妓」。

 

 

 

 

 

 


「1956」-14歳の心象風景<30>

2009-09-11 15:11:53 | Weblog

<作文>  
      珠算検定試験を受けて
             
               (O・T)

今から丁度1カ月前の2月3日の日のことでありました。S町の高等学校へ珠算の検定試験を受けに行きました。僕は3級を受けるつもりで、一生懸命に練習していましたが、あまり自信がなかった。しかし、自分の力を発揮して、がんばるつもりで家を出た。

他の人は、朝6時の汽車で行ったが、僕は10時の汽車で行った。試験は1時から始まるのです。試験場の高等学校についた時は10半頃であった。

まだ始まるまで時間も1時間くらいあったので、そろばんを出して、パチパチとたまをはじき練習を始めた。ところが、どうしたことか、前日の調子はどこへやら飛んでしまって、今日は全然調子が悪かった。それでもがんばってやっていた。

すると、S先生が「あわてないで落ちついた気持ちでやってよい」と言った。やがて、12時半頃、試験場へむかった。

試験場には知らない人が沢山いた。みんなの顔が自信満々の顔に見えた。僕の受験番号は102番で、一番前の机にすわらされた。窓のそばなので、暑くて暑くてたまりません。

そのうちに、出席をとって、色々な注意をうけ、用紙が配られた。初めは乗算で、制限時間は10分です。その10分もいつのまにか過ぎて、除算、見取算、伝票算と、つぎつぎと進んで、1時半頃終わりました。

その終った時の気持ちは、なんといいましょうか、背中に背おった、おもい荷物をおろしたように、けろっとしました。友達もそのような顔つきで試験場を出て、僕と共に駅へ向かいました。

友達は映画を観にU座へ入りました。僕は、観た映画なので、観ないで2時の汽車で帰ってきました。10日の合格者発表が今から楽しみです。

        ☆        ☆
 
我々が小中学生の頃は、「読み、書き、そろばん」が大事だと、言われていた時代。私も小学生の頃、一生懸命練習し、確か4年生か5年生の時に4級に合格した。3級となるとグーンと難しくなり、一度挑戦したが不合格。その後は野球やらなにやらの遊びに忙しく、結局そのままとなってしまった。

考えてみると、私は車の免許をはじめ、「免許」というものは何も持っていないので、このそろばんの免許(4級では何にもならないが)は、貴重なものだ。

ただ、今は、家で上司(妻)から、掃除・洗濯・買い物・ごみの分別などに関し、やっと免許皆伝を認められているのが、多少の救いだ。

高校生の時、クラスに段を持っている女生徒がいたが、その早さは、神業のように見えた。もちろん、今のように、電卓などない時代だったから、彼女はみんなから尊敬の眼差しをもって見られていたのをよく覚えている。

 


「1956」-14歳の心象風景<29>

2009-09-09 10:39:42 | Weblog

<作文> 
                  ふぶき 
                         (O・T)

朝ごはんを食べていると風がふいてきたように思った。朝、父は戸外へ出て、「わぁ!今日は風が強いな」と云っていた。働きに行っている父は「今日、ふぶきになるんではないか」と心配しているようすである。

三学期が始まった日です。私も窓の所へ行って外を見たその時は、もはや雪も降ってきた。でも、それほどでもないので行く事にした。父は私の先頭に立って道をあけて歩いてくれた。

その後ろ姿を見ると、毎年私達のために夏・冬働いてくれた父!
後ろ姿は、なんとなく、めっきりやせ、年老いた父。道路まであけてくれた父は「気をつけて行くんだよ。学校がおわったら、すぐ帰るんだよ」と云って行った。

うんがわるく、急に風も強くなり雪もますます降ってきた。私は毎日そこを通るとき見る癖がある。毎日友達が来るのに、今日はその姿も見えない。だれも来なかった。

昨日は、あんなに良かった道も今日は風と雪で道がふさがっている。なんとなく一人なので淋しくなってきた。くつにバンドをして歩いたのに、雪が入ってなんとなく冷たくなった。

誰も歩いてなくスキーの跡ばかりであった。途中で、うしろをふりかえって見ると、どうであろう! 今、歩いてきたばかりの道が、もはやうずまっていた。立っていると風が冷たく顔に当り、顔がどんどんいたくなっていく。

誰か来るように思えて後ろ見ると、がっかりした。良く見ると木の根株ではないか。自然と自分でおかしくてたまらなかった。又、2、3歩、歩くと誰かが遠くから走ってくる。淋しかったなんぞふっとんで、かえった。

        ☆         ☆

私たちが通った学校は、山間の小さい街にあった。農家の子どもたちは、街の中心部から離れていて、確か5~6kmぐらい歩いて通っていたクラスメイトもいた。

晴れた日はいいが、雨や雪の時は、ほんとうに大変だったと思う。道の途中には、たまに家がポツンと点在している程度だった。まして、吹雪になれば、視界は100mもあればいいほうで、子どもにとっては心細く淋しいものだったことは想像に難くない。

今年6月、51年振りのクラス会で、この道を車で通ってみたが、ほとんどが離農していて、原野が広がっていた。


「1956」-14歳の心象風景<28>

2009-09-07 13:44:03 | Weblog

<作文> 

           家のネコ
                (S・H)

家のネコは「たま」といいますが、とてもかわいらしいネコです。
ある日のことでした。すずめが2、30羽電線にとまっていました。それを見たネコは、しっぽをふりながら、家のかげからようすをうかがっていました。

すずめは4、5羽が電線からおりて地面を歩きはじめると、ネコはものすごいいきおいで、そのすずめをめがけて飛びかかっていきましたが、すずめもすばやく、とびのいてしまいました。

二度目におりたとき、ネコはすかさずとびかかって、こんどは、とらえました。それを見た僕は、ネコのそばによろうとすると、ネコはすずめを取りに来たかと、うなっていましたが、なぜてやると、ネコもおとなしくして、すずめをくわえたまま僕のかたに上がってきました。

またなぜてやると、こんどは、すずめを落として僕の顔をなめました。ほんとうにかわいいネコです。


これからの政治について思うこと

2009-09-06 12:09:16 | Weblog

あるテレビの世論調査では、国民の65%が自民党は再生出来るとみている。確かに、今回の選挙結果は、自民党のあまりにも酷い「政治姿勢」に国民が怒ったのだと思う。

したがって、しっかりしたリーダーを選び、健全な野党として民主党と対していけば、復活のチャンスはあると見ている。

信念なき鳩山総理、尊大極まりない小沢幹事長では、そんなに長続きするとは思えないから。

その上で、言いたいこと。

①民主党が政権を担うことになったのだから、アメリカのように、3
か月ぐらいは、マニフェストの実現性や新しい政治の形をつくれるのか、様子を見てみることが必要だ。

②しっかりした二大政党制を定着させるには、自民党が全く新しい政
党に生まれ変わることが大事だ。それが出来なければ、自民党は消滅するだろう。

③総理経験者など、昔の名前で出ている人や、今回の選挙で戦犯と言
われる人達が表でウロウロ動いているようでは、自民党の再生は全
く期待できない。

④自民党の惨敗は、政策以前に、リーダーの選択を誤ったこと、閣僚
の不祥事などで信頼を完全に失ったことが最大の原因だ。

⑤自民党は公明党との関係を断ち切らなければ駄目だ。国民の8割が反対した定額給付金も公明党に引きずられた結果だ。

⑥「小選挙区は自民党、比例は公明党へ」などと叫ぶ選挙戦は、政党と
しては余りにも情けない。