狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

開票の日

2006-12-10 20:36:34 | 怒ブログ

>日曜日の午後である。
遠くでしきりに鈴の音、それと共に「号外。」という呼び声が聞える。さうだと思ふと、僕はすぐ外へ出て見た。

勢よく新聞屋さんが来る。其の手から、ほとんどひったくるやうにして受取った号外は、
「市会議員当選者決定。」
といふ大活字の見出しだ。僕は急いで二階へ持って行く。すると梯子段の上から、
「当選者決定だろう。」
と、父の待ちかねた声がする。

父は座にもどりながら、一わたり見て、
「ほう、大体うまくいったな。わしの予想がほとんど当ってゐる。それにしても、山川さんは今度も又第一位か。千二百三十九とは、すばらしい得票だな。」
と、ひとり言のやうに言ふ。

「山川さんは、どうしてそんなに何時も第一位なんでせう。」
「いや、全くえらいからさ。教養も高いし、第一自分一身を投げ出して、人のために尽す人だ。市政上の意見もしっかりした実にえらい人だ。」
父の言葉は、ほとんど感歎の声である。
「おとうさんも、山川さんに投票なすったのでしょう。」
「いや、それは言ふべきことではない。」
何でも教へてくれる父が、此の事になると、何時でもはねつけるやうにする。
父は少し改まった調子になった。

「道雄。選挙というものはね、これと思ふりっぱな人を自分できめて、自分で投票するものです。みだりに人に聞いたり、聞かれたり、いはんや人に頼まれたりしてはならないものです。そんな事をするやうでは、結局人情や欲に目がくらんで、ほんたうにりっぱな人物に投票するといふ精神に反することになる。これは大事なことだから、よく覚えておきなさい。」

其の時、外から帰った母が、二階に上がって来た。
「ただ今帰りました。」
「やあ、お帰り。」
「お帰りなさい。」
と、僕も言った。母は号外をちらと見て、
 「まあ、当選の号外ですの。今度は、みんなりっぱな方ばかりのやうですね。」
「うん。割合うまくいってゐる。」
「この前、とかくのうわさのあった人は、一人もはいってゐませんね。」
「あゝいふ連中が今度も出るやうでは、選挙もおしまひだよ。何よりも棄権者が非常に少ない。選挙人の自覚の現れだね。」
「あなたのやうに、旅行先から、わざわざ帰って投票なさる方もあるのですから。」
父は、ちょっと頭をかいて笑った。

「いや、もっと感心なのがあったよ。中風で、足もろくろく立たないおぢいさんが、おばあさんや、若い人たちに連れられて行ってゐるのを見て、わたしは思わず涙が出た。」
「ほんとうに感心ですね。」
「あゝいふ風に、みんなが選挙の義務といふことを強く感じれば、選挙は自然真剣になる。今度はその真剣のたまものだ。」
夕方、父と町を散歩した時、掲示板に、当選者の名前が大きく書いて張ってあった。当選した家では、定めて喜んでゐることであろう。

「選挙もうまくいった。何だか降続いた雨でも、すっかり晴上ったやうな気がする。」
と、父がひとり言のやうに言った。<

これは、昭和13年2月翻刻発行の文部省「小学国語読本巻十」の第二十二
「開票の日」を復元した。巻十は小学5年生のときの教科書で、写真の教科書は、復刻本ではない。ボクが実際に使った教科書で、残念ながら表紙はなくなってしまった。
 参考まで、目録(目次)を示せば、覚えておられる方もあるかと思う。
  第一明治神宮        第二霧(詩)    
  第三科学博物館      第四足助次郎重範 
  第五水兵の母        第六南洋だより
  第七朝顔に(俳句)     第八雨の養老
  第九柿の色          第十稲むらの火
  第十一朝鮮の田舎     第十二水彩画(詩)
  第十三久田船長      第十四母の力
  第十五水師営の会見    第十六張良と韓信
  第十七雪の山       第十八南極海に鯨を追ふ
  第十九パナマ運河    第二十冬の月(詩)
  第二十一国宝と大慈悲  第二十二開票の日
  第二十三春浅し      第二十四熊野紀行
  第二十五汽車の発明   第二十六「あじあ」に乗りて
  第二十七御民われ 

多少漢字に原文と異なるワープロ文字を使用したが、仮名遣いは忠實のつもりである。
 時は2006年12月10日、わが古さとI県は、県議選間もなく開票作業が始る。