狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

年末句会

2006-12-17 22:07:23 | 日録

歳末の実感運ぶ汲み取り車

忘年会鉄腕アトムで〆にけり

年の暮れ十円硬貨また拾う

おでん鍋特価品らし品豊富

年末の漢字「命」と決まりけり


ある会誌から

2006-12-17 21:23:23 | 本・読書
 この文章は、私の県内、S市の「文化団体協議会」発行の「会誌」から引用したものである。

この会誌は十数年前、同市でキリスト友会系列の幼稚園の園長である、F氏(当時90歳)から頂いたものである。

  『Fの分校時代    O・A』
…(略)私が入学したのが昭和6年(1931年、満洲事変が始った年)、H・S・HとO・H(集落の名称)の一部の4年生までがここに学んだ。
校庭は四方が桧葉の生垣に囲まれ、東と北に通用門があった。庭の南には大きなけやきの木、東南にひいらぎと淡紅色の花をつけた百日紅、西と北には桜の木、角の方に小さな砂場があり、低鉄棒もあった。

校舎は木造で古びた平屋瓦葺き、東が低学年(1・2年)、西が中学年(3・4年)、一番西側に下屋が造られてあって、職員室と小使室が並んでいた。その仕切りは障子だったと思う。昇降口と便所は東教室北廊下のその北にあった。

小使室の近くには大きな「さと」の木が生えていて、地面におちた黒茶色の〝さとの実〟を競争で拾っては、よく食べた。又、分校は井戸水が悪いので、その水を大こな瓶に溜め、そこから垂れる越し水を飲んだ。竹筒の先きにぶらさがった赤茶けた〝越し水〟が目に浮ぶ。
 担任は一年が小太りで詰襟のI先生、二年がちょこ髭のK先生、三・四年が若いO先生だった。
 各学年共20名弱で、三つ年上の兄は男が僅か2人だったと聞いている。複式なので、在校中に一年上下の学年とは二度同じ教室で過ごすことになる。

 授業の合図はおじさんが鐘を鳴らした。
(中略)
 天気が変わって途中で雨になると、母ちゃん方が交代で近所の子供の分まで、傘を束ねて持ってきてくれる。昔は本当に人情がこまやかだったと思う。
 今の子供たちに60年前(2006年からでは、約75年前)のこんな話を聞かせても分ってくれないであろう。

 当時は黒表紙の国定教科書で、修身、国語、(読方・綴方・書方)、算術、図画、唱歌、体操、手工を習った。学校手牒(通知表)には「操行」という欄もあった。この手牒を開くと「教育に関する勅語」「戊申詔書」「国民精神作興に関する詔書」が載せられているが、昭和の教育理念はこの三大詔書によって、強く規制されたことであろう。
(中略)
 さて、当時の勉強の事は殆んど忘れたが、私たちの学んだ「ハナハト読本」は、間もなく色刷りの「サクラ読本」に改編された。あの頃は。「今日」は「ケフ」「蝶々」は「テフテフ」と書いた。

木内小平、広瀬中佐、乃木大将、日本海海戦、肉弾三勇士等の軍国美談も記憶に残っているが、国家主義、軍国主義が学校教育の中で強調されたことであろう。
「庭に咲いた垣根の小菊、一つ取りたい黄色い花を、兵隊遊びの勲章に」この文は私の心に深く刻み込まれ、今でも覚えている。
(中略)
 小遣いは1銭(1円の百ぶんの一)、これがなかなか貰えない。貰ったものなら小躍りして駄菓子屋に駆け込む。
 時には太鼓を叩いて飴屋のおばさんが来た。紙芝居のおじさんも来た。1本1銭の飴を買うと。「黄金バット」の紙芝居が見られる。銭がない時は、遠くでそっと眺めていた。
少年倶楽部に「のらくろ」「冒険ダン吉」が、当時の少年達の人気尾を集め、熱狂させたことも忘れ羅れなイ。
 今考えると、あの頃の子供達には、すばらしい子供の文化があった。(略)