狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

桜桃忌

2006-06-17 13:21:13 | 日録

太宰治氏情死
玉川上水に投身、相手は戦争未亡人
”書けなくなった〟と遺書
特異な作風をもって終戦後メキメキと売り出した人気作家太宰治氏は昨報のごとく愛人と家出所轄三鷹署では行方を捜していたが前後の模様から附近の玉川上水に入水情死したものと認定玉川上水を中心に二人の死体を捜索している。
(1948)昭和23年6月16日水曜日 朝日新聞)

   その日、東京で水泳の世界新記録が生まれた。敗戦からまだ3年の48年6月13日、「フジヤマのトビウオ」の伝説で知られる古橋広之進の快挙だった。
 
 その夜、三鷹に住んでいた太宰治は、近所を流れる玉川上水に女性と入水する。15日、朝日新聞に「太宰治氏家出か」という小さな記事が載り、やがて自殺と報じられた。

 太宰らふたりが見つかったのは、6月19日だった。その日を、晩年の作「桜桃」にちなんで「桜桃忌」と呼んでいる。今年も、太宰が埋葬されている三鷹市の禅林寺などで、生涯をしのぶ催しが開かれる。この日は誕生日でもあり、3年後には生誕100年を迎える。(6.16日付天声人語より抜粋)    

               六月十九日 
 何の用意も無しに原稿用紙にむかった。こういうのを本当の随筆というのかも知れない。きょうは六月十九日である。晴天である。 私の生まれた日は明治四十二年の六月十九日である。

 私は子供の頃、妙にひがんで、自分を父母のほんとうの子でないと思い込んでいた事があった。兄弟中で自分ひとりだけが、のけものにされているような気がしていた。容貌がまずかったので、一家のものから何かとかまわれ、それで次第にひがんだのかも知れない。

  蔵へはいって、いろいろな書き物を調べてみたことがあった。何も発見できなかった。むかしから私の家に出入りしている人たちにこっそり聞いて廻ったこともある。その人たちは、大いに笑った。私がこの家で生まれた日の事を、ちゃんと皆が知っているのである。夕暮れでした。あの、小間で生まれたのでした。蚊帳の中で生まれました。ひどく安産でした。すぐに生まれました。鼻の大きいお子でした。色々のことを、はっきり教えてくれるので、私も私の疑念を放棄せざるを得なかった。.なんだか、がっかりした。自分の平凡な身の上が不満であった。  

 先日、未知の詩人から手紙をもらった。その人も明治四十二年六月十九日生まれの由である。これを縁に、一夜呑まないかという手紙であった。私は返事を出した。「僕はつまらない男であるから、遇えばきっとがっかりなさるでしょう。どうもこわいのです。明治四十二年六月十九日生まれの宿命を、あなたもご存知のことと思います。どうか、あの、小心にめんじて、おゆるし下さい。」割りに素直に書けたと思った。                       ―「博浪抄」昭和15年8月号

ひとりごと:「光陰如箭 」だなァ。こう見えても、オレはあのころ〝文学少年〟だったんだよなァ。幾つぐらいの時だったっぺ歟!
 ここを過ぎて悲しみの市ー
  重々しく枯野出でしは俺ばかりなる
 
ある短歌会でこのオレの歌を、わが地方では女医であり、有名歌人であった
K・U子女史が絶賛してくれたっけ。あの頃の短歌雑誌に載っているはずである。