狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

戦中派不戦日記

2006-06-09 12:07:55 | 反戦基地
 山田風太郎
戦中派不戦日記(講談社文庫)なる本を見つけた。
ボクも最近頓に物忘れが激しくなったことは大いに自覚するところであるが、どんな本でも購入した時の記憶は少しは残っているものである。特に昭和20年前後の日記は関心がある筈なのに思い出せなかった。
よく見たら、それは一昨年町図書館の廃棄本無償配布本の中の1冊だったのである。裏面の図書館蔵書ラベルに(徐)のパンチが押してあった。
折りしもボクは20年6月10日の空襲についてのブログ記事を更新中であった。
この日記はその題名から推して、戦中派と言われる年代の著者の「反戦意思」の記録かと思ってページを開いて見た。しかし、内容はそうではなかった。

 巻頭のまえがきにはこう書いてある。
まえがき
――私の見た「昭和二十年」の記録である。
 いうまでもなく日本歴史上、これほど――物理的にも――日本人の多量の血と涙が流された1年間はなかったであろう。そして敗北につづく凄まじい百八十度転回――すなわち、これほど恐るべきドラマチックな一年はなかったであろう。

ただ私はそのドラマの中の通行人であった。当時私は満二十三歳の医学生であって、最も「死にどき」の年代でありながら戦争にさえ参加しなかった。「戦中派不戦日記」と題したのはそのためだ。ただし「戦中派」といっても、むろん私一人のことである。

さてこの日記の六月九、十日を覗いて見よう。
九日(土)曇後晴
 〇朝からラジオは阪神地方の空襲を叫んでいる。六月に入って以来、B29、四百機、三百五十機、二百五十機と阪神のみに間断なく来襲す。本日は百三十機程度なるがごとし。
 村にもしばしば半鐘鳴る。時に投弾するがごとき異様の轟音つたわり来る。まさかこの僻地の山村に投弾することあらざるべしと思えど、この音見当つかず。氷ノ山の高射砲陣地にあらずやなどという者もあり。

〇夕、突如悟りをひらきたるごとく日本の必勝を信ず。自分自身が、追いつめられ攻め寄せらるる日本人の一人なることを思う時は、心配なり、恐怖あり。しかれども眼を離して、日本人とアメリカ人の頭上より俯瞰する時、本土上陸恐るるに足らず、剽悍勇猛の日本人一億、何とて長躯して来たれる驕慢のアメリカ人にむざと敗れんや。血風下に必ずや彼をして絶望の剣を投げしむること不可能にあらずと信ず。

十日(日)快晴
〇白日燦々。柿や麦や桜や椿や梅や木犀や、すべて青き炎のごとく燃ゆ。暑ようやくはげしからんとす。

〇旅客列車。現行の二割五分大幅削減の発表あり。上京不可能となることを怖れ、至急八鹿に出でんとしたるも、どういうわけかバス来らず、数時間待ちてむなしく帰る。

〇沖縄戦ついに最悪の事態迫る。本土決戦眼前にあり。臨時議会に於ける鈴木首相、阿南陸相、米内海相らの国民に告ぐる声切々悲痛を極む。
敵勢いにのり、一挙に本土に上陸し来るか。その上陸地点はいずこならん。
或いはまた沖縄の基地を整備し、マリアナ、硫黄島よりも、更に連日大々的に本土爆撃を続行し来るか。
いずれにせよ今回上京せば、ふたたびこの故郷に帰る日あるや否やは疑問なり。叔父、なんじ東京で死ね、われらもここで死なんと微笑していう。

著者山田風太郎は巻末の〝あとがき〟の中で次のように述べていることだけを付け加えて文を閉じたい。

(略)…私はその一日ごとに現在の(注)を入れたい衝動を感じた。しかしそれは恐らく無用に無用を重ねることになるであろう。それに現在手を入れては無意味なものものとなり、かつ取捨そのものが一種の虚偽となるおそれがある。無用か無用でないか本人と第三者との判断の相違もあるだろう。そこを考慮して、あえてこの愚かな全文を収録された出版社の方針に、感謝を以って従うことにした。自分で読んで背に汗が出るような部分も、当時としてはそのように書く何らかの必然性があったのだ。

 しかし、それよりもなお忸怩たらざるを得ないのは、結局これはドラマの通行人どころか、「傍観者」の記録ではなかったかということであった。むろん国民のだれもが自由意志をもって傍観者であることを許されなかった時代に、私がそうありえたのは、みづから選択したことではなく偶然の運命にちがいないが、それにしても――例えば私の小学校の同級生男子三十四人中十四人が戦死したという事実を想うとき、かかる日記の空しさをいよいよ痛感せずにはせずにはいられない。それに「死にどき」の世代のくせに当時傍観者であり得たということは、ある意味で最劣等の若者であると烙印を押されたことでもあったのだ。…(略)

     **************

ボクは昭和20年6月10日「屍の街」と化したわが村にいて、一体他所はこの日、どうであったのかを較べるための引用が目的だったから、この2日間の記録と〝あとがき〟の抜粋を読んだだけでは、不充分なブログの謗りは免れないけれど、ご理解いただきたいと思う。