狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

屍の街:昭和20年6月10日

2006-06-07 20:53:22 | 反戦基地

 6月10日がやってくる。
 わが村が昭和20年6月10日、米空軍B29の爆撃で壊滅的打撃を蒙ったことは、以前にも書いたような気がするが、今では爆撃にあったことすらすっかり忘れてしまった人が多くなってしまった。直接この爆撃のあったボクすら記憶に曖昧な部分が多い。勿論これまでこの日に村で慰霊祭があった話は一度も聞いたことがない。
太平洋戦争中、海軍航空隊で知られた軍都市T市の市史には次の短い記述がある。

<T航空隊(いわゆる飛行予科練習生や飛行予備学生の訓練基地であった航空隊)には、昭和20年6月10日、30機のB29による爆撃が加えられ、甚大な被害をうけた。この日は日曜日で、少年兵たちの郷里からの面会人で隊はにぎわっていた。T連山方面から来襲した編隊は、兵舎に500キロ爆弾の雨を降らせ火災を起こさせた。付近の退避壕入り口にも、爆弾が投下されたので、壕がつぶれ、O海軍技術少佐以下教官11人、予科練の雛鷲たち281人が戦死、そのほか重軽傷を負うたもの119人に及んだ。

負傷者のうち、K海軍病院に移されてから死亡したもの26人であった。同市O町H寺東側の戦没者の碑は、H寺住職Y、H師が17回忌に建碑したものである。(終戦直前の市民生活、疎開と空襲より抜粋)

表題「屍の街」とは作家太田洋子が広島原爆投下のまさに屍の街、広島を描いた作品名である。そのときの様子を〝街は死体の襤褸筵〟と表現した。恐らくこれでも表現し尽せなかったのではないか。
 
わが村での六月十日の空襲爆撃で失われた人命数は、371名と町史には記載されているが、正確な数字であるかどうか疑問視する向きもある。まさに阿鼻叫喚地獄絵図であった。

 「屍の街」の自序の書き始め部分を引用してみたい。

     序
 私は一九四五年の八月から十一月にかけて、生と死の紙一重のあいだにおり、いつ死の方に引き摺って行かれるかわからぬ瞬間を生きて、「屍の街」を書いた。
 日本の無条件降伏によって戦争が終結した八月十五日以後、二十日すぎてから突如として、八月六日の当事の生き残った人々の上に、原子爆弾症という驚愕にみちた病的現象が現われはじめ、人々は累々と死んで行った。

 私は「屍の街」を書くことを急いだ。人々のあとから私も死ななければならないとすれば、書くことも急がなくてはならなかった。
 当日、荷物の一切を広島の大火災の中に失った私は、田舎へはいってからも、ペンや原稿用紙はおろか、一枚の紙も一本の鉛筆も持っていなかった。当事はそれらのものを売る一軒の店も無かった。寄寓先の家や、村の知人に障子からはがした、茶色に煤けた障子紙や、ちり紙や、二三本の鉛筆などをもらい、背後に死の影を背負ったまま、書いておくことの責任を果たしてから、死にたいと思った。

 その場合私は「屍の街」を小説的構成する時間を持たなかった。その日の広島市街の現実を、肉体と精神をもってじかに体験した多くの人々に、話をきいたり、種々なことを調べたりした上、上手な小説的構成の下に、一目瞭然と巧妙に描きあげるという風な、そのような時間も気持の余裕もなかった。

 私の書き易い形態と体力とをもって、死ぬまでには書き終らなくてはならないと、ひたすら私はそれをいそいだ。
 今改めて出版するにあたって、熟読して見ると、私の体験は、一九四五年八月六日に広島全市に展開された、異常な悲惨時の現実の規模の大きさと深刻さに比べ、狭小で浅いことを、今更つよく感じないではいられない。

 私の筆は全市に繰り広げられてはいないのである。自分の住んでいた母の家からのがれ出して、三日間を野宿した河原と、田舎へ逃げていく道中の情景とのきわめて部分的な体験しか書いていない。

 私は読者に、私の見た河原と道筋の情景よりももっと陰惨過酷な災害が、全市街を埋め尽くしていたことを知ってもらいたい。
 読者は私の書き方を物足りなく思われるであろう。私自身五年経ったこんにち、読み返してみて意に満たぬ多くののもどかしさを感じている。そして私の書き得なかった広島の、当事の様相を眼底に思い浮かべ、私の魂自体が焔の中で煮詰まるほどの、肉体的な、精神的な苦痛を覚えるほかはない。

(「屍の街」太田洋子 冬芽書房昭和25年5月25日印刷昭和25年5月30日発行 定価200円自序抜粋)