狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

在日総連・民団に関する思い出

2006-05-19 21:33:00 | 日録
 いつの日のことだったろう。妻も覚えているというし、その時のトラックの年式は1960年車(昭和40年頃以前は西暦表記だった)と記憶していることなどから推して、たぶん昭和30年代後半の頃だった。

建設資材配送先の運転手から事故があったと電話がかかってきた。状況を訊くと、対向車とすれ違う際、相手がハンドルを切り損ね側溝を飛び越え、路肩の電柱に衝突したものだという。そしてその乗用車はK国人(朝鮮という言葉は禁句らしいので以後このように表現する)のもので、相手が警察沙汰にしたという報告である。

相手との接触事故ではなさそうだし、ただすれ違いざまに起きた事故だったのである。そういうわけだったから私は現場に急行しなかった。
帰ってきた運転手からの話では、駆けつけた警察官が状況を見て、
「何だ、お前が悪いんじゃないか!」とK国人を窘めたそうだ。
そうしたら、
「何っ!警察官のお前が、良い、悪いを決められるのか!」とK国人に詰め寄られ、警察官は何も調べず逃げ帰ってしまった。何処の駐在所なのかもさえ判らないというのだった。

 何が非常に気になる事件だった。胸騒ぎがした。

 翌日その予感がほんとになって現われてしまった。労働者風の男が、住まいと事務所を兼ねるわが家の玄関先に現われ啖呵をきった。腕の刺青をちらつかせた。
「オレは昨日の運転手だが、車の修繕費用を主人に弁償せねばならない。その金がない。お宅で働かしてもらいたい。住み込みで働く」一段低い玄関の板の間に手胡坐で腰を下ろした。まさに芝居の〝玄関先の場〟であったのだ。

「明日そちらのご主人に合いにいく」との約束で、その場はやっとお引取りを願った。相手は隣県S市の人だった。

私は、K国人には知り合いがあった。評判の焼肉店の主人、Sさんである。また親しくしていた共産党T市議会議員I氏とも交流があり、革新思想被れだった私は、I氏共々来日したK国歌舞団公演などにも招待されたこともある。また不定期ではあったが「画報」なども送られてきたのを購読していた。K国人はすべて社会主義信奉だとばかり思っていた。

 私はその夜、I市議と一緒にSさんの焼肉店を訪れ、2階の会議室でことの次第を打ち明けて仲介を依頼したのだった。

 そのとき初めて「朝鮮総連」と「大韓民国居留民団」の2つの組織があることを知らされた。
 Sさんは総連系、隣県S市の相手は民団系のK国人だったのである。

 Sさんはこのとき私にこう言うのだった。
「小承知の通り、私の祖国は南北に分かれています。この町にもあちらの事務所がありますが、あちらとは話致しません。お話になりませんから。この相手の名前はきいただけで、もうタメです!!
 私の仲間そんな理不尽やりません。やったとしたら、九州(キュウスと発音した)でも北海道でもすぐ飛んでいって話つけます」対敵関係をあらわにした。

 ここでその時どうなったか、詳細のいちいちを回想記として書くつもりはない。結局仲介者は誰も頼めなかったということだ。

「事故があったのはお前の車が通ったからだ。双方があって事故となった。片方だけでは事故は起きない。修理代の半分、20万円を即座に払って貰いたい」という強硬な相手に反駁できなかった。その頃は今のように保険制度が完備されていなかったのである。
 
 この事件から、私はK国の人、特に「民団」系の人々を警戒するようになった。

 しかし現在韓国よりも、北朝鮮に対する国民世論は非常に厳しい。Sさんたちと交流があったことなども若しかして控えるべきかもしれない。

 年月が流れ、Sさんも、I市議もすでに他界された。あれほど繁盛した焼肉店は、駅前という場所にも恵まれていたにもかかわらず、いつの間にか店は閉じてしまったようだ。総連系であったこと、朝銀の破綻なども大きく影響しているのかもしれない。
 
>在日韓国・朝鮮人はいまや3世、4世が中心になりつつある。日本人との結婚が9割を占め、日本国籍を取る人も毎年1万人を超える。日本に対する考え方は変わり、本国とのつながりよりも日本でどう生きるかを考える人が増えている。そうした人々のための団体に脱皮できるかどうかが問われているのだ。
 これは5月19日付朝日新聞社説の抜粋である。

和解へ…喜ぶ在日社会「地域での交流は先行」
半世紀以上を経て、在日の団体に和解の兆しが見えてきた。朝鮮総連と韓国民団との「トップ会談」の知らせに、在日の人々に喜びが広がった。一方で、「政治的な意図では」との冷めた見方もある。=1面参照
これは5.17付朝日新聞第社会面記事である。