狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

物理学は如何にして創られたか上・下について

2006-05-15 21:49:54 | 日録

年譜をなぞりながら当時のことを振り返ってみると、随分記憶とはかけ離れていることに戸惑う。事実と年代がうまくかみ合わないのである。確かなのは、ボクが20歳代中学を終えたばかりの頃、村内在住のK先生(医博)からこの本の()を頂戴したことである。

勿論その原物は誰かに貸し与えたまま行方不明になってしまった。今所持しているのは古本が出回るようになったずっと後のものである。貸しては失くし、失くしては買い何冊買ったことか。

先生は戦争末期東京から疎開したまま村に土着した医師で、戦後1947年第1回参院選全国区から当選した社会党左派議員K女史の婿養子にあたる。選挙運動期間中、先生はK女史を自転車の荷台に乗せて、村内を移動してあるいたことを覚えている。あの時山本有三が参院全国区トップ当選だったかと思う。

この頃はまだ食料事情が、逼迫していた頃で、今では到底考えられないような酷い時代だった。山口判事が餓死したのもこの頃である。

文学青年(?)の真似事をして、謄写版刷の文芸雑誌などの編輯に関わり、K先生から農村医療に関した原稿を頂いたこともある。知遇を得た。

 「岩波書店50年」岩波書店(1963年発行)を見ると、この本の上巻は193910月に初版が発行された。改版は1963年とあるから、ボクが先生から頂いた本は、今考えると初版本であろう。敗戦直後の藁半紙のような粗悪な本ではなかった。今もっているのは戦後安定してきた1963年改版ものである。

さてこのブログのタイトルを「物理学は如何にして創られたか上・下」としたけれども、ボクが「相対性理論」や「量子論」を云々することは、まずもって不可能という外はないだろう。中学で習った物理学とは相当の隔たりがあるし、内容の感想文すら覚束ない。書きたかったのは理論物理学ではなく、この岩波新書赤版にまつわる昔の思い出話があるからだけのことであった。

この本に関して、学習塾経営に当たられるVさんから懇切丁寧なコメントを寄せていただいた。恐縮この上のない。感謝申し上げたい。

それにしても、今日の朝日新聞「天声人語」が湯川スミさんの死去を取り上げている中に、アインシュタインの名前が出てきたのは全くの偶然である。抜粋を引用する。

>核兵器の廃絶を目指す運動に尽力した湯川スミさんが亡くなった。日本人初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹氏の妻で、世界連邦世界協会の名誉会長だった。

戦後、スミさんは夫と米国に渡った。同じ研究所に居たアインシュタインが、原爆開発の一端となったことを深く後悔し、秀樹氏に言ったという。「戦争が起こらない仕組みをつくらないといけない。そのためには世界を連邦にするしか道はない」

共感し、自らも核廃絶を希求した秀樹氏は、がんを患ってからも言い続けた。「君が運動の先頭に立て」。この言葉を胸に抱き続け、96歳で夫の元に旅立った。

更にまた『物理学は如何にして創られたか(上)』の「巻頭訳者序」(石原純)の末尾に次のような訳者の添え書きがあるのも奇縁である。 

アインシュタイン教授は、1955年にアメリカで亡くなられましたが、晩年は世界の平和運動に努力されました。