車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

良い練習とは

2020年01月31日 20時07分56秒 | 日記
「今日も良い練習が出来た」

と思った時、ふと思った。

今思った良い練習とは、単に自分が「楽しかった」だけの練習で、それが本当に自分の為になった練習だったのか?と。

いや、客観的に見て、今の自分に必要なことを相手を踏まえたうえでちゃんと考えて組み立てたメニューであり、楽しいことをしたいがために組んだものではないから、またそれが結果的に「楽しめた」ことには自分自身手ごたえを得ることが出来たししっかりと確認も出来たので、それは自分にとって間違いなく良い練習だった。



でも、「良い練習」というのを「楽しい練習」とはき違えないようにしなければならないなと、あらためて自分を戒める。



バチンバチンと打つ練習は楽しいし、気持ちいい。

でも、試合で必要なのはそれだけじゃない。

ただ一人黙々と繰り返しやるサーブ練習なんかも立派な練習だけど、それを楽しめるかどうかは人それぞれだし、健常者のフットワーク練習なんかは誰もがやりたがらない辛い練習の筆頭で、それを楽しめる人は限られたごく一部だけだと思う。

練習の中には「辛い練習」「楽しくない練習」もたくさんあるはず。

筋トレや走り込みなんかはその良い例かもしれないし、台でボールを打たないメニューも多々ある。

それを「楽しめるかどうか」が、結果的に良い練習を生むものなのだろうし、最初から「楽しい」練習を求めてやるだけでは、それは単に「楽な」練習で終わってしまうことも少なくない。

そういう練習は笑顔で楽しく出来るけれど、必ずしも「手ごたえ」を得られるものではない。

卓球の難しいところは、対人競技であるが故に練習にも相手を要するということ。

もちろん一人で出来る練習も多々あるし、卓球マシンを使って一人で出来ることもある。

けれど、やはり人と打つ練習は別物で、それはとても大切で必要不可欠。

だからこそ、その相手というのもまたとても重要なもの。

単に上手い下手とか、技術の有無だけでなく、モチベーションとか熱量なんかも重要だと考える。

人を相手に練習するからこそ、その相手への配慮や気遣いも不可欠だから、その部分で価値観がそぐわない場合の「良い練習」というのはなかなか難しいものだろうし、逆にただ仲良しなだけではシリアスな空気の中で真摯に打ち合うというわけにはいかないものかもしれない。

ただ台についてボールを打つだけが練習じゃないのは、健常者障害者関係なく皆同じ。

昔は「練習中に歯を見せるな!(笑うな)」と叱られたものだ。

大人になるとそう注意をされる機会はもっぱら減る。

障害者の場合は世間から気を遣っていただくことが大半なので、そういう風に厳しく注意されるなんてことはオリ・パラと同じくらいかそれ以下の確立(4年に一度の意(笑))で、「厳しい」という空気感に接することはなかなかない。

だからこそ、そういう練習が出来るかどうかは自分次第じゃないかとも思う。

「類は友を呼ぶ」

というけれど、自分が求める「良い練習」があるのであれば、自分がそれに相応しいものでなければならないと思う。

そうすると、自然とそういう環境が出来上がってくるものだと思う。

一朝一夕で出来るものじゃないからこそ、そこまで自分を高めていく努力と忍耐が大切なんだろうな。

自分を磨く。

良い練習が出来るように、させていただけるように、良い練習を提供していただけるだけの価値ある存在になれるように、自分を磨く。

だからこその、毎日の積み重ね、その繰り返し。

そんな自分を「楽しむ」のだな。

すると、明日がまた楽しみなものになる。

さぁ、明日も楽しく取り組もう!