家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

金融危機への備え――貧乏性を活用する

2008年12月11日 | 我が家のスペシャルな事情
現在のこれほどまでの金融危機を予測していた人は数少ないだろう。だからこそ社会的には事前に何の備えもなされなかった。
では、予測していた少数の人は「個人的に」どのような備えをしたのだろうか。それに興味がある。

それはおいおい探るとして…

私にはいろいろと備えのようなものがある。
それは貧乏性なるがゆえの「もしも」の状況を想定した備えであって、今回の金融危機を予測して対応したものではない。
しかし金融危機はまさに「もしも」のことが現実化するような状況であるので、貧乏性人間による対策が「たまたま」有効に働くかもしれないと思っている。

私がとっている「危機対策」のようなもの
(1) 大家族主義
深刻な不況(リストラ、大幅な収入源など)になったら家族が少人数だと生活防衛に心もとない。さらに恐慌などになったら、社会的に用意されている福祉インフラがちゃんと機能するかもあやしい。いざというときに助け合える人数で日常生活をしていれば深刻な事態は避けられる。我が家は6人なので別に大家族とは言えないが、人数を多くしておきたいという志向がある。なにより結婚前から「核家族」「DINKS」というスタイルはやめておこうという明確な意志を持っていた。そして同居というスタイルを選択するにあたっては家族の性格と夫の役割について熟考した。

(2) 共働き
これも不況に対する備えになる。夫婦が同時に失職するという確率は低い。ちなみにたまたまではあるが、私達夫婦はそれぞれまったく関連がない業種に就いている。なお、共働きと大家族主義はペアで考えている。現金収入をもたらすものが一人では、かえって大家族化は苦しくなるからだ。そして子育てのこともある。平日の送り迎えとか通院などといったことは両親に助けてもらった。社会常識なども両親の存在によって子供が自然に修得できてくる。

(3) セカンドハウス   
山小屋は資金が無いゆえのセルフビルドだけれど、棲家を作るスキルを修得するという大義名分もある(笑)。自宅以外の拠点を持つという目的もあったりする。自分の空想癖にはあきれるしかないが、戦争時の疎開先確保、という相当飛躍した想像もすることはした(笑)。まあそこまではいかなくとも、恐慌とかになって治安が悪くなったら、しばらく山小屋の方で生活するというオプションが選択できるとは思っている。山のほうなら農家が近いので、いざと言うときの最低限の食料も確保しやすい(クレソンの自給というのはたいして役には立ちそうもないが)。もちろんそんなオプションが主目的ではなく、レジャー利用もあるし、仕事を引退したときの隠棲先という使い道を考えている。

(4) 多様な道具
自分達で最低限のことができるよう道具類が揃っている。いろいろ作れるミシンはとても重要な道具。そのほか、我が家は山小屋をセルフビルドしたおかげで大工道具一式がある。金づち、ノコギリ、ノミなどはずっと前からあったが今は電動工具、チェーンソーまで揃っている。父は陶芸をやるために電気炉を購入した。私のレザークラフト道具もある。こうした道具類によって大抵の日用品は家族が自前で作れるわけだ。非常時に使える七輪もあるし、火鉢もある。おまけに言えば私はサバイバルグッズの類が大好きでいろいろ所有している。

(5) 自前のエネルギー源
七輪や火鉢で使う炭を、自前の炭焼き小屋によって自給できる。材料となる竹は山小屋の周囲にたくさんあり、自由に切ってよいという地主と渡りをつけてある。また、将来薪ストーブで使うことを想定して山小屋の周囲にはコナラを植樹している。

いろいろ書けば書くほど、自分の貧乏性ぶりが浮き彫りになってくる。
だいたいこれは危機対応であるかもしれないが金融危機対応ではないことがわかるだろう。金融資産の保全というような過程をすっ飛ばしている。しいて言えばその先の世界恐慌対応モードになっている。貧乏性に空想好きが重なってエスカレートしているのだ(笑)。

勘違いしないでほしいので言っておくと、貧乏性とは基本「無駄」につながっている。「もしも」の備えがもしものままに終わって無駄になるからこそ貧乏性というわけだ。もったいないと思って処分せずに持ち続けるのも貧乏性の特徴。だから無駄にモノを多く持っている。贅沢はしていなくとも、シンプルライフとも遠い。
防災用具を使用する機会が無いほうがいいように、世界恐慌への備えは無駄に終わったほうが世の中は平和だ。社会の一員としては無駄に終わることを願っている。



さて、筋金入りの貧乏性はそれで終わらない。ここからさらに踏み込む。

そもそも貧乏性は「もったいながり」なので、無駄な配慮をするくせに無駄が嫌いという矛盾を持つ。無駄になることを想定しつつ、無駄にしないことを考える。
それにはどうすればいいか。
無駄を趣味にすればいいのである。そもそも趣味というものは生活には必要性が乏しく、いわば無駄なものだったりするわけだし。
ログハウスをセルフビルドするのも、陶芸で食器をつくるのも、ミシンで服を縫うのも、レザークラフトでバッグを作るのも、炭焼きするのも全て趣味というくくりに入れることが可能なものだ。サバイバルグッズはいっそのことコレクション化する。
ようするに趣味と実用を兼ねるというヤツ。「実用を兼ねているんだ」と言えば、趣味をしていても家族に引け目に感じることを抑えられる。外向けには「暮らしを楽しむ」というカッコイイ言い方もできる。
私はそんなことを考えながら「確信犯」的にレザークラフトという趣味に入り込み、かつ置物系、装飾物はほとんど作らず、「持ち歩いて使うモノ」ばかり作っている。まさに貧乏性が染み付いていることを自覚せずにはいられないのである。

これで、暮らしの上で無駄ではない掃除とか洗濯まで趣味に出来れば最強なのだが、なかなかそうはならないのが貧乏性的にはちょっぴりくやしいのだった。





<おまけ>
いまとなって思えば、私の少年期に貧乏性気質に拍車をかけた本
「サバイバル」 さいとうたかを作