家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

エアコン考――貧乏性ってややこしい?

2006年07月27日 | 我が家のスペシャルな事情
 エアコンをできるだけ使わずに過ごしたい、というようなことを何回か書いている。
しかし、よくよく考えると私はエアコンが作り出す環境が苦手というわけでもなく、嫌いというわけでもない。それどころか仮に効きすぎた冷房の部屋に置かれたとしても全然平気だったりする。
 それなのに、なぜエアコンをできるだけ使わずにすごしたいのか。

エコ? 電気代がもったいない? たしかにその理由はなくもない。
妻がエアコンが苦手だから? それも理由のひとつかもしれない。
風が好きで、できるだけ窓を開けておきたいから? そういった理由もあるだろう。

しかし、自分の内面を見つめてみると、根底には上記のような理由以外の、志向のようなものがあるようだ。それはどうやら自分が貧乏性であることと深く関わっている。

誰でもそうだとは思うが、不快・不機嫌になる状況はできるだけ避けたい。
夏の場合だと、暑い→不快→エアコンに頼る、という場面がある。
私の場合もその流れは基本的に同じだろう。
ただし、暑い→不快の経過に対し、自分には複雑なコダワリがある。
まず、必ずしも「暑い=不快」ではないと考えていることがひとつ。
また、暑いといっても、暑さにもレベルがあるだろうと思っていることがある。
そして少々暑くなった程度で不機嫌になるのは損だと考えているのである。

人間には「環境に慣れる」という能力がある。慣れてしまうことができたら不快さは縮小する。したがって、暑いと思った瞬間に「慣れる」能力の発動を待たずにエアコンのリモコンに手を伸ばすのはもったいないと思うのである。
不機嫌な状態に簡単に陥りにくいよう、自らできるだけ「慣れる能力」のレベルを高い水準で維持しておきたい。
それは、ほとんどの人間が我慢できない暑さまで我慢しようというわけでも、家の中で修行しようというわけでもない。そもそも備わっている慣れる能力を落とさないほどにはひとまず耐えてみようか、という程度のものである。
「暑いから即エアコン」という行動をデフォルトにしてしまうと、「暑い=不快」という認識になって、暑さを楽しむ余裕も生まれないではないかと思うし、「夕涼み」が心地よく思える能力が衰えてしまって損ではないかとも思う。
さらには、大災害か何かで電気の力を利用できないとき、暑さへの抵抗力が弱まっていてエアコンが使えないことで人より早くストレスを感じるのもいやだなあ、などという余計なことまでも思いをはせる。

単なる貧乏性っていうより、ややこしい貧乏性というべきなのだろうか。