寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

2013-07-26 07:22:41

2013年07月26日 07時22分41秒 | 日記・エッセイ・コラム

 68年後に届いた父からの手紙(20130726)

  2013年3月のある日、東京日々新聞社の記者が私を訪ねてきた。その記者は小さな箱を持参していた。挨拶が済むと早速本題に入った。
「この小包は、あなたのお父様へ一人のアメリカ人から送られたきました。私は宛先住所を訪ねましたが転居されていて不明でした。何か手がかりがこの箱の中に入っているのではないかと思いまして、申し訳ありませんが開梱させていただきました。」
 記者は箱を開けながら、さらに説明を続けた。
「箱の中には多数の武運長久を願う言葉が書かれた国旗が入っていましたが、墨で書いた文字は汗と血液で不鮮明になっていました。箱の中にはもう一品、封筒に入った手紙がありました。封筒の上書きには氏名だけが書いてありました。そしてこの箱の送り主の方の書かれた手紙が添えられていました。」
 私は、記者の話が長くなりそうなので、妻にお茶をお出しするように頼んだ。
「その手紙には、送り主の方がサイパン島上陸作戦で日本軍と激戦になり双方ともに多数の戦傷戦死者が出たのを思い出すと書いてあります。この方はある地域での戦闘で日本軍を撃破して進軍する途中で重傷を負った日本兵の何かを訴えるようなそぶりが見えたので、注意深く近づくと何かを持って手を合わせたと書いています。その米兵はそれを手にすると日本兵はお腹に手をやって何かを取り出そうとした。米兵は手榴弾を取り出すのかと思って飛び退いたが、日本兵は白い布の端を持って息が絶えたと書いています。その布はこの日の丸の旗だったのですね。
「それでそれも引き出して自分の背嚢に入れて保管し、本国に帰国したときにその他の記念品と一緒にしまっておいたそうです。そして自分も高齢になり身の回りの整理をしていたところ、これらの品が見つかった。もう自分で持っていることはないので遺族に返そうと思って遺族を探しましたが手立てがなく困ってしまった。それで我が社の記者に託したと言うことです。
「その記者も自分で探す方法がないので本社へ送って遺族にお返しするように依頼してきました。当社で八方手を尽くしてこの宛名の方を探しました。それでようやくあなたを捜し当てることができました。この手紙の差出人にお心当たりがありますでしょうか。」
 私はその手紙が私の父のものであることを確認した。日の丸の旗は記憶になかったが父のものであると思うと記者に言った。記者はその旗と手紙を持った写真を写させて欲しいと言うので妻とちょうど家に来ていた孫娘と一緒に写してもらった。それからこれを記事にしたいというので了承した。
 記者が帰った後で父の手紙を読んだ。
「正一へ。私は今南方のある島にきている。島の名前を書くことはできないが、緑が濃く、青い海がまぶしく輝き、夜には満天に星が輝いている。それを見ているとき私は戦争のことを忘れることがある。正一にもこの美しい風景を見せてあげたいと思う。今はこの島にも敵が上陸して少しずつ父さんのいる北部へ近づいてきた。毎日伝えられる報告には我が方の戦果は多大で、敵軍を撃退しているという。だが毎日同じ時刻に行われる爆撃は激しさを増しているのでいよいよ激戦の時が近づいていると考える者が多い。この島は何が何でも死守しろという命令がきている。正一へ書く手紙もこれが最後になるかも知れない。
 正一、母さんや弟妹のことを頼むぞ。小さなお前にこんな事を頼むのは酷な気がするが今は戦時中だからやむを得ない。頑張って欲しい。
 正一が大人になる頃には戦争も終わって平和な世の中になっていることと思う。そのときのために体力をつけ、勉強を一生懸命やって世の中のために働ける人間になって欲しい。父さんは、お前は理科が好きだったので科学者になるのがよいと思う。もう一度言うが、正一は偉い人にならなくともよいから世界の平和のために働ける人間になって欲しい。」
  父の手紙はそこで終わっていた。私は窓から見える青空にゆれる葉のたくさんついた梢を見上げながら父の期待に添えたのだろうかと父への思いをはせた。