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寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

記憶に残っている映画(5)「喜びも悲しみも幾歳月」

2016年01月27日 16時44分37秒 | 寓居人の思い出話

 映画を見る一つの楽しみは、撮影された場所

が、初めて見るところだっり、前に行ったこと

があるところだったりと楽しいですね。このよう

にいろいろな情報を与えてくれます。あすこに

は美味しいものが食べられる小さな食堂があっ

たとかあそこから見た風景は絶景だったなどと

思い出すかもしれませんね。

 そんな意味で私はロードムービーを見ること

がありますし、好みの映画を見ていてもあんな

ところがあるんだと楽しくなることがあります

ね。これも映画を見るときの楽しみです。

 例えば、「喜びも悲しみも幾年月」という映

画は新婚夫婦が日本各地の灯台で沖を航行する

船の安全を守る仕事をする。しかしそんな生活

の中でも悲しい出来事や嬉しい出来事が起こる。

それが人生なんだと思ったことがありました。

日本中を灯台から灯台へとめぐる転勤の連続は

苦しいことも多かったと思いますが、夫婦の深

い愛情と転勤先で知り合った清新な人たちとの

交流によって子供たちが成長するさまが素晴ら

しい映像を背景に描かれていました。

 佐田啓二と高峰秀子の夫婦役も芝居をしてい

るとは思えないすばらしい演技でしたね。

 初めに見たときは私の好みではないと思って

いたのですが、何回も見るうちにエ子の映画の

本当の素晴らしさがわかってきました。そして

思い出に残る映画の一つになりました。


学生紛争の思い出(5)

2016年01月26日 22時23分26秒 | 寓居人の思い出話

 昭和60年代に起きた学生紛争の目的は何だったの

でしょうか。社会の不平等の是正という言葉を初め

のころの学生は口にしていたように思います。これ

は私のいた大学での話ですが、学生運動に参加した

少数の学生の間でのことですから確定的なことでは

ありません。当時東大の紛争でも、東工大でも同じ

ようなことが新聞の記事になっていましたね。私が

一部の学生と話し合いをした時には、教授の人たち

はもっと学生のためになるような授業をやってほし

いといっていました。どういうことかと正しますと、

教授の人たちは学外でやる非常勤講師の仕事は休校

にしないのに本校の授業は休校が多すぎるというこ

とだと言っていましたね。私の経験でも専門の授業

のいくつかは年間5,6回授業をやって試験もなしに

評価している方がいました。最も大学の授業は当時

は自分で専門書を読んで学習するのが当たり前と言

われていましたから。何とも言えないことでもあり

ました。最も単位の取得に関する授業時間というの

は決められていました。その中では、少しうろ覚え

になってしまいましたが1回の授業、これは45分を

1時間として2時間つまり90分ないし100分間の授

業を15回やると2単位になるという計算です。さら

にそのなかには少なくとも同じ時間の自習時間が含

まれているのです。

 こういうことを考えると、文頭で書きました授業

をしっかりやってほしいというのは当然ですね。私

はそれでは必修授業を増やす方法を考えてはどうか

と言いましたが歯牙にもかけられませんでした。

 当時こんな噂も流れてきましたね。わが校で文系

校舎を占拠しているのは近隣の学生と高校生だった

というのです。したがって大学に対する要求が明確

ではないのは当然だったのかもしれません。

 他の大学でも同様したがあの頃の学生紛争では学

生側に何も得るものがなかったのではないでしょう

か。砂川闘争とか安保闘争というのはそれなりに目

的がはっきりしていたし、ある程度の成果はあった

のではないでしょうか。

 しかし、あのエネルギーは大変なものでしたねえ。

火炎瓶を投げられた時はさすがの私も怖かったです

ねえ。

 

 


記憶に残っている映画(4)「羅生門」

2016年01月26日 10時34分30秒 | 寓居人の思い出話

 中学生のころ私は校内一番の読書好きだったらしい。

家の隣棟に藁科さんという方が住んでいました。その家

には4歳か5歳年上のお兄(A)さんがいました。Aさんは

友達がいないこともあって私を相手にいろんな話をして

くれました。そしてAさんが持っていた本をたくさん貸し

てくれました。その中に芥川龍之介の全集もありました。

 芥川龍之介の小説は、一見優しい文体で書かれていま

すが内容は人間の深いところにある意識を書いていると

Aさんは教えてくれました。その翌年芥川龍之介の小説

をいくつかまとめて映画を作ったという話をききました。

映画を見たのは数年後になりますが、映画自身は深部な

どで高い評価を受けたというようなことが報道されまし

た。監督は黒澤明でしたね。黒澤明監督に事は「姿三四

郎」(2編)を見た時に父がこの監督は将来性があると

教えてくれたのが思い出されます。

 「羅生門」という映画は初めて見た時は、その真価が

解らなかったのですが重ねてみると小説の「羅生門」と

は異なる場面があったのですが、人間は自分の罪を逃れ

る(自分の都合の悪いことを隠す)ためには真実を曲げ

てしまうものだということを知ることができました。

 この映画では三船敏郎と京マチ子の姿が目に焼き付い

てしまいましたね。外国の映画特別賞を受けたりしたの

で、映画の内容は理解困難だったのですが国外での評価

は極めて高かったのですね。

 黒澤明の作品はほとんど観ましたが、どれも素晴らし

いものだったと思いました。素人の考えでは、監督が高

齢になるにしたがって娯楽性の高い作品が増えてきたよ

うですね。しかし内容は作品ごとに私には何か社会正義

という課題を突き付けているように感じました。

 


記憶に残っている映画(3)「2010年宇宙の旅」

2016年01月25日 21時41分52秒 | 寓居人の思い出話

 少し前に共同研修をしていた方が亡くなりました。

その方は病気のために骨粗鬆症になり、校庭を散歩

中に小さな石につまずいて転んで足の骨を折ってし

まいました。その方はまだ50歳くらいだったと思い

ますが、それほど骨がもろくなっていたのですね。

そんなある日、ある国立病院の方と骨粗鬆症の研究

を一緒にやる機会ができました。骨粗鬆症と診断さ

れた方の骨を少し採集していただいて化学成分率を

調べていて大変なことを発見してしまいました。そ

の話は別の機会に書きますが、骨粗鬆症の原因とし

てストレスが関係ないかを調べてみることになりま

した。ラットを使った実験では毎日定時刻に長時間

水中に泳がせていたラットと対照群のラットとの骨

を調べてみますと明らかに泳がせたラットの骨に異

常が見られることがわかりました。

 そんなとき宇宙飛行士の向井さん話をする機会が

ありましたので、実際に宇宙へ行った宇宙飛行士の

方々のストレスに尋ねました。当時そのことはNASA

でも話題になり研究する準備をしているということ

でした。

 さてここで映画の話になります。「2001年宇宙の

旅」という映画は皆様もご存知と思いますが、その後

の「2010年宇宙の旅」という映画の一場面で面白い

画面に気が付きました。というのは宇宙船から宇宙船

乗り移るときに、ある研究技術者は宇宙服の中を酸素

で満たし酸欠状態にならないようにしたにも拘らず移

乗の途中で身動きできなくなり呼吸困難状態になって

しまいました。仲間によって救助されて事なきを得ま

したが、恐怖というストレスで生命の危険な状態が出

来したのですね。この場面を私は忘れることができな

くなってしまいました。もともとこの映画は、月で発

見された”モノリス”という謎の碑のようなものの正体

を明らかにするという設定だったと思いますが、製作

者はこんな細かいところまで調べていたのですね。私

にとっては思い出に残る映画となりました。

 蛇足ですが、最近の宇宙飛行士はどうかわかりませ

んが、宇宙遊泳をするときに宇宙服を着て酸欠になら

ないように酸素シャワーを1時間以上続けるというこ

とを聞いたことがあります。地に足がつかないという

のは人間にとって最大のストレスになるのでしょうか

ね。

 宇宙の旅シリーズは小説でも都合4本存在します。

最終的には進化の過程で逃走的な部分が強調されてし

まった地球人類を抹殺して、木星を太陽にして衛星の

エウロパに発生していた生物の進化を待つという設定

になっていました。広い意味では人類の現状に警鐘を

鳴らしたということでしょうか。

 


学生紛争の思い出(4)

2016年01月23日 21時36分19秒 | 寓居人の思い出話

 文系学部の校舎が占拠されてしばらくすると全共闘

系の武闘派の学生の一団が理学部教授会になだれ込ん

できました。すると近くに待機していたらしい全学連

系の学生がすぐ会議室へ入ってきて前者を追い出しま

した。

 そのとき逃げまどっていた強硬派の学生が玄関の屋

根に追い詰められましたが、彼は高さ6メートルほど

のところを飛び降りて怪我をした様子を見せずに校門

のほうへ逃げていきました。彼は空手部に入っていた

とかで運動能力も高かったのでしょうね。

 私はその少し前に、手ぬぐいで顔を隠していた彼と

対面したことがありました。そのとき彼は細長い金属

製の棒を持っていました。私が説得していたとき、彼

は突然その金属製の部を私の顔面めがけて突き出して

きました。私は身を引くこともできず、彼をぐっと睨

みつけました。その勢いに押されたのか棒は私に僅か

に届かなかったのです。彼は”お前は怖くないのか”と

激しく迫ってきましたが、私は”私は戦争中空襲で何

回も死にそこなってなってきたんだ、こんなことぐら

いで驚くか”と大声に叫びました。彼はたじろいで引

き下がっていきました。その後、彼は私の姿を見ると

身を隠すようになりました。

 私も熱かったのですね。危うく自治会系学生の二の

舞になるところでした。君子ならぬ身の悲しさ危うき

に近寄ってしまいました。


記憶に残っている映画(2)「生きていた男」

2016年01月22日 15時36分13秒 | 寓居人の思い出話

 映画はどんなものでも面白いと思いますが、私の見

ない種類の映画があります。というより私が好んで見

る映画は、時代劇、スリラー、これらは父の好みと同 

じです。そしてSF映画です。他のジャンルの映画を全

く見ないということはないのですが、ほとんど見ない

ジャンルは恋愛が筋の中心になっている映画いわゆる

メロドラマですね。それとドタバタお笑いに終始する

喜劇映画です。

 さて、今日紹介するのは「生きていた男」という題

名の映画です。この映画は、ある富豪の資産を受け継

いだ兄妹の兄が交通事故で死亡したために、妹が莫大

な財産(宝石)独り占めして優雅な生活をしていた。

ある夜のパーテーに最中に兄であるという男に出会う。

妹はいろいろ確かめるが、すべての適切な答えをした

男を海岸線の危険な道路を3分間で走れるかと試すこ

とを考えついた。男は危険なカーブの連続した道路を

時間内に走り抜けた。妹はそのほかにもいろいろ試し

たが男はすべてクリアしてしまった。妹は追い詰めら

れて、その男が兄であることはあり得ない、兄の死因

を知っているからと叫んだ。周りにいた男たちは警察

官だったのだ。これ以上内容を書くのはもしかしてこ

の映画を見たいと思う方がいるかもしれないのでよし

ますが、心理的に追い詰められていく妹の変化が面白

く見ごたえのある映画でした。しかし疑問点もありま

した。妹はなぜ庭で出会った男を兄かもしれないと思

ったのだろうかということです。これは......

 少しずつ追い詰められていく心理の変化過程が面白

かったですね。 


記憶に残っている映画(1)「青い大陸」と「世界残酷物語」

2016年01月21日 20時59分53秒 | 寓居人の思い出話

 私が学生のころ住んでいた品川区大井町には国鉄大

井町を中心に6館の映画館がありました。その映画館

では週替わりで通常2本立てで映画を上映していまし

た。当時は映画全盛だったのですね。その他に通常の

映画上映が終了すると、古い映画、例えば「カサブラ

ンカ」とか「外人部隊」などを深夜映画として安い料

金で見せていました。

 私の両親は、ラジオで落語とか浪曲を聞くくらいで

趣味らしいものを持っていませんでしたので、よく映画

に行きました。時々は私もいっしょに行きました。

 そんなわけで私も映画を好きになり、たくさん映画を

見ました。これまでに見てきた映画で今でももう一度見

たいという映画について書き残しておこうと決めました。

しかし古い話ですから筋書きはあいまいなところがある

かもしれませんがご容赦願います。

 初めに前にブログに書きました「青い大陸」という映

画です。その映像の美しさに心を奪われましたね。世界

にはこんなにきれいなところがあるのかと感動しました。

 その感動は今でも思い出します。その後に「世界残酷

物語」という映画を見ましたが、世界の地域が違えばこ

んなに風習が違うものかと別な意味で感動しました。この

映画はあとになっていわゆるやらせだったと知りましたが、

世界各地の風習や習慣をある程度知ることができましたね。

 例えば風葬の場面がありましたが、もちろんやらせだっ

たのですがすざましいものでした。しかしよく考えると、

水や燃料(薪)が不足している地域では死者を自然に返す

というのは合理的かもしれないと思ったものでした。この

考え方は少なからず不遜だとは思います。でも日本でも風

葬をつい最近までやっていたところがありました。さすが

に現今はやっていないと思いますが。私は終焉を迎えた時

には骨粉を海に流してほしいと思っています。これは一種

自然葬と言えるかもしれませんね。 


学生紛争の思い出(3)

2016年01月21日 14時18分13秒 | 寓居人の思い出話

 1969年、私のいた大学でも全共闘の学生?に占拠

されてしまいました。それまでにも占拠の兆候はあっ

たのですが現実のものになるとは思っていませんでし

た。ある学部の教授会の中に乱入して何か訳のわから

ない要求と称するものを拡声器でがなり立てて教授会

を妨害したり、対立していた自治会系の学生の目を鉄

の棒で突いて失明させたりもしました。

 ある日出勤すると校舎に入れず困っていると、前に私 

に助けられたという学生が来て、当分の間校舎を占拠す

ることになったと教えてくれました。何か持ち出したい

ものがあったら、私と来てくださいと言って研究室へ連

れて行ってくれました。研究室には危険な薬品や高価な

装置・器具がありましたが一応当時暗室として使ってい

た部屋に隠してローカに大きな戸棚をおいて入り口をわ

からなくしておいたので安全だったことが確認できまし

た。校舎の占拠は6月頃から半年以上にわたり継続されま

したので、授業は年度いっぱい行われませんでした。

 校舎を占拠されていた文系学部の卒業予定の学生はどう

処理されたのかは記憶にありません、理・工学部の学生は

通常通りに卒業したと思います。

   

      

   

 

  研究室は写真の通り荒らされてはいましたが、化学科の

学生が頑張って管理をしていたようで予想していたよりは

良い状態でした。一人分の寝床がありました。

 屋上にはレンガの破片や砂利などが大量に置かれていま

した。最後の写真は機動隊が突入しようとしている場面で

す。この日のうちに校舎は解放されました。

 

 


学生紛争の思い出(2)

2016年01月20日 22時17分12秒 | 寓居人の思い出話

 1955年、米軍立川基地の拡張計画が明らかになり

予定地域な愛の住民が反対同盟を結成した。この人

たちに労働組合員が支援した。そんなことが起きて

いることを全く知らなあい私は、1956年大学に入学

した。

 大学生も砂川支援に駆けつけようと学内で盛んに勉

強会を開いていました。授業開始時刻を少し遅らせて

もらってクラス討議をしている最中に、数人の自治会

役員と称する人たちが入ってきて話を始めました。

 クラス委員が今討論中だから出ていくように要求し

ましたが、彼らは話を中止しませんでいた。そこで全

員で取り囲んで教室から追い出し、討論を続けました。

結果は、全員で行くのは個人の考え方があるから止め

て任意で行くことになりました。クラスの半数近くの

学生が砂川へ行ったと思います。

 そして、1956年10月の闘争では千人を超す負傷者が

出たが、予定地の地権者23人が買収を拒否し続けたまし

た。私も1回だけ砂川へ行きました。何処からこんなに

たくさんの人が集まってきたのかと驚いたほどものすご

い数の人たちが集まってデモ行進をしていました。この

紛争は約10年ほど続きましたが、1968年に米軍が基地

拡張を中止し、さらに翌1969年日本政府も閣議で拡張計

画を中止を決めて拡張計画は終焉を迎えました。その後

立川基地は1977年に全面返還されました。

 これが私が初めて参加した学生運動でした。そして一

般市民が結集して行動し、政府の計画を阻止した歴史的

な事件になりました。

 

 


学生紛争の思い出(1)

2016年01月20日 15時07分36秒 | 寓居人の思い出話

 1960年代後半になると安保闘争の尾を引いた形で

学生運動盛んにが始まりましたね。この騒動では、初

期には今思うと目的がはっきりしないことやこんなこ

とを言うと叱られかもしれませんが思想闘争の様子は

見えませんでした。何か付和雷同といった形で学生た

ちが集まって騒ぎを始めた感じでした。もちろん騒動

の中心になった大学では何かの目的で教授会メンバー

と交渉していたようです。

 やがていろいろな団体同士の勢力争いの様相を呈し

てきました。そんなある日、校内のエレベーター前で

一人に学生を十数人で取り囲んでつるし上げていると

ころに出くわしました。暫時様子を見ていると取り囲

んでいた多数の学生が中の学生に対して足蹴にしたり

おかしなことに体のあちこちをつねったりしているの

に気が付きました。中の学生は悲鳴を上げ、壁を掻き

むしっていました。壁はその学生の血糊のついた爪痕

がたくさん付いていました。さすがにその光景を見逃

すことができず私は学生の間に割って入り中の学生を

救出しました。周りの学生がぶつぶつ言っていました

が、これ以上はやり過ぎだと言って説得しました。

 暴行を受けていた学生は後に全共闘系の団体に入っ

ていることがひょんなことからわかりました。

 そんなことがあって私は封鎖されていた校舎にとが

められずに出入りすることができました(苦笑)。

 研究室に入っても仕事をできるわけではなかったの

ですが、危険な薬品は見つからないように避難してあ

りましたが万が一持ち出されてないか心配もありまし

たので時々は研究室へ入りました。薬品は持ち出され

た様子がなかったのが幸いでした。