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寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

記憶に残っている映画(13)「花岡青洲の妻」

2016年03月02日 14時04分24秒 | 寓居人の思い出話

 「花岡青洲の妻」という映画は花岡青洲を中心にそ

の妻加恵、青洲の母そして兄弟姉妹の協力によって世

界で初めて麻酔剤を使用して乳がんの手術をした人物

として描かれた、有吉佐和子の小説を1966年に映画

化した作品です。

 スタッフ 監督(増村保造)、脚本(新藤兼人)

 キャスト 花岡青洲(市川雷蔵)、妻加恵(若尾文

子)、青洲の父親(伊藤雄之助)、その妻於継(高峰

秀子)、加恵の乳母(浪花千恵子)、語り手(杉村春

子)、他です。

 話は、加恵が乳母にせがんで見に来た於継の美しさ

に憬れるところから始まります。そのころ青洲は京で

本堂の勉強をしていました。その学費を稼ぐために、

姉妹達が食べるものも惜しんで機織りに精を出してい

ました。青洲の母親於継は、妹尾家へ青洲の嫁に加恵

をぜひにもいただきたいと談判に行きます。妹尾家の

当主は、突然の申し出に大いに戸惑いますが、乳母の

口添えで加恵の意思を聞いたうえで返事をすることに

しました。加恵はもともとあの美しい人の家に嫁入り

することを夢見ていたので、両親の心配を振り切って

花岡家に嫁ぐことにしました。

 結婚式には婿がいないばかりか、飲んだくれた父親

の自慢話を聞かされて心細い気持ちになっていました。

花岡家では相変わらず青洲の学費稼ぎのために総動員

の態勢で機織りが続けられています。加恵もまだ見ぬ

夫のために機織りをするようになり、おんぼ日傘で育

った身にはつるしい日々が続きます。そしてひどい雨

の日に青洲が都から帰ってきましたが、加恵を除いた

家族が青洲の話に喜んでいた。

 青洲は外科を中心に治療を始めますが、生身を切る

手術を改良するために、マンダラゲ(毒草)の煮出し

汁をネコに飲ませて効き目を調べていました。月日が

経ってネコの実験が成功したが、人間に対しての効き

目が現れる量が全く不明だった。結局妻の加恵が数回

の人体実験を引き受けて麻酔剤の効果と使用量が明ら

かになり、折よく乳がん患者が来たので試すことがで

き成功した。こうして施療所(病院)は繁盛していき

ました。そのころには、加恵の体は麻酔剤の副作用で

目が見えなくなっていました。

 青洲は施療所の区画を整理し下水道も作って近代的

な病院づくりに貢献したのです。

 この映画は、私のゼミの合宿で学生たちに見せると

モノクロ映画ということもあり、初めはあまり興味を

見せませんでした。しかし話が嫁姑の争いが激しくな

ると真剣に見るよ映画が終了することには目に涙を浮

かべるものも出てきました。

 映画の中ではとにかくよく雨が降っている場面が印

象的でしたね。原作の小説はは多くの場合映画よりも

面白いことが多いようですが、この映画はモノクロと

いう表現でネコを実験に使う場面は迫力も感じられま

した。

 加恵の実家は、紀州藩主が参勤交代で江戸へ向かう

折に第1番目に泊まる本陣であったということです。

そのような家柄の娘を嫁にほしいという青洲の母親は

どんな評判だったのでしょうかねえ。


記憶に残っている映画(12)「風の谷のナウシカ」

2016年02月22日 13時53分15秒 | 寓居人の思い出話

 「風の谷のナウシカ」映画を見る前、私はど

うせ子供向きの楽しい漫画動画だと思っていました。

それでも時間に余裕があったので見てしまいました。

かわいいらしい少女が出てきて楽しい映画だと思いま

した。しかし、映画が進むにしたがってこれは単なる

面白いだけでなくいろいろなテーマが隠されているこ

とがわかってきました。

 時代設定は1000年後ということになっています。

世界は「火の7日間」と呼ばれるようになった最終戦

争後の話です。現代人から見れば不自由な?(もしか

したら本当の意味での自由な世界かもしれませんね)

不自由というのは物質的なことですが、人々は精神的

にはのびのびとした暮らしを送っていました。ある飛

行機事故が発生するまでは。事故で墜落した飛行機に

は、「火の7日間」で使用された最終兵器が積んであ

りました。この最終兵器を探しに来た軍隊が現れてか

ら人々の平和な暮らしは一変してしまいました。そし

て次々に行われる環境破壊。そしていろいろなことが

原因となって発生したと思われる「王蟲」(オウム)

の子供が軍隊によって殺されていくのを必死になって

阻止しようとした風の谷の住人達、さらに軍隊は風の

谷の秘密の宝物?のことを知り、それまでも奪おうと

風の谷の破壊を辞さない様子を見せてきたとき、王蟲

と意思を通じることができるようになっていたナウシ

カが王蟲の力を借りて軍隊を追い返し、風の谷に再び

平和を呼び戻すことができたという内容です。

 これが思想的には子供には難しいと思いましたが、

平和ということは何にも代えがたい大事なものである

ことを子供に伝わったかもしれませんね。

 現代のようにTVドラマでも映画でも1本の作品の

中でどれほどの殺人が行われるかを考えると社会の風

潮が殺人について道徳的に鈍感になってきているので

はないかと危惧しています。

 


記憶に残っている映画(11)「ファンタジア」

2016年02月13日 21時55分35秒 | 寓居人の思い出話

 私が大学へ入学たころだっと思いますが、友人

の紹介でクラシック音楽に興味を持ち始めました。

前にも書きましたが、サラサーテの”ツゴイネルワイ

ゼン”やサン・サーンスの”序奏とロンドカプリツオ

ーソ” 演奏はヴァイオリン独奏がヤッシャ・ハイフ

ェッツ、スタインベルグ指揮のRCAビクター交響楽

団の演奏のレコードを聴いたのが初めですでした。

ハイフェッツの演奏は私の心を震わせました。

 ちょうどその頃に日比谷有楽座(もしかしたら日

比谷劇場かもしれません)という映画館でデイズニー

製作の「ファンタジア」という映画が封切されまし

た。この映画には8曲のクラシック音楽が演奏され

ました。演奏される音楽に合わせてデイズニー得意

の動画が画面いっぱいに動き回るのです。これはも

う私を大学生であることを忘れさせて夢中にさせま

した。悪戯好きの魔法使いの弟子がどんどん増えて

いくそうして手が付けられなくなってしまいます。

この映画で演奏された曲目は下記のとおりです。

1.トッカータとフーガ二短調

2.組曲「くるみ割り人形」

3.魔法使いの弟子

4.春の祭典

5.田園交響曲

6.時の踊り

7.禿山の一夜

8.アヴェ・マリア

 この映画は1940年に制作されたということです

が、太平洋戦争が勃発したために日本での公開は終

戦後しばらくたってからということになりました。

1940年当時にこんな映画を製作できたアメリカと

いう国のすごさみたいなものを感じました。

 いずれにしても私とクラシック音楽を固く結びつ

けたのはこの映画だったかもしれません。


記憶に残っている映画(10)「渚にて(On the beach)」

2016年02月11日 20時51分46秒 | 寓居人の思い出話

 世界は2大勢力によって冷戦状態に陥っていた。次

なる戦争のために両陣営は核兵器の生産と貯蔵に明け

暮れていた。映画の筋では、1964年に第3次世界大

戦が勃発した。その戦争では生産備蓄されていた核兵

器が使用された。その結果北半球は放射能のために絶

滅してしまった。そして死の灰は南半球に迫ってきた。

そこへ生き残ったアメリカのタワーズ(グレゴリー・

ペッく)艦長率いる原子力潜水艦(ソーフィッシュ号)

がオーストラリアのメルボルンへ入港した。

 ある日、アメリカのサンデイエゴから発信された無

線信号が入電した。もしかしたら生存者がいるかも

しれないとソーフィッシュ号が調査に出港した。途中

サンフランシスコ(ロス・アンジェルス?)に入港し

たがそこは死の静寂が支配している市街が潜望鏡から

見えるだけだった。出身地に戻った乗組員の一人が泳

いで上陸してしまい、もうソーフィッシュ号には戻ら

ないというので、艦長はサンデイゴに向かったが窓の

ブラインドの紐が無線機に引っかかりその紐を風に揺

れるたびに無線機をたたいているのだった。メルボル

ン港へ帰港したが、オーストラリアの都市も次々と居

住できなくなった。ついにメルボルンにも死の灰が迫

り、人々は配られた自殺薬で死んでいった。ソーフィ

ッシュ号はアメリカへ向かって出向していった。タワ

ーズ艦長と恋仲になったモイラ(エバア・ガードナー)

は潜水艦いやタワーズ船長をいつまでも見送った。

 この映画を見て戦争のむなしさを改めて深く感じま

した。この映画はフィクションですが、いつどんな事

情で大きな戦争の原因になるかもしれませんね。今、

いわゆる大国は大量の核兵器を保持し、発展途上国の

いくつかの国も核兵器の開発をしています。

 私は、人間はもっと賢い生き物だと信じていますが、

この映画が一つの教訓になればいいと思っています。 


冤罪 というほどのことでもないのですが

2016年02月06日 20時39分03秒 | 寓居人の思い出話

 自分がやったのではなく仲裁に入っただけなのにそ

れを見ていた周囲の人があいまいな証言をしたために

罪に問われてしまうということはよくありますね。映

画やドラマでは計画的にある人を現場に呼び出して罪

を押し付けるなどという設定が良くあります。裁判で

も現場に残っていた指紋や毛髪などが決定的な証拠と

なって有罪となってしまう。

 こんな大きな事件にはならなくても冤罪?というの

は日常でよくおきることのようですね。私はある日、

囲碁仲間と食事をしようと3人で出かけることにしま

した。もう一人最近(当時)不幸があって落ち込んで

いると噂の人(A氏)がいましたのでその人も誘うこと

になりました。しかし当日風雨が激しくやむなく中止

にしました。最後に誘った人に人には他の人に連絡を

頼みました。しかし何かの都合ができて、連絡できな

かったようでした。

 その後A氏は私に対して何かおかしい態度を取るう

ようになりました。どうも私がA氏を外して食事に行

ったと思ったようです。しかし私は全く原因がわから

ず変な人だなあと思っていました。これもある意味で

は冤罪ということになるのでしょうか。

 もう一つの例は、もうずいぶん古い話ですが今でも

あるかもしれない出来事なので書きました。それは高

校1年の時のことです。英語の時間に私の席の後ろの

人が隣の人と授業中ずーっと喋っていてうるさかった

ので私が後ろを向いて静かにしろよ、と注意した時に

先生がこちらを見たのですね。おそらく前からうるさ

いと感じていたのでしょう。つかつかと私のところへ

来て静かにしなさいと注意しました。私が後ろを向い

ていたので私がおしゃべりしていたと思ったのでしょ

う。そのとき先生に事情を説明すればよかったのかも

しれませんが黙っていたために私が責任を取ることに

なってしまったのですね。先生は私の説明を素直に聞

いてくれたかどうか分かりませんが、これも些細なこ

とではありますが冤罪?と言えるのかもしれません。

 小さなことでも事情を調べて判断しなければこんな

ことが原因になって人付き合いがうまくいかなくなる

ことがあるようです。


記憶に残っている映画(9)「河童大将」

2016年02月05日 21時31分18秒 | 寓居人の思い出話

 机上の空論とか畳水練とかいう言葉がありますね。

役に立たないとか無駄な努力をするといった意味で

しょうか。

 1944年8月31日に公開(?)された「河童大将」

という映画の中で畳水練を巡って議論が行われました。

それは隣国との戦いに勝利するためには、敵にきずか

れずに境界の川をいかにして渡るかという目的で水練

の方法を決めるためでした。

 私が国民学校2年生の時に、父と行った人形町にあ

った映画館で見た映画ですから記憶も明確ではありま

せん。全員が一斉に対岸に渡河できた畳水練側が全員

で敵を攻撃することができ勝利を手にしたというスト

ーリーだったと思います。

 今思うと、遠回しに戦争を遂行する軍部を揶揄した

映画だったのかもしれません。つまり相手方の情報を

ほとんど知らずにやみくもに戦争を仕掛けたことを皮

肉ったのでしょうかね。よく上映を許可されたと思い

ます。時代劇ということで胡麻化すことができたのか

もしれませんね。


学生紛争の思い出(6)余聞

2016年02月03日 10時47分21秒 | 寓居人の思い出話

 学生紛争が真っ最中の話です。事務職員の方々は仕

事をする事務室はなく、したがって仕事もなく気の毒

な状態でした。日がな一日新聞を読んだり付近を歩い

たりして過ごしていました。読書をしている方もいま

した。

 そうした人の中に当時私と棋力が同じくらいの人が

いました。学生による校舎占拠期間中彼は囲碁の本を

たくさん読んでいたようでした。それで校舎が解放さ

れてしばらくしてから碁を打ったところ全く歯が立た

なくなっていました。

   ふとこんなことを思い出しました。

 

 


記憶に残っている映画(8)「東京物語」

2016年02月02日 22時05分33秒 | 寓居人の思い出話

映画を見ていてジワーッと心の中に暖かいものが湧き

上がってくることがありますね。小津安二郎監督の作

品「東京物語」はそんな映画でしたね。

 この映画に描かれていいた親と子供たちとの関係は

今でも相通じるものがあるようです。親だから許して

もらえるという甘え(あるいは私たちはもうお大人に

なった)といったものが表面に出てきてしまうのです

ね。小津監督は日常生活の中で不通に起きている些細

な出来事を丁寧に描いているようでした。

 晩年を迎えた尾広島県尾道に住んでいた老夫婦が遠

い東京に住んでいる子供たちを訪ねた旅だったのです

が、子供たちはそれぞれ仕事を持っていてゆっくり話

もできない状態でした。ところが戦争で亡くなった次

男の妻(紀子;原節子)が温かく迎えてくれました。

笠智衆の演じる父親の姿は、体調を崩して私の家で療

養していた私の父に通じるものがありました。

 東京から帰って数日後の母親が危篤状態になり、子

供たちは駆けつけた翌朝遠くに旅立っていった。葬儀

が済むとこどもたちはそそくさと東京へ帰ってしまっ

たが、紀子は残って義父や自助をなぐさッメタ。そん

な折に義父が義母の形見として時計を紀子に渡した。

 尾道の素晴らしい風景が心暖かい紀子の姿に重なる

と私には感じられました。前に書いた私の好きな映画

のジャンルには入らないものですが、この映画は数回

見てしまいました。それほど私に強う印象を植え付け

たのですね。

 昨今の映画やドラマは安易に殺人事件を絡ませてい

るような気がします。「東京物語」に様な作品が作ら

れることを希望しています。


記憶に残っている映画(7)「箱根風雲録」

2016年01月29日 15時03分09秒 | 寓居人の思い出話

 現在の箱根は一大観光地となって日本はおろか世界

の国々からくる観光客の日本で行きたいところの一つ

になっているいますね。しかし芦ノ湖の西北部湖尻に

ある箱根用水取水口という場所はあまり目立たないの

で知られていないかもしれません。

 湖尻にある箱根用水取水口というのは、徳川四代将

軍家綱の時代に浅草の商人友野与右衛門が地元農民と

夜盗一味そして島原の残党などが工事に協力して、今

の三島付近の水不足で苦しんでいた農民のために芦ノ

湖の水を引く掘削情事を行った。徳川4代将軍の役人

は将軍家の威光にかかわるとしてあらゆる工事妨害を

したがそれを乗り切って完成させた。この工事は丹那

トンネル工事に相当する工事と言われています。

 この箱根用水工事の様子を描いた「箱根風雲録」は

私に大きな感動を与えてくれました。原作は高倉輝

(1891-1986)の書いた小説「ハコネ用水」理論社

(1951年)です。私は原作を読んでいませんが探し

て読んでみたいと思っています。

 この映画ではもう一つ面白いエピソードが合うよう

です。それは女優飯田蝶子さんがオーデションに応募

した時あの容貌で落とされるところだったのですが、

美人ばかりでは映画にならないだろうと啖呵を切って

採用されたというのですが、違う場面だったのかもし

れません。

 さらに蛇足ですが、最後のシーンで島原の残党の頭

が幕府の役人に追い詰められて最後を悟ったときに、

一面のススキの原の中で一刀を一閃した。ススキの穂

先が夕日の中に舞い上がってキラキラと散り落ちる光

景はすばらしい映像として私の記憶に残っています。


記憶に残っている映画(6)「80日間世界一周」

2016年01月28日 19時43分07秒 | 寓居人の思い出話

 各地を巡る旅の映画といえば、1956年アメリカの

映画製作会社が、フランスの作家ジュール・ヴェルヌ

の小説(1872年)を映画化した「80日間世界一周」

が有名ですね。この映画で使われた乗り物は、次の通

りです。

ロンドン→スエズ(鉄道と蒸気船;7日間)

スエズ→ボンベイ(蒸気船;13日間)

ボンベイ→カルカッタ(鉄道;3日間)

カルカッタ→香港(蒸気船;13日間)

香港→横浜(蒸気船;6日間)

横浜→サンフランシスコ(蒸気船;22日間)

サンフランシスコ→ニューヨーク(鉄道;7日間)

ニューヨーク→ロンドン(蒸気船、鉄道;9日間)

 この旅行の間にいろんな出来事が発生しますが、

各地に滞在中に観光?名所は特別なところがたくさ

ん見られました。

 時代考証は詳しくやっているのでしょうが正確か

どうかは別にして楽しめましたね。

 昨今、新聞広告などに大型客船によるクルージン

グの宣伝がたくさん出ていますが、旅の日数は10日

くらいですが旅行費用は数十万円から数百万円まで

とかなり高額になりますね。それでも予定人数を上

回る参加希望者がいるようで結構な話ですね。

 私も家内が希望すれば出かけてみたいと思ってい

ますが旅をあまり好まない家内は返事を濁していま

す。