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寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

好物のスウィート・小豆菓子

2016年01月19日 21時41分41秒 | 寓居人の思い出話

 私の父はかなりひどい愛煙者でしたが、酒は飲むの

を見たことがありませんでした。と言って甘いものを

好むということもなかったと思います。職人としては

少々珍しい人だったようです。しかし、母の話による

と同業者仲間との付き合いはうまくやっていたという

ことでした。

 なぜこんな話になるかというと私が大の小豆(あん

こ)が好きなのはどうしてなのかとフト思いついたか

らです。何しろ私の小豆好きは類を見ないほどです。

甘味が好きと言っても、洋菓子の類はどんなに美味し

いからと勧められてもめったに口にしません。酒類は

少し前までは付き合い程度は口にしましたが、今は体

調を考えてほとんど飲みません。大酒を飲んだ記憶は

与論島で世論憲法といって4合入りの大杯を一気に飲

んだことがあります。通常はワインを時々飲んでいま

したが、それも今は戸棚の中に寝かせてあります。

 しかし、小豆の入った甘みは我慢することができま

せん。これを書いているうちにある日食べたぼた餅の

ことを思い出しました。それはまだ物が不足状態にあ

った頃の話です。近くの方からそこのお子さんの誕生

日だから作ったといってぼた餅を持ってきてくれまし

た。それはゆるく炊いたあんこがおまじないほど塗っ

てあるだけでした。母が作ったものとはまったく異な

るものでした。それ以来あんこに拘るようになったの

だと思います。

 隣町の団子屋さんで売っていた小豆の中に埋もれて

いた団子が懐かしく思い出されます。今自分で作るぼ

た餅はあんこをたっぷり付けたものにしています。妻

は餅を食べるのか小豆を食べるのかわからないといっ

ています(苦笑)。 


21年前昼時のTV放送を見ていました

2016年01月17日 21時23分18秒 | 寓居人の思い出話

 21年前の1月17日、私は柿田の湧水を見に清水市

を訪れていました。清水市は大分前に国際アパタイト

学会とい開催されて発表のために訪れたことがありま

した。その時は市内を見て回ることをしませんでした。

 それでそのときはは柿田の湧水などを見て回ること

にしました。あちらこちらを見て回るので車で出かけ

ました。往路は東名高速道でいきました。午前中は柿

田の湧水をかなり詳細に見て回りました。そして昼食

は三島で有名なウナギ専門店へ行きましたが、観光バ

スが数大駐車場に止まっていて、店内ははげしく混雑

していました。注文したうな重が来るのを待っている

間、見るともなしにTVニュースを見ていましたら突然

画面が変わり緊急事態の真っ最中である映像が繰り返

し映し出されました。アナウンサーの話を聞いている

と兵庫県の南部つまり神戸市で大きな地震が発生した

と言っていました。そういえば明け方小さな地震があ

ったのを思い出しました。

 TV映像で見える神戸市内の様子は、火災発生はなく

高速道路が長区間にわたって転倒していた。当時の社

会党の村山富市首相は情報収集が遅れたことで的確な

判断ができなかったと後の国会で追及されました。

 あれからもう21年が過ぎたのですね。

 復路は箱根を越えるルートを取りました。峠付近ま

では順調でしたが、雲行きが怪しくなり雪が降り始め

ました。下り坂ではひやひやしながら慎重に運転しま

したので無事小田原についた時にはホッとしました。

 この地震では後になってから処々で火災が発生し、

そのために多数の犠牲者が出ました。また日を追って

犠牲者と損害が大きくなっていきました。犠牲になっ

た方々には改めてご冥福をお祈りします。


小笠原諸島母島の思い出

2016年01月16日 22時11分46秒 | 寓居人の思い出話

 東京から約1000Km南方にある小笠原諸島のうち一

番南にあるのが母島です。1968年接収されていた小笠

原諸島が日本に返還されました。その後行政的な整備が

済んで小笠原復興計画が閣議決定されました。小笠原全

域測量が行われ、それに伴って学術調査も可能になりま

した。私はその時便乗して学生7名を連れて小笠原に調

査?のために行くことができました。

 その時には一般住民がかなりな数いました。船着き場

近くにはスーパーのようなものとか商店が結構ありまし

た。朝昼夕の食事は村役場の食堂でいただきました。宿

舎はプレハブの作業小屋(畳部分32帖)を使わせてもら

いました。調査機関は乗ってきた船便が本土に戻り再び

小笠原にきて本土へ帰るまでの約10日間となりました。

 調査は海水の標準的な検査と微量元素の分析、父島周

辺の底生魚の内臓に含まれる微量元素の分布を調べるこ

とでした。調査結果の一部は、小笠原年俸に報告しまし

た。

 さてそのとき、父島だけでなく母島にもいくことがで

きました。当時、N工営という会社の人たち数人が母島

の測量をしていました。

 母島にはまだ一般人は済んでいませんでしたのでひっ

そりとしていました。そんなある夜みんなで港から離れ

たところの海岸へ行きました。そこは直径15-20㎝程

の玉石がごろごろしていました。そこで寝転んで空を見

上げていましたら、ほぼ南北に人工衛星が飛びすぎたり

流星がたくさん見えました。初めは風の音がさやさやと

タコの木を揺らしていました。少し時間がたつと、ころ

ころと心地よい音が聞こえてきました。しばらく聞いて

いましたがこの音はどこから聞こえてきたのかと探すと

その音は足元の海の中なら聞こえてくることに気が付き

ました。

 わずかな潮の満ち引きの海水によって玉石が転がり落

ちる音が海面に反響して心地よい音になっていたのです

ね。自然の中にはこのように人の心を癒してくれる現象

があるのですね。小笠原にはたくさん思い出があります。

ときどきそれらを書いていきたいと思います。

 


となり組

2016年01月13日 23時19分10秒 | 寓居人の思い出話

 贈与ということで思い出したことがあります。70年

以上前の戦争中のことでしたが、町内会という組織が

あって、食料も物資もないという時代に政府主導?で

組織されたもので隣組の歌までありました。

 トントン トンカラリと 隣組

 格子をを開ければ 顔なじみ

 廻して 頂戴 回覧板

 知らせられたり 知らせたり

 隣組では夫や息子が出征していった家を全員で見守る

ということが日常的に行われていました。例えば夕飯の

お菜を少し余分に作ってお裾分けと言って差し上げる。

 よい習慣だったと思うのですが、現代に当てはめると

どうなるでしょうか。そのようなことは私の住んでいる

地域では滅多にありませんねえ。むしろお裾分けで差し

上げると、相手方に何か負担をかけてしまうというので

しないようです。

 モノのなかった時代には、例えば食べ物の好き嫌いと

いうのはほとんどありませんでしたが昨今は家族の中で

も好き嫌いがあってお菜を作るのも大変になってしまい

ました。何か寂しい感じがしてしまうのは年の所為でし

ょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


しもやけとカラス瓜の思い出

2016年01月11日 20時46分26秒 | 寓居人の思い出話

 宮城県の山村に住んでいたころ、冬になるとしもやけ

で手足の指が赤くはれいたかゆくて困ったものでした。

当時と今日の村山から移住してきた人の中にいろんな生

活の知恵を豊富に持っていたおじいさんがいました。あ

るとき赤くはれた私の手を見て、

「しもやけがひどくなってしまったな。しもやけにはカ

ラス瓜の種の周りについているぬるっとしたものをつけ

るといい」

 と教えてくれた。もちろん私はカラス瓜がどんなもの

か知らないというと、おじいさんは紙に図を描いてくれ

た。そして下のほうに枝のない太い木に絡まつつる草の

一種で、今頃はミカン色か赤色のこぶし大のみがぶら下

がっているからすぐわかると教えてくれた。

 私は親に断ってすぐその実を探しに近くの杉林に行っ

た。杉の木に枯れたつる草のつるが見つかり赤い実が2

個か3個ぶら下がっていたので近くにあった杉の枯れ枝

でその実をとった。

 家に戻ってその実を割いて種を取り出して種ごと手に

塗り付けた。毎日それを行って3,4日が過ぎた頃、手に

変化が現れた。手の甲の赤みが消えていたしいたかゆい

感じも消えていた。足のほうはもう少し時間がかかった

けれども手と同じようにしもやけは治っていた。

 そのおかげで風呂の水汲みの時の釣瓶を引くのが楽に

なったし、本を読むときにp頁をめくるのにも不自由し

なくなった。私はおじいさんに大変感謝したことを思い

出した。

 最近知人の一人がしもやけになってかゆくて仕方がな

いと言っていたのでカラス瓜のことを教えてあげたが、

今時そんなものを使う日知なんかいませんよと笑われて

しまった。私は化学薬品を使った薬よりもカラス瓜のよ

うな自然のもので役に立つならそっちのほうを使いたい

と思うのだが皆さんはどうでしょうか。


挫折感

2016年01月09日 07時14分52秒 | 寓居人の思い出話

 友人A氏の話です。A氏は頭脳明晰、体力は頑健とは

言えないが相当自信を持っていたようです。何しろ80

歳近くになるまで寝込んだことがないという人でした。

 資格試験などにも強く目標とした試験に失敗したこと

がないというような人でした。

 そのA氏の様子が最近おかしくなってきたと細君から

連絡がありました。何事なるぞと早速出しゃばってA氏

に会いに行きました。まずは世間話から世界情勢などか

ら話をはじめ、いよいよ本題に入ると、A氏は生涯初め

て試験に失敗したと打ち明けてくれました。それでひど

い挫折感に襲われているというのです。

 というのはA氏の誕生日は1月中旬で今年が免許証の更

新時期になったというのですね。それで最寄りの警察署

へ行き手続きをして試験を受けたそうです。

 その前に高齢者講習を受けたのですがこちらはすべてう

まくいったというのですね。しかし本番で目の検査を受け

たら、視力が足りないということで眼鏡をもって再検査を

受けるようにと言われたというのです。こんな経験は生ま

れて初めてだというわけです。それで俺も年を取ったなあ

と感じてしまい大きな挫折感を味わってしまったというの

です。

 私はなぜかホッとしました。A氏もこれで一人前になれた

と言って慰めましたが(変な慰め方ですが?)初めての経験

をこの年になってするなんと言っていました。

 挫折感などというのは普通の人はもっと若い時に経験する

ことでしょうが、いい年になって経験するとその程度が大き

くなるものなのかもしれませんね。

 

 

 

 

 


中学の恩師に連絡できました

2016年01月08日 11時52分40秒 | 寓居人の思い出話

 最後にお会いしたのは、K先生が仙台の学校に在職

していた時でした。私は勤め先の宣伝のために先生が

在職していた学校へ訪ねていったときですから、もう

20年以上前になります。私が中学の通学していたころ

とあまり変わっていないのに驚いたものでした。お会

いしたのは授業の合間の10分間ほどの間でしたので積

もる話をできませんでした。

 その後、先生はそこから別の学校へ移ったらしく連

絡が取れなくなってしまいました。私も結構な年齢に

なったのでシュレッダーを買って過去の膨大な年賀状

などの処分を始めました。その中に先生からいただい

たはがきが見つかりました。それに先生の電話番号が

書いてあったのです。最近は自宅の電話番号も電話帳

に載せなくなったので、電話案内に尋ねてもわからな

いことが多いのですが処分前に発見できたのは偶然と

はいえ幸いでした。早速先生のお宅に電話をしました。

先生は米寿を迎えられて少々体調を崩して病院に入院

しているということでした。それで私の書いた書籍を

お送りしました。その本には先生のことは出てきませ

んが、最近ブログに書いていた続編が仕上がったので

校正してから製本してお送りすることにしました。

 奥様共々お元気で余生を楽しんでいただけると私も

うれしいですね。

 

 

 

 

 

 


駅弁のこと

2016年01月07日 14時26分22秒 | 寓居人の思い出話

 友人の一人に鉄道マニアのような人がいた。何しろ

鉄道のことなら地下鉄私鉄を含めていろんなことをよ

く知っていた。乗り継ぎや沿線の名所や駅弁のことま

でよく知っていた。

 あるとき、私が初めて北海道へ学会を兼ねて3日間ほ

ど観光する機会ができた。そのことを彼に話すと、早速

コースや見どころさらに食べ物のことまで紙に書いてき

てくれた。私はそのまま旅をするつもりはなかったが、

参考にさせてもらった。特に役に立ったのが駅弁のこと

だった。青函連絡船で函館に着き列車に乗って最初に着

く駅長万部駅の駅弁は「カニ飯」だった。これは時期に

よっては売られていないという。この弁当はご飯の上一

面にカニが乗っていてとても美味しかった。そして洞爺

湖を過ぎて苫小牧へ着くと「シシャモチップスシ」とい

う駅弁がありましたね。シシャモもチップの私は知らな

かったので何のことだと聞いても現物を見て覚えてくる

といいと言って教えてくれませんでした。シシャモは、

支笏湖から海へ注がれる錦多峰川で獲れる10~15cm程

の魚です。今ではロシア産や北ヨーロッパ産のものが売

られていますね。日本産のものは姿を消してしまいまし

た。チップというのは錦多峰川で獲れる鱒(と思います)

の小片をご飯に乗せた鮨駅弁でした。これも美味しかっ

たですね。

 

 

 

 

 


思い出話の中身

2015年12月20日 08時10分17秒 | 寓居人の思い出話

 最近、思い出話を書いていますがちょっとした発見があり

ました。と申しますのは、想い出にはあまり楽しかったこと

が出てこないのですね。よく考えると楽しい想い出も沢山

あるはずですが、頭の中に浮かぶのは悔しかったことや

辛かったことの方が多いようです。そこでこれから楽しか

った思い出話を何とか頭の中をかき回して書いていこうと

思います。

 私が宮城県の高等学校を卒業して上京し、大学受験に

失敗した年のことです。予備校に通いながら毎日4当5落

の戒めを感じていた頃の話です。

 ある日一番上の兄が今日の夕方映画に連れて行って

やるというので貴重な勉強時間を割くことにしました。夕

食を早めに済ませて映画館に出かけました。映画館は

何処だったか思い出せないのですが有楽町にあった洋画

封切館だったと思います。もしかしたら東京駅の近くの地

下にあった映画館かも知れません。

 映画は「青い大陸」という題名でした。最終回の上映が

始まると私は目を見張るばかりでした。スクリーンに映し

出された青い空と何処までも穏やかに広がる海の青さ

が遙か彼方で混ざり合っているようでした。その映画は

イタリアの作品で学術探検隊に同行した撮影隊が紅海の

美を撮影したものでした。

 海の青さが目にしみるほど美しい情景を映し出しました。

私は海の中はこんなに美しいことを初めて知り激しい感動

を受けました。青い海の中で無数の魚が泳いでいる姿も深

く心に焼き付けられました。

 映画は最終回の後で外国語版をもう一回上映するという

ので兄に頼んでもう一回見ることにしました。そして再び大

きな感動を受けました。あの映画は私の世界観を変えたと

言っても過言ではないでしょう。

 帰りに兄が家の近くの中華そば屋で中華ソバをご馳走し

てくれました。その味が高校受験のとき中学校の担任の遠

藤朝夫先生がご馳走してくれた古川市の中華そば屋で食べ

たものと同じくらい美味しかったです。こんな楽しかったこと

を思い出すことが出来たのは幸いでした。

 


プロの技を越えるのは大変ですね

2015年12月19日 15時57分16秒 | 寓居人の思い出話

 何事によらず何十年も研鑽を積んで専門家の領域に入るの

は大変なことですね。

 本日、囲碁棋士小島九段に3面打ちの指導碁を打っていた

だきました。五子の置き碁でしたがまたしても高い壁に打ち当

たってしまいました。

 初めは慎重にしかも強気で打っていたのですがだんだん慎

重さを忘れてしまうのですね。中盤までは置き石があるので

何とかがんばれるのですが、少しずつ差が縮まり緊張が緩む

と同時に石の方向があやふやになってきます。そうなるように

打ち進めるのがプロの技なのでしょうね。

 来年はきっといい碁を打ちたいとお礼をいって終了しました。

小島九段はお互いに長生きしてまた打ちましょうと。私も長生

きしていつかはプロに勝ちたいと思います。