流山
2009-09-17 | 雑感
この広告に目が留まった。
すこし笑った。
「その身体、流山向き」ってなんだか可笑しい。
流山は私が長く住んでいた市だ。
中学3年の後半から社会人の20代の大半を流山で過ごした。
1970年代から80年代のことだ。
大阪の千里ニュータウンから週末に引っ越してきた。
初めての一戸建てだ。
流山にマンションなど無かった。
できたての家から森を眺めていた。
カッコウが鳴いている。
すごい田舎に来たのが判り少なからずショックだった。
翌日早速散策に出た。
森が多く、空気が澄んでいて涼しい。
駅に向かった。
東武野田線だ。
柏方面のホームに行くのはホームの一箇所が階段になっており、
線路を渡る、いわゆる構内踏み切りだった。
しばらく電車を眺めていると、貨物列車が来た。
野田の醤油を運んでいるらしい。
電車は4両編成で、国鉄のディーゼルカーを彷彿とさせるツートンカラーだ。
切符は窓口で買う硬券だ。
もの珍しくて早速入場券を購入した。
田舎であることが確定的になったようだった。
それでも段々、楽しくなってきた。
今までとは違った経験ができそうな予感だ。
翌月曜日、初めて中学校に登校した。
驚いた。
全校舎が木造だったのだ。
廊下も勿論木造で、歩くとキュッキュッと音を立てた。
鴬張りかと思ってしまった。
生徒は坊主頭で、ジャージと体操服だった。
カバンは白い布の肩掛けカバンでいわゆる帆布バックだった。
中学生活は残り少ないので、この帆布バックの購入は見送られた。
もっと驚いたのは授業中、校庭を見るとウサギが走っていることだ。
ただし、飼っているウサギとは様子が違う。
「授業中だけ野ウサギが走り回るんだよ。校庭に糞をするんだ。」
校庭の裏の森は鬱蒼と茂り、果てが無いようだった。
聞いてみると、その昔、この辺は東京の別荘地でもあったらしい。
学校の帰りに床屋に行き、バリカンで刈られた時はショックだった。
その頃私はブリティッシュロックを聴きまくっていた長髪の少年だったのだから。
友達はすぐにたくさん出来た。
もの珍しいのか、毎日、私の家に誰かしらが遊びに来る。
そして週末は市内の散策を自転車で連れまわされる。
あっという間に市内を全部把握することとなった。
大きな面積の市ではない。私が住んでいた豊中市よりも小さいぐらいだ。
市の中心部分は広大な森だった。
オオタカが普通に飛んでいた。
江戸川の付近にはふつうにホタルが居た。
市の中心部は流山電鉄の駅と役所以外は何も無い所だった。
市の南部西部は農家が多かった。
北部の江戸川台だけは、なぜだか高級住宅街だった。異色だ。
高校は柏にある東葛飾高校という古い県立高校に自転車で通った。
その後、柏も流山も急速に人口が増え始めた。
柏はデパートが乱立し、もはや東京に出る意味さえ無くなった。
常磐高速道が流山市を通り、いつしか東武野田線は6両になった。
鉄道が人口急増に耐え切れなくなった。
首相が視察に来るほどの殺人的なラッシュ風景になってしまった。
怪我人が続出したのだ。
首相が視察に来た後、常磐線は10両から15両編成に変わった。
103系の15両編成は他で見ることができない壮観なものだった。
ドアが60枚もあり、車掌が締めるのが困難になるということで、
半分は運転手が締めるという荒業も考案された。
周辺人口は100万人を超えるほどになり、筑波エクスプレスの開通が
待たれることになった。
流山おおたかの森周辺の変貌は驚くほどだ。
ここには一体何があったろうか、と思い返すが、わからない。
ここは広大な森だったのだ。
今も森に住んでいるオオタカを守るために、森の伐採は
半分程度に抑えられた。
都心へ20分台の自然豊かな町として、大いにもてはやされるのだろうか。
ポスターを見て笑ったのは、こういうことだ。
流山は確かに大いに変貌した。
都心に近い住宅街になった。
もはや田舎ではなくなっただろう。
しかし「流山」という名称が田舎を彷彿とさせるのだ。
「流山」という名称が変わらない限り、田舎くささは抜けないな。と、
一人で笑ってしまったのだ。
今でも木造校舎に野ウサギが走り回り、坊主の少年がジャージ姿で
走り回っている風景が想像されてしまうのだ。
*1978年、初石-柏間複線化
*1984年に東武野田線の貨物列車廃止。
*流山市内中学校は1988年から坊主丸刈りを撤廃したそうです。
*住民1人当たり行政コストは日本一低廉。(ただしサービス不足の声もあり。)
すこし笑った。
「その身体、流山向き」ってなんだか可笑しい。
流山は私が長く住んでいた市だ。
中学3年の後半から社会人の20代の大半を流山で過ごした。
1970年代から80年代のことだ。
大阪の千里ニュータウンから週末に引っ越してきた。
初めての一戸建てだ。
流山にマンションなど無かった。
できたての家から森を眺めていた。
カッコウが鳴いている。
すごい田舎に来たのが判り少なからずショックだった。
翌日早速散策に出た。
森が多く、空気が澄んでいて涼しい。
駅に向かった。
東武野田線だ。
柏方面のホームに行くのはホームの一箇所が階段になっており、
線路を渡る、いわゆる構内踏み切りだった。
しばらく電車を眺めていると、貨物列車が来た。
野田の醤油を運んでいるらしい。
電車は4両編成で、国鉄のディーゼルカーを彷彿とさせるツートンカラーだ。
切符は窓口で買う硬券だ。
もの珍しくて早速入場券を購入した。
田舎であることが確定的になったようだった。
それでも段々、楽しくなってきた。
今までとは違った経験ができそうな予感だ。
翌月曜日、初めて中学校に登校した。
驚いた。
全校舎が木造だったのだ。
廊下も勿論木造で、歩くとキュッキュッと音を立てた。
鴬張りかと思ってしまった。
生徒は坊主頭で、ジャージと体操服だった。
カバンは白い布の肩掛けカバンでいわゆる帆布バックだった。
中学生活は残り少ないので、この帆布バックの購入は見送られた。
もっと驚いたのは授業中、校庭を見るとウサギが走っていることだ。
ただし、飼っているウサギとは様子が違う。
「授業中だけ野ウサギが走り回るんだよ。校庭に糞をするんだ。」
校庭の裏の森は鬱蒼と茂り、果てが無いようだった。
聞いてみると、その昔、この辺は東京の別荘地でもあったらしい。
学校の帰りに床屋に行き、バリカンで刈られた時はショックだった。
その頃私はブリティッシュロックを聴きまくっていた長髪の少年だったのだから。
友達はすぐにたくさん出来た。
もの珍しいのか、毎日、私の家に誰かしらが遊びに来る。
そして週末は市内の散策を自転車で連れまわされる。
あっという間に市内を全部把握することとなった。
大きな面積の市ではない。私が住んでいた豊中市よりも小さいぐらいだ。
市の中心部分は広大な森だった。
オオタカが普通に飛んでいた。
江戸川の付近にはふつうにホタルが居た。
市の中心部は流山電鉄の駅と役所以外は何も無い所だった。
市の南部西部は農家が多かった。
北部の江戸川台だけは、なぜだか高級住宅街だった。異色だ。
高校は柏にある東葛飾高校という古い県立高校に自転車で通った。
その後、柏も流山も急速に人口が増え始めた。
柏はデパートが乱立し、もはや東京に出る意味さえ無くなった。
常磐高速道が流山市を通り、いつしか東武野田線は6両になった。
鉄道が人口急増に耐え切れなくなった。
首相が視察に来るほどの殺人的なラッシュ風景になってしまった。
怪我人が続出したのだ。
首相が視察に来た後、常磐線は10両から15両編成に変わった。
103系の15両編成は他で見ることができない壮観なものだった。
ドアが60枚もあり、車掌が締めるのが困難になるということで、
半分は運転手が締めるという荒業も考案された。
周辺人口は100万人を超えるほどになり、筑波エクスプレスの開通が
待たれることになった。
流山おおたかの森周辺の変貌は驚くほどだ。
ここには一体何があったろうか、と思い返すが、わからない。
ここは広大な森だったのだ。
今も森に住んでいるオオタカを守るために、森の伐採は
半分程度に抑えられた。
都心へ20分台の自然豊かな町として、大いにもてはやされるのだろうか。
ポスターを見て笑ったのは、こういうことだ。
流山は確かに大いに変貌した。
都心に近い住宅街になった。
もはや田舎ではなくなっただろう。
しかし「流山」という名称が田舎を彷彿とさせるのだ。
「流山」という名称が変わらない限り、田舎くささは抜けないな。と、
一人で笑ってしまったのだ。
今でも木造校舎に野ウサギが走り回り、坊主の少年がジャージ姿で
走り回っている風景が想像されてしまうのだ。
*1978年、初石-柏間複線化
*1984年に東武野田線の貨物列車廃止。
*流山市内中学校は1988年から坊主丸刈りを撤廃したそうです。
*住民1人当たり行政コストは日本一低廉。(ただしサービス不足の声もあり。)
生まれも育ちも流山の者としては、いろいろ外の話を聞く度に、ここの田舎っぷりを再確認したものでした。
そんな土地もTXが通り都心に直接アクセスできる今は、立地的にはもう田舎ではないのかもしれませんが、、、文化の香りは外側ばかりで、内部には加齢の様子を色濃く感じます。
その昔、江戸川沿いの道を引っ越しのトラックが家財を運んで来た折りに、松戸辺りの橋まで来て運送屋が「旦那さん、この先に家なんかあるの??」と言ったとか。そのくらい、道も砂利道、土地の農家が点在していた様な流山だったそうな。
知っているようで結構知らないfunamyuさんのこと。転校しても友達がすぐに出来るのは羨ましいな。性格はきっと変わっていないのでしょうかね?
大昔のイメージのある帆布バックの通学鞄は、この頃また復活したのではないでしょうか?確か、「手に持たずに通学できるように」とか、そんな理由だったように思います。私の頃は、ごく普通の通学鞄でしたけれど、弟の頃には同じようなものが導入されましたよ。
流山に長く住んでいたのは知っていましたが、そんなに田舎だとは知りませんでした。「流山」う~んでも確かに田舎のイメージですね。「オオタカ」っていうのが棲んでいるのですね。どんなの?ってWikipediaで調べちゃいましたよ。
「東京近郊はこの頃皆、こんな風に開発されていったのだな」なんて思いました。僕が30年ほど前に上京してからも、大きく変わったと思います。山ばかりだった所も、いつの間にか住宅地になってしまいました。郵便局時代は、人口増加とともに増え続ける郵便物に手を焼いたのを思い出します。
これらが良い事なのかどうかはわかりませんが、帰省するたびに田舎が寂れていくのを見ると、何だかギャップを感じてしまいます。
次の休みの日、車で流山駅に行き、終点まで行って帰ってきたことがあります。
現代がそれですからそれ以前は・・・!
宅地造成と農薬の普及から、蛍も野兎も激減しました。
約10年近く前から、近くでビオトープの活動を始め、蛍やタナゴ、めだかの復旧を試みています。
オオタカや天然蛍や野兎が飛び回る自然が何だか懐かしいです。自然が激減している現代なので、そういう環境に憧れます。
すごいきれいな写真ばかりでとっても素敵ですね。
うちも親戚がいて、毎年ハガキには流れ流れて流山よりって書いてあったのが思い出しちゃった。なのですごく田舎のイメージだったけど
流山は今は発展してすごい便利になってるとか・・・(羨ましい)
またおじゃましますね!
柏駅前にそごうと高島屋が開店し、ダブルデッキが出来た翌年です。
北海道のド田舎でも長髪だったのに、その柏市内の中学では坊主頭。
転入早々から校則改正運動を開始し、中三からは長髪OKにして貰いました。
そのため半年間だけ、小生も坊主になった次第。
改正後の校則は、転校前の中学と同じ内容にして貰いました。
また、帆布の肩掛けカバンって『巨人の星』の中だけの話と思ってました。
小生も、帆布カバンの購入は免除して貰いました。
funamyuさんの文章は長くてもさっらっと読めてしまう..なにかコツでもあったら教えてください?(笑
自分は小学生の頃に転校しました、でも子供ってすぐ適応できちゃうんですよね^^
木造の校舎なんて憧れるなぁ
TVでしか見た事ないです...
私は引っ越しが10回以上なので。
なんだかジプシーですね。
一つの街や市を愛し続けるのが理想なんです。
今の世田谷には不満が多いです。
なってない!
実はこの記事を書いてから翌日に
流山に行ったんですよ。
自分の家の周辺は、あまり変わってなくて
ほっとしたのでした。
近年、私も一澤帆布製のカバンが好きになったり、その後は犬印なんて帆布バックも
売れてますね。
カメラバックも帆布バックを所有してます。
実は肩が疲れないのです。
すごいんですよ。
なぜだか理由は不明ですが、重量級のレンズを一日持っていても疲れません。
ドンケというアメリカ製のバックも使ってますが、これも素材は同じタイプです。
流山は田舎っぽかったんですが、
実は交通関係の議員の力がすごく、
常磐高速が開通する際も、流山市内だけは
全部、トンネルにしたんです。
すごい我がままを通すパワーがあるんです。
TXもそうですね。
流山市内には快速を2駅停車させてます。
柏は1駅です。
そんな意外な面を持っています。
西武から中古を購入する前です。
こんなローカルって何!!?!
って感じでしたが、大好きでした。
終点付近には引き込み線があって、
味醂工場へ続いていたんです。
流山の工業は味醂でした。
戦時中は軍事工場でした。
そういえば妹は高校時代、彼が流山電鉄の
職員でした。(笑)
アフロヘアーだったんです。
すごい鉄道だと思ったもんです。
今でも独立したあれだけ短い私鉄ってのが
驚異的ですね。