志賀直哉『暗夜行路』(新潮文庫)

祖父と母との過失の結果、この世に生を享けた謙作は、母の死後、突然目の前にあらわれた祖父に引きとられて成長する。鬱々とした心をもてあまして日を過す謙作は、京都の娘直子を恋し、やがて結婚するが、直子は謙作の留守中にいとこと過ちを犯す。苛酷な運命に直面し、時には自暴自棄に押し流されそうになりながらも、強い意志力で幸福をとらえようとする謙作の姿を描く。(文庫内容案内より)
◎芥川、夏目に評価されていた
志賀直哉が実質的な処女作「ある朝」(『清兵衛と瓢箪/網走まで』新潮文庫所収)を発表したのは、25歳(明治41年)のときでした。その後『網走まで』(新潮文庫)などを発表し、28歳(明治43年)のときに武者小路実篤(新潮文庫)、有島武郎(推薦作『生れ出づる悩み』新潮文庫)らと雑誌「白樺」を創刊しました。それから2年で明治が終わり、大正時代を迎えます。夏目漱石(推薦作『吾輩は猫である』新潮文庫)が死去したのは大正5(1916)年です。
大正時代は、漱石に共鳴していた作家たちが「白樺派」に集い、「第四次新思潮派」とともに文壇の主流をなすようになります。「白樺派」は学習院出身者をを中心とした、お坊ちゃん作家の集まりといわれていました。いっぽう「第四次新思潮派」は、帝国大学出身者が大勢を占め、白樺派の甘い体質に反旗を翻していました。前者の代表的な作家が志賀直哉であり、後者の代表格は芥川龍之介(推薦作『羅生門』新潮文庫)です。2人の関係についてふれた文章を紹介しましょう。
――あの頃(補:大正初期)は、世間一般に自然主義系統の作品に嫌厭を感じていたためか、微温的な明るみある「白樺」一派の文学が、文壇に地歩を占めた。ことに、志賀氏は新進作家の仲間に敬畏されていたようであった。広津和郎氏も、会うたびに、私に向かって、志賀直哉讃美の語を放っていた。芥川龍之介は,あれほどの才人でありながら、志賀氏の前へ出ると頭があがらなかったそうだ。(正宗白鳥『新編作家論・高橋英夫編』岩波文庫、P377より)
いっぽう志賀直哉は、夏目漱石を敬愛していました。
――僕が一番好きな作家は、、やはり夏目さんであった。夏目さんは大学で講義を聴いたこともある。向こうからも僕の作品に好意をもっていてくれ、朝日新聞に続き物を出すよう云ってくれたりしたので二度程訪ねた事があり、人間的に敬意を持っていた。(「新潮日本文学8・志賀直哉集」月報の「志賀直哉・書き初めた頃」より)
志賀直哉は、芥川龍之介からも夏目漱石からも一目置かれていました。志賀直哉の文体は、芥川龍之介が修練を重ねた西欧流に近いものでした。それは夏目漱石の流れるような文体とは、まったく異質なものです。そのあたりのところを、吉本隆明(推薦作『日本近代文学の名作』新潮文庫)は著作のなかでつぎのように書いています。
――この人(補:志賀直哉)の感性や生活感覚自体が一般の庶民のものとは違うところが、そのまま文体になっている。それが飾り気なしに、素直に表現された作品になっているのではないか。余計な情念や飾りがないと思えるのは、そのためではないだろうか。だから、志賀直哉を「自然な無意識の作家」と呼ぶこともできる。(吉本隆明『日本近代文学の名作』新潮文庫、P182より)
◎父親との不和がテーマ
『暗夜行路』は、志賀直哉唯一の長編小説です。志賀直哉は短編小説の名手として名高いのですが、長編でもまったく破たんはありません。
志賀直哉は父親との不和をテーマにした、私小説「時任謙作」を温めていました。そのあたりのことは、『和解』(新潮文庫)に書かれています。父親との不和が解消し、それまで未完のまま眠っていた「時任謙作」が頭をもたげてきました。その点について、阿川弘之(推薦作『雲の墓標』新潮文庫)はつぎのように書いています。
――尾道で独り暮らしをしていたころ、志賀氏は四国へ旅をして屋島の宿で寝つかれぬまま、もしかしたら自分は父の子ではなく祖父の子ではないかしらという想像をした。それは氏と氏の父、氏の祖父の三人の一種複雑な関係から自然に出たものにちがいないが、むろん根の無い単なる空想で、「翌日起きた時には自身それを如何にも馬鹿馬鹿しく感じた」と志賀氏も書いている。(「新潮日本文学8・志賀直哉集」解説:阿川弘之より)
『暗夜行路』を、自伝的小説とくくる文献もあります。私は本人が否定していることを、信じたいと思います。『暗夜行路』は自伝小説から脱皮し、長編にはじめて挑んだ志賀直哉の記念碑的な作品なのです。
主人公の時任謙作は、父がドイツに留学中に母と祖父との間に生まれました。母を幼いころに亡くした謙作は祖父に引き取られ、愛人のお栄に育てられます。父からの送金もあり、成人した謙作は、気ままな生活をしながら小説を書いていました。
謙作には兄・信行がおり、彼のよき理解者でした。芸妓との遊びにあきた謙作は、幼馴染の愛子と結婚したいと兄・信行に伝えます。しかし断られ、乱れた生活のなかで、謙作はしだいにお栄にひかれてゆきます。
その後自己再生をするため、謙作は尾道で独り暮らしをはじめます。落ち着きをとりもどした謙作は、お栄と結婚したいと兄に告げます。そのとき、彼は自分が父の子ではなく、愛する亡き母と祖父との不義の子であることを知ります。
ショックを受けた謙作は東京に戻り、再び放蕩生活をはじめます。そんななかで、謙作は直子という女性をみそめます。2人は結婚し、直子は男の子を出産します。しかし、幼い命は丹毒のために消えてしまいます。さらに謙作が不在のおりに、直子はいとこと関係を結んでしまうのです。
謙作は心の平穏をとりもどすために、独り山里の寺で暮らしはじめます。謙作が病に伏し、直子が駆けつけてきます。結末についてはふれません。私は日本の近代小説の頂に、『暗夜行路』をすえたいと思います。最後に、志賀直哉らしい大好きな文章を引用しておきます。なんでもない朝をこれほど見事に描いた文章を、私はほかには知りません。
――翌朝、軒に雨だれの音を聴きながら眼を覚ました。彼は起きて、自ら雨戸を繰った。戸外は灰色をした深い霧で、前の大きな杉の木が薄墨色にぼんやりと僅にその輪郭を示していた。流れ込む霧が匂った。肌に冷々気持ちがよかった。雨と思ったのは濃い霧が萱屋根を滴となって伝い落ちる音だった。山の上の朝は静かだった。鶏の声が遠く聴えた。庫裏の方ではもう起きているらしかった。彼は楊枝と手拭とを持って戸外へ出た。そして歯を磨きながらその辺を歩いていると、お由が十能におき火を山と盛って庫裏から出てきた。(本文P524より)
(山本藤光:2012.10.02初稿、2018.02.05改稿)

祖父と母との過失の結果、この世に生を享けた謙作は、母の死後、突然目の前にあらわれた祖父に引きとられて成長する。鬱々とした心をもてあまして日を過す謙作は、京都の娘直子を恋し、やがて結婚するが、直子は謙作の留守中にいとこと過ちを犯す。苛酷な運命に直面し、時には自暴自棄に押し流されそうになりながらも、強い意志力で幸福をとらえようとする謙作の姿を描く。(文庫内容案内より)
◎芥川、夏目に評価されていた
志賀直哉が実質的な処女作「ある朝」(『清兵衛と瓢箪/網走まで』新潮文庫所収)を発表したのは、25歳(明治41年)のときでした。その後『網走まで』(新潮文庫)などを発表し、28歳(明治43年)のときに武者小路実篤(新潮文庫)、有島武郎(推薦作『生れ出づる悩み』新潮文庫)らと雑誌「白樺」を創刊しました。それから2年で明治が終わり、大正時代を迎えます。夏目漱石(推薦作『吾輩は猫である』新潮文庫)が死去したのは大正5(1916)年です。
大正時代は、漱石に共鳴していた作家たちが「白樺派」に集い、「第四次新思潮派」とともに文壇の主流をなすようになります。「白樺派」は学習院出身者をを中心とした、お坊ちゃん作家の集まりといわれていました。いっぽう「第四次新思潮派」は、帝国大学出身者が大勢を占め、白樺派の甘い体質に反旗を翻していました。前者の代表的な作家が志賀直哉であり、後者の代表格は芥川龍之介(推薦作『羅生門』新潮文庫)です。2人の関係についてふれた文章を紹介しましょう。
――あの頃(補:大正初期)は、世間一般に自然主義系統の作品に嫌厭を感じていたためか、微温的な明るみある「白樺」一派の文学が、文壇に地歩を占めた。ことに、志賀氏は新進作家の仲間に敬畏されていたようであった。広津和郎氏も、会うたびに、私に向かって、志賀直哉讃美の語を放っていた。芥川龍之介は,あれほどの才人でありながら、志賀氏の前へ出ると頭があがらなかったそうだ。(正宗白鳥『新編作家論・高橋英夫編』岩波文庫、P377より)
いっぽう志賀直哉は、夏目漱石を敬愛していました。
――僕が一番好きな作家は、、やはり夏目さんであった。夏目さんは大学で講義を聴いたこともある。向こうからも僕の作品に好意をもっていてくれ、朝日新聞に続き物を出すよう云ってくれたりしたので二度程訪ねた事があり、人間的に敬意を持っていた。(「新潮日本文学8・志賀直哉集」月報の「志賀直哉・書き初めた頃」より)
志賀直哉は、芥川龍之介からも夏目漱石からも一目置かれていました。志賀直哉の文体は、芥川龍之介が修練を重ねた西欧流に近いものでした。それは夏目漱石の流れるような文体とは、まったく異質なものです。そのあたりのところを、吉本隆明(推薦作『日本近代文学の名作』新潮文庫)は著作のなかでつぎのように書いています。
――この人(補:志賀直哉)の感性や生活感覚自体が一般の庶民のものとは違うところが、そのまま文体になっている。それが飾り気なしに、素直に表現された作品になっているのではないか。余計な情念や飾りがないと思えるのは、そのためではないだろうか。だから、志賀直哉を「自然な無意識の作家」と呼ぶこともできる。(吉本隆明『日本近代文学の名作』新潮文庫、P182より)
◎父親との不和がテーマ
『暗夜行路』は、志賀直哉唯一の長編小説です。志賀直哉は短編小説の名手として名高いのですが、長編でもまったく破たんはありません。
志賀直哉は父親との不和をテーマにした、私小説「時任謙作」を温めていました。そのあたりのことは、『和解』(新潮文庫)に書かれています。父親との不和が解消し、それまで未完のまま眠っていた「時任謙作」が頭をもたげてきました。その点について、阿川弘之(推薦作『雲の墓標』新潮文庫)はつぎのように書いています。
――尾道で独り暮らしをしていたころ、志賀氏は四国へ旅をして屋島の宿で寝つかれぬまま、もしかしたら自分は父の子ではなく祖父の子ではないかしらという想像をした。それは氏と氏の父、氏の祖父の三人の一種複雑な関係から自然に出たものにちがいないが、むろん根の無い単なる空想で、「翌日起きた時には自身それを如何にも馬鹿馬鹿しく感じた」と志賀氏も書いている。(「新潮日本文学8・志賀直哉集」解説:阿川弘之より)
『暗夜行路』を、自伝的小説とくくる文献もあります。私は本人が否定していることを、信じたいと思います。『暗夜行路』は自伝小説から脱皮し、長編にはじめて挑んだ志賀直哉の記念碑的な作品なのです。
主人公の時任謙作は、父がドイツに留学中に母と祖父との間に生まれました。母を幼いころに亡くした謙作は祖父に引き取られ、愛人のお栄に育てられます。父からの送金もあり、成人した謙作は、気ままな生活をしながら小説を書いていました。
謙作には兄・信行がおり、彼のよき理解者でした。芸妓との遊びにあきた謙作は、幼馴染の愛子と結婚したいと兄・信行に伝えます。しかし断られ、乱れた生活のなかで、謙作はしだいにお栄にひかれてゆきます。
その後自己再生をするため、謙作は尾道で独り暮らしをはじめます。落ち着きをとりもどした謙作は、お栄と結婚したいと兄に告げます。そのとき、彼は自分が父の子ではなく、愛する亡き母と祖父との不義の子であることを知ります。
ショックを受けた謙作は東京に戻り、再び放蕩生活をはじめます。そんななかで、謙作は直子という女性をみそめます。2人は結婚し、直子は男の子を出産します。しかし、幼い命は丹毒のために消えてしまいます。さらに謙作が不在のおりに、直子はいとこと関係を結んでしまうのです。
謙作は心の平穏をとりもどすために、独り山里の寺で暮らしはじめます。謙作が病に伏し、直子が駆けつけてきます。結末についてはふれません。私は日本の近代小説の頂に、『暗夜行路』をすえたいと思います。最後に、志賀直哉らしい大好きな文章を引用しておきます。なんでもない朝をこれほど見事に描いた文章を、私はほかには知りません。
――翌朝、軒に雨だれの音を聴きながら眼を覚ました。彼は起きて、自ら雨戸を繰った。戸外は灰色をした深い霧で、前の大きな杉の木が薄墨色にぼんやりと僅にその輪郭を示していた。流れ込む霧が匂った。肌に冷々気持ちがよかった。雨と思ったのは濃い霧が萱屋根を滴となって伝い落ちる音だった。山の上の朝は静かだった。鶏の声が遠く聴えた。庫裏の方ではもう起きているらしかった。彼は楊枝と手拭とを持って戸外へ出た。そして歯を磨きながらその辺を歩いていると、お由が十能におき火を山と盛って庫裏から出てきた。(本文P524より)
(山本藤光:2012.10.02初稿、2018.02.05改稿)
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