川越宗一『熱源』(文藝春秋)
故郷を奪われ、生き方を変えられた。それでもアイヌがアイヌとして生きているうちに、やりとげなければならないことがある。北海道のさらに北に浮かぶ島、樺太(サハリン)。人を拒むような極寒の地で、時代に翻弄されながら、それでも生きていくための「熱」を追い求める人々がいた。明治維新後、樺太のアイヌに何が起こっていたのか。見たことのない感情に心を揺り動かされる、圧巻の歴史小説。(「BOOK」データベースより)
◎アイヌ民族博物館の銅像がヒントに
川越宗一『熱源』(文藝春秋)は、圧倒的な展開と筆力で直木賞に輝きました。作品の主たる舞台は樺太(サハリン)。主たる登場人物は、樺太アイヌのヤヨマネクフと樺太に島流しされたポーランド人のブロニスワフ・ピウスツキです。
樺太アイヌのヤヨマネクフは日本名を山辺安之助といい、南極探検隊の犬ぞり担当の実在人物です。またもう一人の主軸ポーランド人のブロニスワフ・ピウスツキも実在の人物です。
川越宗一は本書執筆の動機を、次のように語っています。
――妻との旅行で北海道に行って、白老(しらおい)町のアイヌ民族博物館に何となく立ち寄ったら、ブロニスワフ・ピウスツキの銅像があったんです。(中略)ポーランドの人なのに北海道の、アイヌの博物館に銅像がある。なんでだろうと思って少し調べてみたら、南極探検に行った山辺安之助(ヤヨマネクフ)とも知り合いだった。遠くと遠くの文明や文化、歴史がここで出会ったんだというのが、すごく興味深くて。(「好書好日」2019年9月29日)
最初に本書の主要舞台である、樺太(サハリン)について引用しておきます。
――もとは無主の地であったサハリン島は、やがて帝政ロシアと日本が共同領有するようになった。その後にロシア単独領有となり、四十年前の露日戦争で島の真ん中あたり、北緯五十度から南が日本へ割譲された。ロシアに取って代わったソヴィエト連邦では、南サハリンは回復すべき失地と見做されていた。(本文P15)
樺太を追い出されて北海道に渡ったアイヌと、樺太に島流しされたポーランド人。本書の読みどころは、二人の愚直な生き様と二人の接点にあります。
◎出会いと化学反応
本書はサンドウィッチの構成になっています。序章と終章には、終戦の日前後の樺太が描かれています。ソ連の女性兵士(クルニコワ伍長)は、ここにのみ登場します。
彼女は大学時代に民俗学を学び、樺太についての研究をしていました。その過程で、本書の主軸であるブロニスワフ・ピウスツキが残したアイヌの琴と歌の録音を聞き、ヤヨマネクフのアイヌ民話も聞いていたのです。クルニコワ伍長は二人の名前を、明確に記憶していました。彼女が聞いた録音機の円管に、二人の名前が刻まれていたのです。
サンドウィッチの具材は、終戦の日に至るまでの、二人の若者の波乱の人生となっています。ポーランド人とアイヌの接点を、録音管に刻まれた名前でつなぐ手法に感嘆させられました。
ただし序章の存在は、読者の混乱を招くかもしれません。私は序章を飛ばして、本編から読むことを勧めます。その方が物語の展開がわかりやすいからです。この点について宮城谷昌光は、直木賞の選評のなかで次のように書いています。
――序章を読み始めると、あっけにとられる。クルニコワ伍長という女性兵士が、唐突に登場し、しかもその時代は日本が終戦を迎える昭和の二十年である。読者はこの人物がどれほど重要で、先人たちとどのような関係をもつのか、さぐってゆかなければならないが、実はこの人物はこの後、終章まで登場しない。(『オール読物』2020年3・4月号)
私が序章は最後に回した方がよい、といった理由を宮城谷昌光が指摘していたので驚きました。
著者自身は本書の醍醐味について、次のように語っています。読書に際しては、ぜひこのメッセージを忘れないでください。
――異なる背景を持った人たちが出会うことによる化学反応に興味を感じるところが多い。(「好書好日」2019年9月29日)
本編の第一章(帰還)は、一八八一年(明治十四年)。ヤヨマネクフがカラフトを離れて、七年目、彼は十五歳になっています。舞台は北海道の対雁(ツイシカリ)という、石狩川沿いにある小さな村(コタン)です。ヤヨマネクフは五弦琴の名手である、十七歳のキサラスイというアイヌの乙女に恋をします。キサラスイをめぐって、彼は樺太アイヌの親友シシラトカ(花守信吉)と争いをおこします。
シシラトカ(花守信吉)の名前も、南極探検隊の犬ぞり担当として残っています。
やがてヤヨマネクフはキサラスイと結婚し、一子をもうけます。しかし妻は疫病で帰らぬ人となります。彼は妻の形見である五弦琴を抱いて、樺太(サハリン島)へと戻ることになります。
第二章(サハリン島)の主役は、ブロニスワフ・ピュトル・ピウスツキとなります。彼は革命運動をおこなった罪で。サハリン島に流刑になっています。やがて彼は先住民のギリヤークの人々と親しくなり、兄貴と呼ばれる存在になります。
彼は迫害を受けつづける、ギリヤーク人の文明を研究し始めます。
差別と迫害に立ち向かう二人は、樺太の地で親しくなります。ロシアに故郷を奪われたヤヨマネクフ。ロシアにポーランド語を奪われたピウスツキ。二人の苦難はそこからはじまります。
◎2作品目で直木賞
ストーリーの詳細は、あえて説明しません。二人は近代史の荒波に浮かんだ小舟のように、時代に翻弄されつづけます。
本書の後半には、金田一京助、二葉亭四迷、大隈重信なども登場します。これらはすべて実話に基づいたものです。
中島京子は、本書の醍醐味について次のように書いています。
――弱い者は「文明」に呑み込まれるしかないのか。「同化」するか「滅亡」する以外選択肢はないのか。そもそも弱いとはなにか。知恵をつけることは「文明」の側に与(くみ)することになるのか。登場人物たちはそれぞれの場でその難問にぶち当たる。(ALL REVIEWS)
直木賞の選評のなかから、浅田次郎のものを紹介させていただきます。何だか浅田次郎らしくないいいまわしで、おかしかったです。
――文明論という壮大なテーマを柱として巧みなストーリーを構築しているが、けっして難解な小説ではない。一気呵成に読み切るというほどの面白さを備えているとは言い難いにせよ、長い物語を存分に堪能できる。
川越宗一は、わずか2作品で直木賞を受賞しました。これからを大いに期待できる作家です。たくさんの資料を読みこなし、実在だった人物を自分の掌に動かす。この発想と筆力は、直木賞に値すると確信しました。
山本藤光2020.02.23
故郷を奪われ、生き方を変えられた。それでもアイヌがアイヌとして生きているうちに、やりとげなければならないことがある。北海道のさらに北に浮かぶ島、樺太(サハリン)。人を拒むような極寒の地で、時代に翻弄されながら、それでも生きていくための「熱」を追い求める人々がいた。明治維新後、樺太のアイヌに何が起こっていたのか。見たことのない感情に心を揺り動かされる、圧巻の歴史小説。(「BOOK」データベースより)
◎アイヌ民族博物館の銅像がヒントに
川越宗一『熱源』(文藝春秋)は、圧倒的な展開と筆力で直木賞に輝きました。作品の主たる舞台は樺太(サハリン)。主たる登場人物は、樺太アイヌのヤヨマネクフと樺太に島流しされたポーランド人のブロニスワフ・ピウスツキです。
樺太アイヌのヤヨマネクフは日本名を山辺安之助といい、南極探検隊の犬ぞり担当の実在人物です。またもう一人の主軸ポーランド人のブロニスワフ・ピウスツキも実在の人物です。
川越宗一は本書執筆の動機を、次のように語っています。
――妻との旅行で北海道に行って、白老(しらおい)町のアイヌ民族博物館に何となく立ち寄ったら、ブロニスワフ・ピウスツキの銅像があったんです。(中略)ポーランドの人なのに北海道の、アイヌの博物館に銅像がある。なんでだろうと思って少し調べてみたら、南極探検に行った山辺安之助(ヤヨマネクフ)とも知り合いだった。遠くと遠くの文明や文化、歴史がここで出会ったんだというのが、すごく興味深くて。(「好書好日」2019年9月29日)
最初に本書の主要舞台である、樺太(サハリン)について引用しておきます。
――もとは無主の地であったサハリン島は、やがて帝政ロシアと日本が共同領有するようになった。その後にロシア単独領有となり、四十年前の露日戦争で島の真ん中あたり、北緯五十度から南が日本へ割譲された。ロシアに取って代わったソヴィエト連邦では、南サハリンは回復すべき失地と見做されていた。(本文P15)
樺太を追い出されて北海道に渡ったアイヌと、樺太に島流しされたポーランド人。本書の読みどころは、二人の愚直な生き様と二人の接点にあります。
◎出会いと化学反応
本書はサンドウィッチの構成になっています。序章と終章には、終戦の日前後の樺太が描かれています。ソ連の女性兵士(クルニコワ伍長)は、ここにのみ登場します。
彼女は大学時代に民俗学を学び、樺太についての研究をしていました。その過程で、本書の主軸であるブロニスワフ・ピウスツキが残したアイヌの琴と歌の録音を聞き、ヤヨマネクフのアイヌ民話も聞いていたのです。クルニコワ伍長は二人の名前を、明確に記憶していました。彼女が聞いた録音機の円管に、二人の名前が刻まれていたのです。
サンドウィッチの具材は、終戦の日に至るまでの、二人の若者の波乱の人生となっています。ポーランド人とアイヌの接点を、録音管に刻まれた名前でつなぐ手法に感嘆させられました。
ただし序章の存在は、読者の混乱を招くかもしれません。私は序章を飛ばして、本編から読むことを勧めます。その方が物語の展開がわかりやすいからです。この点について宮城谷昌光は、直木賞の選評のなかで次のように書いています。
――序章を読み始めると、あっけにとられる。クルニコワ伍長という女性兵士が、唐突に登場し、しかもその時代は日本が終戦を迎える昭和の二十年である。読者はこの人物がどれほど重要で、先人たちとどのような関係をもつのか、さぐってゆかなければならないが、実はこの人物はこの後、終章まで登場しない。(『オール読物』2020年3・4月号)
私が序章は最後に回した方がよい、といった理由を宮城谷昌光が指摘していたので驚きました。
著者自身は本書の醍醐味について、次のように語っています。読書に際しては、ぜひこのメッセージを忘れないでください。
――異なる背景を持った人たちが出会うことによる化学反応に興味を感じるところが多い。(「好書好日」2019年9月29日)
本編の第一章(帰還)は、一八八一年(明治十四年)。ヤヨマネクフがカラフトを離れて、七年目、彼は十五歳になっています。舞台は北海道の対雁(ツイシカリ)という、石狩川沿いにある小さな村(コタン)です。ヤヨマネクフは五弦琴の名手である、十七歳のキサラスイというアイヌの乙女に恋をします。キサラスイをめぐって、彼は樺太アイヌの親友シシラトカ(花守信吉)と争いをおこします。
シシラトカ(花守信吉)の名前も、南極探検隊の犬ぞり担当として残っています。
やがてヤヨマネクフはキサラスイと結婚し、一子をもうけます。しかし妻は疫病で帰らぬ人となります。彼は妻の形見である五弦琴を抱いて、樺太(サハリン島)へと戻ることになります。
第二章(サハリン島)の主役は、ブロニスワフ・ピュトル・ピウスツキとなります。彼は革命運動をおこなった罪で。サハリン島に流刑になっています。やがて彼は先住民のギリヤークの人々と親しくなり、兄貴と呼ばれる存在になります。
彼は迫害を受けつづける、ギリヤーク人の文明を研究し始めます。
差別と迫害に立ち向かう二人は、樺太の地で親しくなります。ロシアに故郷を奪われたヤヨマネクフ。ロシアにポーランド語を奪われたピウスツキ。二人の苦難はそこからはじまります。
◎2作品目で直木賞
ストーリーの詳細は、あえて説明しません。二人は近代史の荒波に浮かんだ小舟のように、時代に翻弄されつづけます。
本書の後半には、金田一京助、二葉亭四迷、大隈重信なども登場します。これらはすべて実話に基づいたものです。
中島京子は、本書の醍醐味について次のように書いています。
――弱い者は「文明」に呑み込まれるしかないのか。「同化」するか「滅亡」する以外選択肢はないのか。そもそも弱いとはなにか。知恵をつけることは「文明」の側に与(くみ)することになるのか。登場人物たちはそれぞれの場でその難問にぶち当たる。(ALL REVIEWS)
直木賞の選評のなかから、浅田次郎のものを紹介させていただきます。何だか浅田次郎らしくないいいまわしで、おかしかったです。
――文明論という壮大なテーマを柱として巧みなストーリーを構築しているが、けっして難解な小説ではない。一気呵成に読み切るというほどの面白さを備えているとは言い難いにせよ、長い物語を存分に堪能できる。
川越宗一は、わずか2作品で直木賞を受賞しました。これからを大いに期待できる作家です。たくさんの資料を読みこなし、実在だった人物を自分の掌に動かす。この発想と筆力は、直木賞に値すると確信しました。
山本藤光2020.02.23
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます