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山本藤光の文庫で読む500+α

著書「仕事と日常を磨く人間力マネジメント」の読書ナビ

アンネ・フランク『アンネの日記』(文春文庫、深町真理子訳)

2018-02-09 | 書評「ハ行」の海外著者
アンネ・フランク『アンネの日記』(文春文庫、深町真理子訳)

アンネは両親のことをこんなふうに思っていたんだ……
自分用と公開用の二種の日記に父親が削っていた部分を再現した「完全版」に新たに発見された五頁を追加。今明かされる親への思い。(内容紹介)

◎架空のともだち「キティ」

――あなたになら、これまでだれにも打ち明けられなかったことを、なにもかもお話しできそうです。どうかわたしのために、大きな心の支えになってくださいね。

アンネ・フランク『アンネの日記・増補新訂版』(文春文庫、深町真理子訳)の冒頭の文章です。アンネは13歳の誕生日に、プレゼントとして日記帳をもらいました。アンネは日記に「キティ」という名前をつけ、架空のおともだちとして手紙形式で語りかけます。『アンネの日記』がすばらしいのは、この設定にあります。

アンネは1929年、ドイツのフランクフルトで生まれました。しかしナチスのユダヤ人への迫害が激しく、オランダのアムステルダムへ家族で亡命します。そこも第2次世界大戦でドイツに占領され、ユダヤ狩りがはじまります。家族は父が用意した「隠れ家」へと、身を隠さざるを得なくなります。

池上彰に『世界を変えた10冊の本』(文春文庫)という著作があります。そのなかで最初の1冊として、『アンネの日記』が取り上げられています。時代背景が理解できますので、引用させていただきます。

――第一次世界大戦に敗北して、多額の賠償金を課せられたドイツの人々は、生活に苦しんでいました。こういうときは、「敵」を作り出し、「あなたの生活が苦しいのは、敵の陰謀なのだ」と主張することで、政治家は支持を広げることができます。それを実行したのが、アドルフ・ヒットラーでした。ヒットラーは、自国の中に「敵」を作り出します。それがユダヤ人でした。(池上彰『世界を変えた10冊の本』文春文庫P26)

なにやら現代にも通用しそうな話です。いたずらに反日感情をあおっている、どこかの国と同じです。

◎作家・小川洋子の出発点

『アンネの日記』を初めて読んだのは、中学生のときでした。国語の先生から、「読むように」と推奨されたのです。女の子の日記なんて、読みたくない。男子生徒のほとんどは、そっぽを向いていました。私も同じ気持ちだったのですが、ガールフレンドが貸してくれました。

『アンネの日記』は、アウシュビッツ収容所で書かれたものだ、との先入観がありました。それゆえ平穏な学園生活の滑り出しをを読みながら、いつ逮捕されるのかとハラハラしていました。収容されるまでの日々を、思い出しながら書いているとばかり思いこんでいたのです。

そのうちにアンネの家族が、逮捕を逃れて「隠れ家」に移る場面がでてきました。それで得心しました。これは現在進行中の日記なのだ、と。

私が『アンネの日記』を読んだのは、今回で3度目となります。小川洋子と『アンネの日記』の出あいについて、書かれた文章があります。私も同様の感想をもったので、引用させていただきます。

――小川さんが最初に「アンネの日記」と出会ったのは中学1年の時でした。その時は難しくて意味がよく分からなかったそうですが、高校生になって読んだ時に、親への反抗心や、異性への憧れ、将来への希望や不安などが、手に取るようにわかったといいます。小川さんは、アンネの精神年齢の高さに驚くとともに、言葉とはこれほどまでに人の内面を表現できるものなのかと思い、作家になることを決意しました。また大人になって読んだ時には、親としての立場からアンネを見るようになり、その時も新たな発見があったと語っています。(「NHK100分de名著」)

小川洋子は、アンネ崇拝者の筆頭です。小川洋子は、たくさんのアンネ関連の文章を書いています。そのなかでも『アンネ・フランクの記憶』(角川文庫)は、アンネを心の友としている著者の熱い旅路をつづった傑作です。ぜひ『アンネの日記』を読んだあとで、手にしていただきたいと思います。

◎識者たちが読んだアンネ

赤染晶子『乙女の密告』(新潮文庫)は、芥川賞受賞作です。京都の外国語大学に通う女学生は、ドイツ人教授の指示で『アンネの日記』を暗唱させられます。

教授が命じた暗唱箇所は、主人公みか子の記憶のなかにあるアンネとは、まったく異なる存在に思える場面でした。ユダヤ人として自覚するようになっていく心理のあやに、みか子はもう一人のアンネを見つけるのです。

『アンネの日記』にかんする、何人かの感想を引かせていただきます。

――書くっていう行為は、人間の脆くて不安定な精神をこんなにも支えることができるんだ。読み終えて、何よりそのことに心うたれました。(山室恭子・評、丸谷才一・池澤夏樹『愉快な本と立派な本』毎日出版社P148)

――表面的には、陽気な「おしゃべり屋」として快活にふるまいながら、心の底には黒々とした孤立感を抱いていた少女。少年少女の内的世界の表現として、『アンネの日記』には時代や環境をこえる普遍的な素顔がある。(澤地久枝、朝日新聞社学芸部編『読みなおす一冊』朝日選書P409)

――母親との対立に苦悩し、(支援者の名前を借りて行っていた)通信教育での勉強に喜びを見出し、将来の夢を描き、支援者たちへの感謝を忘れず、別れてきた友達へ思いを馳せ、性の問題に悩み、ベーターとの淡い恋に胸をこがす……。息を殺し、存在を消して過ごさなければならない、単調であったはずの日常が、アンネにとってはたいへん濃密なものでした。それが、この日記からありありと伝わってきます。(小川洋子『物語の役割』ちくまブリマー新書P113-114)

――完全版は、父親の配慮で伏せられていた部分を復元してあるので、思春期の少女らしい、性や身体についてのより正直な、赤裸々な記述が目立つ。生理についても六か所でふれている。(米原万里『打ちのめされるようなすごい本』文春文庫P472)

――幼い頃から、驚くほど明確に作家になることをめざしていたアンネの、ものごとの本質を鋭く見抜く、透徹した目は、極限状態のなかでなお、豊かな精神世界をノートのうえにつづることを可能にした。(池田理代子『名作を書いた女たち』中公文庫P198)

――われわれがこの本から読み取るべきことはきっと、「どんな不幸のなかにも、つねに美しいものが残っていることを発見しました」というアンネの言葉に尽きるとおもう。あらゆる場所に美しさはあり、ユーモアがある。われわれはそれを発見し、つかまえるべきなのだとアンネは書いている。(伊藤聡『生きる技術は名作に学べ』ソフトバンク新書P96)

アンネの書いた童話や物語は『アンネの童話』(文春文庫、中川李枝子訳)として、まとめて刊行されています。聖書の次に世界で読まれている『アンネの日記』とともに、ぜひ手にとってみてください。『アンネの日記』は小川洋子の感想にあるとおり、生涯で3回は読まなければならない作品です、とお伝えしたいと思います。きっとその都度、新たな発見があると思います。
(山本藤光2013.08.07初稿、2018.02.09改稿)

シャーロット・ブロンテ『ジェーン・エア』(上下巻、光文社古典新訳文庫、小尾芙佐訳)

2018-02-06 | 書評「ハ行」の海外著者
シャーロット・ブロンテ『ジェーン・エア』(上下巻、光文社古典新訳文庫、小尾芙佐訳)

幼くして両親を亡くしたジェイン・エアは、引き取られた伯母の家で疎まれ、寄宿学校に預けられる。そこで心を通わせられる人々と出会ったジェインは、8年間を過ごした後、自立を決意。家庭教師として出向いた館で主のロチェスターと出会うのだった。ジェインの運命の扉が開かれた。(「BOOK」データベースより)

◎『ジェーン・エア』は自伝小説

『ジェーン・エア』をはじめて読んだのは、おそらく高校時代、角川文庫(田部隆次訳)だったと思います。エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(新潮文庫)を読んで、お姉さんのほうにも関心がむいたのでしょう。実際にはブロンテ3姉妹ですが、残念ながら3女・アンの著作は住まい(北海道標茶町=しべちゃ町)の図書館にはありませんでした。

 今回新訳(光文社古典新訳文庫、小尾芙佐訳)がでたので、再読してみました。再読といっても、ほとんど記憶に残っていませんでしたので、初々しい気持ちで読むことができました。

『ジェーン・エア』は「自伝」と明確な副題がついています。そのあたりについて、小説と現実を重ねてみたいと思います。

小説1:幼くして両親を失ったジェーン・エアは、冷酷な伯母の家に預けられます。
現実1:C・ブロンテは1816年、イギリスのヨークシャーの牧師パトリック・ブロンテの長女として生まれました。5歳のときに母を失い、伯母に育てられます。

小説2:その後ジェーンは、ローウッドというひどい環境の寄宿舎に送りこまれます。ジェーンはここで生徒として6年、教師として2年をすごします。
現実2:1824年、ランカシャーのカウアン・ブリッジ校に入学します。その学校は施設・教育ともにひどく、2人の姉は学校の不衛生が原因で肺炎のために死去しました。

小説3:18歳になったジェーンは、ロチェスター家に家庭教師として雇われます。ジェーンは醜男の主人と恋におちいり結婚の約束をします。
現実3:1842年、教師資格を得るためにブリュッセルの学校に入学します。そこで妻帯者のエジェ氏に特別の感情を抱きます。

 ところが結婚式の当日、ロチェスターは精神を病んだ妻を、屋敷の奥に幽閉していることが明らかになります。深い悲しみのなか、ジェーンは屋敷を去ります。

 そして牧師をしているセント・ジョンに救われ、プロポーズされます。しかし彼の生き方に同調できず、ジェーンはその申し出を断ります。

ある夜のことです。ジェーンは遠くで自分を呼んでいる声を耳にします。不吉な思いのなか、彼女は屋敷へと飛んでかえります。そこでジェーンが目のあたりにしたのは、火事で妻を亡くし、片腕を失い盲目となったロチェスターの姿でした。

 C・ブロンテのおいたちから、作品を照射した解説があります。
――ジェーン・エアは「ちびで、血色がさえない上に、不細工で、ひと癖もふた癖もある顔」をした家庭教師だったが、真の意味の愛と自由を求めつづけていた。この愛と自由を追求する姿勢は、「なぜわたしがこのように苦しまなければならないのか、という問いかけ」を発した子供時代から一貫している。(知の系譜明快案内シリーズ『イギリス文学・名作と主人公』自由国民社)

◎少年少女小説ベスト45位

意外に思われるかもしれませんが、『ジェーン・エア』は老若男女から親しまれています。『少年少女小説ベスト100』(文春文庫ビジュアル版)という本があります。各界の著名人143名が選んだものです。私の読書の道しるべになっている本のひとつです。

『ジェーン・エア』は、トゥエイン『ハックルベリの冒険』とともに45位にランクされています。ちなみに第1位はダニエル・デフォー『ロビンソン漂流記』、つづいてアレキサンドル・デュマ・ベール『岩窟王』、ジュール・ベルヌ『十五少年漂流記』、スティーブンスン『宝島』、バーネット『小公子』となっています。

日本の作品では、中勘助『銀の匙』11位、宮沢賢治『風の又三郎』20位、下村湖人『次郎物語』22位となっています。夏目漱石『吾輩は猫である』は57位でした。

落合恵子は『ジェーン・エア』を中3のときに読み、ひどく暗いものがたりだと思ったそうです。映画『帰郷』を観て、『ジェーン・エア』の再読を思い立ちました。そして「ヒロイズム」についておおいに考えることになりました。落合恵子が引用している文章を、孫引きになりますが2つ紹介します。あまりにも的確に、本書を語ってくれているからです。

――もし男性が、私たち女性の実際の姿を見ることができれば、彼らは少々驚くでしょう。どんなに賢いどんなに洞察力のある男でも、女性について錯覚に陥っていることがしばしばあるのです。(落合恵子執筆、朝日新聞社学芸部編『読みなおす一冊』朝日選書、エレン・モアズ『女性と文学』(青山誠子訳、研究社出版からの引用)

――『女性と文学』(青山誠子訳、研究社出版)の著者・エレン・モアズは、ジェーン・エアの愛情の選択について、次のような解釈を加えている。「ジェーンが自尊心を持って」見つけだし、「自分を委ねることができるのは」、あらゆるものを失ったロチェスターのような男に対してだけなのである」と。(落合恵子執筆、朝日新聞社学芸部編『読みなおす一冊』朝日選書)

 夏樹静子が『ジェーン・エア』を読んだのは中1のときで、「私はたちまちヒロインに感情移入した」と書いています。そしてクライマックス・シーンについて、つぎのような文章を寄せています。
――深夜に「ジェーン」という叫び声を聞いて、馳せ戻るあたりで、私は魂がふるえるような感動を覚えた。ああ、これが愛なのだと、十三歳の私は生まれてはじめてそれをありありと疑似体験した。(夏樹静子の寄稿、文藝春秋編『青春の一冊』文春文庫より)

 最後にジェーン・エアの人物にせまっている文章を、紹介させていただきます。
――恋愛における男女の対等性を強く主張する彼女は、人間は感情に支配される存在であるという基本的な人間観をもっている。虐待には怒りを、愛情には情熱をもって応えることが人間として当然の行いであると信じている。(日本イギリス文学・文化研究所編『イギリス文学ガイド』荒地出版社P101より)

『ジェーン・エア』は、中学校の図書館に常備しておかなければならない作品のようです。私は異なる訳書で3回読んでいますが、いつも新鮮な感動を覚えています。もっとも私の記憶力の欠如が、そうさせているのかもしれませんが。今回、小尾芙佐訳に接して、私は「山本藤光の海外文学」の順位を、少しだけ上に修正しました。
(山本藤光:2011.04.23初稿、2018.02.06改稿)

ヘルマン・ヘッセ『車輪の下で』 (光文社古典新訳文庫・松永美穂訳)

2018-02-04 | 書評「ハ行」の海外著者
ヘルマン・ヘッセ『車輪の下で』 (光文社古典新訳文庫・松永美穂訳)

周囲の期待を一身に背負い猛勉強の末、神学校に合格したハンス。しかし厳しい学校生活になじめず、学業からも落ちこぼれ、故郷で機械工として新たな人生を始める…。地方出身の一人の優等生が、思春期の孤独と苦しみの果てに破滅へと至る姿を描いたヘッセの自伝的物語。(「BOOK」データベースより)

◎実話に基づいた作品

高校時代、この作品を読んでいなければ軽蔑されました。北海道川上郡標茶(しべちゃ)町には書店が1軒しかなく、汽車に乗って釧路まで『車輪の下』を買いに行ったことがあります。無事に本を買って、当時流行っていた映画「愛と死をみつめて」を見ました。ガールフレンドといっしょでした。

 ヘルマン・ヘッセは、1960年代の高校生にとっては必読書でした。『車輪の下』は、ヘッセの自伝的な小説だと聞かされていました。年譜を眺めてみると、なるほどと思います。ヘッセは14歳のときに、州試験に合格して神学校に進んでいます。富裕層の子どもにとっては、なんのことはない道です。ヘッセが神学校に進むためには、給費生にならなければなりませんでした。つまり優秀でなければ、絶対に入ることができないコースだったわけです。
 
 訳者のあとがきを読んで、はじめて気がついたことがあります。タイトルが『車輪の下』ではなく、『車輪の下で』となっていたのです。訳者・松永美穂は、つぎのように書いています。

――新訳にあたって、タイトルを『車輪の下で』にしてみた。これまでにも『車輪の下に』というバージョンがあったけれど、既訳の大部分は『車輪の下』というタイトルである。「で」という助詞を加えることで、運命の車輪の下で悶え苦しむハンスの、その闘いぶりが現在進行形で伝わるのではないか、と思った。(訳者あとがきより)

 私は馴染み深いタイトルを変えることには、反対です。特に翻訳文学では、第一訳者のタイトルを尊重すべきだと思います。よく単行本のタイトルを、文庫版で変えてしまう作家がいます。それを知らないで、買い求めたことが何度もあります。とくに折原一(好きな作家です。)は、やりすぎだと思います。本文に加筆修正するのはかまいません。タイトルにまで手をつけるな、といいたいのです。
 
◎傷つきやすい少年の心

 主人公のハンス・ギンベンラートは、優秀な田舎の子どもでした。川遊びや魚釣りの好きなどこにでもいる少年は、周囲から大きな目標を与えられます。州試験に合格して、神学校に進むこと。給費金を受けてさらに大学に進み、将来は牧師か教師になること。そのための特訓がはじまります。
 
 ハンスの母親は他界しています。勉学に関して父親は頼りになりません。ハンスは大好きな遊びを封印し、受験勉強に明け暮れます。ハンスは無事に合格し、神学校生となります。寮生活がはじまります。寮では難しい学問と躾が待っていました。
 
 大方の寮生はまじめでしたが、異端児もいました。ハイルナーという生徒は教師に反抗的で、寮内でも浮いた存在でした。ハンスはハイルナーと親しくなります。ある日、ハイルナーはハンスにキスをします。詩人で男らしく奔放なハイルナーにたいして、ハンスは同性愛的な親愛感をもちます。ここからハンスは、勉学への熱を失ってしまうわけです。
 
 ハイルナーは寮を脱走し、悩んだハンスは心の病にかかります。ハンスは追いだされるように、故郷に戻ります。ハンスは故郷で、進学のときに世話になった、靴屋の姪・エンマと知り合います。キスをしました。豊満で若々しい女性に、ハンスは心を奪われます。しかしエンマは、突然ハンスの前から消えてしまいます。
 
 孤独なハンスは神学校を辞め、いちばん嫌っていた職工になる決意をします。著者のヘルマン・ヘッセも半年ほどで、寮の規律に耐えられずに脱走しています。ヘッセには、詩人になるという夢がありました。しかし『車輪の下で』のハンスにはそうした夢すらありませんでした。絶望のなかハンスは青い作業服に身を包み、機械工の見習いとなります。
 
 見習いとなったハンスは、年上の娘のからかいにあい、混乱し自滅してしまいます。ヘッセはガラス細工みたいな少年の、壊れやすい心理を巧みに描いています。

◎印象的な2つのキス
 
 ハンスは初めてのキスを2回経験しています。男ともだち・ハイルナーと、若い女性・エンマとのキスです。それぞれのキスのあと、ハンスの心は乱れてしまいます。その場面が印象的でした。引用してみましょう。
 
――暗い宿泊所に一緒にいて突然キスするなどということは、どこか冒険的な新しいこと、ひょっとしたら危ないことだった。こんな様子を見られたらどんなに恐ろしいか、という思いが浮かんだ。(男ともだち・ハイルナーとのキスのあと)

――彼は深い脱力感に襲われた。見知らぬ唇が自分から離れていく以前にもう、体中をふるわせる欲望が、死ぬほどの疲れと苦痛に変わっていった。(エンマとのキスのあと)

 幼いハンスは、突き放されつづける毎日を送りました。自分の未来を父親や校長に、頭がいいのだから神学校を目指すように突き放されました。大好きな川遊びからも突き放されました。神学校の宿泊所の仲間からも、教官たちからも突き放されました。そんなときに、ハイルナーとキスをします。はじめて受け入れてもらったことに、ハンスは心を痛めます。
 
 そして危ないキスのあと、体中を震わせるキスを経験します。このときハンスは、心底受け入れてもらったことに喜びを覚えました。背伸びし、打ちひしがれていたハンスを抱きしめてくれた2人。2人はハンスの小さな胸に、強烈なインパクトを与えて消えてしまいました。
 
 胸にジーンときた、とてもいい作品でした。私のはじめてのキスは、『車輪の下』を買い求めた帰路だったことを思いだしました。
(山本藤光:2009.09.05初稿、2018.02.04改稿)

イザベラ・バード『日本奥地紀行』(高梨健吉・訳、平凡社ライブラリー)

2018-02-04 | 書評「ハ行」の海外著者
イザベラ・バード『日本奥地紀行』(高梨健吉・訳、平凡社ライブラリー)

文明開化期の日本…。イザベラは北へ旅立つ。本当の日本を求めて。東京から北海道まで、美しい自然のなかの貧しい農村、アイヌの生活など、明治初期の日本を浮き彫りにした旅の記録。(「BOOK」データベースより)

◎日朝中の奥地紀行を併読する

イザベラ・バードは、1878(明治11)年48歳のときに、東京、日光、新潟、山形、秋田、北海道と半年間かけて見て回りました。『日本奥地紀行』(平凡社ライブラリー)は、その体験をまとめたものです。本の体裁は妹に宛てた私信となっており、全部で44信まであります。

イザベラ・バードにはほかに『朝鮮紀行』(講談社学術文庫)という著作があります。こちらは1894年から1897年にかけて4度にわたり、末期の李氏朝鮮を訪れたときの旅行記です。『日本奥地紀行』と『朝鮮紀行』はともに普及版で、平凡社の東洋文庫ではつぎの3種類を読むことができます。私は図書館で借りて読みました。
1. 日本奥地紀行(平凡社東洋文庫)
2. 朝鮮奥地紀行・全2巻(平凡社東洋文庫)
3. 中国奥地紀行・全2巻(平凡社東洋文庫)

この3冊を併読すると、当時の日朝中の文化・風土・国民性などが浮き彫りになってきます。ならべてみたいと思います。

【日本】
――上陸して最初に私の受けた印象は、浮浪者が一人もいないことであった。街頭には、小柄で、醜くしなびて、がにまたで、猫背で、胸は凹み、貧相だが優しそうな顔をした連中がいたが、いずれもみな自分の仕事をもっていた。(『日本奥地紀行』P26)
【朝鮮】
――朝鮮人には猜疑、狡猾、嘘を言う癖などの東洋的な悪徳が見られ、人間同士の信頼は薄い。女性は隔離され、ひどく劣悪な地位に置かれている。(『朝鮮奥地紀行』1巻,P30)
【中国】
――中国の町のごろつき連中は、無作法で、野蛮で、下品で、横柄で、自惚れが強く、卑劣で、その無知さ加減は筆舌に尽くせない。そして、表現することも信じることもできないような不潔さの下に暮らしている。その汚さといったら想像を絶するし、その悪臭を言い表せる言葉は存在しない。そんな連中が日本人を、何と、「野蛮な小人」と呼ぶのである!(『中国奥地紀行』1巻P381)

 現在と寸分もかわっていないじゃないか、と思わず笑ってしまいました。引用例でも明確なように、イザベラ・バードの筆致は辛辣で直截的です。『日本奥地紀行』は外国人の目を通じて、明治の日本を知る貴重な文献です。さらにアイヌ文化の研究が本格化する以前のものとして、貴重な研究資料と評価されています。

 本書を解読するうえで、不可欠な2冊があります。民俗学者・宮本常一『イザベラ・バード「日本奥地紀行」を読む』(平凡社ライブラリー)です。日本人にとってあたりまえであり、それゆえだれも書かなかったことを、イザベラ・バードは驚愕と疑念をまじえて書いている。宮本常一はそうした評価をしています。

 もう1冊は、パット・バー『イザベラ・バード 旅に生きた英国婦人』(講談社学術文庫、小野崎晶裕訳)です。バードの生涯をつづったもので、そのなかには「日本・奥地紀行の内幕」という章があります。

◎蚤や蚊がうるさかった

イザベラ・バートは、通訳として18歳の伊藤鶴吉をしたがえ、東京を出発します。以下、旅程でのポイントを整理してみます。

【第6信・粕壁】(埼玉県春日部)
――手紙を書こうとするのだが、蚤や蚊がうるさかった。その上さらに、しばしば襖が音もなく開けられて、幾人かの黒く細長い目が、隙間から私をじっと覗いた。(本文P79)

【第12信・車峠】(横川)
――この土地の住人、特に子どもたちには、蚤やしらみがたかっている。皮膚にただれや腫れ物ができるのは、そのため痒みができて掻くからである。(本文P161)

 蚤にはずいぶん悩まされたようです。宮本常一『イザベラ・バード「日本奥地紀行」を読む』では、つぎのような解説があります。
――彼女が旅に出て最初にぶつかった問題は蚤だったわけで、外国人としてはおそらく驚いたことだろうと思うのです。日本人にとっては蚤に喰われるのは当り前のことだったけれども、やはりこのくらい嫌なものはなかったと思うのです。(本文P53)

 蚤や蚊には悩まされたものの、人にたいしては安心感をいだいている例が目立ちます。

【第13信・車峠】(横川)
――ヨーロッパの多くの国々や、わがイギリスでも地方によっては、外国の服装をした女性の一人旅は、実際の危害を受けるまではゆかなくとも、無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすりとられるのであるが、ここでは私は、一度も失礼な目にあったこともなければ、真に下等な料金をとられた例もない。(本文P171)
 
 現在でも外国人は、日本人が夜に、女、子どもが一人歩きしていると驚いています。日本の治安のよさは、この時代からつづいているのです。

本州を抜けたイザベラ・バードは、函館からアイヌ村の平取へと入ります。平取ではアイヌ小屋で2晩泊まりました。アイヌ民族にたいしてイザベラ・バードは日本人とは異なる人種と感じています。

――彼らは、日本人の場合のように、集まって来たり、じろじろ覗いたりはしない。おそらく無関心なためもあり、知性が欠けているためかもしれない。この三日間、彼らは上品に優しく歓待してくれた。しかもその間彼らは、自分たちの日常生活と仕事をそのまま続けている。(本文P379)

イザベラ・バード『日本奥地紀行』は、さまざまな意味で日本人の原点を想起させてくれました。そして宮本常一『イザベラ・バード「日本奥地紀行」を読む』からは、自分の思考力の甘さを痛感させられました。

◎あとづけ(2014.11.10)

2014年10月に関連本が出版されています。金坂清則『イザベラ・バードと日本の旅』(平凡社新書754)。まだ未読ですので評価は別途させていただきます。
(山本藤光:2014.08.25初稿、2018.02.04改稿)

ヘミングウェイ『老人と海』(新潮文庫、福田恆存訳)

2018-02-04 | 書評「ハ行」の海外著者
ヘミングウェイ『老人と海』(新潮文庫、福田恆存訳)

キューバの老漁夫サンチャゴは、長い不漁にもめげず、小舟に乗り、たった一人で出漁する。残りわずかな餌に想像を絶する巨大なカジキマグロがかかった。4日にわたる死闘ののち老人は勝ったが、帰途サメに襲われ、舟にくくりつけた獲物はみるみる食いちぎられてゆく…。徹底した外面描写を用い、大魚を相手に雄々しく闘う老人の姿を通して自然の厳粛さと人間の勇気を謳う名作。(「BOOK」データベースより)

◎波瀾万丈の生涯

 ヘミングウェイは、壮絶な猟銃自殺で生を絶ちました。それまでの生きざまも、すさまじいものです。以下駆け足になりますが、ざっと拾いだしてみたいと思います。

 1917年アメリカは、第1次世界大戦の真っ只中でした。高校を卒業したヘミングウェイは、兵役を望みましたが、父親の反対で断念しています。翌年赤十字の公募により、イタリア軍づき赤十字要員としてミラノに赴任します。そして脚部に砲撃を受け、重症を負います。このあたりのことは「死者の博物館」(『ヘミングウェイ全短編2』新潮文庫所収)や「身を横たえて」(『ヘミングウェイ全短編1』新潮文庫所収)などの短編に描かれています。

その後、ヘミングウェイはパリに渡り、『日はまた昇る』(新潮文庫)などで作家としての地盤を固めました。1927年再婚(ヘミングウェイは4回結婚しています)、午前は執筆、午後は狩猟や釣りの生活を謳歌します。1929年『武器よさらば』(新潮文庫)が大ヒットとなります。

 1935年多くの死者をだしたハリケーンのときに、復員兵キャンプの救助活動。1936年スペイン市民戦争では現地入りし、人道的な活動。1944年雑誌記者として、ノルマンディー上陸作戦に参加。ヘミングウェイは、作家活動以外でも名をはせました。その後のヘミングウェイは乗っていた飛行機の墜落で内臓損傷、高血圧、不眠症などに苦しみます。

――「思いどおりに生きていけないんだったら、生きることは無意味なんだ」という言葉通り、ヘミングウェイの生涯は、波瀾に満ちあふれたものでした。(リクルート『解体全書』を参考にしました)

◎最後の力を振り絞って

 ヘミングウェイの作品は、ハードボイルド・リアリズムと称されています。ハードボイルド小説の元祖、との評価すらあるほどです。『老人と海』(新潮文庫)は、大きな魚との闘いの記録です。彼が好んだ闘牛や経験したさまざまな闘いの、集大成が本書なのです。
 
 キューバの老漁師・サンチャゴは、84日間一ぴきも魚をとっていません。最初の40日は、少年が乗船していました。しかし少年は両親のいいつけで、別の船に乗るようになりました。その日も、老人は孤独な漁にでます。少年は2ひきの餌魚を老人に渡し、小舟を見送ります。少年は老人を尊敬していました。しかし稼ぎがないことから、両親の説得を受けて別の舟に乗っています。

(引用はじめ)
「うまくいくように、お爺さん」
「お前もな」老人はそれに応えていった。かれはオールの繋索を小舟の櫂杭にあてがい、それから、さっと前かがみになると、オールに受ける水圧をはじきかえすようにして、暗がりのなかを港から大海をめざして漕ぎだしていった。
(引用おわり)

小舟には無線機もラジオもありません。食料も積みこんでいませんし、わずかな水があるだけです。老人はメジャーリーグのフアンで、特にヤンキースのディマジオを崇拝しています。カジキマグロとの格闘中に、老人はディマジオの踵の痛みを、自分に同化させて回想します。余談ですが、本書にはイチローが安打記録を破ったシスラーの名前もでてきます。
 
 餌が残り少なくなったとき、大きなカジキマグロがひっかかります。老人と巨大魚の死闘は、4日間におよびます。その描写は壮烈です。何度も死線をかいくぐった、著者ならではの張り詰めた文章がつづきます。
 
 年譜によれば、ヘミングウェイは53歳のときに『老人と海』を書いています。作家としては、いちばん油の乗った時期でしょう。ストーリー、構図、登場人物、文体、タイトルなど、老練の作家として、熟考に熟考を重ねて作品を仕上げたはずです。
 
 ヘミングウェイは、迫りくる自分の老いに気づいていたはずです。体調はかんばしくなく、精神的にも病んでいました。本書を読んでいて老漁師の独白が、まるでヘミングウェイ自身のものであるかのように感じました。
 
(引用はじめ)
「おい、どうだね、ぐあいは?」老人は大声で魚に話しかける。「おれは元気だ、左手もよくなったし、食料は今夜と明日の昼間の分と用意ができているし。さあ、舟を引っ張ったり、引っ張ったり」/かれはちっとも元気よくなどなかった。背中の痛みはほとんど痛みの域をとおりこして、自分にも信じがたいほどの無感覚状態に達していた。
(引用おわり)

 長い格闘が終ります。港に獲物を牽引しているとき、老人にさらなる試練が待ち受けていました。最後は小川洋子のすてき書評で結ばせてもらいます。

――新聞記者の文体がベースになっているといわれるヘミングウェイの筆致は、決してセンチメンタルに流されることはありません。だからこそ、読み手は行間に様々な感情を付け加えながら読み進むことができ、結果として老人に深く感情移入させられてしまいます。考えてみれば、形容詞を極力排除しながらありのままを描写する文体は、海の男を描くのにぴったりの手法かもしれません。(小川洋子『みんなの図書室』PHP文芸文庫)
(山本藤光:2009.09.26初稿、2018.02.04改稿)

バルザック『ゴリオ爺さん』(新潮文庫、平岡篤頼訳)

2018-02-04 | 書評「ハ行」の海外著者
バルザック『ゴリオ爺さん』(新潮文庫、平岡篤頼訳)

奢侈と虚栄、情欲とエゴイズムが錯綜するパリ社交界に暮す愛娘二人に全財産を注ぎ込んで、貧乏下宿の屋根裏部屋で窮死するゴリオ爺さん。その孤独な死を看取ったラスティニャックは、出世欲に駆られて、社交界に足を踏み入れたばかりの青年だった。破滅に向う激情を克明に追った本書は、作家の野心とエネルギーが頂点に達した時期に成り、小説群“人間喜劇”の要となる作品である。(「BOOK」データベースより)

◎結びがすばらしい作品

書き出しで有名な小説は数々あります。外国文学で代表的なのは、「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。」(カミュ『異邦人』新潮文庫、窪田啓作訳)でしょう。それとくらべて、結びが話題になる作品は多くはありません。バルザック『ゴリオ爺さん』(新潮文庫)は、おわったところからはじまる予感をさせてくれる、絶妙な結びになっています。

サマセット・モームに『世界の十大小説』(岩波文庫、上下巻)という著作があります。上巻では『ゴリオ爺さん』が取り上げられています。結びについて、モームが絶賛しているので引用してみたいと思います。

――『ゴリオ爺さん』は主人公の老人の死でおわる。ラスティニャックは葬式に出かけ、葬式がすむと、そのまま墓地にひとり残って、セーヌ河の両岸に沿って足もとに横たわっているパリの町を眺めわたす。彼の目は、ぜひともその一員になりたいと願っている。かの社交界の人々が住む町の一区画の上にとまる。そして叫ぶ、「さあ、これからいよいよお前とおれとの勝負だぞ」。(本文より)

私が読んだ新潮文庫では「さあ今度は、おれとお前の勝負だ!」となっています。ちなみにラスティニャックは、本書でのサブ主人公の役割を果たしています。夢と希望を抱いてパリへでてきた学生で、大成するためには学問よりも社交界を制することと信じるようになっています。サブの主人公が結末では、いつの間にか主役の座を占めています。『ゴリオ爺さん』のだいご味はそんなところにあると思います。

◎ゴリオ爺さんの2人の娘

『ゴリオ爺さん』の主役は、あくまでもゴリオ爺さんです。ラスティニャックとは、パリのみすぼらしい下宿屋の住人仲間です。ゴリオには2人の娘がいます。長女は名門貴族に、次女は名士の銀行家に嫁いでいます。ゴリオが裕福なときに、多額の持参金をそえて嫁がせたのです。

娘たちはゴリオから、資産をむしりとりつづけました。娘たちはゴリオを顧みようとはしません。貧相な下宿屋のゴリオと、豪邸に暮らす娘たち。腐敗し堕落したパリ。バルザックは光と影を巧みに描きわけます。

ゴリオはしだいに貧しくなり、娘たちが幸せになってくれることのみが生きる糧となります。幼く愛らしかった娘たちが、パリの毒素に染まってゆきます。娘たちは、死期が迫ったゴリオを見舞いにもきません。それでもゴリオは娘たちに、異常なまでの寛容さを示します。ブルジュアが台頭してくるパリの澱(おり)のなかに、ゴリオ爺さんの父性愛は埋没してしまうのです。すさまじい結末が待っています。

◎発信後の追加メモ

 最近ちくま文庫から「バルザック・コレクション」として、新たな作品が出版されています。『ソーの舞踏会』(2014年4月)、『オノリーヌ』(2014年5月)、『暗黒時代』(2014年6月)と、いずれも私の書棚にはなかった作品ばかりです。

大好きな作品『従妹ベッド』は、むかし新潮文庫(上下巻)ででていますが、古書価格はセットで1万円もします。しかたがないので、集英社世界文学全集デュエット版を文庫棚においています。ちくま文庫の「バルザック・コレクション」に、はいらないかと楽しみにしているのですが。

◎追記2015.03.03

朝日新聞(2015.03.03夕刊)に「資本に翻弄 悲劇を文学に」「ピケティも引用 バルザックとは」という記事がありました。ポイントを引用させてもらいます。

――労働所得よりも世襲財産で得られる暮しの質の方が、はるかに上回ってしまう19世紀の階級社会。ピケティ氏は、21世紀の社会が19世紀の格差社会に逆戻りしつつあると論じました。その19世紀を活写するにあたって引用したのが、バルザックの『ゴリオ爺さん』です。(「朝日新聞」2015.03.03夕刊より)

――バルザックが生きたのは、フランス革命とナポレオンの台頭、それに王政復古や市民革命が続く激動の時代。物語の中に、貴族だけでなくブルジョアや貧乏学生、犯罪者、娼婦など幅広い種の人間を登場させ、揺れ動く社会の全てを描こうとしました。(「朝日新聞」2015.03.03夕刊より)

(山本藤光:2012.02.22初稿、2018.02.04改稿)

エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(新潮文庫、鴻巣友季子訳)

2018-02-02 | 書評「ハ行」の海外著者
エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(新潮文庫、鴻巣友季子訳)

寒風吹きすさぶヨークシャーにそびえる〈嵐が丘〉の屋敷。その主人に拾われたヒースクリフは、屋敷の娘キャサリンに焦がれながら、若主人の虐待を耐え忍んできた。そんな彼にもたらされたキャサリンの結婚話。絶望に打ちひしがれて屋敷を去ったヒースクリフは、やがて莫大な富を得、復讐に燃えて戻ってきた……。一世紀半にわたって世界の女性を虜にした恋愛小説の<新世紀決定版>。(文庫内容紹介より)

◎無口で内気で独身で

エミリー・ブロンテは、1818年イギリスで生まれました。30歳で夭折しています。生涯で発表した小説は『嵐が丘』(1847年)のみです。姉は『ジェーン・エア』のシャーロット・ブロンテ(500+α推薦作)です。

 ずいぶん短いプロフィールだと、驚かれたかもしれません。少し辞書的な解説で補足しておきます。

――イギリスの女流作家。シャーロットの妹。少女時代、姉と弟妹と一緒に空想的な物語を書くことに熱中。妹アンと共作した『ゴンダル物語』は現存しないが、これらによって培われた奔放な想像力は、詩作やイギリス小説の最高傑作のひとつ『嵐が丘』(1847)においてみごとに結実した。『囚人』、『わが魂は怯儒ならず』などによって、詩人としても特異な地位を占めている。(「ブリタニカ国際百科事典」より)

――イギリスの女性小説家。C.ブロンテの妹。特異な小説「嵐が丘」のほか、詩集がある。(1818~1848)(「広辞苑」第六版より)

「新潮世界文学小事典」の解説については、のちほど紹介したいと思います。私は書評の執筆にあたって、必ず3冊の辞書をひもときます。辞書は簡単明瞭に、著者のすべてを語ってくれます。それも最新の解説を紹介してくれるのです。たとえば「広辞苑」第五版では、エミリー・ブロンテの説明が第六版とは違います。

――イギリスの女性小説家。C.ブロンテの妹。作「嵐が丘」。(1818~1848)(「広辞苑」第五版より)

つまり「広辞苑」第五版のときは評価が低かった「詩人」としての価値が、追記されたのです。こうした発見が辞書をひく楽しさなのでしょう。大半の本には著者プロフィールが掲載されています。そして著作履歴も添えられていますが、自社寄りの作品紹介が多いので鵜呑みにはできません。出版社のプロフィールは、あまり信用できないのです。
 
 エミリー・ブロンテが発表した小説は、前記のとおり『嵐が丘』しか存在していません。それも生前の評価は、かんばしいものではありませんでした。

 エミリー・ブロンテは1818年に、イギリスのヨークシャー州の牧師の家に生まれました。3歳のときに母を亡くし、独身のままほぼ一生を荒涼とした寒村の牧師館で暮らしました。そのあたりのことを、辞書的解釈で説明してみましょう。

――イギリスの女流作家。シャーロット・ブロンテの妹。四二年、シャーロットとともにブリュッセルに遊学し、同年冬に帰国してからは、家事をみるために故郷ヨークシャの牧師館にとどまった。彼女は周囲の自然を愛し、荒涼たる荒地の中の孤独な散歩と沈思の中に魂の慰めを見いだしながら、独自の神秘的な心の世界を作り上げた。極端に無口で、内気な性格であったが、同時に非常に鋭敏な感受性と男性をしのぐほどの激しい独立不羈(ふき)の精神をもっていた。(以下略)(「新潮世界文学小事典」より)

池田理代子『名作を書いた女たち』(中公文庫)に、「孤独に生き急いだ女」という章があります。そのなかにブロンテ家族について、書かれた記述がありますので書き抜いておきます。『嵐が丘』を読むうえで、知っておくべきことだと思います。
 
・1820年、ブロンテ牧師夫妻がハワースに赴任する。ハワースは、ロンドンからはるかに離れたうらさびしい田舎である。
・夫のパトリック・ブロンテは、農夫、鍛冶屋、織物業者を経てケンブリッジ大学への入学を許されている。当時としては異例の出世であった。
・妻はマリア・ブランウェル。
・ブロンテ牧師夫妻には6人のこどもがいた。
・長女マリアは6歳、次女エリザベスは5歳、3女シャーロットは4歳、長男パトリック・ブランウェルは3歳、4女エミリーは2歳、そして生まれたばかりの5女アンがいた。
・1921年、幼いこどもを残して、母マリアが死去。
・1923年、劣悪な寄宿舎生活のために肺炎に罹患した長女マリアは9歳、次女エリザベスは7歳で死去。
・1845年、シャーロットは、エミリーとアンとの3人詩集を発表する。
・1847年、シャーロット『ジェーン・エア』、エミリー『嵐が丘』、アン『アグネス・グレイ』という小説を発表。
・1946年、長男ブランウェルが酒と阿片におぼれて死去。
・1848年、エミリー死去。30歳。
・1849年、アン死去。
・1855年、シャーロット死去。38歳。その後、父パトリック・ブロンテは84歳で死去。

◎複雑な人間模様

落合恵子は、大岡信ほか編『世界文学のすすめ』(岩波文庫別冊12)のなかで、「16歳のときに『嵐が丘』を読んで、人物関係の複雑さに放り出してしまった」と書いています。なるほど、この作品はやっかいです。なにしろ親子孫の3代にわたる怨念の物語なのですから。 

 主人公は、ヒースクリフという孤児。彼は「嵐が丘」と呼ばれる田舎の屋敷の主人・アーンショウに拾われます。彼は黒く、薄汚れており、悪魔の申し子のような子どもでした。「嵐が丘」には、アーンショウの息子・ヒンドリートと娘・キャサリンが住んでいます。アーンショウが亡くなると、息子・ヒンドリーはヒースクリフを虐待しはじめます。
 
 そんなヒースクリフを、妹キャサリンはかばいつづけます。2人はやがて、愛し合うようになります。ヒンドリーは結婚して、ヘアトンという男児が生まれます。しかしヒンドリーの暴虐ぶりは、妻子にまでおよびはじめるのです。
 
 キャサリンはふとしたことから知り合った、リントン家のエドガーと結婚します。2人の間に、キャサリン・リントンという女児が生まれます。
 
 リントン家の屋敷は、「鶫(つぐみ)の辻」と呼ばれています。「鶫の辻」は、「嵐が丘」から4マイル(6.4キロ)離れたところにあります。エドガーとともに、妹のイザベラが同居しています。
 
 キャサリンがエドガーと結婚することを知ったヒースクリフは、忽然と姿をくらまします。それから3年後、復讐心に燃えたヒースクリフが舞い戻ってきます。彼はヒンドリーを破滅に追いこみ、その息子・ヘアトンを虐待します。
 
 ヒースクリフは最愛の人・キャサリンを奪った、エドガーにたいしても刃を向けます。キャサリンにいいより、混乱したキャサリンは女児を生んで死んでしまいます。ヒースクリフの復讐は、それだけでは終わりません。エドガーの妹・イザベラと結婚し、男児をもうけてしまうのです。ヒースクリフの復讐心に気づいたイザベラは家をとびだし、女児・リントンが12歳のときにこの世を去ります。
 
 このあたりの人間模様については、文庫本の扉に家系図が掲載されています。私は何度もそれを見ながら、ページをくくりました。本書は登場人物の人間関係と死亡時期を整理しながら、ていねいに読み進めてもらいたいと思います。それさえ頭に入れば、物語に没頭できるようになります。
 
◎『嵐が丘』はユニークな作品
 
 物語は風変わりな旅人・ロックウッドが、「鶫の辻」を間借りするところからはじまります。ロックウッド(作品のなかでは語り手「わたし」)は家主が住んでいる「嵐が丘」を訪ねます。ロックウッドを迎えたのは、ヒースクリフでした。その夜、ロックウッドは「嵐が丘」に泊めてもらい、キャサリン(エドガーの妻、死亡しています)の幽霊に遭遇します。
 
 ロックウッドは幽霊の正体について、家政婦のネリーに尋ねます。ここから先は、ネリー(語り手「わたし」)の長い回想録となります。
 
 サマセット・モームは『嵐が丘』を、著作『世界の十大小説(下巻)』(岩波文庫)で高く評価しています。まるでエミリー・ブロンテの伝記を読んでいるような錯覚をおぼえたほど、『嵐が丘』の原点に迫っていました。世の中には数知れぬブックガイドがありますが、モームの『世界の十大小説』(上下巻)および『世界文学読書案内』(ともに岩波文庫)ほど充実した著作はありません。簡単に紹介してみましょう。
 
――『嵐が丘』はユニークな作品である。もっとも、手際のよい小説ではなく、現に、場所によると、とうていありそうには思われぬことが書いてあるので、読者はあっけにとられてしまうほどであるが、それにもかかわらず、情熱にみち、深い感動を読むひとにあたえないではおかない。(サマセット・モーム『世界文学読書案内』より)
 
 河野多恵子には、『戯曲・嵐が丘』(河出書房新社1970年)という著作があります。文庫化されていないのが残念なほど、小説『嵐が丘』の怪奇性をみごとに舞台化しています。河野多恵子にはこのほか、富岡多恵子との共著『嵐が丘ふたり旅』(文藝春秋1986年)という著作もあります。河野多恵子は、『嵐が丘』に強い影響を受けた作家の一人です。
 
 また作家の佐藤愛子も『嵐が丘』を、朝日選書『読み直す一冊』でとりあげています。林真理子も『名作読書』(文春文庫)のなかで、『嵐が丘』をとりあげています。多くのプロ作家に評価され、いまなお色あせることのない『嵐が丘』の不可思議な世界。迷うことなく私も、海外文学の特等席にすえおいています。
(山本藤光:2012.11.15初稿、2018.02.02改稿)