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山本藤光の文庫で読む500+α

著書「仕事と日常を磨く人間力マネジメント」の読書ナビ

バーネット『小公女』(新潮文庫、畔柳和代訳)

2018-03-02 | 書評「ハ行」の海外著者
バーネット『小公女』(新潮文庫、畔柳和代訳)

暗い冬の日、ひとりの少女が父親と霧の立ちこめるロンドンの寄宿制女学校にたどり着いた。少女セーラは最愛の父親と離れることを悲しむが、校長のミス・ミンチンは裕福な子女の入学を手放しで喜ぶ。ある日、父親が全財産を失い亡くなったという知らせが入る。孤児となったセーラは、召使いとしてこき使われるようになるが…。苦境に負けない少女を描く永遠の名作、待望の新訳! (「BOOK」データベースより)

◎V字回復のものがたり

バーネット『小公女』は、若いころに新潮文庫(伊藤整訳)で読んでいます。その後、青空文庫(菊池寛訳)でも読みました。今回新潮文庫から新訳(畔柳和代訳)が出たので、また読んでみました。

私はV字タイプのストーリーが好きなようです。頂点にいた主人公がどん底まで落ちて、ふたたび頂点をきわめる。ちょうど「V字回復」の構造になっている小説の、代表格が『小公女』だと思います。ちなみにバーネット『小公子』(新潮文庫、中村能三訳)は「ルート(√)型」の小説で、どん底から高みにのぼりつめる出世型の小説です。文藝春秋編『少年少女小説ベスト100』(文春文庫ビジュアル版1995年)では、『小公女』が45位、『小公子』が5位です。やはり「√型」のほうが人気があるようです。

『小公子』について少しだけ紹介させていただきます。
――祖父のイギリス貴族にひきとられたアメリカ生まれの少年が、その純真さで祖父の愛を得る善意の物語。(「新潮世界文学小辞典」より)

『小公女』の主人公セーラ・クルウは、インドに住む7歳の少女です。母親はセーラを産んですぐに亡くなり、彼女は父親の手で育てられました。セーラの父・クルウ大尉は、実業家で大金もちです。セーラはロンドンの、女子学院寄宿舎にあずけられることになりました。学院はミンチン女史が経営しています。セーラは特別室をあてがわれ、優遇されます。セーラはプリンセスと呼ばれます。
 
ところが父親のクルウ大尉は、事業に失敗して死んでしまいます。一文なしになったセーラに、ミンチン女史は冷酷なさたをくだします。部屋は屋根裏へ移され、下働きを命じたのです。行き場のないセーラは、黙々と働きました。食事も満足にあたえられず、こきつかわれつづけます。セーラと同様の境遇で小間使いをしている、同年代のベッキイに心をよせます。

ある日セーラは、道で銀貨を拾います。空腹だったので、それで甘パンを4個買うことにします。パン屋の女主人はセーラのみすぼらしい身なりをみて、2個おまけをしてくれます。しかしセーラは1個だけを残して、甘パンを乞食の女の子にわけあたえます。ひもじい思いを、特別のまじない(……のつもり)でいやします。セーラは身なりこそ貧そうですが、慈愛の心や気品は失いません。

お姫さまから一転、下働きとなったセーラのその後についてはあえてふれません。V字回復がどんな状況でおきるのか。苛め抜いたミンチン女史は、そのときどう豹変するのか。屋根裏部屋の隣人、小間使いのベッキイと乞食の女の子はどうなるのか。ぜひご確認ください。

青空文庫の『小公女』には、訳者の菊池寛の「はしがき(父兄へ)」があります。『小公子』との関係についてふれていますので、引用させてもらいます。

――『小公子』は、貧乏な少年が、一躍イギリスの貴族の子になるのにひきかえて、この『小公女』は、金持の少女が、ふいに無一文の孤児になることを書いています。しかし、強い正しい心を持っている少年少女は、どんな境遇にいても、敢然としてその正しさをまげない、ということを、バーネット女史は両面から書いて見せたに過ぎないのです。(青空文庫、菊池寛「はしがき(父兄へ)」より)

◎大人向けに訳された『小公女』

フランシス・ホジソン・バーネット作品は、『小公子』『小公女』(ともに新潮文庫)『秘密の花園』(光文社古典新訳文庫)という順序で読みました。白髪の爺(私のこと)とバーネット作品は、あまりにも不似合なのは重々承知していました。しかしバーネット作品を「山本藤光の文庫で読む500+α」の推薦作から除外することはできません。迷ったあげく『小公女』を選ぶことにしました。

孫は小学校低学年3人(男児2、女児1)と幼稚園児1人(女児1)です。彼らに読んで聞かせるとしたら、3作品のうちどれがいいだろうか。選択基準は完全に爺の立場ででした。お姫さまがどん底まで落ちる場面を、孫たちはどんなふうに受けとめるのでしょうか。そしてふたたびお姫さまにもどる場面に、どんな反応をしめすのでしょうか。

すでに『リトルプリンセス-小公女 新装版』(講談社青い鳥文庫、 藤田香・イラスト、曾野綾子訳)を買い求めてあります。おそらく来年になれば、書棚から選んでくれるだろうと期待しています。

新潮文庫(新訳版)の訳者である畔柳和代(くろやなぎ・かずよ)は「あとがき」で、大人も楽しめる翻訳を心がけたと書いています。そのとおりで、新訳はこども向けの表現を一掃しています。まず主人公の名前が、サアラ(伊藤整訳)からセーラにかわっています。このほうがずっと現代的だと思います。カバー挿画もSUITAから酒井駒子にかわり、華やいだものが消えています。

またせりふまわしが、大きくちがっています。ミンチン女史が孤児になったセーラに、新たな立場を伝える場面を比較してみます。

――「もったいぶったようすはやめてちょうだい。そんなようすをさせるわけは、なくなったのだから。もう公女さまなんかじゃないのだよ。馬車や小馬はよそへやってしまうし、女中にはひまをやる。いちばん古いいちばん汚い着物を着るのだよ――もうあんなぜいたくな着物なんかは、にあわないからね。ベッキイと同じだよ――自分の食べるだけの働きをしないといけないのだよ。」(新潮文庫、伊藤整訳、P132より)

――偉そうにするんじゃありません。もうそんな態度はとれないんだから。もうプリンセスじゃない。馬車もポニーもよそへやられる――女中はクビになる。一番古くて地味な服を着るんです――あの上等な服を着られる立場じゃないから、ベッキーのようなもんです。――働いて食い扶持を稼ぐんです」(新潮文庫、畔柳和代P119より)

ついでに菊池寛訳(青空文庫)もご紹介させていただきます。

――勿体ぶった様子なんかおしでないよ、もう、お前は宮様じゃアないのだからね。お前は、もう、ベッキイと同じことさ。自分で働いて、自分の口すぎをしなければならないのだよ。」(青空文庫、菊池寛訳より)

私は新訳にふれて、岩波少年文庫を読んでいるようなイメージを払しょくしました。訳者がいうように新訳『小公女』は、りっぱな大人向けの作品に変身していました。実は角川文庫から川端康成訳『小公女』が出ています。アマゾンでは3千円以上もしています。古書店で探しているのですが、いまだにゲットしていません。菊池寛、川端康成、伊藤整と大物が翻訳を手がけるほど、『小公女』は魅力的な作品なのです。

最後に重兼芳子からのメッセージを、引用させていただきます。
――父親の援助もなく、たった一人でこの世にほうり出されたセーラに対し、卑しい大人たちの手を変え品を変えてのいじめがはじまる。少女の運命を手中に収めたミンチン先生はじめ、同級生たちのいじめのいやらしさ。現代の学校で流行している陰湿ないじめ、いじめる方にもいじめられる方にも、『小公女』をじっくりと読んでもらいたい。(重兼芳子、朝日新聞学芸部編『読みなおす一冊』朝日選書より)
(山本藤光:2013.12.23初稿、2018.03.02改稿)

レイ・ブラッドベリー『華氏451度』(ハヤカワ文庫SF、宇野利泰訳)

2018-02-28 | 書評「ハ行」の海外著者
レイ・ブラッドベリー『華氏451度』(ハヤカワ文庫SF、宇野利泰訳)

「本」が禁じられた世界、焚書官モンターグの仕事は、本を見つけて焼き払うことだった。人々は超小型ラジオや大画面テレビに支配され、本なしで満足に暮らしていたのだ。だが、ふと本を手にしたことから、モンターグの人生は大きく変わっていく……現代文明に対する鋭い批評を秘めた不朽の名作。(文庫案内より)

◎平穏無事がなにより

レイ・ブラッドベリーは、1950年に「ファイアマン」という中篇小説を書いています。それを倍の長さにまでして、3年後に書きなおされたのが『華氏451度』(ハヤカワ文庫SF、宇野利泰訳)でした。中篇小説を長篇小説に改めるのは、簡単なことではありません。

残念ながら「ファイアマン」の邦訳はありません。できればどこをふくらませて、『華氏451度』が生まれたのかを検証したかったのですが。そのあたりの苦労について、レイ・ブラッドベリーは実にあっけらかんとインタビューにこたえています。

――登場人物にしゃべらせただけだよ。僕に向けて、もっと話をしてくれるようにね。焚書の署長にしゃべらせ、フェイバー教授にしゃべらせ、僕はただ聞いていた。(レイ・ブラッドベリー/サム・ウェラー『ブラッドベリ、自作を語る』(晶文社、小川孝義訳P154より)

――さあ、本を燃やしましょう。なぜか? これはビーティ署長に言わせよう。本は危険だからだ。本を読むと、人は考えてしまう。考えると悲しくなる。世の中には多様性なんてものを入れる余地がない。なにしろ人間てのは、ちょっとでも違ってくると喧嘩する。泣いて寝るような不幸になる。というように『華氏451度』では、すべて逆を行ってるんだ。(レイ・ブラッドベリー/サム・ウェラー『ブラッドベリ、自作を語る』(晶文社、小川孝義訳P156より)

レイ・ブラッドベリーが語るように、ビーティ署長の独演はとどまるところを知りません。彼はあらゆる書物の知識をもち、自国の歴史についても熟知しています。本文からいくつか引用させていただきます。

――「おれたちの仕事が、いつから開始されたかという質問だが、どのようにして、どこで、いつ、おれたちの役所が設立されたかというと、むかし、南北戦争と呼ばれる事件があったな。すでにあのころから、萌芽みたいなものがあったのだ。」(本文P115より)

――「かつては書物が、ここかしこ、いたるところで、かなりの人たちの心に訴えていた。むろん訴える内容となると、書物ごとに、さまざまだった。なにしろ、まだまだ世界は、のんびりと余裕があったからだ。ところが、その後地球上は、眼と肘と口とが、ぐんぐん数をまして、人口は倍になり、三倍になり、四倍になった。映画、ラジオ、雑誌の氾濫。そしてその結果、書物はプディングの規格みたいに、可能なかぎり、低いレベルに内容を落とさねばならなくなった。わかるかね、おれのいうことが?」(本文P116より)

――「平穏無事がなにより大切だ。国民には、記憶力のコンテストでもあたえておけばいい。それもせいぜい、流行歌の文句。州政府の所在地の名でなければ、アイオワ州における昨年度のとうもろこし生産量はいくらといった問題がいい。不燃焼の資料を頭にいっぱいにさせ、うんざりするほど、〈事実〉をつめこんで、窒息させてしまうことだな。(本文P130より)

◎ファイアーマン密告先へ急襲

主人公モンターグの職業はファイアーマンです。この時代の建造物はすべて耐火仕様となっていて、私たちの知っている消防士は姿を消しています。ファイアーマンは正式には、焚書官と呼ばれる公務員です。

彼らは本を所持しているという情報を得ると、ただちに現場に急行して本を焼き払います。本を所持している人を見つけたら、密告することは市民の義務になっています。本は有害なものである、とだれもが信じています。

主人公のモンターグは妻と2人暮らしです。家の壁面は大型スクリーンになっていて、24時間娯楽番組が流れています。人々は耳に小型のイヤホーンを装着しており、そこからは常時さまざまな情報がながされています。モンターグと妻のあいだで、会話らしいものはありません。

これは現代社会を、予言しているような設定です。肩をよせあった友人や恋人同士が、それぞれスマホに夢中になって会話は成立していません。本離れも目に見えて顕著になっています。若者は新聞を読まなくなりました。電車のなかで本を読んでいる人はまれになりました。かわりにゲームに興じたり、メールの送受信をしたり、おまけに化粧をしていたり、といった空間にさまがわりしています。

モンターグはあるきっかけで、自分の仕事に疑念をもちはじめます。17歳の少女・クラリスとの出会いがそのひとつです。彼女は自然観察や人間観察に興味をもっており、モンターグの職業について「あんた幸福なの?」と質問をします。

もうひとつのきっかけは、密告をうけて老女の家を急襲した日のことです。ファイアーマンたちは、家ごと本を燃やすことにしました。ところが本の山のなかで、老女は自殺してしまったのです。そのときにモンターグは、本が命のように大切なものという価値観を知りました。

モンターグの心のなかに、そんな価値のある本を読んでみたいという思いが浮かんできます。モンターグはこれまでにも、ひそかに本をもちかえっていました。モンターグは意を決して、本を開きます。それを見た妻は、猛烈に反発します。

モンターグは本を1冊もって、顔見知りのフェイバー教授のもとを訪ねます。フェイバー教授は事態を理解し、本の大切さとモンターグの今後のあり方について、アドバイスしてくれます。

そんなある日、密告によってファイアーマンたちは現場にかけつけます。なんとそこはモンターグの家でした。署長のビーティはモンターグに向かって、家ごと本を焼き払う処置を告げます。モンターグは火炎放射器で、署長を焼き殺してしまいます。

モンターグの逃亡生活がはじまります。ロボット犬に追いかけられながら、彼は野宿をしている5人の老人グループと出会います。彼らは担当をきめ、1冊の本を丸暗記して、後世に伝えることに使命感をもっています。モンターグは彼らから、暖かく迎えられます。

『華氏451度』は、ハヤカワSF文庫として新訳版(伊藤典夫訳)がでました。まだ読んでいませんが、これからも新訳版は出されると思います。それまで待ちますか? それとも今すぐに、活字本を読みますか? 皮肉なことに、新訳版はkindleで読むことができます。あなたは電子書籍に手を出しますか? それともハヤカワSF文庫に手をのばしますか?
山本藤光:2015.01.18初校、2018.02.28改稿 

トマス・ピンチョン『スロー・ラーナー』(ちくま文庫、志村正雄訳)

2018-02-21 | 書評「ハ行」の海外著者
トマス・ピンチョン『スロー・ラーナー』(ちくま文庫、志村正雄訳)

『重力の虹』など、現代アメリカ文学史上に聳える3つの傑作長編を発表後、十余年の沈黙の後に、天才作家自身がまとめた初期短篇集。「謎の巨匠」と呼ばれてきたピンチョンが自らの作家生活を回顧する序文を付した話題作。ポップ・カルチャーと熱力学、情報理論とスパイ小説が交錯する、楽しく驚異にみちた世界。(内容案内より)

◎ちょっと難解だけれど

トマス・ピンチョンは、謎につつまれたアメリカの小説家です。1937年生まれですから、もうすぐ80歳になろうとしています。
処女作「小雨(スモール・レイン)」を発表したのは大学生のときです。ピンチョンのくわしい経歴は不明です。写真も撮らせませんし、文学賞の授賞式にも姿を見せません。したがって半世紀以上も、正体不明のままなのです。彼の履歴でわかっていることは、コーネル大学物理学部に入学し、途中海軍に入り、ふたたび今度は英文学科に戻っていることくらいです。

ピンチョンは世界中で非常に高い評価をうけ、日本にも根強いファンがいます。かくいう私も脳みそを撹拌されながら、好んでピンチョン作品を読んでいます。最近、新潮社から「トマス・ピンチョン全小説」という全集が刊行されました。
 
ピンチョンは、日本に何度かきているようです。来日するなり、山手線を5周したなどというエピソードが残されています(出典は忘れました)。ピンチョンを最初に読んだのは、『競売ナンバー49の叫び』(筑摩書房)でした。いまはちくま文庫になっていますが、当時はサンリオ文庫(絶版)しかなく、図書館で借りて読みました。

『スロー・ラーナー』というタイトルは、「のろまな子」という意味です。ピンチョンは1962年(25歳)のときに、実質的な文壇デビューともいえる、『V』(全2巻、図書刊行会)を発表しています。『スロー・ラーナー』には『V』発表前後に書かれた、処女作「小雨」をふくめた5つの短編が収載されています。
 
『スロー・ラーナー』をはじめて読んだときは、とにかく難解で何度も立ち往生しました。ところが、ちくま文庫で読んだときは、すんなりと作品に入れました。訳者は志村正雄と同じなのですが、黄ばんだ本と新刊のちがいが影響しているのでしょうか。

ピンチョンの作品は、さまざなま形容詞で評価されています。「破戒的」「不条理」「混沌」「野放図」「脱線」「博学」「繊細」「ユーモア」……。

ピンチョンの作品には、骨格がありません。ピンチョンの気まぐれな運転につき合う、くらいの軽い気持ちでページをくくらなければなりません。ちくま文庫の再読で、やっとピンチョンのクセが飲みこめました。頑固で移り気な著者の運転に、慣れてきたのです。現在、昨日、15年前、現在、明日……。時空間を遊泳しながら、こんな作家は日本にいないよなと思いました。舞台もコロコロ変化します。考えごとをしながら活字を追っていると、いつの間にかとんでもない場所にいたりします。船酔いに似た感覚になります。

◎『スロー・ラーナー』は初の短編集 

『スロー・ラーナー』は有名な大作『重力の虹』(初出1973年、「トマス・ピンチョン全小説集」上下巻)が発表されてから、11年ぶりの新刊として話題になりました。ピンチョン作品には他の短編がないので、本書は格好のドアオープナーとなるでしょう。ただし本書もやや難解です。

『スロー・ラーナー』の冒頭には、「スロー・ラーナー(のろまな子)序」が掲載されています。若いころの自作を自虐的に語る掌篇ですが、私は腹を抱えて笑いました。どんな作家も自分のデビュー作や初期作に遭遇すると、赤面するか目を背けてしまいます。ピンチョンは堂々と辛らつな口調で、ののしりつづけたのです。

読者はまず「序」で驚かされます。こんなふうに書かれています。
――以下の短篇を再読してのぼくの最初の反応はイヤコイツハ参ッタで、詳説すべからざる肉体的徴候がそれにともなった。考えなおして、何とか全面的に書きなおせないものかと思った。(中略)いまやぼくは、その当時のぼくであった青年作家に関して、ある次元の明晰さに到達したふりをしている。というのが、この男をぼくの人生から締め出してすましているわけにも行かないのだ。しかし何らかの、今のところは未開発の科学技術を通じて、彼に今日出会うとしたら、何と安らいだ気持で彼に金を貸してやったり、それどころではない、通りへ出て行ってビールを飲みながら昔の話をしたりもすることだろう。(「序」より)

つづいて、こんな文章が展開されます。

――どんなに思いやりの深い読者に対しても、以下の作品にはどこかにそうとう退屈な部分があり、少年っぽくもあり不良っぽくもあると警告しておのが公正というものだろう。同時に、ぼくの望むぎりぎりのところは、以下の作品がときどき、うねぼれの強い、間抜けな、思慮の足りないものになるにしても、そうした欠点をそのままにしておいてなお、駆け出しの小説が当然含んでいる諸問題の例として、また年少の作家にとって避けたほうがよい実際例への戒めとして、役には立つだろう。(「序」より)

「序」の引用だけで、本稿は埋まってしまいました。すこしテンポをあげます。

片岡義男が以前ブログに書いていました。彼はデビュー作のころの自分を、主題にして書いてみたかったとのことです。片岡義男は、大のピンチョン崇拝者です。ピンチョンに『神曲』(ダンテ作)を書かせてみたいと思うほどですから、ピンチョンにたいしては相当いれこんでいます。
 
収載作について、簡単に紹介しておきます。ストーリーをたどる意味はあまりないのですが、流れだけは示しておきたいと思います。 
 
「小雨」
ピンチョンの処女作。主人公・リヴィアンは陸軍の通信兵。大学を卒業し、みずから志願したのです。彼は気力というものが欠落している若者です。彼の唯一の楽しみは、休暇のことだけです。ある日彼は、ハリケーンに襲われた村へと、救助活動に出向かなければならなくなります。

この作品には当初、「少量の雨」というタイトルがついていました。それを「小雨」と改めた経緯については、文庫の「訳者あとがき」に詳しく書かれています。
   
「低地」
主人公・デニスは、妻とともにロング・アイランドで暮らしています。ロング・アイランドは、ピンチョンが生まれ育ったところです。フィツジェラルド『グレート・ギャツビー』(新潮文庫)にもこの舞台は登場しています。
 
ゴミ屋とドロボウをしている友人が訪ねてきます。激昂した妻はデニスを追い出し、彼は友人とともにゴミ集積所で寝泊りをすることになります。寓話的なこの作品のキーワードは「ゴミ」「見捨てられた人間」など、いわゆる落ちこぼれです。いきなり六本木のライブハウスに、連れこまれたような混乱におちいりました。
 
「エントロピー」
「広辞苑」の意味を転記しようと思いましたが、エントロピーは難しすぎます。またこの作品は「低地」よりもっと難しいものでした。文庫本「訳者のあとがき」を読んでも、頭のなかに点灯したハテナマークが消えません。紹介するのはパスさせてください。

「秘密裡に」
時代背景はよくわかりませんでした。でもこの作品は好きです。主人公・ポーペンタインは英国のスパイです。彼は友人のグッドフェロウといっしょに列車に乗りこみます。テロを防ぐためです。ドイツ側のスパイとくりひろげられる展開は、ピンチョンの長編作品と通じるところがあります。この作品はのちに、『V』の第3章に組みこまれることとなります。

「秘密のインテグレーション」
この作品は、『V』上梓後に書かれています。だから厳密にいうと、初期作品にはなりません。私はピンチョン『スロー・ラーナー』を読むときは、最初にこの作品を選ぶべきだと思っています。もっともわかりやすい作品です。

主人公は天才少年グローヴァ。自宅の地下で、不思議な実験をくりかえしています。ほかの登場人物は4人のこども、1匹の犬、イボをもった隣りのこども、黒人、アルコール中毒だったこども……。彼らはとんでもない計画を進行中です。
 
『スロー・ラーナー』の「秘密のインテグレーション」のなか(P202)に、「ドラえもん」を連想させられる記述があります。主人公のグローヴァが、作品のなかで読んでいる本がそれです。

――グローヴァは『トム・スウィフトと魔法のカメラ』を読んでいた。ヴィクター・アプルトンの書いたものだ。アプルトンが『トム・スウィフト』を書いたのは、1910年から1941年にかけて。シリーズ作品の主人公・トムは次々と社会のため、国のために発明品を生み出す。(本文と注釈の一部を引用)

残念ながら、この作品は見あたりません。したがって断言はできませんが、「ドラえもん」の著者が、原文で読んでいた可能性は否定できません。

◎『競売ナンバー49の叫び』も魅力的なのですが

『競売ナンバー49の叫び』がちくま文庫になりましたので、こちらを紹介しようかなとも思いました。しかしピンチョンへの入口としては、短篇集の方がふさわしいと判断しました。

応援演説を紹介させていただきます。
――ピンチョンにも若くて生意気で、カッコつけたがる時期があって、憧れている作家がいて、そりゃあピンチョンだからまだ学部生の頃に書いた作品だって驚くくらい巧みなんだけど、でも、やっぱり背伸びしている姿は丸見えで、処女長篇『V』に圧倒され、『競売ナンバー49の叫び』はそれと比べれば愉しく読めたとはいうものの、自分には一生ピンチョンを十全に堪能することはできないのかもしれないと怯えていたわたしは、初期作品ばかり収めた『スロー・ラーナー』を読むことで、気を取り直すことができたのだ。(豊崎由美『ガタスタ屋の矜恃・場外乱闘篇』(本の雑誌社)

『競売ナンバー49の叫び』には本文とは別に、約50ページの「競売ナンバー49の叫び・解注」がつけられています。本文にちりばめられた、天文学、歴史学、民俗学などたくさんの「○○学」の知識が、そこで解説されているわけです。ただし本文には「注釈あり」の記号がつけられておらず、「競売ナンバー49の叫び・解注」は独立した作品としても読まなければなりません。
 
青木淳悟のデビュー作『四十日と四十夜のメルヘン』(新潮文庫)は話題になりました。朝日新聞2012年5月16日の「顔」欄(実際には三島由紀夫賞を受賞した『私のいない高校』を伝える記事なのですが)に、こんな文章がありました。

――「ピンチョンが現れた!」早大在学中の2003年、「四十日と四十夜のメルヘン」でデビューし、米国の作家になぞらえ高く評価された。あれから9年。気鋭の小説家に贈られる賞を射止めた。(新聞より)

青木淳悟『私のいない高校』(講談社)は、文庫化されたら「山本藤光の文庫で読む500+α」で紹介させていただくつもりです。それにしても「ピンチョン現れた!」は、書き過ぎではないでしょうか。もっともピンチョンの初期短篇よりは、ずっとわかりやすいのですが。 
(山本藤光:2010.03.11初稿、2018.02.21改稿)


フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(新潮文庫、野崎孝訳)

2018-02-21 | 書評「ハ行」の海外著者
フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(新潮文庫、野崎孝訳)

ニューヨーク郊外の豪壮な邸宅で夜毎開かれる絢爛たるパーティ。シャンパンの泡がきらめき、楽団の演奏に合わせて、着飾った紳士淑女が歌い踊る。主催者のギャツビーは経歴も謎の大富豪で、その心底には失った恋人への焦がれるような思いがあった…。第一次大戦後の繁栄と喧騒の20年代を、時代の寵児として駆け抜けたフィッツジェラルドが、美しくも破滅的な青春を流麗な文体で描いた代表作。(「BOOK」データベースより)

◎アメリカンドリームを理解してから

『グレート・ギャツビー』(新潮文庫、野崎孝訳)は、アメリカンドリーム成就と崩壊の物語です。それゆえ「アメリカンドリーム」なる時代背景を、理解しておかなければなりません。

18世紀、ヨーロッパは王制や貴族制度に支配されていました。どんなに努力をしても、生まれながらの身分を越えられないのです。そんなとき新大陸アメリカでは、トーマス・ジェファーソンによって起草された「独立宣言書」(1776年)が発せられました。だれでも均等に、勤勉さと努力で成功を獲得することができるようになったのです。これが「独立宣言書」の趣旨です。
 
その後、第6代アメリカ大統領・ジョン・クィンシー・アダムスの「帝国の進路は西を目指してゆく」宣言により、一挙にアメリカンドリームが現実のものとなりました。いわゆる「西部開拓時代」の幕開けです。黄金郷や地下資源を求めて一攫千金を目指し、ヨーロッパからも次々に新大陸へと夢みる人群れが移動しました。
 
一方、西部開拓時代は先住民や黒人の人権を踏みにじる残酷な現実も露呈しました。こうしたアメリカンドリームの代表格としては、エイブラハム・リンカーンやジョン・ロックフェラーなどの名前があげられます。

実はフィッツジェラルド自身が、アメリカンドリームの体現者でもあります。紹介させていただきます。
 
――フィッツジェラルドは二十世紀前半のアメリカの浮沈を体現したような作家である。二十代のはじめに人気作家として注目をあび、時代の気分を代弁するような小説を書く一方で、パーティに明け暮れる浪費の日々を送るうちに、1929年の大恐慌とともに時代はかわり、たちまち人気はおとろえ、妻の発狂とみずからのアルコール中毒に苦しみながら、ハリウッドのシナリオライターにおちぶれて世を去った。(木原武一『要約世界文学全集(1)』新潮文庫より)
 
福沢諭吉が『学問のすすめ』を書いたのは、1871(明治4)年のことです。つまり「アメリカ独立宣言書」が公布されてから、約100年もあとだったのです。おそらく福沢諭吉は、アメリカンドリームのその後についても、見聞したことでしょう。前記の2人について、すこしだけ補足させていただきます。

エイブラハム・リンカーンは、貧しい開拓民のこどもとして生まれ、独学で法律を学びました。大統領にまでのぼりつめ、奴隷解放、南北戦争による国家分裂を回避しました。

ジョン・ロックフェラーは商家のこどもとして生まれました。油田に着目し、石油精製会社を創設しました。スタンダード・オイル社は、石油精製業の95%を独占するまでになりました。

◎大邸宅と入り江の向こうの住まい

『グレート・ギャツビー』の扉には、「ふたたびゼルダに」という献辞が載っています。ゼルダとは1919年に婚約しています。しかしフィッツジェラルドの生活が、不安定なために解消されました。1920年フィッツジェラルドは『楽園のこちら側』(邦訳見あたりません)を発表し、ベストセラーになりました。それを機会に、ゼルダとは再婚約しています。

『グレート・ギャツビー』は、「ジャズエイジ」という時代を諷刺しています。「ジャズエイジ」という言葉は、1920年代のアメリカ文化・世相をいいあらわしたものです。フランスの「レ・ザネ・フォール」(狂乱の時代)と重ねられます。この言葉は、フィッツジェラルド『ジャズ・エイジの時代』(1922年)から命名されています。

証券会社に勤めるニック・キャラウェイは、アメリカ中西部からニューヨーク郊外に家を借ります。ロングアイランドのウエスト・エッグというところです。入り江の向こう側には、イースト・エッグの灯りがまたたいています。ニックの家の隣には、豪邸がありました。そこの主がタイトル名にもなっている、ジェイ・ギャツビーです。
 
入り江の向こうには、ニックのまたいとこであるディズィと夫のトムが住んでいます。のちほど明らかになりますが、ギャツビーの昔の恋人がディズィだったのです。ギャツビーが兵役に出ている間に、ディズィは大金持ちのトムと結婚していました。
 
失意のギャツビーは、ディズィの住まいが望める場所に大邸宅を購入しました。ギャツビーは金の力で、ディズィの愛を取りもどせると信じていました。ありとあらゆることをして、大金を溜めこんだのです。
 
ギャツビーは、夜な夜なパーティを開きました。入り江の向こうに、華やかな灯りを誇示するためです。なんとしてでも、ディズィの関心を引きよせたい。それだけがギャツビーの願いでした。
 
一方ディズィの夫・トムには情婦がいました。そのことはディズィも知っています。やがてギャツビーとディズィは、パーティ会場で再会することになります。ギャツビーには、愛をとリもどしたように思えました。ところが……。

――読み進めていくうちに、この話が悲劇で終わるだろうということがだんだんはっきりしてきます。どんなに美しい情景にも、ほとばしる情熱にも、崩壊の影が宿っています。ひたすら絶望という一点にのみ、物語は突き進んでゆきます。誰もギャツビーを止めることはできません。(小川洋子『心と響き合う読書案内』PHP新書より)                                                

小川洋子の予言どおりに、物語はどんどん暗くなってゆきます。
 
ある日ギャツビーの車を、ディズィが運転してニューヨークに向かいます。車は飛びだしてきた、トムの情婦をはねてしまいます。トムは情婦の夫に、殺したのはギャツビーだとほのめかします。情婦の夫は、彼を射殺し自殺します。
 
ギャツビーの葬式に、ディズィは姿をみせません。夫のトムと旅行に出かけてしまったのです。弔問客のない淋しい葬式。やがてニックも、東部に嫌気をさして故郷である中西部へともどります。

―― 一九二〇年代、あのタイタニック号遭難の少し後、世界が大恐慌に襲われる少し前、こんな華やかな時代があったのかと我々は驚く。日本の八〇年代のバブルは何も生み出さなかったが、アメリカはフィッツジェラルドを生んだ。男と女のおとぎ話を、現代の怜悧さで描くことが出来た作品である。(林真理子『名作読本』文春文庫より)
 
『グレート・ギャツビー』は中央公論新社から、「村上春樹翻訳ライブラリー」として刊行されています。私も新しい物語を読んでいるような、興奮をおぼえました。翻訳家の鴻巣友季子『本の寄り道』(河出書房新社)の応援メッセージを、紹介させていただきます。

――村上春樹の『グレート・ギャツビー』の新訳にみなぎる頼もしさは、深い作品理解もさることながら、高い翻訳技術力に由来する。失った恋人を追い求める男と、一九二〇年代というはかない狂乱の時代、場面の展開が鮮明に感じられ、物語の輪郭と細部の美しさがきわだっている。

「山本藤光の文庫で読む500+α」は、文庫中心のブックナビです。村上春樹訳ファンの方には申し訳なく思います。私も村上春樹の名訳に、酔いしれたひとりです。
(山本藤光:2009.12.09初稿、2018.02.21改稿)


ダン・ブラウン『天使と悪魔』(上中下巻、角川文庫、越前敏弥訳)

2018-02-20 | 書評「ハ行」の海外著者
ダン・ブラウン『天使と悪魔』(上中下巻、角川文庫、越前敏弥訳)

ハーヴァード大の図像学者ラングドンはスイスの科学研究所長から電話を受け、ある紋章についての説明を求められる。それは十七世紀にガリレオが創設した科学者たちの秘密結社<イルミナティ>の伝説の紋章だった。紋章は男の死体の胸に焼印として押されていたのだという。殺された男は、最近極秘のうちに大量反物質の生成に成功した科学者だった。反物質はすでに殺人者に盗まれ、密かにヴァチカンに持込まれていた―。(「BOOK」データベースより)

◎ラングドン・シリーズの第1弾
 
ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』(全3巻、角川文庫)は、世界で大ベストセラーになりました。もちろん私もたいへん楽しく読みました。しかしこの作品は、「ラングドン・シリーズ」の第2作にあたるものです。やはり順序よくシリーズの第1作から紹介すべきと思います。

ラングドン初登場の場面を、的確に紹介してくれている本があります。引用させていただきます。

――午前五時、宗教象徴学の専門家ロバート・ラングドンは電話で叩き起こされる。続いてファクシミリで送られてきた写真を見て、彼は一も二もなく出立を決めた。そこに写っていたのは、十六世紀に創設されたといわれる秘密結社イルミナティの紋章を胸に焼き印で刻まれた死体だったのである。差し回された専用機の行き先はスイスのジュネーヴにある欧州原子核研究機構(CERN)だった。そこで待ち受けていた物理学者マクシミリアン・コーラーは、ラングドンに驚くべき話を打ち明ける。(杉江松恋『海外ミステリーマストリード100』日経文芸文庫より)

ラングドンの専門である「宗教象徴学」について、解説が必要だと思います。引用させていただきます。

――絵画や彫刻、建造物などの芸術作品には、往々にして社会的な意味や宗教的なメッセージが隠されているといわれるが、20世紀の美術史では、それらを読み解くことにより作品を生み出した社会や文化との関係を明らかにしていく学問が発達を遂げた。それがラングドン教授の専門分野である宗教図像解釈学である。(ダン・ブラウン研究会『ダン・ブラウン徹底攻略』角川文庫より)

「ラングドン・シリーズ」の第1作『天使と悪魔』(全3巻、角川文庫、越前敏弥訳)は、『ダ・ヴィンチ・コード』以上に迫力があります。この作品をおさえておくとシリーズの進化がわかり、もっと楽しいものになります。シリーズは第3作『ロスト・シンボル』(全3巻、角川文庫)まで邦訳されました。第4作はアメリカでも、まだ上梓されていません。

『天使と悪魔』の舞台はローマです。行ったことがありません。ただし作品のなかに登場する建造物は、どれも写真で眺めたことのあるものばかりでした。ダン・ブラウンは、ヴァチカンの地図上に十文字の線を引き、それぞれに4つの事件を重ねて見せました。科学の4つの元素・「土」「空気」「火」「水」が、事件の舞台を解くキーワードになります。事件そのものには、まったくリアリティがありません。それは『ダ・ヴィンチ・コード』でも感じたことと同じです。

ダン・ブラウンの優れたところは、臆面もなく歴史の謎を重ねる技術にあります。『天使と悪魔』でもとうに壊滅したと思われていた、「イルミナティ」が忽然とよみがえりました。イルミナティは、カトリック教会(ヴァチカン市国)の壊滅をねらう秘密結社です。

ダン・ブラウンはさらにこれでもかというように、現存する古い慣習まで素材にしてしまいました。次期教皇を選ぶコンクラーベは、一切の例外を認めない厳粛な行事として紹介されています。

ストーリーの滑りだしは先に引用したとおり、欧州原子核研究機構(CERN)で化学者が殺害される場面からです。そこからはとてつもない破壊力を有する、「反物質」が盗まれていることがわかります。

『天使と悪魔』は、ミステリー・エンタテイメント作品です。読者はこじつけっぽい謎解きを共有し、主人公とともに知恵を総動員しなければなりません。私の手元には、2000年発行の『海外ミステリー事典』(新潮選書)があります。ダン・ブラウンの名前は掲載されていません。デビュー作『パズル・パレス』の発刊が1998年(邦訳初出は2006年角川書店)ですので、当然かもしれません。

伝統的な料理に、現代風な素材を加える。さらに強烈なスパイスを加え、豪華なメニューをそえる。それで、ダン・ブラウンの新たな料理の完成となります。途中までは、舞台を変えただけで『ダ・ヴィンチ・コード』と同じじゃないか、と突っこみながら読みました。こんな感想をいだくのは、シリーズ第2作(『ダ・ヴィンチ・コード』)を先に読んでしまったからです。
 
しかし、後半のスリルとどんでん返しの連続は、私の満足中枢を刺激してくれました。本書を読みながら頭のなかで、私は大好きな北海道の地図を広げました。その上に、雪の結晶を乗せてみます。事件は札幌、函館、釧路、襟裳岬で起きます。屯田兵とアイヌの末裔が、新しい結社を組織します。ターゲットは道庁の赤レンガです。
 
ちまちま考えないで、幅広い舞台を思い描く。そこに歴史のポールを立てる。ポールには謎がなければなりません。先端にジャガイモの男爵や夕張メロンを、つけるのもいいと思います。ダン・ブラウンは読者に、そんな楽しみを教えてくれました。

◎『ダ・ヴィンチ・コード』『ロスト・シンボル』について
 
「山本藤光の文庫で読む500+α」では、『ダ・ヴィンチ・コード』をリストアップしていました。それを『天使と悪魔』に変更することにしました。やはり、ロバート・ラングドンは、第1作から読むべきなのです。これは角川文庫の責任でもあります。文庫化された年次をならべてみます。カッコ内はアメリカでの初出年です。私は『ダ・ヴィンチ・コード』を先に読んでしまったことを後悔しています。

2006.3『ダ・ヴィンチ・コード』(2003)
2006.6『天使と悪魔』(2000)
2009.3『パズル・パレス』(1998)
2012.8『ロスト・シンボル』(2009)
2012.12『デセプション・ポイント』(2001)
 
私は『ダ・ヴィンチ・コード・ヴィジュアル愛蔵版』(角川書店、2005年、4500円+税)を買い求めたほど、はじめて読んだダン・ブラウンにほれこみました。ヴィジュアル愛蔵版には、大好きなパリやロンドンの写真が豊富についていました。自分の目で見た建造物を思い出すのには、格好の「旅の案内書」でもあったのです。

『ダ・ヴィンチ・コード』の舞台はパリ。ルーヴル美術館館長の殺人事件から幕があきます。館長は孫娘にメッセージをのこしています。そこには「ロバート・ラングドンを探せ」と書かれています。警察に追われながら、真相にせまるラングドンは、やがて「聖杯」にたどりつきます。「聖杯伝説」については、あらかじめ予備知識があった方がよいと思います。引用しておきます。

――聖杯伝説:キリストが最後の晩餐に用い、アリマタヤのヨセフが十字架のキリストの血をうけブリタニアにもたらしたという聖杯を、騎士たちが求める物語。(「広辞苑」より)

『ロスト・シンボル』は、ラングドンの友人が誘拐されるストーリーです。彼は友人の身柄と交換に、フリーメースンの秘密を解明するようもとめられます。タイムリミットは12時間です。フリーメースンについては、すこしだけ説明が必要でしょう。

――フリーメーソン:アメリカ・ヨーロッパを中心にして、世界中に組織を持つ慈善・親睦団体。起源には諸説があるが、18世紀初頭ロンドンから広まる。貴族・上層市民・知識人・芸術家などが主な会員で、理神論に基づく参入儀礼や徒弟・職人・親方の三階級組織がその特色。普遍的な人類共同体の完成を目指す。モーツアルトの歌劇「魔笛」などで知られる。(「広辞苑」より)

とにかく「ラングドン・シリーズ」を、むさぼるように3作ペロリとたいらげてしまいました。先に引用した杉江松恋にいわせれば、『デセプション・ポイント』(上下巻、角川文庫)はとてつもなくおもしろいようです。第4作の上梓までに、こちらも読んでみようと思っています。
山本藤光:2008.06.01初稿、2018.02.20改稿

ポー『モルグ街の殺人』(新潮文庫、巽孝之訳)

2018-02-20 | 書評「ハ行」の海外著者
ポー『モルグ街の殺人』(新潮文庫、巽孝之訳)

史上初の推理小説「モルグ街の殺人」。パリで起きた残虐な母娘殺人事件を、人並みはずれた分析力で見事に解決したオーギュスト・デュパン。彼こそが後の数々の〈名探偵〉たちの祖である。他に、初の暗号解読小説「黄金虫」、人混みを求めて彷徨う老人を描いたアンチ・ミステリ「群衆の人」を新訳で収録。後世に多大な影響を与えた天才作家によるミステリの原点、全6編。(「BOOK」データベースより)

◎推理小説の開祖

ポーは24歳のときに、『壜のなかの手記』で懸賞小説に入選しています。これが実質的な小説デビュー作品です。ただしこの作品は、図書館で検索しても、「該当なし」となっていました。ところが2014年10月に刊行された『kindle版新潮文庫準拠:ポー短編集・黒猫/黄金虫』(99円)のなかに、「罎の中から出た手記」というタイトルで所収されていたのです。「新潮文庫準拠」とありますが、手元にある新潮文庫には所収されていません。

「罎の中から出た手記」(佐々木直次郎訳)は曇天文庫版を使用したとあり、「壜のなかの手記」と同じものだとの添え書きがついています。この原稿の改訂中に、ダウンロードしました。まだ読んではおりません。
 
ポーの作品を経時的にたどるなら、2009年に刊行された『ポー短編集』(「ゴシック編」と「ミステリー編」の全2冊、新潮文庫)がお薦めです。「ゴジック編」には『黒猫・アッシャー家の崩壊』、「ミステリ編」には『モルグ街の殺人・黄金虫』が収載されています。『ポー短編集』2冊には、探偵小説、ミステリー小説の開祖・ポーの魅力が凝縮されています。
 
――推理小説の歴史は1841年のポーの短篇『モルグ街の殺人事件』にはじまるというのが定説である。それまでは犯罪実話か、単純な事件読み物であったが、ポーはこの作品で初めて、提示した不可解な謎を論理と推理を駆使して合理的に解決に導いている。(『海外ミステリー事典』新潮社より)

もう少し辞書的な解釈を借用してみます。
 
――ポーの作品はほとんど幻想と怪奇が中心であり、推理小説に属するものは極めて少ない。『モルグ街の殺人事件』のほかには、『マリー・ロジェエの怪事件』(1842-43発表)、『盗まれた手紙』(1844年発表)、『黄金虫』(1843年発表)、『お前が犯人だ』(1844年発表)の計5編であり、厳密にいえば後の2編は推理小説から除かれている。(『海外ミステリー事典』新潮社より)

これら5作品はすべて、『ポー名作集』(中公文庫)に所収されています。

『モルグ街の殺人』(新潮文庫のタイトルにしたがって表記)が後年に与えた影響は絶大でした。この作品に世界ではじめての探偵、C・オーギュスト・デュパンが登場します。デュパンと語り手「わたし」という形式は、やがてホームズとワトスンの名コンビ(ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』)に引きつがれます。日本の推理小説のパイオニアである江戸川乱歩の筆名が、エドガー・アラン・ポーからのもじりであることはあまりにも有名な話です。

◎世界の探偵第1号・デュパンの登場

「モルグ街の殺人」は、密室殺人事件を扱っています。パリのモルグ街の一室から、悲鳴が響き渡ります。建物の4階からでした。そこには老夫人と令嬢が暮らしています。近所の人々が階段を駆け上がります。扉は施錠されていました。室内からは悲鳴と人が争っているような声が聞こえます。扉を蹴破って、室内になだれこみます。

令嬢は狭い煙突のなかに、逆さまになった死体で発見されました。老婦人は坪庭で、バラバラ死体になって絶命していました。窓も施錠されており、完全なる密室殺人事件です。警察は事件の解決を、一人の男に依頼します。ここで世界の探偵第1号・オーギュスト・デュパンが登場します。
 
近所の人はなかで発せられた声を、母国語ではないと断言します。フランス語、スペイン語、イタリア語などと、さまざまな憶測が乱れます。これが論理的な、世界はじめての推理小説なのだと、読んでいて感激してしまいました。
 
デュパン探偵が登場する第2作「マリー・ロジェエの怪事件」は、『モルグ街の殺人・黄金虫』(新潮文庫)には収載されていません。先に記したように、中公文庫『ポー名作集』に頼るしかありません。

個人的には、「盗まれた手紙」(『モルグ街の殺人・黄金虫』所収)が好きです。誰も殺されないミステリー。第1作品(「モルグ街の殺人」)に登場する探偵・C・オーギュスト・デュパンの第3場は、ポーの最高傑作ともいわれています。
 
「盗まれた手紙」は、最初から犯人がわかっています。テレビで好評だった「刑事コロンボは、この流れを組んでいます。警察がどんなに家捜ししても、犯人が隠した手紙は見つかりません。ここでデュパンの直感が、冴えわたることになります。

もう1作あげるなら「黄金虫」がすばらしい。本作はこども向けに書かれた、暗号小説です。論理的であり、視覚的でもあり、怪奇的でもあります。ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』を読む前に、ポーのほかの作品にふれておくべきだったと後悔しています。最後に「ブリタニカ国際大百科事典」から、ポーの評価について紹介したいと思います。
 
――ポーは、詩においても小説においても、美の創造を目的とし、単一の効果をもたらすために、短く、音楽的な形式を主張した。生前および没後しばらくは、英米での評価はあまり高くなく、ボードレールをはじめとするフランス象徴派によって認められた。
(山本藤光:2010.06.09初稿、2018.02.20改稿)

アベ・プレヴォー『マノン・レスコー』(岩波文庫、河盛好蔵訳)

2018-02-19 | 書評「ハ行」の海外著者
アベ・プレヴォー『マノン・レスコー』(岩波文庫、河盛好蔵訳)

シュヴァリエ・デ・グリューがようやく17歳になったとき、マノンという美しい少女に会う。彼が犯した幾多の怖ろしい行為はただこの恋人の愛を捉えていたいがためであった。マノンがカナダに追放される日、彼もまたその後を追い、怖ろしい冒険の数々を経て、ついにアメリカの大草原の中に愛する女の屍を埋める。この小説はプレヴォ(1697‐1763)の自叙伝ともいわれ、18世紀を代表するフランス文学の一つ。(「BOOK」データベースより)

◎純朴な少年と魔性の少女

大学時代に『マノン・レスコー』を、娼婦小説だという先入観で読みました。当時、安部公房や吉行淳之介に傾倒していました。著者のアベ・プレヴォーと吉行淳之介が並べられて、論評されていたから読んでみたくなったのです。しかし本書はそんな範ちゅうでは、くくれない偉大な作品でした。

老化が進み、若いころに読んだ活字を追いかけるのは困難になってきました。それから40年後、kindleに収載されていたので読み直してみました。当時の感動が寸分違わず甦ってきました。アベ・プレヴォー『マノン・レスコー』(岩波文庫、河盛好蔵訳)は娼婦小説ではなく、17歳の純朴な少年と魔性の少女の恋物語だったと先入観を捨てました。

本書を読むにあたって、当時の社会事情を知っておく必要があります。清水義範の文章で、背景を確認しておきます。

――この小説で描かれる世界(18世紀前半のフランス)は、金で幸せが買えるような頽廃したところなのである。そして、階層による社会差別が歴然とあった。かなりの犯罪をしても、ある程度の身分のデ・グリュに対しては寛容であり、低階層出身のマノンには厳罰と言うような社会なのだ。(清水義範『世界文学必勝法』筑摩書房)

引用文のデ・グリュは17歳の少年。マノンは少年に溺愛される少女の名前です。桑原武夫は本書について、娼婦小説というくくりはふさわしくないと書いています。

――マノンを娼婦型という人もありますが、おそらくそうきめこんでは間違いでしょう。この少女の行動には娼婦型と見える点もありましょうが、彼女の心は一度だって純潔と愛情を軽蔑したことはないんです。私には、この物語を読みおえて、目をつぶってマノンを想起すると、いつも純真な美少女に見えてきます。(桑原武夫『わたしの読書遍歴』潮文庫)

『新潮世界文学小辞典』でも、『マノン・レスコー』を次のように紹介しています。

――『マノン・レスコー』は、宿命的な激しい情熱を描いた18世紀を代表する恋愛小説である。

◎2つの裏切り行為

本書には「作者の序文」があります。これから書く話は自分が出会ったグリューから聞いたものである、と断り書きがされています。作者のアベ・ブレヴォーは、護送される女囚たちと遭遇します。

その中に、ひときわ美しい女囚がいました。そして彼女につき添うようにしている、青年の姿がありました。それから2年後、作者はその青年で出会います。青年(グリュー)は女囚(マノン・レスコー)との壮絶な恋物語を語ります。

主人公のデ・グリュー17歳は、裕福な家庭で育った聡明な学生です。学業を終えて帰郷しようとした日、美しい女性・マノンと出会います。マノンは享楽的な性質を矯正するため、両親によって修道院送られるはずでした。グリューはマノンに一目惚れします。

グリューはマノンを説得して、パリへの駆け落ちを提案します。グリューには親友・チベルジュがいました。グリューは彼を欺いて、マノンとともにパリへと出奔します。

パリでの2人の蜜月は、12日間で終焉を迎えます。所持金が底をつき、豪華な生活を求めてマノンは、裕福な男とつきあいはじめます。そしてマノンは男と結託して、グリューの父親に彼の居場所を知らせる手紙を書きます。グリューは故郷へ連れ戻されます。

不貞と密告。2つの裏切り行為を受けたグリューは、修道院に入り学業に励みます。そんなとき、グリューの眼前にふたたび、マノンが現れます。消えかけていた愛は、燃え上がります。2人は手に手を取って、パリ郊外へ身を隠します。

ここから先は、テープの巻き戻しとなります。またもやマノンの不貞の血が騒ぎはじめます。グリューは精神的にも衰弱し、経済的にも困窮します。

純朴なグリューは、マノンの魔性に翻弄されます。そんな2人の関係を、W・S・モームは次のように書いています。

――マノンはなんと新鮮で、自然で、魅力にとむことであろう。この不実な女にたいするデ・グリュウの変わることのない愛は、なんとひとを感動させることであろう。操がなく、欲深で、残酷である。だが、それでいて、情愛が深く、気前がよく、心はやさしい。つまり、不滅の型の女であるのだ。(W・S・モーム『世界文学読書案内』岩波文庫)

◎わが憧れの不良少女

17歳だったグリューは、マノンの魔性に翻弄されつづけます。そしてマノンのためにと犯罪に手を染めます。2人は逮捕されます。グリューは感化院に、マノンは女囚収容所へと入れられます。グリューは脱獄に成功しますが、マノンはアメリカへと流刑されます。著者アベ・プレヴォーが目撃したのは、このときの場面です。

グリューは女囚マノンとともに、アメリカへと渡ります。2人はアメリカで、貧しいながらも濃密な時を過ごします。ところがまたもマノンに魅せられた裕福な男が現れます。グリューは男と決闘し、打倒します。男を殺害したと思ったグリューは、マノンとともに逃亡します。実際には男は、死んでいませんでした。

道中マノンは、疲れ果てて死んでしまいます。グリューは彼女の亡骸を沙漠の砂に埋め、その上に横臥します。餓死するつもりでした。しかしグリューは救助され、フランスに戻ってきます。

本書はグリューの1人称で書かれています。そんな関係で、マノンの容姿や心理描写はありません。ひたすらグリューの語りのなかから、それらを推察することになります。本を読み終えてから、映画やオペラになっている画像を探しました。鮮明なマノン像は見つかりませんでした。

マノンについて、瀬戸内寂聴が書いている文章があります。
――マノンこそは、わが憧れの不良少女の典型であった。可憐で女らしく、無邪気で多感で情熱的でその一面、底なしに快楽的で、狡猾で、淫乱で多情で、人を裏切ることは平気で、残酷で大嘘つきという人物である。しかもこの上なく美貌で魅惑的ときている。男という男が自分の魅力に一目で屈服することを百も承知で、その武器を十二分に駆使して金をだましとり、自分の快楽のため使い果たす。金銭には淡白なのに、金がなくては一日も生きられない。人格が変わってしまうのだ。(瀬戸内寂聴。文藝春秋編『青春の一冊』文春文庫プラスより)

すさまじい恋の物語。『マノン・レスコー』は、恋愛小説のベスト作品だとお伝えさせていただきます。
山本藤光:2013.11.08初稿、2018.02.19改稿

ホーソン『完訳・緋文字』(ワイド版岩波文庫、八木敏雄訳)

2018-02-17 | 書評「ハ行」の海外著者
ホーソン『完訳・緋文字』(ワイド版岩波文庫、八木敏雄訳)

胸に赤いAの文字を付け、罪の子を抱いて処刑のさらし台に立つ女。告白と悔悛を説く青年牧師の苦悩…。厳格な規律に縛られた一七世紀ボストンの清教徒社会に起こった姦通事件を題材として人間心理の陰翳に鋭いメスを入れながら、自由とは、罪とは何かを追求した傑作。有名な序文「税関」を加え、待望の新訳で送る完全版。(「BOOK」データベースより)

◎重苦しい幕開け

ナサニエル・ホーソンは、1804年生まれの米国の作家です。今回取り上げる『緋文字』(ワイド版岩波文庫、八木敏雄訳)は、世界的な名作として幅広く読まれています。もちろん、W.S.モームも本書について、著作『読書案内』(岩波文庫)で多くのページを割いています。

『緋文字』の舞台は、17世紀初頭のアメリカ。アメリカがイギリスの植民地だった時代です。清教徒がたくさんいて、法は宗教に支配されていました。主人公のヘスター・プリンは生後三ヶ月の赤ん坊を抱いて、絞首刑台にさらし者として立たされます。彼女の胸には、姦通罪を意味する緋文字「A」がぬいつけられています。Aは姦婦の印であり、生涯それを外してはならない刑罰を与えられたのです。
 町の群衆に囲まれたヘスターは、そのなかに初老の男の姿を発見します。さらし台に将来を嘱望されている、若い牧師ディムズディルが上がります。彼はヘスターに不倫相手の名前をいうようにと説きます。しかし彼女はそれをきっぱりと拒絶します。
 本書の主な登場人物は、冒頭段階で出そろいます。重苦しい幕開けですが、読者は赤ん坊が誰の子どもなのかを推測しながら、先を急ぐことになります。

その後獄舎に戻されたヘスターは、極度の興奮状態に陥ります。そこへ医者が呼ばれます。その男は、さきほどヘスターが絞首刑台で認めた初老の元夫・ロジャー・チリングワースだったのです。
チリングワースは彼女に自分が夫であることを内密にするように伝え、不倫相手への復讐を誓います。そしてヘスターの不倫相手が、若い牧師のディムズディルであるとこと知ります。チリングワースは巧みにディムズディルに接近し、彼の主治医となります。

やがてヘスターは刑期を終え、町はずれの小さな小屋に住みます。針仕事に精をだし、娘のパールとともにひっそりと暮らします。彼女は針仕事で得た報酬の一部を、貧しい人への施しとします。バールは自由奔放に育ちます。人々はパールを悪魔の子と呼びます。しかしパールは妖精のように、かわいらしい子になっています。

これから先の展開については、触れないでおきます。ただし結びの文章だけは、紹介させていただきます。

――黒字ニ赤キAノ文字。

この部分は新潮文庫(鈴木重吉訳)では、「暗い色の紋地に、赤い文字A」となっています。そして訳者あとがきで、「暗い色はヘスターの生涯の象徴」と書いています。

◎再びの絞首刑台

私は本書を一度,新潮文庫で読んでいます。その後、W.S.モーム『読書案内・世界文学』(岩波文庫)の次の文章に触れて、愕然としました。

――(『緋文字』を読んで)わたくし自身の読後感を申せば、本文の物語よりは、「税関」と題する序の文章のほうがおもしろく思えた。(同書P118)

 序の文章を再読しようとしましたが、なんと新潮文庫にはないのです。仕方がないので、岩波文庫を買い求めて再読せざるをえませんでした。

『緋文字』には、二つの深い謎があります。ヘスターはなぜ、胸の緋文字をはずさなかったのか。ヘスターは一度外したことがあります。しかし再びそれを胸につけて、一生を送ります。この理由を探りながら、読んでください。

もうひとつは出獄したヘスターは、なぜ町にいつづけたのかという点です。この理由についても、注意深く読んでください。

モームがいうように「序」は、明るくユーモアさえ認められる文章です。しかし本文は、硬く重々しい筆運びになっています。

 読書に際して、理解しておかなければならないことがあります。

――『緋文字』という小説は、キリスト教の清教徒の間にできた形式主義道徳の中に閉じこめられた人間の苦しみを描いたものである。(伊藤整『改訂文学入門』光文社文庫P84)

ヘスターの苦悩は、清教徒なるがゆえのものであることを、おさえておかなければなりません。

『緋文字』が単なる三角関係の物語ではない点について、次のような解説文があります。

――作中の男性が精神(ハート)のディムズデールと、知性(マインド)のチリングワースにいわば分裂し、はじめから終わりまで滅ぼしあうのとは対照的に、ヘスター・プリンはアメリカの大地に根ざした強い女の原型になっている。(明快案内シリーズ『アメリカ文学』自由国民社P31)

本書の構成で目を見張るのは、冒頭の絞首刑台がクライマックス場面でも用いられている点です。台に立っているのは、ヘスターとパールと若い牧師のディムズディルです。

◎「A」の変化

何人もの批評家が書いていますが、ヘスターの胸についている「A」の文字は、物語の進展にしたがいイメージが変化します。ここでは清水義範の文章を紹介させていただきます。

――普通には「A」は姦淫(Adultery)の頭文字だろう(だがこの小説中には一回もそうは書かれていない)。それがだんだん、何でもできる有能なヘスター・プリンの可能性を表すAbleの「A」のように思えてくる。そしてついには、天使(Angel)の「A」であってもおかしくない、というぐらいになるのだ。(清水義範『世界文学必勝法』筑摩書房P103)

 前記のとおり、私は本書を2つの訳文で読みました。娘のパールはやがて幸せな結婚をし、一人になったヘスターは町はずれの小屋へと戻ってきます。この場面が心を打ちます。ホーソン『緋文字』は、絶対に読んでいただきたい名著です。
山本藤光2018.02.16

ブルースト『失われた時を求めて』(光文社古典新訳文庫、高遠弘美訳)

2018-02-16 | 書評「ハ行」の海外著者
ブルースト『失われた時を求めて』(光文社古典新訳文庫、高遠弘美訳)

色彩感あふれる自然描写、深みと立体感に満ちた人物造型、連鎖する譬喩…深い思索と感覚的表現のみごとさで20世紀最高の文学と評される本作。第1巻では、語り手の幼年時代が夢幻的な記憶とともに語られる。豊潤な訳文で、プルーストのみずみずしい世界が甦る。(「BOOK」データベースより)

◎山頂までの道筋

大学時代に『筑摩世界文学全集48ブルースト集』を読んでいます。そこには「ソドムとゴモラ」(井上究一郎訳)だけが収載されていました。これでブルーストを読破した気になっていましたが、フランス文学を専攻していた友人にたしなめられました。それもそのはずです。私が読んだと豪語していたのは、全体の7分の1にすぎなかったのです。

つまり山頂(7合目)まで登りつめることなく、3合目まで車で行き、4合目(ソドムとゴモラ)だけを踏破して、戻ってきただけだったのです。全体を紹介させていただきます。よくまとまっている解説書がありました。

(引用はじめ)
1編「スワン家の方へ」:コンプレーでの母との思い出から始まり、スワン家の人々、ジルベルトへの初恋、ゲルマント公爵夫人への憧れなどが想い起こされる。
2編「花咲く乙女たちのかげに」:「私」は滞在した海辺の町バルベックでアンドレら美少女たちと出会う。そして、その中のひとりアルベルチーヌに心惹かれていく。
3編「ゲルマントの方へ」:パリでゲルマント公爵夫人に夢中になった「私」と公爵夫人の甥のサン・ルーとの交流や、「私」の祖母の死、アルベルチーヌとの再会などが回想される。
4編「ソドムとゴモラ」:シャルリュス男爵を中心とする同性愛者たちの世界を垣間見てしまった「私」は、交際を深めていたアルベルチーヌに対しても疑惑を抱き始める。
5編「囚われの女」:同棲生活を始めた「私」とアルベルチーヌの関係は次第に険悪になっていく。
6編「逃げ去る女」:家出したアルベルチーヌは事故で死ぬ。悲しむ「私」だったが徐々に忘却が始まっていく。
7編「見出された時」:サナトリウムでの療養、第一次世界大戦、サン・ルーの戦死などを経て久しぶりにゲルマント大公夫人のサロンに出席した「私」は、そこで「失われた時」を見出す。
(引用おわり。、『図解・5分でわかる世界の名作』青春出版社より)

ずっと全巻読破を思い描いていました。しかし膨大な壁の前に立ちすくんでいました。そんな折りに、店頭で集英社文庫『失われた時を求めて』(全3巻、抄訳版、鈴木道彦訳)と出逢いました。壁が崩れたと思い、迷うことなく買い求めて読みました。2002年のことです。

それでもまだ完全読破した、との満足感は得られませんでした。2010年光文社古典新訳文庫(高遠弘美訳)の刊行がはじまりました。まだ3巻までしか読んでいませんが、これでどうにかブルースト『失われた時を求めて』を紹介できると思いました。

長い歳月をかけて読みつないできた本書は、小説というよりは長い回顧録です。光文社古典新訳文庫(高遠弘美訳)はいままでのものより、ずっと読みやすい形になっていました。従来の著作とちがい、巻末についていた訳注がページ内におさめてあったのです。読みながらいちいち巻末へ戻るのは、興ざめです。そんな意味で、光文社古典新薬文庫をお薦めさせていただきます。

◎おおまかなストーリー

先に全編の流れを引用させていただきました。本書の場合、ストーリーを追いかけるのはあまり意味がありません。かいつまんで紹介させていただきます。

 幼少時に来客にもかかわらず、「早く寝なさい」とこども部屋へ追いやられる記憶。両親がいて、祖父母がいて、叔母や大叔母がいて、お客さんのスワンがいます。そして幼少時に休暇のたびに過ごしたコンプレーという田舎町があります。
そこには2つの散歩道があります。「スワン家の方」と「ゲルマントの方」です。この2つの道の先には、少年の憧れの世界があります。スワン家の方には、裕福なユダヤ人・スワンの別荘があり、そこに娘のジルベルトがいます。ゲルマントの方には、名門ゲルマント公爵夫人が住んでいます。

幼い「私」は、ジルベルトに淡い恋心を抱きます。やがて成長した「私」はパリでジルベルトと再会します。私は何度もスワン家を訪れ、ジルベルトへの思いを高めます。しかし恋は成就することはありません。それから2年後、「私」はゲルマント家を訪れるようになります。

「私」はゲルマント公爵の甥サン・ルー公爵と友人となります。華やかな世界には、美しい乙女たちがたくさんいます。「私」はそのなかのアルベルチーヌに魅せられますが、キスをしようとして拒まれてしまいます。

やがて「私」は、家族とともにパリのゲルマント公爵の館の一部に引っ越します。そこで「私」はアルベルチーヌと再会します。「私」とアルベルチーヌの関係は、長い物語のなかで唯一事件性があります。したがって詳細は書かないことにします。

「私」の友人サン・ルー公爵は、やがて「私」の初恋の人ジルベルトと結婚します。2人の結婚生活の顛末についても、事件性があります。同じく詳細には触れません。

主人公の「私」は、小説家を志望しています。本書の後段には、冒頭の有名な場面が再度登場します。少年「私」が回想をはじめるきっかけの場面を紹介させていただきます。

――母は溝の入った帆立貝の貝殻で型をとったように見える、「プチット・マドレーヌ」と呼ばれる、小ぶりのぽってりしたお菓子をひとつ持ってこさせた。(光文社古典新訳文庫P116)

それを口に含んだときの、場面につづけます。

――私のなかで尋常でないことが起こっていることに気がつき、私は思わず身震いをした。ほかのものから隔絶した、えもいわれぬ快感が、原因のわからぬままに私のうちに行きわたったのである。人生の苦難などどうでもよくなり、災難などは無害なものにすぎず、人生の短さなど錯覚だと思われた。(光文社古典新訳文庫P116)

引用させていただいた場面は、長編を象徴するところです。本書はまだ第2編「花咲く乙女たちのかげに」までしか刊行されていません。

◎人生には「面白い読み物」などない

長い小説をいかに読むべきか、小林信彦がユニークな見識を書いています。

――ぼくは『失われた時を求めて』から〈時間〉の問題やら何やらをとっぱらってしまい、人間喜劇、巨大なユーモア小説として読んだ。少なくとも,若い時には、とてつもなく面白い小説だと思った。(小林信彦『読書中毒・ブックレシピ61』文春文庫P220)

このあと小林信彦は、モームが推奨している読み方に触れています。モームの著作からその部分を引いてみます。

――このぼう大な小説をよむならば、まず最初からはじめ、退屈になったらとばしてよみ、しばらくしたら、また普通のよみ方にかえることをおすすめする。ただし、ヴェルヂュラン夫人とシャルリュ男爵のところは、一か所でもよみおとすことがないように、注意なさるがよい。この二人の人物は、人間の喜劇的想像力が生んだもっともゆたかな創造物で、当代他に類を見ない。(WSモーム『世界文学読書案内』岩波文庫P99)

最後に本書の読み方についての、コメントを紹介させていただきます。

――時折、人物は退屈だし、自然の風景に際立ったところがなかったり、内省があまりにも入り組んでいて、読者を苛立たせて気を逸らせるといったことがある。しかし、こうした見かけの上での欠陥が本筋と関係のないものであることはほとんどない。というのは、人生の退屈さ、平板さ、うんざりするような複雑さはブルーストの目的にとって神秘さや絶え間無い曖昧さと同様、本質的なものなのだ。実人生には「面白い読み物」などはないのだし、ここにもそんなものはない。(丸谷才一『ロンドンで本を読む』光文社知恵の森文庫P98)

光文社古典新訳文庫が完結するまで、私はゆったりとした物語の世界に、とどまっていることにします。

◎「失われた時を求めて」書評掲載紙

――加賀乙彦:私の好きな長編小説(新潮選書)
――鹿島茂:歴史の風・書物の帆(小学館文庫)
――柄谷行人ほか:必読書150(太田出版)
――小林信彦:読書中毒・ブックレシピ61(文春文庫)
――面白いほどよくわかる世界の文学(日本文芸社)
――青春出版社図解:5分でわかる世界の名作
――世界文学101物語(高橋康也・編、新書館)
――永塚けさ江:あらすじダイジェスト・世界の名作100を読む(幻冬舎)
――丸谷才一:ロンドンで本を読む(光文社知恵の森文庫)
――丸谷才一:快楽としての読書――海外篇(ちくま文庫)
――丸谷才一・池澤夏樹:怖い本と楽しい本(毎日新聞社)
――芳川泰久:ベストセラー世界の文学・20世紀(1)(早美出版社
――塚本昌則:フランス文学講義(中公新書)
――中条省平:小説家になる(メタローグ)
――中条省平:小説の解剖(ちくま文庫)
――篠田一士:二十世紀の十大小説(新潮社)
――丸谷才一ほか:千年紀のベスト100を選ぶ(知恵の森文庫)
――大内一憲ほか:20世紀文学映画館(集英社文庫)
――狐:狐の書評(本の雑誌社)
――一校舎国語研究会:世界――名著のあらすじ(コスモ文庫
――木原武一:要約世界文学全集Ⅰ(新潮文庫
――明快案内シリーズ:フランス文学(自由国民社)
――金森誠也:世界の名作50選(PHP文庫)
――洋泉社MOOK:死ぬまで読んでおきたい世界の名著(洋泉社)
――リテレール別冊:文庫本の快楽・ジャンル別ベスト1000(メタローグ)P111

◎ブルースト関連資料

――鹿島茂・編:三島由紀夫のフランス文学講座(ちくま文庫)
――鹿島茂:悪の引用句辞典(中公新書)
――WSモーム:世界文学読書案内(岩波文庫
――小林信彦:読書中毒・ブックレシピ61(文春文庫6-9)
――辻邦生:小説への序章(中公文庫)
――丸谷才一全集・第11巻(文藝春秋)
――森毅:ゆきあたりばったり文学談義(ハルキ文庫)P109
――山田風太郎:人間臨終図巻1(徳間文庫)
――渡辺一夫ほか:フランス短編傑作選(岩波文庫)
――吉田健一:書架記(中公文庫)
山本藤光2016.02.06初稿、2018.02.16改稿

フローベール『ボヴァリー夫人』(新潮文庫、生島遼一訳)

2018-02-13 | 書評「ハ行」の海外著者
フローベール『ボヴァリー夫人』(新潮文庫、生島遼一訳)

田舎医者ボヴァリーの妻エマが、単調な日常に退屈し、生来の空想癖から虚栄と不倫に身を滅ぼす悲劇を描くリアリズム文学の傑作。(文庫案内より)

◎「作用因X」とはなにか?

ナボコフのユニークな理論から筆をおこします。彼は「三つの力が人間を形成する」と断定し、「すなわち遺伝と環境と、未知の作用因Xである」とつづけます。そして「そのうち二番目の力、環境がもっとも重要性が少なく、最後の作用因Xがどれよりも影響力が強い」と結びます。つづく文章から全文引用します。

――小説の中に生きる人物の場合、この三つの力を操り、監督し、適用するのは、いうまでもなく作者である。ボヴァリー夫人をとり巻く社会も、ボヴァリー夫人自身が創造されたと同じように、周到綿密なフロベールの手によって制作されたものだ。(ナボコフ『ナボコフの文学講義』(上巻、河出文庫より)

ナボコフが賞賛するフローベールが、小説のなかに用意した「作用因X」とはなにか。本書を読むにあたって、ぜひとも心にとめておいていただきたいと思います。私は「三つの力が人間を形成する」というナボコフ理論を尊重しています。

シャルル・ボヴァリーは、2流の医学校を卒業した田舎医者です。フローベールは作品の冒頭で、彼の学生時代からを描いてみせます。先入観がなければ、彼が主人公ではないと思ってしまいます。本書はあくまでも「ボヴァリー夫人」が主役です。脇役をきわだたせる、みごとな筆運びであると感心させられました。
 
シャルル・ボヴァリーは、準医師試験に合格しています。未亡人と結婚し、ノルマンディ地方の田舎で開業することになります。そこへ農場を営むルオー老人が患者としてやってきます。
 
往診に出向くようになったシャルルは、そこの孫娘・エマに一目惚れします。エマはまだ15歳でした。2人の仲を感知した妻(ボヴァリー第1夫人)は、シャルルの往診を阻止しました。ところが彼女は、あっけないく死んでしまいます。わずかに28ページめで、タイトルの「ボヴァリー夫人」はエマにいれかわってしまうのです。

W.S.モームは『ボヴァリー夫人』を、世界の十大小説の一つにあげています。そのなかでモームは、『ボヴァリー夫人』についてつぎのように書いています。

――『ボヴァリー夫人』は、悲劇と言うよりは、むしろ不幸な巡り合わせの物語である。不幸な巡り合わせと悲劇と、この二つのものの違いといえば、前者にあっては、どの事件もすべて偶然から起こるのに対し、後者にあっては、それぞれ当事者の性格から必然的に生じる、とこう言っていいのではないかと思う。美貌と魅力に恵まれた身でありながら、エンマ(注:新潮文庫では「エマ」)が結婚した相手と言うのが、シャルル・ボヴァリーのような面白くもおかしくもないアホな男であったのは、不幸なことであった。(W.S.モーム『世界の十大小説(下)』岩波文庫P38より)

アホな医者の後妻になったエマ(ボヴァリー夫人)には、実在のモデルが存在するといわれています。エマには、豊かな世界への憧れがありました。エマは修道院で暮らしていたときから夢見ていた、理想的な結婚だと思っていました。しかし結婚生活は、平凡で味気のないものでした。シンデレラ・ストーリーを夢想していたエマは、平板な日常に辟易してしまいます。
 
ある日貴族のパーティに参加したエマは、華やかさに圧倒されてしまいます。自らがおかれている世界に嫌悪しつつ、エマは熱い欲望の塊が体内を突きあげてくるのを感じます。ボヴァリー夫人となったエマは、現実と夢想世界とのギャップを痛感するのです。結婚して2年後に女の子をさずかっても、エマの違和感は癒されることがありません。
 
シャルル・ボヴァリーには向上心がなく、未来への夢もありませんでした。エマの苦しみは、次第に飽和点に近づいていきます。
 
◎ボヴァリー主義(ボヴァリスム)とは

退廃的な日常のなかで、エマはレオンという若い書記官と出会います。相思相愛の仲になるのですが、レオンは法律の学問のためにエマのもとを離れます。膨らみかけていた風船が、一挙にしぼんでしまいました。エマの日常は、以前よりもさらに鬱屈としたものになってしまいます。
 
失意のエマの前に、農場主のロドルフがあらわれます。30歳過ぎの独身男で、エマに乗馬を教えたり、幸せとはなにかを説いたりします。閉塞的な日常のなかから、エマは開放されはじめます。エマはロドルフに、自分の苦しさを語りました。ロドルフはそれをやさしく受けとめます。くすぶっていたエマの心に火がつきました。そのときのエマの心境を、フローベールはつぎのように書いています。
 
――エマは復讐の満足を感じてもいた。いままでずいぶん苦しんだじゃないか。が、いま勝った。長いあいだおさえてきた恋が、たのしく沸騰してすっかり一度にわき出した。もうなんの自責も、不安も、心配もなく、この恋を味わっているのだ。(本文P221より)

さらにエマの性格を、垣間見ることができる記述へとつながります。こうしたエマの性格は「ボヴァリスム」と説明されています。詳細については、後述させていただきます。
 
――ロドルフは大きな外套にくるまっていた。彼はそれでエマをすっぽりとつつみ、腰を抱いて黙ったまま庭の奥までつれて行った。青葉棚の下、以前に夏の夜ごとに、レオンが彼女を恋慕をこめてみつめていたことのある、あの腐った丸太の腰掛けの上であった。彼女はもう今ではレオンのことはほとんど考えはしなかった。(本文P229より)

このあとエマはロドルフに逃げられ、レオンとの再会を果たします。ストーリーの詳細にはふれませんが、「これがボヴァリスムというものだ」と感心させられる記述が連なります。「ボヴァリスム」について説明しておきたいと思います。

――「ボヴァリスム」とは、フローベールの小説『ボヴァリー夫人』(1857)のヒロインから発生した言葉。みずからをロマンスのヒーロー/ヒロインとみなし、逃避的白日夢に耽り、日常の現実に直面することを拒否する気質のこと。早くはドン・キホーテのなかに見られる気質であり、J・オースティンの『ノーサンガー寺院』(1818)のキャサリンも同じように現実と虚構を混同する。(『文学批評用語辞典』研究出版より)

最後に『ボヴァリー夫人』の作品価値を、端的にいいあらわしている文章を紹介したいと思います。

――エンマの愚かな人生は、それまでの小説の主人公たちとはまるで違っている。『嵐が丘』のヒロインのキャサリンのように、一生を貫く激しい愛に翻弄されて生きるのでもなく、『谷間の百合』のヒロインのモルソフ伯爵夫人のように、愛に苦しみながらも復讐のように家庭の平和に順ずるのでもない。エンマの生き方はそういう小説風なものではないのだ。(清水義範『独断流・読書必勝法』講談社文庫P275より)

◎馬車から舞った紙きれ

以前私は本稿で、「エマはロドルフに逃げられ、レオンとの再会を果たします」と、さらりと書いています。山村修『増補・遅読のすすめ』(ちくま文庫)を読んでいて、教えられたことがあります。山村修が3度目の遅読で発見した個所です。

再会をはたしたエマとレオンは、辻馬車に乗りこみます。馭者に命じてひたすら馬車を走らせつづけます。馬車の窓かけはおろされ、平坦な道でも馬車は激しく揺れます。そして山村修は、つぎの場面を読み落としていたことに気づくのです。もちろん私は、いともさらりと読み落としていました。

――馬車の古ぼけた銀の側灯に陽の光が照りつけていたころ、野原のまんなかで、小さな黄色の窓掛けの下から、手袋をはめない手が一つでてひきちぎった紙きれを投げた。それは風に散って、その向こうに今を盛りと咲いているレッドクローバーの畑へ、白い蝶のように舞い降りた、(新潮文庫P337)

この官能的な場面の読み落としは、読書人にとって致命的なことです。山村修『増補・遅読のすすめ』(ちくま文庫)については、「山本藤光の文庫で読む500+α」で詳しく紹介させていただきます。福田和也『ひと月百冊読み三百枚書く私の方法』(PHP文庫)や立花隆『僕が読んだ面白い本・ダメな本 そして僕の大量読書術・驚異の速読術』(文春文庫)をこきおろす痛快な1冊です。
山本藤光2010.06.18初稿、2018.02.13改稿