風竿の「人生の達人」烈伝

愛すべき友、仕事・趣味の磯釣り・ゴルフ・音楽、少しの読書などにまつわるあくまで「ヒト」に重点をおいたブログです

Another side story of ONSEN de BEATLES

2015年05月09日 23時40分07秒 | 風竿の音楽夜話

今年で、その昔私が高校1年生の頃ビートルズが唄った

「When I'm sixty four」の年齢に達することとなった。

そこで、その曲をテーマにしたライブツアーをやろうと計画していたが、肝心の地元ではまだ決まってはいなかったので、この際秋にやってみようという話になっている。

これまでのライブ活動で知り合った気の置けない仲間のバンドと一緒に仲良く愉しもうという次第。

内々に話を進めていたら、かなりの協力者が現われたのだ。

テーマは集まったバンドのそれぞれのライブの後、メンバー全員で、かの「When I'm sixty four」を唄おうというごくシンプルなもの。

後は皆で打ち上げ兼懇親会で飲み明かそうというもの。

ホストは、私達のじいさんバンドがあい務めまする。

その余勢をかって10月からは九州各県を回ろうということに。

ビートルズの真髄を知り尽くした連中で、しっかり愉しもうというコンセプトなのだ。

さあ、楽しくなってきたぞ。

 

 


ホトトギスは声が枯れるまで鳴くといふ

2015年05月08日 23時49分25秒 | 風竿の音楽夜話

連休の初日は、陶器市で大賑わいの有田町の卸団地で炎天下のもと、11時からと13時からの2回のステージをこなした。

この日、気温は30度あったというから、おそらく道の上では35度くらいはあったろうと思う。

そんな中で、汗だくになって約20曲ほどを唄った。

今振り返ると、この出だしが一番体に堪えたのだと思うが、その当時は好きなビートルズ音楽三昧に浸れることに、むしろ喜んでいたほどであった。

二回目のステージが終ると急いで音響を片付けて、ラーメンをかき込んで、一路友人の経営するライブハウスのある大分へ。

5時のリハーサルに間に合わなければいけなかったのだ。

着いたのは5時半、再会の挨拶もそこそこに、慌ててリハに臨む。

ライブハウス「ねいろや」の出演は大トリで9時から・・・・。

地元のビートルズバンドのステキな演奏に聞き惚れたあと、盛り上った店内に、さらに油を注ぐ。

そこで約20曲を熱唱。

恒例の打ち上げでは大分のビートルズフアンの方々と大いに盛り上がり、酒が潤滑油となり、生ギター1本で、大コーラス大会となって、とても楽しくそして当然のように親しくなった。

ということで、寝たのは夜中の2時過ぎ・・・・・。

狭いカプセルホテルで爆睡といきたかったが、昼間の容赦の無い日照攻撃で<体が火照ってしまい、暑くてまったく眠れなかった。

朝が来るのを待って大浴場に飛び込んだ。

大分のファミレスで朝食を摂り、下の道を6時間以上かけて博多へひた走る。

ところが福岡市に入って筑紫野道路で大渋滞に巻き込まれ、4時の約束であったリハの時間に少し遅れる羽目に・・・・

やっとリハが終ると、昼食をまともに食べておらず、ここでも6時半にやっとまた今夜もラーメンをかきこむ。

親しいバンドThe Moonlightsの大神さん、浦本さんと親交を深め合い、最後のバンドとして20曲あまりのステージをあい務めました。

後半はステージでフラダンスを踊っているような状態で、そのまま倒れるのではと思ったけれど、気力で持ちこたえていた。

すべての仕事を終えてバンドのメンバーと帰路についたのは11時過ぎであったが、3人のおじさん達はきつくて終始無言でありました。

家に帰り着いたのは、日付が変わり4日。

どっかと腰をおろし、私は何をしたかといえば・・・・。

またギターを手にしてビートルズの曲を演奏していたんである。

大分・博多の行き返り、車の中はいつもビートルズの音楽が鳴り響いていたし、このまる2日間で60曲あまりのビートルズソングスを唄いまくったというのに・・・・またビートルズなんである。

私はターミネーターのように、胴体と首とが切り離されたとしても天からのミッションで、ビートルズの歌を唄うような、そんな気がして、自分にそら恐ろしかったものである。

ビートルズの歌は割とキーが高く、疲れたおじさん達には結構負担がかかるものだが、喉が枯れるまで鳴き比べをするというさながら山ホトトギスのようなものである。

この地獄の遠征のお陰で、私は次の日から高熱まで併発して寝込む羽目になり、

ベースの岡ちゃんも仕事中に倒れて病院へ駆け込み、「ああ骨病みですなぁ・・・」と見事な勲章の診断を頂戴し、

ギターの中島君もまた仕事中に具合が悪くなり、寝込んだのだという。

それでもビートルズが大好きなおじさん達。

    

今日はそのメンバーが、次の練習の日程を問いかけてきたのだから、凄いというほかはない。

ふたたび7月にはキャバーンビートさんか、熊本のケンノレンさんに出演するつもりで、また練習を重ねるのだという。

最高齢者65歳の岡ちゃん、立派です。

「もう一つの温泉deビートルズストーリー」という、おじさん達だけのライブ企画も飛び出した。

喉から血を吐きながら、声が枯れるまでやってみるか!!

 

 

 

 

 

 

 


温泉deビートルズ音楽祭・考

2015年05月04日 10時31分36秒 | 風竿の音楽夜話

東京に行くと必ず立ち寄るお店がある。

日本を代表するナイトスポット六本木にあるその店の名は

「アビーロード」

毎晩ビートルズの生演奏を聴かせる店。

そこのハウスバンド「The Parrots」のリーダーであるチャッピー吉井君とは・・・・、

彼が博多に居た27年くらい前からの知り合いであったことから、彼が六本木のキャバーンクラブというライブハウスに出演し始めた23年くらい前から行くようになった。

彼のジョンレノン役は当時から定評があり、私より7歳くらい年下であったが、私は彼のことを秘かに尊敬していたんである。

そして彼が現在のアビーロードに転籍してからもずっと通ってきたから、この店だけで、もう20年近くになるだろうか。

店内はMax130人くらい座れる広さであるが、それが、Parrotsが出る時にはいつも満席となる。

最近は外国人が多いのが目立つようになってきた。

音にうるさい外国人の耳にも敵ったということであろう。

彼らの醸し出すビートルズサウンドの再現はとても素晴らしく、いつかは地元の人たちにも、生の彼らを体験させてあげたいと思わされたものである。

足げく通ううちに、チャッピー吉井に相談したことがある。

「ビートルズコンベンション」みたいなものを田舎ではあるが、武雄でやりたいのだけど、どうだろう・・・・。

彼は、「日本ではまだ地域おこしとしてビートルズイベントをやってるところは無いから、それは面白いね。」と賛同してくれた。

そこから発想を固め、コンセプトを練りに練ったのが、「温泉deビートルズ音楽祭」なのである。

仕事に疲れた団塊の世代をターゲットにして、温泉で体を癒しながら、この世代の共通の音楽であるビートルズに浸って頂こうという企画。

国内企業や、市内のあらゆる企業のオーナーに話をして、メインスポンサーをお願いして順調な滑り出しをみせたこのイベントも今年で5年目となる。

当初5年は石に噛り付いてでもやると広言した5年目なのだ。

専ら発案者として、ネーミングの名付け親として、大会を裏で支える役目と資金集めを主体に活動してきたが、

毎年大口のスポンサー企業様に頭を下げて回るのも、汗顔の極みであり、大変であった。

「武雄とビートルズと何の関係があるとや・・・?」

そうは云いながらも顔を立てて協力して下さっている企業の社長様には感謝以外の何物もない。

そういう中での5年目を迎えたのである。

 

さて、九州各地にも「温泉deビートルズ」のご縁でたくさんの同好の士と友人になれた。

それはブランドイメージが確立した5年間でもあった。

少なくともポールの来日で盛り上った、今なお続くビートルズ人気と古くからの温泉地である武雄とのドッキングは、

異質同士の掛け合いで新しい文化が生まれていくという、過去にインダスやメソポタミア、またシルクロードなどでで繰り返されてきた、

歴史上のプロセスにも、ちゃんと合致しているのだと秘かに想いを廻らせている。

5年目だが課題は山積している。

「菊作り菊見る時はただの人」

みたいな心境になりたいものだ。

 

 


光のバレンタインへ

2015年02月11日 23時59分30秒 | 風竿の音楽夜話

2月14日(土)・15日(日)は武雄市武内町キルンの森公園にある、世界一の登り窯「飛龍窯」で光のバレンタイン灯籠祭りが開催されます。

夜になれば、会場には6000本の灯籠が一斉に灯され、それは素晴らしい一大絵巻が繰り広げられ、

まさに、光の中でのバレンタインデーが迎えられることになり、カップルの思い出作りのパワースポットが出現するのです。

イベントも多数準備して皆様をおもてなしする趣向です。

温泉deビートルズ音楽祭の協賛イベントとして、ライブも行われることになっていて、私達The AppleBeatsも祝ご出演

 

今日は、そのライブで使用するギターの弦を張り替えました。

リッケンバッカー325というギターで、ビートルズのジョンレノンが使っていた楽器なのですが、まあ、何とも扱いにくいギター

弦を張り替えるのがメチャクチャ難しいのであります。

昼から取り組みユウに2時間もかかってしまいました。

いつもは同じリッケンバッカー620FGというギターを使っているのですが、今回はライブで初デビューさせようと爪を研いでいるのでございます。

当日はピアノも弾かせて頂いて、ビートルズのラブバラードを主体に演奏致しますが、良かったら最近磨きがかかったといわれる私達の3声コーラスを聴きに是非遊びにおいで下さいませ。

僕らの出番は15日(日)の15時からでございます。

 

さて、今日は建国記念日でした。

勿論私は国粋主義者でもありませんが、ちゃんと玄関には日本の国旗を掲げて祝意を表しました。

日の丸・君が代反対という方々もおられ、最近はお正月さえ国旗を掲げない家が多くありますが、

国を愛することは、人を愛し郷土を愛することに繋がるのだと思います。

主義主張や思想と宗教は別にして、祝日に国旗を掲げることが、もっと自然に出来る国にならねばと思えてなりません。

ビートルズのポールマッカートニー先生ですら、日本に来られる時には、こんなTシャツでお出でになるというのに・・・・。

 

 

 

 


音楽の糸電話

2015年02月08日 00時05分46秒 | 風竿の音楽夜話

昨日というより今日の深夜、土曜の自由さにかまけて、かっての宿敵湯前中学のことを調べていたら、

その偉大なる指導者の「福島信也先生」のホームページが見つかったことから、つい50年も前に封印していた小箱を開けることになってしまった。

山間いの町のリード合奏による全国挑戦の快挙は、ついに映画化されたほどに町を挙げて盛り上ったというのだから、やはり私達の鹿島とは大きなスタンスの違いがあった。

     

一方私達はといえば、合奏部のメインとなる楽器アコーディオンの蛇腹は破れ、空気漏れでスースー、フカフカいうのを、

倉崎先生は修理屋よろしく上手にフセて治してくれていたくらいだから、

当時、音楽教育に使うような予算はかなり少なかった筈である。

そんな中で、私達は九州ナンバーワンをめざしていたのだ。

闘う武器はタダ一つ、練習のみ。

明けても暮れても、練習あるのみ。

3年生が代わりバンコにタクトを振り、来る日も来る日も練習に明け暮れたものだ。

しかも、練習で勉強が出来なかったという言い訳は倉崎先生が一切許さなかったから、私達はある意味必死だったのである。

貧乏クラブで楽譜も買えず、先生は難解なクラシックのアンサンブルを自分で私達のような素養の無い生徒のために編曲してくれていた。

しかも福島先生のような音楽教師ではなく、理科の先生だったのだから、凄いとしか言いようが無い。

今年88歳、米寿を迎えられる今でも鹿島マンドリンクラブのご指導をなさっているのだから、頭が下がるというものである。

そのお祝いを兼ねて久しぶりに集まろうという話になっている。

3月29日(日)鹿島市高津原の「かんらん」という集会場だ。

後輩の悦ちゃんから、往復はがきのプリントアウトを託されてしまったから、これから、ご案内をせねばならないのだ。

さて、鹿島中合奏部は九州大会準優勝を連続して戴くと、あちらこちらからお呼びがかかるようになり、演奏旅行ならぬ他校訪問や市内のイベントでも出演することが多くなった。

この写真は鹿島市民会館のコケラ落としのコンサートのもの。

今は亡き八代生ちゃんが写っている。

ジョコンダの「時の踊り」のマイナーに転調した哀しげなメロディーは、彼女のアルトアコーディオンが担当していた。

高校時代に帰らぬ人となったのだが、彼女のお葬式でその演奏テープを流し、涙も一緒に流したことを覚えている。

これは県大会でセビリアの理髪師序曲を演奏している時のもの。この年は思わず九州大会で勝ったと思ったものだ。

NHKの学校音楽コンクール器楽合奏の部は昭和38年から県大会で連続6連覇して九州大会でも一度だけ3位であったものの、あとの5大会はすべて準優勝であった。

昭和42年までで、この話は終る。リード合奏は戦後復興の役割を終えたのか、世の中は吹奏楽流行となって学校音楽コンクールから器楽合奏の部は消えてしまったのである。

そして倉崎先生も他の学校へ移動されてしまい、やがて鹿島中学校自体が北鹿島中と能古見中と統合されてしまい、鹿島西部中となり、無くなってしまったんである。

その意味からも、今は無くなってしまった鹿島中学校の正面玄関の前のソテツの木が懐かしいではないか。

これらの写真は、私の先輩木原さんから送って頂いたもの。

この先輩の合奏部に注がれた愛情は、言葉に尽くせないほどに深く、しかも精力的で且つ的確であった。

 

さて、木原先輩から教えて頂いた電話番号を頼りに、おそるおそる宿敵、湯前中学の指導者福島信也先生の人吉のご自宅に電話をかけてみた。

「突然失礼します。NHK学校音楽コンクールでエントリーしていた佐賀県代表の元鹿島中学の合奏部に在籍していたものですが・・・・・。」

「鹿島中」と云った私の言葉に、先生はしばらく絶句された。

意外にも、後から振り払っても振り払っても聞こえて来る足音がとても気になっていたとのお話であった。

「合奏部OBの皆さんといつの日にか湯前町を訪れてみたいと思っているのですが、その際には当時の部員の皆さんや先生とも是非お会いしたいと願っております・・・。」

純粋な熊本弁で朴訥にお話になる。

熊本県では音楽分野の大家といわれる凄いお方なのに、全然飾らない温かいお人柄のようだ。

「ああ、いつもは大体は家に居て、自宅の音楽室でピアノを弾いとりますけん、いつでんヨカです。いらっしゃい・・・・。」

携帯からかけたのだが、小さな糸で繋がっているように感じた。

さしずめ音楽の糸電話といった趣であったのである。

 

 

 


50年前の敗北

2015年02月07日 01時39分52秒 | 風竿の音楽夜話

50年前、私は中学1年生

鹿島市立鹿島中学校に通っていた。

そこで合奏部というリード合奏の課外クラブでハーモニカを吹いていたのである。

毎日、放課後ともなればちゃんとした音楽室などなく、体育館代わりに使っていた講堂の片隅で、体育系のクラブと共同使用で合奏の練習をしていた。

環境はイマイチだったが、それでも私達の目標は「NHK学校音楽コンクール」の器楽合奏の部で、宿敵湯前中を破り九州大会を制覇することであった。

指導者の倉崎喜雄先生もそれを目標に掲げられ、日曜日も休み無く鍛えられ、

コンクール前ともなれば、早朝練習も加わり、夜も8時頃まで難しいクラシックの名曲と格闘していたのである。

カラスの鳴かない日はあっても合奏部が音を出さない日は無いとまで云われたものである。

事実、わが鹿島中合奏部は県大会は6連覇の圧倒的な演奏力を誇っていたのだが、

各県代表とのテープ審査となる九州大会では、必ず準優勝までは届くのだが、どうしても熊本県代表の湯前町立湯前中学に行く手を遮られたのであった。

当時、「打倒湯前中学」は合奏部部員の共通の悲願であった。

アコーディオン部隊は爪が折れるほど練習して、ハーモニカ部隊も唇が腫れるほどに練習を重ねたものだ。

何せ休みは正月の元旦のみ。

雪が降ろうと雨が降ろうと、台風がこようとお構いなし。

いつしか合奏部以外の父兄から、「いくらなんでもあんまりではないか・・・。」と学校に苦情がくるくらいであった。

1年生の時から3年生になるまで、年々楽器も充実していき練習の成果も現われて、確かに力は確実に付いたと思うし、

先生の選曲もきらびやかなものに嗜好を変えて、コンクール映えのするシンフォニーを大会にぶつけた。

2年の時にはロッシーニの歌劇「セビリアの理髪師序曲」

3年になると歌劇ジョコンダから「時の踊り」に挑戦して、ハーモニカの奏法もバイオリンを意識したものに変え、もうこれ以上はないというくらいに仕上げたつもりであった。

それでも勝てなかった。どうしても勝てなかった。

その相手がここ、湯前中学なのだ。

当時の指導者は福島信也先生、何と今では熊本県下でも有名な音楽教師として君臨されているお方なのだ。

何せ熊本県芸術劇場でN響と東京混声のハレルヤを指揮されたほどのお方なんである。

とんでもない指導者に私達は立ち向かっていたのだ。

この人が福島信也先生

それらのご活躍の軌跡は、ここのホームページに納められていたのを発見。(開くとコンクールの演奏が奏でられる。)

そこには、何と当時の演奏もおさめられているではないか。

じっと聴きなおしてみる。

「うーん・・・」と唸る名演奏なんである。

湯前町は人口5千人余りの小さな山間の町で、中央に球磨川が流れている寒村なのだが、この合奏部を町を挙げて応援していたらしい。

楽器も既に負けているし、応援も負けていたのだ。

当時の写真をお借りしてブログに収めたのは、かっての仲間たちに見せたかったから。

日本一にも輝いたらしい。

これらの写真を見て、私達が血の滲む努力をしても届かなかった頂上が50年後の今、やっと見えた気がした。

こんな横断幕など、私たちには無かったもんね。

「サムソンとデリラ」の録音風景なんだと・・・・。この曲にもやられた苦い想い出の込められた曲。

私達と変わらぬ編成なのに

弦楽器も入れていたのだ

管楽器も入っていたのだ

屈託の無い同じ中学生なのに、負けた悔しさは50年経った今でも残っている。

苦い敗北の思い出であるけれど、その合奏部の仲間と3月29日に指導者倉崎先生の米寿のお祝いを兼ねて、再び合う事になった。

今年はその仲間と湯前町に訪れてみたいものである。

そこでかってのライバル達に会って話してみたいものだ。

ねえ、木原先輩、安冨先輩、後輩の道子さん・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 


博多で鍛えられるおじさん

2015年02月06日 00時52分52秒 | 風竿の音楽夜話

博多の清川、柳橋連合市場の通りを挟んで向かい側の通り

うちだうどん店清川店のお隣に、その店はある。

超一流企業を退職してまで、好きなビートルズと関わっていたいという想い入れが、一軒のビートルズ専門のライブハウスを誕生させたんである。

店主の町田さんは、とても、頗る付きでいいお方。

僕らのバンドThe AppleBeatsはもうこの店で10回ほどもライブをやらせて頂いているのだ。

佐賀の片田舎から都会に出てきてまで、好きなビートルズを演奏する私達前期高齢者バンド

都会な分、オーディエンスの耳は確かに肥えている。

それでも少しは上手に演奏したいと武者修行にでかけるのだ。

このささやかな願いが神様に届くのはいつのことだろう。

ベースの岡ちゃんは段々と耳が遠くなり、ギターの中島君も最近単純なポカが多くなってきた。

私とて歌詞が覚えられなくなってきた。

そんな加齢のせいにはしたくない「老い」というからだの変化を身近に感じながら、博多に出向くのである。

じいさんバンドに栄光あれ・・・・。

人生は一回きりなのだから。

<!-- Cavern Beat 2015年1月31日 THE Apple Beats(3) . -->


博多で鍛えられるおじさん

2015年02月06日 00時52分52秒 | 風竿の音楽夜話

博多の清川、柳橋連合市場の通りを挟んで向かい側の通り

うちだうどん店清川店のお隣に、その店はある。

超一流企業を退職してまで、好きなビートルズと関わっていたいという想い入れが、一軒のビートルズ専門のライブハウスを誕生させたんである。

店主の町田さんは、とても、頗る付きでいいお方。

僕らのバンドThe AppleBeatsはもうこの店で10回ほどもライブをやらせて頂いているのだ。

佐賀の片田舎から都会に出てきてまで、好きなビートルズを演奏する私達前期高齢者バンド

都会な分、オーディエンスの耳は確かに肥えている。

それでも少しは上手に演奏したいと武者修行にでかけるのだ。

このささやかな願いが神様に届くのはいつのことだろう。

ベースの岡ちゃんは段々と耳が遠くなり、ギターの中島君も最近単純なポカが多くなってきた。

私とて歌詞が覚えられなくなってきた。

そんな加齢のせいにはしたくない「老い」というからだの変化を身近に感じながら、博多に出向くのである。

じいさんバンドに栄光あれ・・・・。

人生は一回きりなのだから。

さて、今夜もその博多のライブからYoutube動画をアップしておきたい。

最後にアンコールナンバーを1曲

<!-- Cavern Beat 2015年1月31日 THE Apple Beats(1) . -->


唐津から博多まで

2015年02月04日 23時21分55秒 | 風竿の音楽夜話

1月31日土曜日は唐津ジュニア音楽祭の前夜祭にゲストとして呼ばれました。

唐津市民会館でのステージを終えて、そのまま車は北東へ

1時間ほどでビートルズスペシャルナイトライブが開催されている清川のキャバーンビートさんの9時半からのステージに駆けつけたのでありました。

 

ちょっとした売れっ子おじさんバンドなんであります。

駆けつけると博多のビートルズ遊園地と言われるライブハウス「キャバーンビート」は立ち見まで出る満員の大盛況

張り切って演奏したのは当然の成り行きなのでした。

その様子をYoutubeにアップして頂いていて、とても有難かったので、思い切ってブログで大公開しちゃいます。


一晩に掛け持ち、しかも唐津から博多までという強行スケジュールは寄る年波には堪えますが、そこは元来の音楽バカのなせる業というか・・・・。

「あんたも好きねーっ!」というか・・・・。

きついどころか、寧ろ愉しんでいるんであります。

NO MUSIC NO LIFE 

そんな心境といったところ。

バンドの演奏は合わないところが面白いものです。

ましてコーラスも三声でやっているので、なおのこと。

ライブはハプニングの連続でもあります。

それもまた面白いものです。

そしてタマにビシッと合っていいアンサンブルが奏でられると、それはもう背筋に電気が走り、夢見心地になるのですが、それがあるから、またやりたくなるのですね。

今夜はもう少し、ライブの模様をご紹介致しましょうか。

<!-- Cavern Beat 2015年1月31日 THE Apple Beats(2) . -->

63歳まだまだやれる63歳、まだまだ死ねない63歳なんでございますよ。

 


鹿島中学校合奏部

2015年02月01日 23時51分44秒 | 風竿の音楽夜話

もう半世紀も前の話なのだが、まるで瀬戸内少年合奏団みたいなお話が確かに存在していた。

まだ日本中が等しく貧しかった頃、戦後復興が東京オリンピックで拍車がかかり始めた頃のお話。

九州の片田舎のイガグリ頭の中学生が、NHK主催の学校音楽コンクールの器楽合奏の部、佐賀県下の中学校で毎年優勝していた。

今は統合されてしまい、西部中などという実に月並みでつまらない名前になってしまった中学校、それが我が母校である鹿島中学校なんである。

 

文武両道に秀でた素晴らしい中学校であったのだが、私が在籍していた合奏部も全国レベルのクオリティを誇っていた。

県下では勿論無敵だった私達だが、録音放送で行われた九州大会では、いつも準優勝止まりで悔しい思いをしたのである。

指導する先生は「クラさん」と呼んでいた理数系の教諭であったから、私の父とも親しかった。

オマケに少し遠縁にあたることもあって、野球部に在籍していた私は、音楽的な才能ありということであったのか、強引に合奏部に引き抜かれたのであった。

クラブの練習はそりゃー凄いもので、打倒湯前中学を合言葉に、正月の1日を除いて毎日鍛えに鍛えられた。

何しろ数多あるクラシックの名曲を、何の音楽的な環境に育ってなどいない、普通の素養乏しき田舎の中学生が演奏するのである。

しかも、当時は楽器といっても、ハーモニカにアコーディオンといった所謂リード楽器が主体の時代。

しかし指導者次第ではどうにでもなる感性を秘めた年代でもあり、鍛えられることによって、私達は他校や、色んな場所に堂々と演奏旅行をするほどに地域でも認められていたのであった。

その鹿島中合奏部の十八番に「歌劇アルジェのイタリア女序曲」があった。

この曲は云わば合奏部のテーマソングみたいなもので、年代が変わっても引き継がれてきた曲でもあった。

そして、その曲を今夜のEテレでNHK交響楽団が演奏していた。

久しぶりにこの曲と接して感無量。

当時の様子が瞬時に甦ってきた。

ヘンデルやバッハに代表されるバロック音楽もやったのだが、この曲には特段の思い入れがある。

何しろ目を瞑っていても出来た曲だったから、それは当時の体に染み付いていたくらいの得意ナンバーだったのだ。

毎日練習に明け暮れていたあの頃、

夕闇の迫る講堂での真剣な練習、

夏の音楽室での半ズボンのクラさん。

NHK佐賀放送局での遅くまで熱心に録音した思い出。

優しく厳しい先輩達の顔、

頼もしく可愛い後輩たちの顔が甦ってきた。

素晴らしい仲間たちと共通の目的、価値観で過ごした三年間は、そのまま私の貴重な財産なんである。

倉崎先生は今年米寿を迎えられるという。

久しぶりに合奏部の同窓会も開催される予定のようだ。

旧交を温めたいものだ。

それでは、その曲をYoutubeから見つけてまいりましたので、是非お聴き下さいませ。