炉端での話題

折々に反応し揺れる思いを語りたい

今後の日本の経済はどのように               

2011-06-25 08:48:06 | Weblog
 最近、アメリカ合衆国を訪れる機会があった。為替レートが80円/1ドルと円高なので、さぞ物価が安く感じるのかと思っていたが、それはなかった。実感としては日本の物価とさほど変わりがない。
 経済については、シロウトなのだがシロウトなりに考えてみるために、少しばかり物価指数を調べてみた。

 まずは、かっての「トルコの経済事情 -炉端老人のコメント-」から一部を引用しよう。
「日本ではバブル崩壊後、デフレーションのために物価の変動は少なかった。そのために民衆は閉塞感に陥っていた。ほぼ20年近くになるかな。
 閉塞感のない社会とはどういう社会なのかって。それはね、年率数%の経済成長、それにともない物価の上昇をひきおこすから、貯蓄の利子もそれに見合う利率であり、当然ながら給与も上昇するから、安定成長として民衆の閉塞感はないという社会なのだ。
そこでだ。20年間の安定成長のツケがいきなり襲いかかるとしてもおかしくない。年率数%の物価上昇が20年続いたら元の価格の何倍になるのか、計算すればすぐわかる。仮に年率2%ならば20年で1.5倍、3%ならば約1.9倍だ。20年で物価が2倍程度ならば、まあいいのではないかな。長い間一定だったという閉塞感から、いきなり物価が2倍になるようなインフレーションとなれば衝撃は大きいので避けなければならない。しかし、何かのきっかけから緩やかなインフレーションに突入するかも知れない」。

 1980年代終り頃から1990年始め頃、日本ではバブル景気があった。その後国民が実感としてバブル崩壊を実感として持つようになったのは1988年前後頃といわれている。統計をみると、アメリカ合衆国では、この間も一年あたり2%程度の物価上昇率である。2011年には、1988年を100として、物価指数は約140となっている。つまり1.4倍になっている。1988年頃の為替レートは140円/1ドルであったが、最近では80円/1ドルで推移している。アメリカ合衆国において、日本製品を購入するとすれば1988年当時の製品価格指数は今年2011年に175、すなわち1.75倍のとなるから、インフレ率を考慮してもアメリカ人にとっては、日本製は高価な商品と映るに違いない。

 今回の旅行中、スーパー・マーケットで家庭用テレビ製品の価格は、日本の店頭から比較するとまことに安い。特に韓国製が安い。
 そこで韓国の物価指数を調べると、1988年頃を基準とした今年の物価指数は150程度であるからアメリカ合衆国とさほど変わりがない。アメリカ合衆国と韓国のインフレ率はほとんど差がないことから、韓国製品がアメリカ合衆国で安価に販売されている理由が納得できる。つまり、工業製品の価格は据え置いたまま、為替レートが輸出入国ともほぼ同じインフレ率で推移している。それに対して日本は、工業製品の価格を据え置いたままとしても、為替レートはインフレ率と連動して上昇していないから、輸入国のアメリカ人にとっては日本製品が高価に映ることになる。事実日本製のテレビ・セットは値段が高かった。
 日本経済がデフレ状態のまま、周辺諸国、とりわけ台頭している中国が工業製品の価格を据え置いたまま激しく輸出し、中国国内で現在のインフレ率が続くとすれば、対中国の為替レートも円高となり、日本製品はますます中国には売れなくなる。逆に日本では中国製品が安くなるから、日本製品の販売競争力が日本国内でもさらに低下する。

 炉端老人が語るように、数%のインフレ率は民衆の閉塞感を解放するばかりではなく、輸出商品の諸外国での購買力増進になる。日本ではバブル景気を抑圧する経済対策のブレーキがききすぎて、デフレ状態が長く続いたために、世界経済流通機構の中でも置き去りにされつつあるのではないか。

 以上のような話題を経済の専門家に投げかけると「経済とはそのように簡単に割り切れるものではないよ」と一蹴されるであろう。
 炉端老人のコメントのように、何らかのきっかけで、インフレに転じる可能性もある。今回の東北大震災とその影響を受けた福島第一原子力発電所の災害がトリガーになるかも知れないと思っていたが、今のところその気配はみられない。
 しかし家人と共に、スーパーの買い物に出かけると、じわりと贈答食品とか、菓子類などの直接食卓に関係ないものの価格が高くなりつつある。
(応)

検索システムの怪

2011-06-19 11:30:36 | Weblog

 福島原発事故について皆さんが実にたくさん書いている。炉端での話題でもボブさんが触れていたので、それをニフティ(www.nifty.com)で検索できるか試してみた。「福島原発事故の疑問」というキーワードで探したが、出ない。根気よく探したがやはり出ない。単に「福島原発事故」でも出ない。「そこで、「炉端での話題、福島原発事故」で探すと、おかしなものが出た。
 タイトルが「炉端での話題」で、その概要は「この炉端での話題で「安全性と安心感」のことを取り上げたことがある。安全性は学術的な理論をもとに数値的に与えられた根拠…そこで、福島原発事故時の対応マニュアルはどうなっていたのであろうか。また、事故時対応訓練はどのように行なわれてきた…」と記されている。
 点線より前は、(応)さんが書かれた「安心感が災いをもたらしたのでは」の一節である。後半はボブさんの「福島原発事故の疑問」の一節である。つまり、「炉端での話題」のタイトルで、二つのものがごちゃ混ぜにされているのである。
 検索システムが機械的にこのような混合をしたとは思えない。人間の仕業であろうが、一体、誰がこのようなことをしたのか。異なった趣旨のものをきちんと理解せず、大雑把に一まとめするのは無責任極まりない。ニフティはこのようなことをしてはいけません。
 Googleで探すと(キーワード「炉端での話題、福島原発事故」)、ボブさんのものがそのまま出る。(青)

安心感が災いをもたらしたのでは

2011-06-12 10:09:47 | Weblog
この炉端での話題で「安全性と安心感」のことを取り上げたことがある。安全性は学術的な理論をもとに数値的に与えられた根拠をもとにしており、安心感は各個人の感性によるものとして考えた。元記者の当時の意見を次に再掲する。
「新幹線には安心して乗れるが、アメリカの報道によれば、トヨタ自動車には安心して乗れない。いくら理論的に安全性を証明しようとしても、安心感がなければ駄目なのだ。安全性と安心感とは違うものだ」。

 本日6月12日の産経新聞の第一面に「津波が土台えぐり、倒す」という見出しの記事がある。今回破壊された防波堤とか防潮堤は、過去の津波災害を元に建造されていたという。
朝日新聞の記事によると「総工事費は80年の貨幣価値に換算して約50億円に上る。
 こうして出来上がった防潮堤は、海寄りと内寄りの二重の構造。高さは約10メートル、上辺の幅約3メートル、総延長約2.4キロと、まるで城壁のようだ。岩手県によると、二重に張り巡らされた防潮堤は世界にも類はない。
-中略-
しかし、今回の津波は二つの防潮堤をやすやすと乗り越えた」と書かれている。

今回は、まず大きな地震がきた。しかしながら、このように強健に作られていた防潮堤はこの程度の地震には破壊されなかったであろう。それを見た住民は、津波の警報が発令されたにもかかわらず、防潮堤が津波を防いでくれるという安心感があったために避難しなかった。このことは辛くも生存された方の体験談からわかる。安心感のもとに避難しないことで、この地域の多くの方々が犠牲になったともいえる。
土地の形状から防潮堤が作成できなかった地域の住民は、こぞって避難し、難を逃れたという報道もある。このような地域の住民は津波に対する安心感はなかった。
筆者は、安心感が災いをもたらしたと考えている。

安心感は、個々の持つ感性である。各個人が持っている安心感は、自らの生命を守る手段の一つである。しかし安心感に頼っていては、災いに遭遇する危険性があること、これは今回の災害がもたらした教訓である。
(応)

終末期医療を考えること

2011-06-11 08:48:21 | Weblog
畏友である敏腕な医者と会う機会があった。そのおり「これは参考になる。読んでおくといいよ」といって読売新聞の2011年5月23日から6回にわたって連載された「医療ルネサンス:最期を選ぶ」という記事のコピーを渡された。

最初のコラムは「終末期医療を事前指示」である。尊敬する畏友の医師が、どうしてこのような新聞記事を手渡してくれたのか、記事を読み進むうちに疑問に思ったものである。
その内容は、無駄な延命治療はしない、植物状態になれば一切生命維持装置は使用せずに、苦痛のみを除去する医療を施してほしいということを前もって書類として準備しておくということである。いわば尊厳死を依頼する本人の事前通告である。思うに、医者の立場からすると、生命の危機的状態にあってどこまで医療を施せばよいのか判断に迷う事態に何度か直面したものと推察する。医者の立場から、事前通告書があってほしいとの願いがあると解釈できる。
生命の危機的状態にあるとき本人に意識はない。しかし取り巻きの家族からは、記事の中にもあるように、異なった意見がもたらされる。本人の意向を確認する手段はない。そこに事前通告書があれば、それに従って医師は医療を行うことができる。6回にわたる読売新聞記事「医療ルネサンス:最期を選ぶ」は、医者にとってもクライアントに渡したい有用な記事であることを認識させられた。

この医師は、老人ホームの嘱託医を務めている。「いままでね、このホームでは脳梗塞で死亡したケースはゼロだよ。その理由は、水分を充分補給するように介護に当たる人たちに日頃から厳しくいいきかせているからさ。高齢になると、細胞の水分が少なくなるばかりか、保水力も低下する。血液が濃縮されることで脳梗塞をひきおこすことになる」という。
そうか、日本人はよくお茶を飲むから長寿なのかも知れない、そういえば至る所にお茶を売るための自動販売機がある。これは世界に誇り得る長寿の源にもなっていると合点したものである。
「省電力のために自動販売機を撤去せよ」と石原慎太郎東京都知事はいわれるが、お茶の自動販売機は長寿に寄与していることも考慮して頂きたい。
(農)

電力周波数全国統一の課題考

2011-06-04 12:15:23 | Weblog
 電力の周波数全国統一に向けて署名運動を開始していることが、この炉端での話題にコメントとしていただいた。
 大変結構なことであり、大いに進めて頂きたいところである。
 しかしながら電力の周波数全国統一は、署名運動だけでは難しいとも思われる。
他に寄せられたコメントにもあるように、大きな政治的な動きがなければ実現しないことも確かである。その意味では署名運動としての意義は認められる。

 政治家が動くことは多分ないと想像する。いまの政治家は党利党略しか目前になく、さらには選挙基盤の選挙民の支持を得るための事業には関心があるにしても、日本の将来あるべき姿についての確たる政策は持っていないように見受けられる。
当然ながら、電力の周波数統一などは、党利党略には関係なく、地盤選挙民の利益にもつながらないから、署名運動の結果を提示すれば「わかりました。善処すべく所轄官庁に指示して前向きに検討させて頂きます」といいながら鄭重に受け取り、何も起こらないのではなかろうか。所轄官庁は電力周波数統一の効果はよくわからないし、そのための業務をさばくには、公務員削減もあり人的な余裕もない。
 決して署名運動に水をさすわけではない。その点は誤解しないでいただきたい。

 さてそれでは、いかに対処して電力周波数の全国統一を進めればよいだろうか。
電力周波数統一のことを折りにふれ識者に問いかけると、賛成意見はあるものの難しいという返事が返ってくる。この炉端での話題に頂いた貴重なコメントもその例である。正直なところ、筆者も周波数統一すればよいことはわかるが、「それではいかなる経済効果があり、将来どのように有益なのか」と問われたら返答に窮する。
政治家を説得するためには、日本にとって電力の周波数統一がどのような国益をもたらすかを提示しなければならない。具体的に国益を示すことは大変難しいとおもわれるが、署名運動と同時に、課題として解決しなければならない別の意味での運動がある。

 まずは電力周波数を統一する場合の問題点を明らかにする必要がある。
電力消費者側では誘導電動機を主として用いる企業がある。どのくらい周波数に依存した誘導電動機があるのか、草の根を分けるようにして調査しなければならない。ちなみに我が家では旧式のエアコンは、50ヘルツでしか使えないことを確認している。冷蔵庫とか洗濯機は古い機械が故障して買い換えているので表示を確かめると問題はない。
各家庭とか中小企業さらには大企業体、官庁にまで及ぶような草の根を分ける調査は所轄官庁ではできないであろう。
 あえて提言するならば、ボランティア活動による調査を行うことである。電力機器には表示があるからそれほど専門的知識は必要ない。

 大きな負担がかかるのは、電力供給企業体である。
 まずは発電機であるが、50ヘルツから60ヘルツにするために発電機の回転速度を上げなければならない。日本の西半分ではすでに60ヘルツの発電機があるから本質的な問題はないとおもわれるが、筆者は発電機に関する専門家ではないので、単に回転数を変更するだけでいいかどうかはわからない。
いえることとしては、発電機を新しくする場合は、50ヘルツ地域の発電機は60ヘルツにも変更できるようにしておくことであろう。もしこの処置が必要であれば、電力周波数統一には、数十年の単位の時間がかかることになろう。
 電力の電圧を変換するトランスも交換しなければならないかもしれない。筆者のささやかな知識では、日本のトランスは世界の中で最も優れた鉄による製品を用いており、極めて損失が少ないと聞いている。電柱に取り付けられたような小型のトランスは多分そのまま使えるかも知れないが変電所の大型トランスについては専門家の調査が必要であろう。
 寄せられたコメントには送電線にも周波数変更の場合は課題があると指摘を受けている。これも市街地などの低圧送電系統では、問題がないと思われるが、50万-100万ボルトの超高圧送電線については、これまた専門家の調査によらなければならない。
 このように電力供給側の課題は専門的な知識を持った方々の調査によらなければ、周波数変更にあたり必要な経費の見積もりとか、期間の算定はできない。
 所轄行政がわずかな人員を使って、このような評価を行い得るであろうか。

 さらに困難な課題は、周波数を統一した場合の経済的な効果である。
 筆者はこれまで全国統一することで災害時に電力の支援融通が大規模に実施できることから、地域に限定した緊急停電を避けられることを述べてきた。これは災害対策であって経済効果を生み出すわけではない。
 政治家は、1000年に一度起こるような災害のために、どうして電力系統の全国統一が必要なのかと、「一定の期間たって」ほとぼりが冷却したら、必ずや口にするであろう。またもや「事業仕分け」の対象となるかもしれない。
 いかなる経済効果があるかということを具体的に示さなければならない。これまた筆者のささやかな知識によると、周波数が上がることで回転電動機は時間あたりの回転数があがりトルクが大きくなるから、あるいは効率がよくなるかも知れないと思っている。本当にそうなのかと問われれば返答に窮する。

 電力周波数が上がれば効果的なことが他にもあるかも知れない。このことは次世代を担う若き学徒諸君の研究課題であろう。
 かってこの炉端での話題で述べたことを再び引用する。元東京電機大学学長の当麻善弘東京工業大学名誉教授は、「人類の科学的知識と技術の進歩は、その発端が異なっていれば別の展開があったかもしれない」という趣旨のことをいわれた。この言葉は頭の片隅に残っている。
 科学の進歩は、枝分かれしながら展開している。その枝分かれには、必ずしも好ましく行われていないこともあろう。そのことを明らかにして未来に繋ぐことも重要な研究分野である。聞くところによると大学では電気工学の中で電力関係の研究は、新規性がないことから敬遠されているらしい。筆者は日本の電力系統を統一することでいかなる効果があるのか、工学的な側面から研究することは、日本の国益に寄与する素晴らしい成果をもたらすと信じて疑わない。
 その成果が政治家を動かす可能性は、1000万人の署名運動に勝るとも劣らないであろう。
(応)

不真面目な政治家

2011-06-02 16:53:42 | Weblog

 政治家の不真面目さに腹が立つが、ブログで憂さを晴らす以外に私たちにはどうしようもないのでしょうか。
 党首討論の品の悪さを見た。
 復興に向けて各自ができることを頑張ろう、と言っているのに政治家の連中は、自分と意見が合わなければただ相手に辞めろという。要するに自分がトップに立ってやりたいだけの権力亡者ではないのか。相手には復興ができないと青筋立てて罵るが、当人ならそれ以上に復興ができるという論拠は何もないではありませんか。協力を頼んでこないと文句を言っているのもおかしな話しだ。各自ができることを頑張ろうとテレビでは言い、国民一人ひとりが頑張っているのではありませんか。何様だと思っているのでしょうか。いい加減に権力争いは辞めてもらいたいものだ。(ボブ)

原子力発電の将来構想について

2011-06-01 11:12:02 | Weblog
 福島原子力発電所では、東日本大震災に伴う津波で大きな被害に遭い、今なお対策に追われていることが報道されている。
 つい最近、IAEAの査察団来訪直前になって原子炉のメルト・ダウンが生じていたという重大な障害の報道もある。現地で復旧にあたっておられる方々の辛苦に対しては、重大な災害に繋がらないよう尽力して頂くことを念願しつつ、激励いたしたい。

 この災害に伴う原子力発電所の危機にあたり、原子力発電所の撤廃を発言している方々もいることは理解できるとしても、単なる反対運動が果たして効果的かどうかについては冷静に一考を要する。

 日本で原子力発電所を建設し、この運用を開始した経緯について振り返って見る必要がある。
 日本は第2次世界大戦において、広島と長崎に原子爆弾を投下された被爆国である。それが悲惨な状況であったことから、原子力発電所に対しても同様な被害を被ることを懸念して建設の反対運動が起こった。日本はエネルギーを確保するためには化石燃料である石油、あるいは天然ガスを輸入しなければならなかった。化石である石炭の埋蔵量は日本では多いようであるが、掘り易いところからは遠のいてしまって採掘に多大な費用がかかるために、輸入した石炭の方が経済的であることから国内の炭坑はすべて閉鎖されている。日本が工業立国として世界の中で生存していくためには電気エネルギー源が必要で欠かすことができない。水力発電はすでに開発しつくしていた。火力発電は、化石燃料を使用することで地球の汚染にもつながる。次世代の電気エネルギー源として原子力に頼ることになった。しかしながら日本国民は、原子力発電について、災害をもたらさないか懸念を抱いた。

 当時の政府は、将来の電力需要を見込んで原子力発電の必要性を認識していた。原子力発電が安全であり、災害を引き起こすことがないことを力説しながら原子力発電を推進した。原子力発電はとてつもない巨大なエネルギーを発生するだけに設計ミスは許されない。また直接安全性を損なうことがないような設計ミスがあったとしても、そのことで国民の不安感をあおり、原子力発電所の建設に反対する理由にされることから、安全性が充分高いことを力説するため、少しでも不安な材料があったらそれを隠す秘密主義が徹底していた。

 この秘密主義には、いま一つの理由がある。このことは今回直面している事態から推察できる。巨大な電気エネルギーを生産する原子力発電所が被害を受けたとき、どのような事態になるか。電力供給不足のために、大都市並びに近代工業に重大な影響を及ぼした。このことは、関東以北の50ヘルツ送電区域の住民、並びに電力需要企業が体験したまさに事実である。また放射能汚染地域が発生して住民が退去しなければならないことも現実となっている。
 これが地震・津波災害でなく、テロとか軍事的な攻撃でも同じ状況を呈する。今回の原子力発電所の被害から、原子力発電所の構造・配置を元に故障箇所を報道によって情報公開している。テロ集団あるいはテロ国家がどこをどのように破壊すれば、最も効果的であるかということを暴露しつつあるといってもいい。軍事専門家であれば、アフガニスタンの戦闘で使われているような軽易なロケット弾をもちいることで原子力発電所の破局的な破壊ができるか判断できるであろう。
 福島原子力発電所の第一号機は米国の設計であり、同一の原子力発電所は米国国内にも稼働していると報道される。日本の公開報道により、米国国内の原子力発電所は、テロ対策が強化されることが推察される。原子力発電所の秘密主義は国家存亡にかかわる事態を避けるためにも必要と考えていい。

 このように述べてくると、日本では原子力発電所は廃止した方がいいということになりそうである。しかしながら原子力発電所撤廃は容易ではない。
 菅内閣総理大臣は、フランスで実施されていた最近のサミットに出席し、今回の原子力発電所の災害について冒頭に説明したという報道がある。フランスは電気エネルギーの80パーセントを原子力発電によって供給し、スイスなどの周辺国にも電気エネルギーを輸出しているという。先進国では、ドイツとかイタリアが原子力発電から撤退する方針を掲げている。フランスは原子力発電に依存しているから撤退できないのが現状であろう。

 原子力発電所停止運動を行っている団体がいうように、いますべての原子力発電所を停止したとしたら、日本国全国にわたって、たちどころに緊急停電が続発するであろう。この事態は、市民生活のみならず、産業全体に多大な影響をあたえることから、国家の運命に拘わる事態になる可能性がある。たちどころに原子力発電所の運転中止を行うことはできない。
 原子力発電を置き換えることを目的として、太陽光発電とか風力発電、さらには潮流発電など様々に方法が提案されているが、今回再選された石原慎太郎東京都知事がいうように、容易に置き換えられるものではない。このことは各種の発電装置について数量的に比較すれば容易にわかることである。
 文明先進国である日本、とりわけ大都市では膨大な電気エネルギーを消費している。石原都知事が思いつきでいう自動販売機をなくすとかパチンコ店を撤廃するようなことでは電気エネルギーの消費量を少なくすることは不可能である。仮に原子力発電を廃することを目的とするならば、石原都知事は東京都に集中する人口とか大企業中央施設を地方に分散するため、極めて住みにくい都心にすることである。住みにくい都市とは、交通が不便で、ライフラインの供給が充分ではなく、制限受けてままならず、日用品・食糧品が地方に比べて高価になることであろう。もっともこのような事態は、行政などが人為的に行なわなくとも、直下型大地震が発生すれば、たちどころに出現することは容易に想像できる。

 ここまで批判的なしかも消極的なこと述べてきた。それではどのように積極的に前進すればよいであろうか。いま国民全体が電気エネルギーの消費を少なくすることを推進している。ある意味では文明・文化の後退であるが、この取り組みは正しい。

 あえて提言するとすれば、将来構想を学術的な立場から検討することである。すなわち将来にわたりヒトが必要とするエネルギーとか自然資源を予測するのである。そのために人口動態、環境の変化、さらには政治、経済、外交、宗教、教育、医療、福祉にまたがる広大な学術分野の研究を実施することにより、はたして原子力発電が人類にとって不可欠な存在かどうか判断しなければならない。もとより太陽から供給されるエネルギーに加えて、原子力発電によるエネルギーがどのように地球環境に影響を及ぼすかについても検討を加えなければならない。

 筆者は、原子力発電の安全性を高め、これを推進することで電気エネルギーを確保することには疑念を持っている。しかしながら上に提言した学術的な評価、それも人類にとってプラスであり、決してマイナスでないことが実証されれば、絶対的ともいえる安全を保証した原子力発電の存続に反対する理由はない。

 原子力発電の将来構想をまとめ上げるため、将来を担う政治家はここに提言する学術的な将来像を背景とした知識が必要である。国民はそのような政治家を見極めて選挙にあたらなければならない。
(応)