炉端での話題

折々に反応し揺れる思いを語りたい

人智の誤りは防げるか

2006-04-29 12:41:59 | Weblog
 物理的欠陥による不具合ならば、欠陥をもたらす物理現象を追及すればその欠陥を防ぐか、その影響を軽減することが出来る。しかし、最近のシステム(ここではコンピュータシステムを念頭においていているが、もっと一般的なシステムについても以下の論議は成り立つ)は巨大化したことで完璧な知恵が隅々までまわりかねるからであろう、人智(具体的な例としては、ソフトウエアやシステムの運用)のミスによる重大な不具合が目立つ。不注意を責めることは簡単だが、注意深くすればミスがなくなるといったレベルを超えてシステムが複雑になっているところに、問題の深刻さがある。
 人間は無知による誤りを犯す。これは低次元の話で、論外である。たとえ知っていたとしても、状況を見落としたり、理解や認識が正しくなかったり、論理的思考を組み立てる時に正しい演繹を踏み外す、といったこと等で誤りを犯す。人間はこのような知的ミスを絶対に犯さないと想定するのはナンセンスである。人間は必ず誤りを犯す。
 脳の営みも生理化学的な物理現象であるから、その物理現象を調べることで、人智の誤りを防ぐことが出来る、と言えなくもない。しかし、残念ながら、脳の生理化学的研究はそれほど進んでいない。現在のところ、物理的アプローチで人智の誤りを防ぐことは絶望的である。やはり、人智の誤りは防ぐことが出来ないのであろうか。
 ハードウエアの誤り対策を考える場合、色々調べて物理的な故障(フォールト)のモデルを定め、そのモデルに基づいて方策を考える。そうであるなら、人智の誤りについても、そのモデルを定め、それに応じた方策が考えられるのではないか。したがって、人智の誤りのモデル化についてもう少し力をいれて研究すべきである。
 これまでも、大事故(たとえば、航空機事故)につながったかもしれない小さなミスを報告させ、それを参考にして再発防止策を定める、と言うようなことがいわれている(最近、JR西日本もそのような対応をするといっているが、何をいま頃、という感は否めない)。しかし、個々の誤りの事例を単に集積するだけでは、そこでの経験が他の状況に必ずしも活かせない。大切なのは、個々の事例から人智の誤りを類型化し、その相対的な頻度を定めることである。、人智の誤りの類型としては、周囲との適合条件(たとえば、着目するプログラムモジュールと他のモジュールとのインタフェース条件や、適用範囲)を見落とす、早合点する、理解できていない、論理を踏み外す、などのパターンが考えられる。あるいは、これらのパターンの階層的な位置づけも必要であろう。人智の誤りのtaxonomyがあってよい。そうすれば、個々の場で、それぞれの誤りパターンとその相対的頻度に基づいて、具体的なチェックポイントを定めることができる。そのチェックポイントについて逐一確認することで、人智の誤りを完全に無くすことは出来ないにしても、減らすことが出来ると思われる。システムの開発者からユーザにシステムが引き渡されるとき、それぞれのチェックポイントの確認を文書化して示すことも重要であろう(その後の新しい不具合を検討する際に役立つ)。
 誤りは恥と言う意味合いもあるから、誤りを報告する(一歩進めて、公表する)ことには抵抗感がある。銀行システムの不具合、東証システムの不具合などの詳細は知られていない。過去の人智の誤りを集積し、パターン化して、それを広く世に知らしめなければ、過去の教訓は得られない。
 私はこれまで、同じことを重ねて言わない(古くなったことを二番煎じに繰り返さないという意味合いをこめて)ようにしてきた。しかし、最近、同じことを何度も繰り返し言ううことの重要性を改めて認識し始めている。そう、同じことを言おう。航空機事故調査委員会だけではなく、影響が大きい公共的な情報システムについいぇは、第三者による事故調査委員会を設けるべきである。(青)

柿渋塗装のこと

2006-04-24 07:53:06 | Weblog
 古い柱には、ノミで開けた多くの穴がある。この穴を埋木でふさぎその埋木が目立たないようにするため、オイルスティンで下地塗りをしてから最も優れているといわれているウレタン塗装をした。ウレタン塗装はサンディング塗装を2回行った後に、仕上げ塗装を2回行う。合わせて5回の塗装を行う必要がある。知人の一級建築士が検分に訪れたとき「これはよくない、柿渋塗装にしたら」という忠告を受けた。
 インターネットで調べて早速柿渋を京都からとりよせて、同じ並びの古い柱に塗った。ほとんど色が着かないので、2度程度の重ね塗りをした。3ヶ月もするとなんとオイルスティンを下地に塗ったウレタン塗装とほとんど同じ色になった。
 ある年の12月、台風から変化した熱帯低気圧がしめった暖かい空気をもたらした朝のことである。くだんのウレタン塗装の柱に手をふれたところ、一瞬雨漏りがしていると思った。隣のウレタン塗装の柱もべっとりしていた。天井を見上げる。雨漏りはしていないようである。冷え込んだ柱にしめった空気がふれて結露したことをさとる。なんと結露は、雨漏りのように滴る程に多量である。
 そこで柿渋塗装をした柱に手をふれてみる。驚いたことに柱は乾いたままで、結露は全くない。おもいなしかぬくもりさえ感じる。
 そこで様々な疑問が起こる。
1.柿渋塗装の古い柱はこのような多量の水分を吸収しているのだろうか。もし水分を吸収していたとすれば柱は膨張しているであろう。そうとすれば膨張と収縮の繰り返し荷重で柱の強度は低下しないだろうか。
2.もしかして多量な水分を含む前に、わずかな水分で表面に断熱効果をもたらす層が形成されたのではないだろうか。それならば繰り返し荷重の心配はあまりない。
3.ウレタン塗装は明らかに水分の浸透を阻止している。従って繰り返し荷重の心配は全くない。逆に見れば、内部に何らかの原因で含まれた水分は外部には出ない。しからば塗装することで内部から腐敗することになるのではないか。
4.柿渋塗装とウレタン塗装のいずれが古い柱の強度を長年にわたって保つためによいか。 
 感覚としては、柿渋塗装のほうがよさそうである。しかし上記のような疑問を解決するためには、たんなる憶測ではなくて様々な湿度環境のもとに実験をしなければならないであろう。
 その後この話を基に柿渋の話をしていたところ、ある102歳になるおばあさんが、会話には、あまり定かに参加されないにも関わらず、「柿渋はいい。しかし大変だった。大きな漁網に、柿渋を使った。若い柿の実を潰して熟成させて柿渋を作り、これに大きな漁網を浸した。若いときの女の仕事だよ」と、いきいきと話した。
大望網のことだろうか。網元に育った、いまも裕福そうなおばあさんの話であった。海中に長く浸す大きな網にも柿渋が使われていたことを知る機会となった。
 自然植物の塗料であることから、当然ながらシック・ホームには関係がない。それからは、改装中の家屋内はすべて柿渋塗装に切り換えた。しっとりとした渋い色合いは時間の経過と共に古色蒼然とした風合いをかもしだしつつある。 (農)

高機能ソフトウェアを導入したときのできごと

2006-04-14 19:38:48 | Weblog
 パーソナル・コンピュータが人間の活動に深く関わりだしている。そして素晴らしい性能を発揮するアプリケーションがあふれかえるばかりに提供されている。家庭向きのものとしてワープロ、家計簿のための表計算、年賀状とか季節の挨拶などの手紙を管理するソフト、ビジネス分野では財務管理、物品管理などが手軽に用いられるようになっている。
 科学の分野においても、全く同様にすぐれたソフトウェアが利用できるようになっている。ほとんどのソフトウェアは画面表示された指示内容にしたがって入力する方式がとられている。いわゆるGUI(Graphic User Interface)である。コンピュータで処理された結果もグラフィックで表示される。確かに便利であり、しかも処理も速い。使いこなすにつれて驚かされる。これまで研究のためにプログラムを作成したことが、まるで過去の遺物のように思われる。
 科学の研究目的のため、新しい性能の高いソフトウェアを使い始めるとそれだけで急に自分の能力が高くなった様な錯覚に陥る。事実それまでに知識としてなかった新しい処理の方法を教えられて有頂天になることがある。ところでアブリケーション・ソフトウェアを扱うにあたってマニュアルはほとんど読まない。マニュアルが添付されているとすれば分厚いもので、すみからすみまで読む気にならないし、また何がどこに書いてあるかよく分からない。よく読んでも扱い方が分からない場合が多い。マニュアルのありがちな傾向として知りたいことが的確に書かれていることが少ない。組み込まれているヘルプを読んでも分からない。
 とにかく自分が扱い得る範囲で試行錯誤を繰り返しながら、組み込まれた処理の内容を探しまわる。それはまさにアドベンチャー・ゲームである。あるアプリケーション・ソフトウェアを他の人より早く使いこなせるようになった者はそれだけで尊敬を受ける。「スゴイ」と思わせる。キーボードをまるでピアノを弾くような早さで叩く様をみると、後光がさしているかのでごとくうつる。新興宗教の教祖様を前にしたのと同じ様な御利益を期待する。事実その期待は報われる。先生がその弟子の弟子となる。思わず先生が弟子に対して丁寧になる。弟子は先生よりえらくなったような錯覚に陥る。その場は確かに弟子は先生より一歩先んじている。
 弟子は、スゴイ・ソフトウェアを信奉し、それで全ての課題が解決するものと思ってしまう。先生も弟子の考え方に傾いていく。その場で最も高いポテンシャルを持つのは、スゴイ・ソフトウェアであり、次がこのスゴソフトに精通しかかって、見事な指さばきをする御弟子様であり、先生はカヤの外に置かれそうになる。
 先生は立場上様々に要求する。「ソレはどうなる」「アレは解けるかな」「ウムおかしい」と。弟子は言われるままに操作するが、先生の要求に疑問を持ち始め、やがてはその疑問が軽蔑に変わる。よせばよいのに先生はさらに続ける。「私の考え方とは違うようだ、このスゴソフトはよくない」。そこで弟子はいう。「それでは教科書にある似たような問題を解いてみましょう」と。答えは教科書の解答と一致する。「先生、やっぱりスゴソフトの方が正しいようですね」と一応丁寧にいう。
 先生よせばよいのに、夏目漱石が「それは辞書が間違っている」といった逸話を思い出してか「それは教科書も違っている」とおっしゃる。弟子は「こころ」で笑い以後スゴソフトの結果のみを信じる信者と変わる。先生は相も変わらず弟子が組み込んでくれたスゴソフトのアイコンをマウスでつつくこともしない。
(悩)

ドアーミラーが危ない

2006-04-01 12:38:51 | Weblog
ドアーミラーが危ない
 皆さんは車を運転中ドアーミラーを道路わきの電柱などにぶつけたことがありませんか。私は、電柱などのほか、対向車のドアーミラーをあっという間にこすったり(対向車はそのまま走り去ってしまいましたが)、人で込み合う道路で歩行者に(軽くですが)接触してしまったことがあります。
 直接的にはもちろん私の不注意です。しかし、車の運転を職業にしているプロも私が同乗しているときにドアーミラーをぶつけたことがあります。自己弁解をするわけではありませんが、私自身は、およそ50年の運転暦を持ち、ほかの方と比べてそう粗雑な運転はしていない積りですのに、どうしてこのような接触を起こしてしまうのか、何か、このような不注意を誘発する(私固有ではない)一般的な原因があるのではないかと気になります。
 車を運転するとき、車の先端が物をかわせば車はそれですり抜けられると思いそのまま前を注視しますので、その後の車の両脇への注意はおろそかになりがちです。これは、誰にも見られる一般的な性向ではないでしょうか。あらためてもう一度左右のドアーミラーを見直すことを求めるような設計は、人間本来の性向に沿っていないと思います。言葉を強めれば、このような人間工学に反する設計は「危険な設計」だと言うべきでしょう。特に左側のドアーミラーは首をかなりひねらなければ見えない位置にありますので、それを見ていると前方の視野が外れ、かなり危険です。
 私は車を購入しようとした時、昔のようなフェンダーミラーを付けてほしいと頼みましたが、そのようなオプション部品はないとのことでディーラーから断られました。メーカーは何故フェンダーミラーを標準仕様(一歩退いても、オプション仕様)にしないのか(タクシーの車はほとんどがフェンダーミラーではありませんか)とたずねますと、格好が悪いというユーザの評判だからと言います。本当に格好が悪いでしょうか。見ようによっては、妙なところからひょこっと人間の耳たぶのようなものが飛び出しているスタイルの方が醜いのではありませんか。
 どうとも取れるスタイルよりも安全のほうがよいのではありませんか。メーカーがユーザの好みを口実にして安全設計を二の次にするのでしたら、皆の声を結集して、メーカーに迫ろうではありませんか。
 日本の車メーカーは本当によいものを作ろうとすることにあまり真面目ではないように見えます。ヨーロッパではディーゼルエンジンのよいもの(排ガスにしても不評な黒煙などがほとんど出ない)が普及しているのに、私たちの国ではユーザの好みに合わないと言う理由で普通乗用車への搭載がほとんど行われていません。ユーザの好みに迎合したり流行を追うだけでなく、本当によいものをマーケットに供給するようメーカーは努めて貰いたいものです。(青)