炉端での話題

折々に反応し揺れる思いを語りたい

合目的思考で安全は大丈夫か

2012-03-31 16:24:39 | Weblog
 原子力保安院で、放射能による金属の劣化を取り上げて議論したと報じられた。聞き間違えがあるかもしれないが、検査のため金属片を原子炉にはめ込んでおき、時間がたってから取り出し調べたところ、金属劣化が理論の予測以上に進んでいたので、ひとりの専門家が、安全性基準の見直しを主張した。それに対して、保安院は「理論誤差もあるかもしれないのでこれまでの安全基準で問題ないと」と結論を下そうとした。しかし、件の専門家が強く異を唱えたので、結局、継続審議になった、と言のである。
 保安院のこのような思考態度に私は愕然とした。目的に添うように希望的辻詰め合わせをする思考態度(合目的思考)で安全だと強弁しているうちに、福島原発の大事故が起こってしまった。この福島原発事故の教訓が全く頭に入らない(あるいは、入れようともしない)人々で安全性を主務とする保安院の責務が果たせるのであろうか。
 「幻惑してはならない …」を書いた私の友人のボブはDependability peopleと呼ばれているが、気懸かりな事態に遭遇すると、何か見落としや間違えががないかというように、危ない方向に(negativeに)思考をめぐらせ、用心深く対応する。保安院のみなさんはDependability peopleの思考態度を真似て欲しいですね。(青)

幻惑してはならない、幻惑されてはならない

2012-03-22 10:57:15 | Weblog
 ストレステストとは何かと疑問に思い、関西電力による「大飯発電所3号機ストレステスト評価」(以下、ストレステスト評価と略記する)と、原子力安全・保安院による「関西電力(株)大飯発電所3号機および4号機の安全性に関する総合評価(1次評価)に関する審査書」(以下、審査書と略記する)を読んでいる。近く原子力委員会に審査書を正式報告し、更には政府が政治判断を下すという切迫した事態になっているので、全部を精読し終えてはいないが、あえて、地震に関する安全対策の評価の結論について疑問を呈したい。
 まず、ストレステスト評価書のうち耐地震に関して、本質は変わらないので問題点を簡略化して述べる。主給水が喪失する場合について、原子炉燃料の損傷にいたらないような安全対策が、基準に想定した地震のどの程度の倍率(の大きさ)まで成功するか(失敗するか)を評価するために、一連の安全対策の起動が成功するか失敗するかの分岐シーケンス(図1、これを拡大してみるには上の図のところをクリック―必要とあれば2回―してください)を検討する(安全対策は簡単のため文字で示してある)。個々の安全対策の基準地震に対する耐性を倍率で表示してある。
 緊急安全対策が施されてない場合、分岐シーケンスで冷却成功するパスのうち最も耐性が少ないのは1.75であるから。全体で1.75の耐性があるとする。ところで、緊急安全対策が施されていると、1.78以上の地震の場合、安全対策Bが失敗するが、緊急安全対策が起動し、その冷却成功に至るパスの中で尤も弱い部分の耐性は1.80である。したがって、(1.80-1.75)÷ 1.75 = 0.028 すなわち、「緊急安全対策によって燃料の重大な損傷が避けられない地震動(クリフエッジ地震動)が約3%向上したことを確認した」と結論している。
 この結論の言い回しが気に入らない。もう一度分岐シーケンスを見直していただきたい。たとえば、1.76の地震が生じた場合、安全対策B、Cは成功し、安全対策Dのところで失敗するから、燃料損傷に至ってしまうのである。この場合、緊急安全対策は全く役に立っていない。これで耐地震に関する安全対策が向上したと言い切ってよいのであろうか。
 このストレステスト評価の結論はそのまま調査書でも受け継がれ、その45ページの下のほうで「クリフエッジが1.75Ssから1.80Ssに向上する…」と記されている。1.80以下でも緊急安全対策が起動しない場合が存在するので、これで安全性が1.80まで向上したのであろうか。ついでに、このクリフエッジなる言葉であるが、EUで策定した「EU “Stress test” specifications」の中に出てくるcliff-edgeを訳しようがなくカタカナにしたのであろうが、政府機関の公式文書に注釈がつかないと分からないような言葉をそのまま使うのはいかがなものであろうか。
 意図的か否かはわからない。しかし、言い回しは極めて紛らわしく幻惑的である。これを見る私たちもその中身について幻惑されないように注意しなければならない。
(Robert Nielsen)

夢と瞑想

2012-03-07 11:21:16 | Weblog
 2012年2月29日に放映されたNHKの「ためしてガッテン」では夢のことが取り上げられていた。夢を見ながら身体を動かし、場合によっては「殴る」などの暴力行為を起こすことがあるという。そのような状態を起こさないために、ヒトは夢を見るときには、筋肉を動かす神経経路を遮断する機能があるという。この遮断経路が正常でない場合、筋肉活動が発生するという内容であった。これは新しい知見として大いに参考になる。
 この炉端での話題で2009年10月にねこは夢を見るの?というブログを掲載している。その一部を次に再度引用する。
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 思いついた仮説は「夢を見ることは、脳神経細胞の新生、あるいは老化したシナップス構成の再生構成が正常に行われたかどうかをテストする操作」である。
深い睡眠状態にあるノンレム睡眠時に老化したニューロンは新生するニューロンとおきかわり、ニューロン間の情報伝達を行うシナップスも新たなシナップス結合に置き換わる。シナップス結合が消滅して、再生されることは最近の研究で明らかにされている。ニューロンのシナップスによる接合構成によって記憶機能が生成されることも確かめられている。
 つぎはぎだらけの脳としても、ニューロン構成が正常に動作するためには誤構成があってはならない。誤構成があった場合は、正しく再構成することが必要になる。まったく脈絡のない、しかも現実にはあり得ない夢とは、ニューロンの誤構成によるものかもしれない。これらの再生構成をチェックするための機能が夢を見ることであるという仮説である。
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 NHKの放映では、なぜ夢を見るのかということについては、専門家もよくわからないとのコメントであった。ネコはいうまでもなく、小鳥でさえ夢をみるということは、NHKのこの番組で明確な回答があった。それであれば脳を持つ動物はすべて夢を見るはずである。さらに夢を見るときには、身体の筋肉運動が連動しないように脳機能から切り離すスィッチがあるということから、上記に引用したような神経細胞の再生に夢がかかわるという仮説が支持されているように思われる。
 それであれば、大いに夢を見ることは精神の健康上から好ましいといえそうである。

 また、この炉端での話題で2008年1月に丹田呼吸法の効きめと題してブログを掲載している。
 このブログの中では瞑想のことについてふれている。深い睡眠と瞑想は、生理学的にみて大きな差があると思われる。その証拠としては脳波の違いがある。深い眠りの夢も見ないような熟睡状態のノンレム睡眠では、脳内部から周波数が低いデルタ波とかシータ波といわれる波形が観測されるという。一方瞑想のもとに起こる脳波を研究している研究者の方の話しによると周波数が10ヘルツ前後のアルファ波が観測されるという。
 このような脳波がいかなる起因で発生するかということについては、いまだに学理的に解明されていないと聞いているが、脳波の性質の差から、生理学的に異なっているといえる。

 NHKのテレビ番組を見ながら、睡眠中に発生する暴力行為は「瞑想と丹田呼吸法」により療養し、改善できるのではないかとフト思ったものである。瞑想と丹田呼吸法の効果については、ここでは改めて述べないので興味があれば前記のブログを読み直すことをお薦めする。
(脳)

総合大学とは -炉端老人の話-

2012-03-05 12:55:27 | Weblog
 おや、久しぶりにきたね。
 おっ、「ふきのとう」の差し入れかい。なんと今年は豊作だって。
おーい、ばあさん、早速テンプラだよ。このほろ苦さがたまらない。聞くところによると熊が冬眠から醒めたときに、「ふきのとう」をまず食して、眠っていたとき、お腹の中にたまつたものを掃除するそうだ。
自然の薬草だな。そういえば、これを食したあくる日、トイレでの小水は独特の香気を放つ。健康に感謝しながら、春の息吹を感じるよ。イヤ、どうも尾籠な話しを失礼したな。

「風格のある大学」とか「大学図書館の将来構想」などは読んだよ。
アクセスも多かったというのかい。日本の将来に向かって、大学として考えてもいいかも知れないね。

 ところで、日本の国立系大学には、総合大学がないことに気がついているが。
どういうことかって。
 それはね、誇り高い東京大学とか京都大学を含めて国立大学には芸術学部がない。芸術学部のない大学は総合大学とは言えない。日本の私立大学の中には、日本大学と東海大学が僅かに総合大学の名にふさわしい。他の名門校の私立大学は、総合大学とは呼び難いのは、国立大学と同じだなぁ。

 米国の州立大学は、総合大学が多い。「炉端での話題」で取り上げた佐藤昌三名誉教授が活躍しているイリノイ大学も芸術学部があり、なんと華道とか書道などの日本の芸術活動も行っているというではないか。そのような大学が国立大学に存在するかね。
 なに課外活動にあるって。いや、それではいけない。華道、茶道の家元が正規の授業の一環として大学教育の中に取り入れてこそ、総合大学のあるべき姿ではないだろうか。

 どうしてかというの。
簡単に言うと、それは「道」という文字が最後につく所業のことで説明しよう。日本にはこの「道」が最後につく所業は多い。武道としての「剣道」「柔道」「弓道」等も数え上げればきりがない。華道・茶道あるいは香道などを含めて、道がつく所業には、豊かな精神活動が背後にある。
 私が若い頃のことだがね、剣道の高段位を持つ友人の素振り、しばしたたずんで見入ったことがある。なんとも美しい所作であったことを想い出すものだよ。剣道の素振りは、脳だけではない。手足を動かす神経にも記憶機能が行き届いているはずだ。このことを「道」を極めると言ってもいいのではないかな。
 芸術活動は、音楽、絵画、演劇など広範囲にわたるが、ヒトがヒトとしてもつ脳活動の一環として見れば、道に通じるものがある。
「道」を修練し、習熟して、それを極め、さらにはそれを伝授するための道場が大学の中にあってこそ総合大学である、とこの老人は思っているのだが。
「道」は人間性を豊にする。これからの日本に必要な政治家も人間性豊かな「道」に通じていなければならないと思う。

 いまだに脳のことは、生理学的な見地からも研究が行われいて、よくわかっていないことが多いらしい。
 しかし芸術は脳と身体に関わる神経の活動が、政治、経済、社会、文化さらには農業、工業等の生産業は言うに及ばず、サービス産業、情報産業などにも深く関わるようであれば、芸術学部の持つ使命はまことに大きい。生理学的な研究に先だって、学問的な側面から大学教育の一環に取り入れるべきではないだろうか。

 おお、「ふきのとう」の熱つ熱つのテンプラがとどいたな。
ばあさん、ありがとう。やけどはしなかったかい。
冷や酒でもうしわけないが、この酒は、ヒヤのままがいいものだ。
(能)