炉端での話題

折々に反応し揺れる思いを語りたい

再生可能エネルギー、科学的には存在しない              

2012-11-29 11:21:53 | Weblog
 衆議院が解散された。
いま、様々な政党が乱立しつつあり、再生可能エネルギーを政策の中に織り込んで政党の公約として盛り込んでいる。
 エネルギーで再生可能なものは科学的に存在しない。時の流れが逆行しないことと同じである。エネルギーの源は、核エネルギーを除いて、すべて天体運動と太陽からもたらされるエネルギーである。石油、天然ガス、石炭も過去にもたらされたエネルギーが化石として残されたものである。学術的には、天体運動と太陽を源とするエネルギーは地球にもたらされたあとには、熱となって宇宙に放散され、あるいは地球上に蓄積される。
 再生可能エネルギーという用語は科学的に正しくない。法律にも再生可能エネルギーと表示しているのは理科離れの世代による科学的根拠のない新造語である。恐らく英語のRenewable Energy を日本語に訳したものであろうが、日本語訳は誤りである。再生可能エネルギーに関するウィキペディアの解説内容は正確であり、これは支持する。
 オックスフォード大学のピーター・アトキンズ教授は、その著書の中で核エネルギーは宇宙開闢のビッグバンに伴い物質に閉じこめられたエネルギーであると述べている。そこまで遡れば、天体運動とか太陽エネルギーもそれが源である。

 時のながれが逆行しないようにエネルギーも逆行しない。
従って再生可能なエネルギーは存在しない。再生可能なエネルギーが存在すると盲信する人類が核エネルギーと化石エネルギーを地球上でとめどもなく利用することから、熱エネルギーの宇宙放散能力を越えてしまい、過剰エネルギーのために確実に地球の温暖化が進む。地球温暖化を防止するためには、いまもたらされている天体運動と太陽エネルギーのみを利用することしかない。 
(応)

エキスコン(16) ネットワークによる接続

2012-11-28 11:27:47 | Weblog
 自律分散システムは、前回述べた機能処理コアをネットワーク接続して構成する。
自律分散システムの開発は現在のインターネット接続が普及する以前に行われた。そのこともあって自律分散システムのネットワーク接続では、インターネットで利用されている通信規約(プロトコル)とは異なっている。詳細については森 欣司著の「自律分散システム入門」を参照頂くとして、ここでは特徴的なことと今後の動向について述べる。
 なお森 欣司氏の著書ではインターネット接続のことをデータ・フィールドと呼んでいるが、最近ではデータ・フィールド自体がネットワーク形態を持つことから、ここではネットワーク接続として説明する。
インターネットに接続したパソコンは、定められたプロトコルを用いて通信が行われる。このプロトコルでは、必ず受信アドレスと送信アドレスを付けてデータを転送しなければならない。いわば受信者の住所・氏名を表書きし、裏には送信者の住所・氏名を記した封書と思えばよい。封書の中身に相当するデータは、送信者から受信者にのみ届けられる。いま普及しているプロトコルにはブロードキャスト、すなわち放送としてすべての端末にデータを送ることもあるが、特別な事情は別として通信量が増大することもあるから、ほとんど使用していないと思われる。

 開発された自律分散システムのプロトコルでは、送信アドレスはあるが、受信アドレスは設定しない。その代わりに内容コードがある。内容コードとは、文字通りデータの内容を表すものである。データ・フィールドとしてネットワークを利用する場合には、データがブロードキャストされる。そのために大量のデータが交錯する場合には、ネットワークとして広い伝送帯域が必要である。
 駅構内などの人通りの多い場所に置かれたパンフレットを想像すれば分かり易いであろう。求人案内、賃貸住宅案内、旅行案内、催し物案内などの様々なパンフレットがあり、必要とする者だけが、そのパンフレットを入手する。データ・フィールドは、フィールドの日本語の意味からデータの広場と解釈できる。
自律分散システムでは、データの最初の方に記述されている内容コードを見て、処理コアは自らが必要とするデータのみを通信路から取り込む。そのデータを処理し、結果としてデータが得られれば内容コードと自分のアドレスを付けて通信路に戻す。特に送り先を指定することはない。この様な処理形態のことをデータ駆動方式(データ・ドリブン方式)ともいう。データを送信する処理コアは、これに接続した別の処理コアのいずれかに処理してもらうことを依頼する。このデータ処理を行ために複数の分散処理コアがあるとすれば、その中のいずれかが故障していてもシステム全体の機能に影響がないことは、前回にも述べた通りである。
 分散処理コアは、ネットワーク接続するために、接続機構が必要である。この接続機構はコアのマイコンに通信を行う専用の半導体デバイスを接続しておき、マイコンで制御する方法がある。初期の分散処理コアは、この方法を用いていたものと筆者の経験から推量する。
 マイコンは、ネットワークに流されるデータのプロトコルを判定して、自らが処理できる場合にはこれを取り込むなどの処理も実施する。受け取ったデータを処理しその結果を再びネットワークに送出する。これらのソフトウェアを管理する中枢的なオペレーティング・システム、すなわちOSがあり、このOSのことを森 欣司氏は自律分散管理システム(ACP)と呼んでいる。

 最近の半導体技術の進歩と相まって、ここまで述べてきた分散処理コア自体を自律分散システムとすることも可能になっている。つまり自律分散システムの内部にもサブとなる自律分散システムが存在する階層構造とみなせるから、人形の中にさらに人形があるロシアのマトリョーシカのような構造を想像すればよい。しかし、マトリョーシカとイメージが異なるのは、大きな人形の中に多数の人形が存在することに注意したい。

 自律分散システムには、処理の形態によっては高性能の通信ネットワークが必要である。コンピュータの事始めは単体であった。複数の演算機能を複合化したコンピュータはIlliac IVが事始めであったが、このエキスコン・シリーズで述べているようにSIMD(Single Instruction Multi-Data processing) であるから、単体の専用コンピュータとして位置づけられる。
 自律分散システムの夜明けは、光ケーブルによる高速データ伝送がもたらしたと筆者は考えている。1977年頃には、光ケーブル伝送方式が日本の先端技術として世界に進出し始めていた。森 欣司氏が、この技術をいち早く取り入れた先見の明には敬服する。
 米国では、同軸ケーブルによるイーサーネットが広範囲に普及しつつあった時代である。
当時の光ケーブルの技術動向は、同軸ケーブルよりも遙かに高速なデータ伝送が予測された。しかしながら欠陥もあった。森 欣司氏は著書の中でそのことには明確にはふれていないが、当時の光ファイバー伝送は、一対一の接続しかできなかった。データ伝送は、あるサブ・システムと別のサブ・システムとの対向接続しかできない。複数のサブ・システムとしては少なくとも二方向の対向光ケーブル接続が必要である。しかしながら二方向のみの対向光ケーブル接続では、一重のループ接続しかできない。この一重ループ接続のネットワークは、どこかで光ケーブル接続とか切断などの支障が生じれば、直ちにシステムがダウンする。信頼性がよくないことを意味している。
 そこで考え出されたのが三方向のサブ・システムと対向して光ケーブル接続する方式であり、これを自律分散システムに導入した。二重ループを構成し、三つ目の対向ケーブルは、二重ループの渡りとして利用する。このように構成すればネットワーク接続の中に何等かの障害が発生しても対処できる。このことをフォールト・トレラント性(対故障性)といい、自律分散システムの大きな特徴のひとつである。いかにしてフォールト・トレラント性を確保し、故障検出とその排除を行うかについては、森氏の著書に詳しく述べているので、ここではこれ以上は言及しない。

 光ケーブルによる接続が対向しかできないことは、大きな欠陥であった。それに対してイーサーネットは、同軸ケーブルを用いるためにケーブルのどこからも多端子として接続できる。いわば同軸ケーブルは、データ伝送の広場として利用できる。そのこともあって米国はもとより、全世界の大学、研究所、さらには生産工場に広く普及した。1980年代の初め頃からである。森氏の著書の自律分散システムの応用事例の中に記述されているJRの東京圏輸送管理システム(1996年から導入されて2006年に完了)でもイーサーネットが一部に利用されている。
同軸ケーブルによる接続も欠陥がある。筆者も直接被害を受けたことがあるが、いずれかの端子取り出し箇所でショートしているとすべての通信が途絶する。いわばデータ交信の広場が閉鎖された状態になる。しかも、どこでショートしているか診断も難しい。大変な時間と労力を要したことを覚えている。
 そこで登場したのが、電話ケーブル同様な多重線を用いて接続するハブ方式であり、いまやコンピュータネットワークの有線接続といえば、ハブ方式が主流となっている。ところでハブ方式によって自律分散システムが構成できるだろうか。できないことはないかも知れないが、はなはだ難しい。始めの方にも述べたように、通信規約も大きな壁になる。

 最近になって無線LANが急速に普及している。
筆者も家庭内LANのWiFiとして導入し、極めて重宝に利用している。
ケーブル接続はない。
将来ともこれが普及しないはずはないと確信を持ち始めている。
 自律分散システムの環境にも適切である。森氏が苦心して開発された光ケーブルの多くの問題も解決する。ただし、WiFiを自律分散システムに導入する場合には、いくつか条件が必要となる。すぐ気がつくことは、いまのWiFi環境は、イーサーネットの延長線にあるから単線接続と同じであり、入力データを処理しながらリアルタイムで同時に出力することはできない。一時的にデータをため込む、いわばバッファリングが必要である。WiFiのチャネル多重化が望ましい。多重化されたWiFi環境が整えられれば、広い伝送広場が構築され、自律分散システムのコンセプトを元にした処理形態が広く普及するであろう。そのためには自律分散に適した通信規約を設ける必要も生じるかもしれないが。

 夢は果てしないが、必ずしも現在の技術の線上で実現できないような夢のまた夢ではない。
(納)

コタツ文化

2012-11-25 09:25:23 | Weblog
木枯らしがやってきた
家人は毛布にくるまって体のぬくもりを保ちながら、つぶやく
コタツが恋しい、と

原子力発電の停止を願うことで、電力消費の大きい暖房はとめている
家人の願いをかなうことにした
最も電力の消費が少ないコタツをもとめた

炭火を使った頃のコタツを思い起こす
コタツから失火した火事、一酸化ガス中毒による死亡事故、
などが新聞紙上に報道されていたこともあわせて思い出す
幸いにして、それは、いま心配しなくともよい

若い家人に、つげる
年老いた家人はコタツで暖をとって育った世代だよ、
だからコタツが恋しいわけだ、と

そうだね、と答える
そういえばコタツ文化は日本だけだね、とつけくわえて答える

そういえば、そうだ
北極圏ではコタツだけの暖房では、死にいたるかもしれないね、とつげた

このやりとりをコタツで暖を取り始めた家人に話しかける、

昔の韓国はオンドル、欧州では暖炉、米国では全室にわたりガス熱源の暖房だよね、
いまの中国はどうなっているだろうか、
日本でも北国の厳冬では、コタツの暖房では持たないかも知れない、とつぶやく

はあ、そうか、
日本でのコタツ文化にも北限があるかも知れない
それは津軽海峡か、それとも東北地方にあるのか
そして、それは原子力発電の停止と共に再現されるのか。
(農)

コメントが寄せられた
沖縄にもコタツは、なさそうであると、
であれば、コタツ文化の南限もある、
どこに線が引かれるだろうか。

さらに、コメントがあった
北海道、内地から赴任していた人たちは
部屋の暖房とともに、コタツを使った、
コタツたけの暖房だけでは耐えられない、
という。

離散と集合

2012-11-20 12:47:25 | Weblog
 矜持も筋論もなく、ただ、代議士と言う地位と政治権力を手に入れたいと右往左往する面々の言動に、臆面もない人間の醜さが映し出されている。一般市民にとってはまことにはうんざりだ。政治に対する希望が湧かない。

 昭和40年代に吹き荒れた学生運動が、当時の権威・権力と秩序の破壊だけを目標にするようになってしまい、その先をどうするかというビジョンを持ち合わせなかったから、騒ぎの熱気が静まると、荒れ狂った彼らの運動はまったく何の意味もないものになってしまった。自民党を打ち破ることを第1義とし(実に矮小な目標だ)、自民党を打ち負かした後は「何々君がやればよい」などと言っていて、その先どうするというビジョンを語らず、ただ躁状態に陥り高揚しているだけの老人は、騒乱を引き起こしたかつての学生たちとあまり変りがないように見える。

 とにかく数を集めればよいとする政治手法は、かつて、剛腕と称された政治家のやり方と同じだ。理念も信念もなく、ただ勝ち馬に乗ろうとして、数集めに釣られた人間の集まりが、今度は、泥舟と一緒に沈没するのはごめんだとばかりにあっという間に瓦解したのはついこの間のことではないか。理念や政策の議論は後からすればよいと言うだけの集まりは、選挙が終われば、すぐにばらばらになる。それでは結集した意味はない。

 一方、考え方が違えばすぐに離反し、相互に足を引っ張り合うというのが最近の政治の世界だ。これでは、代議士の数だけ政党ができるのではないか。連立政権すらなかなか組めなかったギリシャのようになるかもしれない。
 しかし、一つの社会としてまとまるには、違う意見の折り合いを見つけ、ある程度、妥協すること(無節操な妥協は困るが)も必要ではないか。誤解を招くかもしれないが、民主主義は妥協が根底にないと機能しないといえなくもない。ただ自己主張を声高にわめくだけと言う風潮は、口数が多いのははしたないとした旧来の弊を改めようとして、意見表明を積極的に奨励した戦後の新しい教育の歪でもあるのであろうか。(AO)

尖閣列島に関わる中国国内の暴動

2012-11-15 13:50:49 | Weblog
 中国上海を訪れたのは1980年後半の天安門事件の前であった。
上海の元フランス租界の一隅とおもうが、大きな古い豪邸には、部屋を分かち合って数家族が居住している様子が伺われた。窓からは洗濯物が突き出ていて、庶民生活のたくましさがはためいていた。1990年半ば頃に同じ地域を訪れたところ、租界地域の古い建造物はことごとく取り壊されて、あたり一面には瓦礫が散乱し、その傍らには巨大な高層ビルが建造されていた。中国人民の共産革命開放と共に豪邸に分かち合って暮らしていた庶民は、地域開発の波濤に移住させられたのであろう。

 天安門事件以前に上海近郊の街に二週間ほど所用で滞在した。小さな街であるが活気にあふれて、朝夕の通勤に大通りは自転車の大きな流れができていた。交差点に信号機はない。その代わり交差点の四方には交通整理のオバサンがいて、交差点中央で交通整理をする警官の補助をしている。朝夕だけではない。一日中勤務している。
自動車は極めて少ないから危険を感じることはない。これらの交通整理補助のオバサンたちも公務員として勤務し、なにがしかの賃金を得ている。生活は豊かではないかも知れないが、働く場があり、きちんと賃金が頂ける生活である。分かち合って居住する豪邸の一部は、狭いながらの家族団らんの場であったと想像する。

 市場経済開発の旗印が高らかにかかげられ、そのような環境から再開発のために立ち退かされた四つ辻に勤務していたオバサンは交通整理補助の職を失い、農村地域に移住せざるを得なかったのではないだろうか。実力のある若者とか壮年は家族と共に都市部に残り、開発の波に乗って確実に収入を増やし、その収入に見合った不動産を期間限定ながら国家と契約を交わして獲得し、中間富裕層の水準に辿り着いている。
この実情は中国人の知人からも直接聞かされている。

 格差は広がっていることがテレビとか新聞の報道からもわかる。北京オリンピックが終わった直後には、経済振興と農村地域の生活改善のため、地方に電気洗濯機を普及させる取り組みが報道されたことがある。そのときに思ったことは、洗濯機に接続する水道とか下水道などのインフラは整備されているのだろうかということである。水道がなければ貯水槽からバケツで水を汲み上げて注ぎ、洗濯後の汚染水は水路に垂れ流しする。当然ながら水路は公害発生源となる。急ごしらえで大量生産した洗濯機の寿命も長いとは思えない。物価は、経済発展とともに上昇していると伝えられるから、洗濯機を買い換えるのも容易ではない。富裕層に届かない庶民の生活は様々に圧迫される。

 青島にある日本資本のデパートは今回の尖閣列島に関わる抗議デモの暴動により、かっての上海の再開発の瓦礫を想い出させる映像がとどいていた。富裕層はデパートでの商品を購入できるが、富裕層から取り残された大半の庶民にとっては、日本資本のデパートには縁がない。打ち壊しても影響がない。日本のもたらす商品は、富裕層にとどまって普及する。中国に進出した日本企業は、多くの庶民にとっては、日本企業のみの利益になり、その企業の中国労働者には還元されていないと思っているであろう。
 そこに中国政府、それも中国解放軍が軍事目的として必要とする尖閣列島のことを喧伝するから、これをよい機会と見てデモを行い、さらには暴動を引き起こし、徹底的に破壊と略奪を行ったものと筆者は観測する。

 前回にも述べたように尖閣列島は中国解放軍の海軍にとって重要な拠点であることは軍事専門家が意見として述べている。同時に尖閣列島は、日本国のみならず自由主義諸国の軍事的な防衛にも重要な拠点となっていることも理解できる。
尖閣列島の周辺に多くの資源があることが、中国の領土であることの主張といわれているが、軍事的な拠点となることが優先する。
 尖閣列島は、中国が明の時代からの領有であると最近になって世界に宣伝し始めている。
明の時代といえば、沖縄は琉球王国として独立していた時代である。中国内の一部の民衆は、沖縄も歴史的にみて中国の領有であったと言い始めている。日本の歴史をひもとくと琉球王国は薩摩藩が江戸時代に藩内に組み入れている。
中国民衆の立場としてみれば、独立琉球王国を江戸時代に日本が占拠したから、中国解放軍はこれを解放するためにいま行動を起こすということも長大な歴史尺度を用いれば正義論である。その正義論のさらなる背景として、現在は強大な米軍が沖縄に在拠し、現実に沖縄の人民が呻吟していると中国国民に喧伝しているかも知れない。
その萌芽はすでにあり、その中国世論のもとに中国解放軍による沖縄の解放行動は、尖閣列島が中国の軍事拠点に組み込まれた暁に始動する。
そのようなことが起こらないことを願いたい。

 筆者がアメリカ在住中に政治的な沖縄返還の交渉が開始された。そのとき沖縄返還に異議を唱えた米国市民の意見が新聞に掲載されていたのを読んだことがある。その理由は、米国の多くの軍人が血を流して占領した島であり、米国の領土であるという意見であった。戦争の占領目的からいえば正論である。しかしながら、米国が沖縄県民を戦前の日本国の政治から解放したという戦争遂行の立場から民主主義の同盟国として独立した日本国に沖縄を返還することは、米国としての正義であった。

 石原慎太郎は東京都知事の時代に尖閣列島を東京都として購入しようとした。その動きに危惧を持った野田佳彦総理大臣は、日本国の国有財産して個人所有であった尖閣列島の購入を行った。この政治的な行政処置は迅速に実施されている。
 その石原慎太郎は都知事を突然辞任した。その動静に関する報道では尖閣列島での武力衝突も予見しているともいわれている。尖閣列島が中国固有の領土であるということを中国解放軍が主張し、その主張の元に中国解放軍が行動を起こせば武力衝突になる。
 これは回避しなければならない。

 武力衝突は、日本国にとっては損失であるが、中国にとっても損失になる。それも場合によっては中国国体、さらには中国の歴史的な汚点となる損失になる。武力衝突の理由が中国解放軍の政治的に関与する挙動と見なされ、世界的には侵略を行使する中国国家となる。
 中国は、富裕層を中心として経済的に向上することから一党独裁の侵略国家として国際的に評価される。中華思想の発現であり、そのための実力行使と国際社会と見なすであろう。
 いま中国は国際的な孤立化を回避するための布石も行いつつある。
 ギリシャ経済が破綻しそうな様相を見せ始めた初期のころに、温家宝首相がギリシャを訪れたおりに、際限なく国債を発行すればよい、その国債をすべて中国が買い取ると公言したことがある。ギリシャ国を中国の経済圏に組み入れようとする、いわば経済的な侵略である。中国解放軍は必要としないから、無血侵略である。
 その中華共栄圏の経済的な支配軸は、経済援助の旗のもとにアフリカ大陸にも至る所で打ち込み始めている。

 ここまで書き下ろしたところで、ある識者に以上の内容に関して査読していただいたところ、違った側面からの見解があるとの指摘を受けた。
 その意見は、中国国民の経済的格差が大きくなり、富裕層に届かない大多数の国民の不満をそらすためではないか、というのである。これまでの歴史の教えるところでは国内の内患があると外国を悪者にして外患に目を向けさせる。いまインターネットが普及している中国でも外患を設定することで愛国心を煽ることが容易になっている。民衆の洗脳とそれによる動員は、インターネットを通じて自然発生的に起こすことができる。
 11月14日に中国共産党の党大会が終幕した。胡錦涛総書記が引退し、新に習近平国家副主席をトップとする新らたな最高指導部が15日から始まる。経済的な発展が中国民衆の下層階にいたるまで浸透すれば経済格差の不満は解消し、尖閣列島を巡る諸問題は現状のままで推移するであろうという。
 耳を傾けるに値する識見である。

 時の流れと共に推移する情勢に早まった独断的な結論はよくない。
尖閣列島を巡る中国政府の動静は、中国民衆の不満をそらす共産党指導部の短期的な指針によるものか、あるいは中国解放軍が潜在的に深くかかわる長期的なものか、情勢を見守りながら見極めなければならない。

 折りしも2012年11月14日、野田佳彦総理大臣が衆議院解散の意向を表明した。これから衆議院解散のあとに総選挙が実施される。尖閣列島に関しても高い識見を有し、さらには優れた世界観と歴史観を持った議員を国会に送り込むことが、将来の日本国に対しての我々の責任であり、義務でもある。
(応)

尖閣列島をめぐる動き

2012-11-09 10:41:06 | Weblog
 11月9日の朝刊に中国共産党大会の記事が掲載されている。
胡錦濤総書記は演説の中で「海洋権益を断固守り、海洋強国を建設する」と宣言した。その意味は「尖閣列島は中国の領有とする」と解釈できる。その背後には中国解放軍の意向があると筆者は判断する。この宣言のもとに、いずれ中国軍の威信をかけて尖閣列島の領有を計るであろう。その一環として、かっては日本国が中国の民衆に危害を加えたという教育体制を敷き、日本国民が尖閣列島を盗み取ったという卑劣きわまりないことを喧伝する。

 あってはならないことであるが、尖閣列島を武力でもって領有をはかることがあるかも知れない。
その時、日本国民はどのように反応するであろうか。日本国民の中には「武力衝突をするぐらいなら尖閣列島の領有権を放棄してしまえ」ということを叫ぶ人々が現れるであろう。日本国憲法がある。太平洋戦争の後遺症もある。
 中国共産党並びに中国解放軍の中枢は、このことを読みきっている。
米国政府は、「尖閣列島は安全保障条約の範囲である」と明確にのべている。
 しかしながら日本国内に武力衝突を回避する動きがあるとすれば、安全保障条約の範囲外として関与しないことまでは否定できない。米国政府は「尖閣列島の領有権は日本国にある」という明言は避けていることがその理由である。

 日本国民として、あなた方はどうすればよいと考えるであろうか。
(応)

安全性は証明できない

2012-11-03 18:05:27 | Weblog
安全性に関する世上の議論に違和感を覚える。

 私たちは森羅万象の生起メカニズムを、全て、知っているわけではない。私たちの科学(知識、理論体系)の世界は有限だということである。この科学の世界の外側で事故が起こる。れまで私たちが築き上げてきた科学を、そのような外側の事故に適用することはできない。したがって、そのような事故が起こるか否かを現今の科学的方法で決定(証明)することはできないのである。これを突き詰めれば、事故が起こってそれが安全か否かを科学的に決定することはできない、簡単に言えば、安全性(安全か否か)を科学的に証明することはできないと言うことである。
 政府や4人の政治家が安全性を確認したなどと言っても、科学的な意味はない。しいて言えば、科学的根拠なしにそう断定してはいけないのである。ストレステストで確認したといっても、ストレステスト自体が前提に基づくものであり、その前提内でしか地震は生じないという科学的証明はない。オスプレーに乗ってみて事故が起こらなかったからといって、その安全性が科学的に証明されたわけではない。したがって、自治体の首長が「政府がその責任において安全であることを保証せよ」と要求しても、それは無理な話である。言いたいことは、いったん事故が生じたら政府が責任を持って補償(保障ではない)せよということなのであろう。
 安全性は、安全か否かの二者択一的決定論の問題ではない。どの程度に安全か、したがってまた、どの程度に安全でないかと言うことである。これは確率の問題である。私たちは、安全性についての確率的アプローチを受け入れざるを得ない。確率の問題ならば、過去の経験(データ)からある程度、安全性を推定できる。
 しかし、事象が起こる確率の値、それだけを孤立して示しても、人々には、それがどういうことか、わけが分からないであろう。いわんやそれで安心感が得られるものでもない。安心感はこれまでのいろいろな経験から集約される感覚であろうから、孤立した数値ではなく、他と対比して示されることで、安心の気持ち(安堵感)が収斂するのではないか(単なる生起頻度だけではなく、生じる事故の損害の重大さも考慮に入れるべきであるという指摘がありそうだ)。オスプレーで言えば、飛行距離(たとえば100万km)についての事故率を、平時利用している旅客機のそれと比較して示せば、これは大変だとか、その程度なら心配ないのではないかといった安心感が得られるであろう。このようなことを通して、世の中のコモンセンスを醸成していかざるを得ない。事故が起こらないと証明することはできない以上、事故が絶対に起こらないようにしなければ許せないと言うだけでは、問題は解決しない。
 したがって大事なのは、日常的に生じるいろいろな事象の事故率のデータを多く整備し、それを周知させておくことである(個々の企業の事業については企業のconfidentialから公表についてのネガティブな反論がありそうだが、少なくとも社会性、公共性の強い事業について公表する意義は大きいと思われる)。しかし、この点に関する我が国の整備状況は誠にお粗末である。技術に関する驕りがあるとすれば、このようなデータの蓄積を怠り、新しいものの開発に走りすぎていることではないか。

 一般的に対象をシステムと呼ぶことにしよう。システムの安全性を高めるためにいろいろな方策を講じるのが普通である。この方策は、あらかじめ事故を想定し、その前提に基づいて対応するというものである。想定外のことを想定せよと一時いわれたが、技術的方法論としては、これは乱暴な話である。(本当は技術の問題だけでなく、もっと広く、システムに対するマネージメント全体の問題である)。問題はどの程度まで想定の範囲を広げるかと言うことである。想定の範囲を広げれば対策の費用はかさむ。想定をなるべく広げたい(できるだけ多くの対応策を講じたい)と言う技術者の主張と、費用をなるべく軽減したいというシステムマネジャーの主張との間で軋轢が生じたのは、最近、見た通りである。この軋轢を合理的に解決する方法が見出されていない。
 安全策を講じても、ある前提に立つ以上、ダメージをもたらす事故が起こる確率は0ではない。いつかは被るダメージの額(これも確率的である)との関連で(trade-offで)安全策の費用の上限を設定するというような方法論ガ必要である。多くの専門家の間で議論されることを望む。(青)