炉端での話題

折々に反応し揺れる思いを語りたい

希望と失望

2011-04-25 11:48:01 | Weblog
 これまでにない巨大な地震、津波、さらには、原発事故などの壊滅的な状況下で、助け合い、力を合わせて人々の救援や災害復旧に献身的に尽くす人々、自発的に何ができるかを考えてボランティアに身を投じる若者、被災地の人々の苦難を思いやる心情、こういった、いままであまり目立たなかった日本人の、協力し合う優しさを見て、なにかほっとした救いを感じる。これから続く困難に打ちひしがれるような気持ちになる中で、日本は大丈夫だと希望が湧く。
 一方で、政治の動きをみていると、言葉尻を捕らえたつまらない言いがかりのような議論、ピントを外れた質問、宙に浮いた独りよがりのこじつけ論理、このときとばかりにつけ込むような政治駆け引き、等などが目に付き、その見苦しさに暗澹とした気持ちになる。政治家と称する人たちは、もう、権力奪取に目が向いてしまい、緊急の現実問題について国民的合意を目指す努力を忘れてしまったのであろうか。こんなことでは日本はやはり駄目だと失望する。(AO)

100年に一度の…

2011-04-12 16:56:41 | Weblog
 最近、たとえば100年に一度の何々と言う話しをよく聞く。私が住むマンションの案内パンフでも「ガラス窓は100年に一度の大風にも耐える設計になっている」などと書かれている。ここで100年に一度の意味だが、これからちょうど100年後に一度生じるということではない。何年に一度と言うのは、いつ生じるか分からないが、稀に生じるのか頻繁に生じるのか、と言う時間的な頻度を言っているのである。たとえば、1000年の長時間観測してその間に10回生じていれば、頻度は100年に一度であると言う。あるいは、10回あったのだから、1回生じる平均の時間間隔は1,000年/10 = 100年ということになる。頻度を計る尺度としてフィットがあり、1フィット=10の9乗時間に1回、であることをついでに付け加えておこう。フィット数の逆数が平均時間間隔である。
 ものごと(事象)が生じるにはそれなりの理由がある。しかし、その理由が複雑に絡み合って、生じる理由を理論的に説明するのが困難なとき、そのものごとはランダムに生じるとして扱われる。ランダムだからいつ生じるか分からない。しかしランダムにしても、それが頻繁に生じるのか、まれにしか生じないかによって、人々にとっての切実さは変わる。頻繁に起こるとすればそれに対する備えをもっとしなければならないと考えるであろうし、稀ならばまあそれ程深刻に考えなくてもよいと思うかもしれない。(生じたときのダメージを勘案しなければならないのはもちろんである。)
 平均時間間隔が100年のランダムな事象が50年後までに生じてしまっている確率はおよそ40%である(50/100と単純に計算しているわけではない)。

(私は複数の仲間とブログを立ち上げている。そこで、ブログを書くとき、仲間に向けて書くのか、仲間以外の人を対象にするのか、あるいはそれらの両者を念頭に置くのか、微妙な心境になる。科学担当の解説者とか評論家でも、あまり適切ではない説明をすることがあるので、これは多くの人に正しく理解していただきたくて書いている。仲間は先刻、ご承知だ。)(青)