炉端での話題

折々に反応し揺れる思いを語りたい

安全性に関するマーフィーの法則

2012-04-27 19:45:37 | Weblog
  鉄道の信号制御にかかわるフェイルセイフに関するマーフィーの法則の原典が詠み人知らずとして存在する。筆者はこれを元に、より一般的な安全性に関するマーフィーの法則として、書き直すと共に追加の項目を入れてみた。
 いま原子力発電所の安全性について国家的に議論を行っているが、何等かの警句になるかも知れない。

・安全性を確保するための設備をいじると必ず安全でない障害が発生する
 安全になる筈なのに設備をいじると危険にさらされることがある。多くの場合は作業ミスがかかわる。安全装置は過去の事故経験、故障経験を踏まえて安全にするための装置となっているが、それを迂闊にいじると、折角の安全機能が失われ、とんでもない危険な故障を引き起こす。簡単そうに見えても必ず試験を行い、機能が間違いないことを確認しなければならない。

・システムの構造が複雑になり、装置が多くなるほど安全性がなくなる
 安全性を高くしようとすれば、どうしても複雑になりがちで、そのための装置も増える。装置が増えるとそれ自身の安全性を確認して設計・製造しなければならない。装置が二倍に増えれば、設計時間、検証時間は3倍、4倍以上に増えることがある。それを怠ると、とんでもない危険な故障を引き起こしかねない。さもなければ、信頼性が落ち、価格が跳ね上がるだけの結果に終わりかねない。安全性は必ずしも向上しない。

・地球の重力は無くならないから、そのことを利用して設計・製造すると、重力に逆らうものも無くならない
 重力により安全性をはかる装置を設計・製造すると、不思議なもので重力とは、かくもはかないものかと思う。ほんのちょっとした機構の摩擦の増加やゆるみなどで、重力が無くなるがごとき現象が生じるのである。
 一例として重力で接点が離れる重力落下形のリレー、かっては鉄道信号回路を形成する最も基本的な部品であり、安全性の拠り所であった。ところが電源を切り離しても、接点が離れないのである。ごくわずかな部品の寸法の狂いなどで、引っかかってしまい、あたかも重力がないかのごとき現象が起こってしまうことがある。設計やメンテナンスに細心の注意を払い、重力といえども絶対なものでなく、過信してはならない。

・安全性の高いシステムほど故障しやすいが、故障が多いから安全性が高いとはいえない
 安全性を高くしているから、そのために故障しやすいのは仕方がない、当然であるといわれることがある。故障が多いということはそれだけ複雑になっているからである。それだからといって安全性が高い筈であるともいえない。複雑な多くの故障の中には、危険な事象を引き起こしかねないものが多く含まれるからである。

・安全性を高く考えて設計したものの、その設計理由を誰も知らない
 安全性技術の伝承は難しい。暗黙の了解のような設計やその当時に常識と思われる設計は文書に残しにくいのである。その安全性の技術と設計の背景を何十年にもわたり、保守者や設計者に伝承することは至難の業である。しかし、それをしないと、とんでもないことが起こりうる。「こんなの意味ないじゃないか、取り外してしまおう」ということになり、過去の貴重なノウハウが失われ、危険な故障を引き起こしかねない。

・まれにしか起きない故障を無視すると大きな痛手を被る
 あってはならない故障や、めったに起こらない故障こそ、それが起こった場合のノウハウを宝物のように扱わねばならない。すべての機器の信頼性が格段に向上した現在、その裏にある危険性がますます膨らんできて、大きな痛手を被りかねない。

・安全性のための構成機器は、それが故障したとき安全性は無効になる
 安全性のために存在する機器が故障して、システムが動作しなくなったとき、この故障をシステム稼働のために人手により無効にすることがある。安全性を保持する目的の機器動作を無効にすると、そのときに限って重大な危険事態を引き起こすことがある。多くの場合は、安全確保のことを熟知しない人が無理に操作することが原因である。
ときには安全装置が故障したと思いこんで、安全性が無くなった原因を追及することなく、未熟な者が操作することも重大な危機的状態を引き起こすことがある。

・危険側の事象を発生させる方法があると誰かがそれを実行する
 禁止事項として掲げられている方法は、危険側の事象を発生させることができるから禁止している。このような危険な方法があると、誰かがそれを実行して、とんでもないことを引き起こすことがある。禁止することを表示しない方が良いとも言える。
「危険!絶対にさわるな」と書いてある標識があったら、一見安全そうであれば、さわりたくなる人がおり、実際にさわる人もいる。何が起こるか興味を引き寄せるからである。

・安全性がうまく作動するように思えるシステムは、何か見落としていることがある
 安全性があるシステム構成を検証し、うまく出来ているように見えても、つい細かな部品にのみにとらわれていて、とんでもないことを見落としていることがある。見落としは不思議なことにテストを行う者も見落とし易い。
 見落としが無いと思いこむことに見落としがあるから、多角的にチェックしなければならない。

・安全性が高いから、誰でも扱うことができるというフール・プルーフ(無知な人にも安全保証)なシステムを構成しても、人はその上をいく
 無知な人でも安全に扱うことができるシステムであっても、これを安全に扱うことができないことができるような極めて有能な人が必ずいる。そのような子供とかおばさんがいるから不思議である。
(妻)


原子力発電の再稼働

2012-04-17 13:26:04 | Weblog
 いま原子力発電所の再稼働について国家レベルでの検討が行われている。なかでも関西電力による大飯原子力発電所の再稼働に関して、野田内閣は再稼働を認める閣議決定をくだして、各地方自治体に説得を行っている。

 国民に対するアンケート調査では、原子力発電所の再稼働は安全性が確保されていないということから反対意見が多数を占めている。そのこともあるのか、橋下徹大阪市長は声高に原子力発電の再稼働に反対を唱えている。多くの世論を引き寄せ、橋下軍団の議員を国会に送り込む、またとない機会のように映る。世論の政治的な利用のもとに、橋下市長は国家政権まで奪取するような演説を行っている。

 筆者は、青さんと同様に原子力発電所の安全性は信頼していない。巨大地震などの災害もさることながら、ある国が人工衛星打上実験と称して、原子力発電所にミサイルをわざと失敗させて粉砕破片で直撃する可能性も否定できない。
 およそヒトが建造したシステムとか構築物などに、絶対安全はない。絶対的な安全性がないから、原子力発電の再稼働を中止しなければならないということは理論的には正しい。世論もその理論的な正しさからの反対意見が大半であろう。筆者もその理論的な正しさを基にすれば、原子力発電の再稼働には反対である。

 冷静に原子力発電が行われるようになった歴史的な経過をたどってみよう。
 日本国は小資源国である。
ダムを建設して電力の供給を水力発電に依存した時代もある。しかし高度経済成長に伴い工業の根幹を支える電力需要がたかまり、水力発電の開発が限界に達して火力発電が基盤となった。
 家庭でも電力需要が高まった。
電気冷蔵庫、電気釜、電気洗濯機が普及し、ついでクーラー、カラーテレビなどがゆきわたり、いまやオール電化の家庭まで出現している。
 需要の伸びと共に、石油とか石炭、天然ガスを用いる火力発電だけでは不足し、さらに電力がコスト高になることから原子力発電を導入して安価な電力の供給を行う必要性があった。福島第一原子力発電所の事故により教えられることは、ボブとか青さんも鋭く指摘しているように安全性の面からすると技術的には未成熟なまま原子力発電所を建設した。このとき電力供給コストをできる限り押さえるために、当時は地震・津波などの災害は少なめに想定した。

 日本は原子爆弾被爆国である。
 いかに平和利用といえ国民は、原子力発電が巨大なエネルギーを保有することから、災害発生の疑心暗鬼をぬぐいきれなかった。
当時の政府は、国内の経済発展のためには十分な電力供給を行う必要性を認識し、原子力発電は安全であるとして建設に着手した。原子力発電の安全性に疑問を持つ市民からは建設反対運動があった。いまの原子力発電の再稼働と同じ状況に思える。
 市民の反対運動をかわすこともあったのか、原子力発電所に関する技術的な事項は極端に秘密主義になっている。好意的に見れば、弱点を暴露すれば、テロの標的になることをおそれたからかも知れない。
 原子力発電の開発は密室で行われるようになり、安全性については「充分配慮してあり、心配いりません」と広報を行って原子力発電所の建設を進めて、充分な電力の需給をまかなうことができるようになった。
 そのような歴史的経緯から、いまや原子力発電をすべて停止するとすれば、電力の需給を充分にまかなえない事態になっている。特に関西電力は大飯原子力発電が再稼働しなければ、電力供給が不足するらしい。
 ある政治家は「原子力発電の停止は日本国の自殺である」と極端な表現をしている。

 いま二つの選択肢があると筆者は考える。
 そのひとつは、原子力発電をすべて停止することである。
 どのような状況になるか想像してみよう。
 まずは東日本大震災の直後のように計画停電が行われることになる。暑い夏場にあっても冷房装置は使えない。交通機関も災害後のように間引き運転される。
 電気代金は、石油と天然ガスを使った火力発電のために高騰化する。電力の供給が低下するばかりでなく電気代も高くなることから工業力はますます低下する。当然ながら輸出製品が高騰化するために輸出が減少して貿易収支は悪化し、そのために食糧の供給も逼迫する。
 経済はインフレーションに陥ることになるであろう。

 いまひとつは、安全性に疑問が残るが原子力発電を必要最小限の範囲で再稼働することである。
 再度になるが絶対的な安全はあり得ない。
 ボブさんがいうように「おおむね安全」では大いに心配である。いつ、どこで巨大地震による災害が発生するか、そのことをおそれながら、またそのような災害が起こらないことを神仏に祈りながら、上記の様な事態を招かず、いまの豊かな国民生活を過ごすかである。
 原子力発電の稼働に十分な安全性を確保し、国民すべてが安心できるようになるためには、叡智を集めてさらに高い安全性をもつ原子力発電を再開発しなければならないであろう。

 いずれになるか。
 反対論が多く地方自治体の首長が原子力発電の再稼働に反対すれば前者になり、いまの野田内閣が英断を下せば後者になると推察する。
 いま日本国民は前者を選択し、困難時の再来を体験することは、歴史的な課程の一端として長い目で見れば、貴重な教訓になるかもしれない。
(納)

「おおむね安全」とはどういうことか

2012-04-14 16:59:16 | Weblog
 簡単に「安全」と言いわず「おおむね安全」と言う。しからば、「おおむね安全」とはどういうことか。簡単に「安全」と言い切れない不安な点があるという事であろうか。不安な点があるというなら、その点についてどのような検討をしたのであろうか。
 「安全」を完全に証明することはできないと私は思っている。とことん検討しても人智が及ばず分からないところが必ず残る。したがって、「安全」を完全に証明し得ない部分が残ることを私は容認する。しかし、とことん検討しても分からなかったというのと、検討の不充分な部分が残っているから「おおむね」と言うのとでは大違いだ。上記の「おおむね」はどちらなのであろうか。
 リスクがないものはない。したがって、ことの是非を判断するとき、そのメリットとリスクを勘案し、リスクを負ってでもメリットのほうをとるか、リスクを回避するためにメリットのほうを捨てるかを、結局は一人ひとりが自覚的に判断しなければいけないのではないか。そのためには、メリットとリスクの検討がどのように行なわれたのか、その詳細が具体的に公にされなければならない。政府のどなたかが「おおむね安全」といったからといってそれで済ますわけにはいかない(政府の責任と言ってみたところで仕方がない)。結局、私たちの所にツケが回ってくるのだから。
 「おおむね」ではぐらかしてはいけない。いい加減にはぐらかしておいていつのまにか「おおむね」を取り外して済ませてしまうようなことがあってはならない。(ボブ)

最優先席

2012-04-06 08:07:58 | Weblog
 優先席とは、最初に座った者の優先席に違いないと実際の現象から判断していた。
3月24日の読売新聞夕刊の「よみうり寸評」によると最優先席が出現するらしい。
まずは、この記事を引用する。
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街角や交通機関の案内板には、日英韓中の4か国語表示が増えている。先日乗った電車の<優先席>もそうだった◆英語では<プライオリティー・シート>。ハングルは残念ながら読めないが、中国語は漢字だからわかる。<博愛座>とあつた。なかなか味わい深いネーミングである◆されど本来、高齢者や妊婦など譲るべき人に譲るのは特定の席に限る話しではない。横浜市営地下鉄がそうした考えで2003年から<全席優先席>と表示してきたのは、まことに正論であった◆ところが今夏から<最優先席>が登場するという
(引用はここまで)
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 筆者は、優先席の表記を最優先席としても、座った若者は最優先権があると主張して座り続ける現象は変化しないと考えている。英語のプライオリティー・シートの翻訳から優先席と表記したのであろうが、英語の意味も日本語とあまり差がない。
 ある識者と電車に同乗したおりに、この表記を示しながら優先席とは最初に座した者の優先と解釈する人が多いことをぼやいたところ、識者は、この表記をしばらく眺めてから「そうです。ハングル表記も英語・日本語と同じ意味です」という。
「よみうり寸評」の著作者さん、おわかりだろうか、ハングル表記も同じであるそうだ。
 確かに中国語の博愛座は、最も優れた表現である。しかし残念ながら最近の中国では博愛が豊に育っていないような風説も流れている。
 優先でも博愛でもない、よりすぐれたキャッチ・フレーズはないだろうか。

追記:
 ある知人に、この原稿の段階で見てもらったところ「限定席」はどうかという意見と共に、いかに座席名を変更しても日本人の「絆」意識が高まらない限り、現状は変わらないであろうとのコメントがあった。
(応)