炉端での話題

折々に反応し揺れる思いを語りたい

「無駄な話」異聞

2006-08-31 16:09:16 | Weblog
 私は、10年ほど前、折に触れて書き記したいくつかの小文を「無駄な話」という冊子にまとめ、仲間の皆さんにお配りしたことがある。先日、屈託してネットサーフィングをしていたところ、ある大学教授が、日本機械学会誌のJSM談話室で、この小冊子の中の「非独創に関する12章」という文章に言及されているのを、目にした。そこで、無駄なことながら、「無駄な話」という検索をしてみると、驚くなかれ、2,080件のヒットである。2,3あたって見ると、まあ皆さんいろいろと無駄な話をしておられるのですなあ。私の小冊子のタイトルは逆説的なニュアンスがこもっていてよいとひそかに自己満に浸っていたのだが、これでは平々凡々のタイトルであったということに外ならない。
 われわれの大先輩の池野信一氏(といっても皆さんはあまりご存じないかもしれないが、電々公社時代の電気通信研究所におられたきわめて明晰な理論家)も情報処理、Vol.15、No.3(1974年3月)の巻頭言に「無駄な話」という真面目な一文を書かれている。(青)


大画面テレビ・シック

2006-08-27 23:29:37 | Weblog
 大画面テレビを設置して、最初は日本のテレビ技術の進歩に驚嘆し、あわせて技術者の努力に敬意を表していた。
 家族も大満足であったが、おかしな現象に気がついた。これまでは時計代わりのようにテレビをつけっぱなしにしていたのが、これがない。電気の節約で喜ばしいことではある。つけっぱなしにしない理由を聞いて見た。大画面なので、視覚の邪魔になるという。なるほど狭い部屋の中で、やたらと動く大きな映像は、視覚刺激過剰でなんとも衛生上よくない。衛生問題のなにかについては医者ではないのでよくわからない。残念ながら、過剰刺激に疲れたとき、大きな窓があって、そこから自然環境を眺めながら休息できる条件は不十分である。
 そしてあるとき、テレビ映像でドライブに誘われた。これでなんと車酔いに陥ったのである。大画面テレビ・シックである。
 テレビ・カメラで画像収録をしているカメラマンは大画面テレビの視聴者には配慮していない。また画像監督とか編集者も、これまでのテレビ映像番組しか意識しないで番組を作る。強調したい部分の画像をやたらとズームアップする。高精細テレビなので、その必要はないのにである。頻繁にパンされるので、目が回る。余計なお世話はいらないから、静かに画面を眺めたい。ズーミングとかパンは、見る方にまかしておいてほしい。
 これは、大画面テレビ視聴者のわがままである。しかしながら徐々に大画面テレビが普及し、視聴者が増えれば、それだけ大画面テレビ・シックが増える。次世代の子供達もこのシックが、あるいは衛生上の問題として生起するかもしれない。
 いまから実施してほしい対策を提言する。
テレビ映像としてのズーム動作は避けて欲しい。少なくともズーミングの速度比率と頻度をさげる努力はしてほしい。またパンもできる限り少なくしてほしい。手持ちで走りながら撮影するなどはとんでもないことで、家の中に仮想地震を持ち込むことになる。
 提言として、テレビ・カメラマンの自宅には、できる限り大画面のテレビを会社の費用で設置し、将来の視聴者が、大画面テレビ・シックに罹病しないための対策をカメラマン自ら開発していただくのはいかがであろうか。できれば市販されている最大の大画面テレビを薦める。
 これこれのテレビ番組を見ていて、大画面テレビ・シックになったから、治療費を請求するということがあるかも知れない。老婆心ながらの心配ごとではある。そういえば過去のテレビ番組でテンカンのような症状のシックがあったという報道を思い起こす。
(悩)

知らないことの怖さ

2006-08-22 16:57:27 | Weblog
 かって私は「「知っている」のは「知らない」より確かに良い。しかし、単に「知っている」のを誇るべきではない。(中略)これに対して、「考えられない」のは恥ずべきである。」と書いた。この趣旨は、自然科学の世界を想定し、知識だけは頭に多く詰め込んでいても、ことの是非を考えようとしない、あるいは、新しい価値観を創出しようとしない、いわゆる、知的人間にありがちな不健全性を(自責をこめて)考えてみたかったのである。知識がありすぎて新しい発想が出にくくなることは往々にしてある。
 しかし、「知っている」ことと「考える」ことの関係は単純ではない。特に、社会や世界の物事を考える場合、それがおかれている状況を十分知ってから判断するのがもっとも妥当なのであろうが、その状況を全部知ることは容易でない。この「状況」には、その時点の周囲の多元的な状態のほかに、その時点に立ち至った経緯も含まれる。人は往々にして「知らない」ままに、誤って判断し、正しくない結論を下す。集団の合意も、個人的体験に基づく各人の不十分な状況認識による必ずしも妥当ではない判断が集積され、その総括としてまとめられるとすれば、その合意の適正さは果たして保障されるのであろうか。
 「知らないでよい」は許されない。我々は「知る」努力をしなければならない。しかし、世の中が複雑になると、ひとり一人の知る努力には限界がある。私たちは、互いに、「知らしめる」努力をする必要がある。
 敗戦のとき小学5年生であった私は、1930年代の初頭から1945年頃までの内実の経緯をあまり知らなかった。それを少しばかり知らされた今、凡庸に過ごしてきた自分の人生に対する自信が揺らぐ思いがする。
 戦争を身近に体験していない若者が増えていると言う。そして、彼らがこれからの世の中を判断していく。不安を感じるのは、私だけであろうか。(青)

未来のトラベル・フライト

2006-08-22 09:04:37 | Weblog
 イギリスで航空機のテロ事前発覚により24名が逮捕されるというニュースが流れた。飛行中の航空機内部で液体爆発物を合成する計画だったという。イギリスの空港はもとより世界中の空港で手荷物の機内持ち込みを制限し、フライト・スケジュールにも混乱をきたしている。
 これは何年後かの未来でのトラベル・フライト、そのときを想像しての話しである。
海外旅行のために、空港には、全く手ぶらで向かう。航空機には、一切の手回り荷物持ち込みが禁止されているからである。パスポート、現金なども持てない。空港では、着用しているすべての衣類は脱ぎ捨てて、帰国まで預け、航空会社が貸与するトラベル・スーツに着替える。まるで病院に入院することを思わせる。
 チェックイン、パスポート・コントロールは、指紋・手のひら静脈・目の虹彩紋、さらには声紋などの複数の生体認証が行われる。勿論のこと身体内部のX線検査はかかせない。
持病治療のために必要な医薬品は、あらかじめ主治医から届いている処方箋をもとに航空会社が準備する。乳幼児の飲食物も例外扱いはしない。
 まさに身一つのトラベル・フライトである。
 無事目的地に到着する。入国パスポート・コントロールは出国のときに厳重に実施されていれば案外簡単に行われる。しかしながら身体の検疫検査は厳重である。滞在国の身分証明書がパスポートの代わりにエアポートの入国審査のときに渡される。これは、あらかじめ届けておいた内容のクレジット・カードの役割も果たす。
予約準備されているレンタルスーツ・ケースを受け取る。スーツケースの中身はレンタル品、下着類は新らしい購入品である。それがいやなら厳重な検査を行い、高い送料を払って別送荷物を準備することになる。
楽しい海外旅行は、このような非人間的な扱いを受けるトラベル・フライトの後に始まる。
この話を家族にしてみたら、そのようになる前に海外旅行に連れて行けとせがまれている。 (悩)

送電線事故のもたらした課題

2006-08-18 07:36:05 | Weblog
 8月14日朝、送電線の事故があった。
別ルートで送電再開 復旧までは短時間 首都圏広域停電 (朝日新聞) - goo ニュース
 復旧までに意外に時間がかかったという印象は、誰しも持ったことであろう。ここで電力系統を改めて眺めてみる。
 私の住んでいる近くにも高圧送電線がある。ところがその送電線は行き止まりになっている。送電であるから入り口と出口がり、行き止まりなどないはずである。工事の途中なのかとも思ったがそうでもない。結構年月を経ている鉄塔である。
 このような疑問を抱えていたが、あるときこの疑問が解けた。高圧送電線系統は、とりあえず例えてみると池である。水をたたえる池を想像すればよい。この池には流れ込む水路があれば、流れ出る水路もある。入水量と出水量が同じであれば水面は一定になっている。入水路に異常があり、水の供給が途絶えればそれに応じて出水量を制限しなければならない。電力系統を池に例えれば、行き止まりの送電線の謎は解ける。
 さて正確にいえば、電力系統は池として例えるのは不適当である。池ならば水をある程度保持することができるが、電力系統では、いまのところそのような能力はない。この能力を持たせるためには大電力蓄電が課題である。技術的に実現することは可能と思われるが膨大な設備投資をしなければならないことから、実現できない課題といったほうがいい。
 ニュースの映像をみるとクレーン船が高圧送電線に接触しているが、断線したわけではない。クレーンの鉄塔の接触による短絡であり、ショートともいう。落雷などにより短絡が起こったときには、その影響が他に波及して重大な事故につながらないようにするため、送電供給線の両端で瞬時に遮断する。この遮断はコンピュータの支援により瞬時に自動的に行う。落雷による短時間の短絡の場合はすぐに復旧させるが、ある程度の長い時間の短絡は復旧させない。これは高圧線が断線して地面に接触してしまったことから保護するためである。クレーン船の接触は、落雷による短絡のような短時間の現象としてとらえず、送電線を両端で遮断したと考えられる。電力系統には蓄電する能力がないから、大電力送電が停止すると、他の送電系統の電力供給が過大となる。制限電流をこえると、発電機を含めた送電系統の保護のために、送電線の電力供給を両側で遮断する。先に池で例えた電力系統の入水路をすべて閉じることに相当すると考えればわかりやすい。コンピュータ制御であるから、この電力供給の遮断は瞬時にして起こる。
 これは想像であるが、電力系統を監視している現場の職員は、瞬時に電力供給が停止して、パニック状態におちいつたであろう。何事が起こったのか。私が当事者ならば頭の中が真っ白になる。
 まず実施しなければならないことは、どこに送電異常があって送電遮断がおこなわれたかである。いわば故障の箇所を診断することであるが、この機能を持たせることは、そう簡単な技術ではない。多分に投資が必要であり、節約の立場からはすると余計な出費は押さえたい。担当の開発技術者も、華々しい仕事ではないから、この様な技法は組み込まれていないと思われる。このような事故が起こってから、初めて対策に乗り出すことになる。一つの課題として残る。
 電話連絡などにより送電線異常がどこにどのように発生したかを確かめることから始めたと想像する。その間、報道陣が殺到し、原因がどこかを問いつめる。
 送電線の故障箇所診断ができたとしても、回復は報道にもあるように人手による作業になる。このコンピュータの時代にである。なぜなら復旧のための機能は前述と同じ理由から多分組み込まれていない。電力系統を複雑系として見るならば、高性能のスーパーコンピュータが必要であろう。あらかじめの設備投資は、費用対効果から避ける。
 事故送電線の電力容量を参考にしながら、入力の送電線を回復し、それに見合った出力線を復旧させる。このとき入出力の見積を誤れば、また自動的に遮断される。消費者から見ると、回復された送電が再び停止される。点灯した照明でほっとしたとき、再び消える現象である。配送電の現場担当職員は、薄い氷の上を歩く想いで、スィッチを操作したであろう。汗びっしょりの姿を思い浮かべると同情する。
 このような課題の解決は、ひとつの研究テーマであろう。しかしながら地道な研究であるだけに、すぐに優れた経済効果をもたらすか、多くの論文数を求める風潮にさらされる現在の大学での研究室にはそぐわない。
 複雑系に組み込まれつつある社会、費用対効果のため、きりすてられた課題を掘り起こし、地道に解決しなければ、このような事象が再度起こり得ると炉端の話をしておく。日本の将来技術の発展のためには、地味な研究にも投資しなければならないと思う。
(納)

塗り壁の話

2006-08-10 21:39:03 | Weblog
 ここで塗り壁とは、左官業者によって行われる壁のこととしよう。
 住宅の左官業者は現在のところ廃業状態に陥っている。その理由は、住宅の壁は石膏ボードの上に壁紙を施工することが主流になっているからである。
まず左官業者が「なりわい」として盛んであった頃の住宅の壁について述べよう。
 住宅の壁の下地は、太い竹を割り、これを柱と柱、桁と土台の木の間に組み込むことから始まる。太い竹は「木もと、竹うら」といって竹の先端部分から割っていく。ついでに述べると、木材は根もと側からナタなどで割る。竹の先端から丸い鉄輪に、刃が傘の骨のようについた道具を打ち込んで割る。そこには見事な職人のわざ、1本の竹が細く割れて繰り出されてありさまは、あたかも大道芸の技のように魅せられて見入ったものである。たてよこの格子状に組まれた竹に稲藁でできた縄を巻き付ける。手間がかかる仕事である。
 次は、粘土をこねる。ある地方ではタンボの底から掘り出した粘土を使う。粘土を大きな四角い木箱にいれ、さらに稲藁をざくざくと5センチ程度に切った材料をくわえて、裸足の足で踏みつけてこねる。民謡を口ずさみながら作業をする。若い左官見習いはダンスのステップのように足を動かす。
 藁を巻き付けた竹格子に、捏ね上がった壁土を投げつけるようにして素手で貼り付ける。
左官見習いは、捏ねた壁粘土を玉にして親方の左官に投げ渡す。鼻歌は「ホイ、ホイ、ソレッ」というかけあいのかけ声に変わっている。この土壁をつけ終わると木ゴテなどで大まかになで回したあとはこれが乾燥するまで次の仕事にかからない。地方によっては1年間ぐらいかけて乾燥させるという。これを土真壁という。
この上に下塗りと称して、消石灰と砂、さらにはスサという麻などの繊維を入れて、フノリを入れ、これを塗る。現場ではフノリを煮るための大きな鍋をしつらえ、ぐらぐらと煮立たせる。釜からは蒸気が、そして焚き口からは煙が立ち上る。これは左官見習いの仕事である。最初の下塗りはヒビがはいったり、でこぼこが多く、左官見習いにまかされることもある。さらに、かのこ擦り、むら直し、中塗りという塗りの工程を行う。各段階では十分に乾燥させてから次の工程にかかる。したがって雨が続くような時期には数ヶ月以上にわたることがあるという。
最後の仕上げは、砂を含まない消石灰とスサとフノリだけになる。この漆喰壁は、平らに仕上げるために相当の熟練を要する。柱間が半間程度、すなわち90センチ程度、ならば少しばかり修練を重さねた者でもできるが、2間、3間に及ぶ、いわゆる大壁ともなれば駆け出しの左官の仕事では施工料は請求できない。
漆喰は消石灰が主体であるから塗り立てはもろい。消石灰は空気中の炭酸ガスと化学反応を起こして石灰岩と同じ組成に変化する。空気中の炭酸ガスの濃度にもよるとして漆喰壁が丈夫に育ち上がるまでには年月がかかる。工程を重ねた漆喰壁は下地から30ミリの厚さになる。
「いい家は無垢と漆喰でつくる」という本が出版されていて、よく売れているようであるが、このような漆喰壁は現在の住宅でできるだろうか。
この施工行程から、誰でもすぐに「ノー」であることがわかる。
現在、施主が漆喰壁で施工することを要求したとしよう。工務店の営業マンは「わかりました。何とか漆喰壁にしましょう。しかし費用はかさみますよ」といって引き受けたとする。
壁の下地は、竹の格子組みではなく、石膏ボードある。この石膏ボードは壁がつきやすいように凹凸がある。あるいは外壁のモルタル下地材として使われ、モルタルがつきやすいように表面加工したベニヤ板でもよい。石膏ボードの場合は化学ノリの下地剤を刷毛で塗布する。この場合24時間後には次の作業が可能になる。
この上から石膏に様々な骨材を混入した壁下を塗る。3-8ミリの厚さで下地仕上げする。この乾燥は厚みによるが数日かかつて乾燥させる。
さて念願の漆喰壁を塗る。材料はすでに調合されたものが市販されているから、フノリを煮る釜はいらない。水で適当な堅さに練り上げ、数ミリの厚さで仕上げる。壁材料にはフノリの代わり硬化の早い化学的に合成されたバインダーがはいっているから、1日程度で壁表面は硬化する。炭酸ガスと化学反応して石灰岩化するまで待つ必要はない。
これが現代の漆喰壁である。漆喰壁もどきといった方が適切かも知れない。ちなみにこの工法でも、石膏ボートの上に壁紙を貼る場合に比べて数倍の時間とそれに見合った工事費がかかることはいうまでもない。
 塗り壁に固執した施主が、漆喰壁でなくてよいが、塗り壁にしたいといったとしよう。
この場合でも、現在では最後の仕上げ工程が違うだけである。
 さらに簡略化も可能である。都合のいいことに最近の塗り壁材料には、下塗りが省略できる壁材がある。珪藻土が入っているということを売り物にした壁材もある。この工法による場合は、塗り壁とは言い難く、左官コテで塗装する壁といった方が適切な表現である。
 できあがりは塗り壁であり、塗装の様な薄い皮膜ではないことは確かである。また壁紙よりは格調が高く、長持ちもするであろう。
 これが現在の塗り壁の実態である。化石原油の値上がりと共に壁材も値上がりするという。(農)