炉端での話題

折々に反応し揺れる思いを語りたい

珍論・奇説(その3)

2010-05-24 18:20:26 | Weblog
 皆さんは人(とは限らないが)の視線を感じたことがあると思います。真正面から見つめられたときはもとより、背中に視線を当てられているように感じることもあったのではありませんか。さらに、近くの人ではなく、遠くからの視線を感じることもありますね。大げさに言えば、相手の目は見えないのに、遠くからレーダーの照射を浴びせられたように、サッと視線が顔を横切るのを感じます。アッ見られたと直感しますね。
 相手の目が見えないのに視線を感じるのは、こちらが相手の目(もっと細かく言えば、瞳孔などの)の位置を視覚的に捕らえているからではないのではないでしょうか。視覚として相手を認識するのではなく、相手から発する何かをこちらの何かのセンサーが感じ取るのではないか。さらに踏み込めば、発する何かは眼底から発する赤外線(一歩退けば、可視光以外の光)で、人間の皮膚にはこれまで知られていなかった赤外線センサーの類があるのではないか。人によっては、背中にもそういった鋭敏なセンサーがあるのでしょう。夜中に動物の姿を映すと、目が異様に光って見えるのも、この考えに通じるところがあるように思えます
 可視光以外の検出装置を使って、まず、可視光以外の眼底の発光機能を調べ、さらには皮膚にそのような検知スポットがあるかを詳細に調べれば、この珍論・奇説を検証することができるでしょう。(青)

余談:私は、バージン諸島のセントトーマス島でスノーケリングをしていたとき、近くに寄ってきた魚とにらめっこをして、確かに魚の視線を感じました。感激です。

逆極性となった古い乾電池

2010-05-17 06:08:58 | Weblog
この炉端での話題の3年まえの古い話に、青さんが「アルカリ乾電池の怪」を掲載している。
そんなことがあるのだろうかと思って、インターネットで調べたことがある。理由を考えていたがよくわからないままにしておいた。
昨日、私も同じ体験をした。かなり古く放置されていた単一アルカリ乾電池6本入りの懐中電灯、6本の内2本が逆極性になっていた。しかも電圧は0.6ボルトと意外にも高い。
同席していたある電気関係大企業の元技師長もこれを確認し「これは明らかに設計不良である」という。いかなる設計不良なのか、これを述べた本人もわからないようだが、長年にわたって電気工学にも関心を寄せている私にもわからない。
いかなる科学的根拠によってアルカリ乾電池が逆極性になるのか、これは検証する価値があると信じた。

このブログを書いた後に、知人からの指摘もあり、インターネットを検索するとけっこうアルカリ乾電池が逆極性になるという事例報告がある。メーカーからのコメントもあったらしいが、アクセスできない。
(納)


ローカルケーブルテレビは報道機関ではないのか

2010-05-10 13:24:47 | Weblog
 諏訪神宮下社御柱祭りの建て御柱の様子をケーブルテレビの実況放映で見ていた。御柱といわれる巨木(長さ20メートル弱、直径は1メートル近くあるのではないか)にワイヤロープを巻き、人力で垂直に立てる行事である。
 事件はそのとき起きた。70度近く立ち上がった御柱の先端が、画面上で右側に、ぐらっと揺れた。御柱には20人近くの人がとりついていたが、先頭部分にいた何人かが、ばらばらと真っ逆さまに落ちた。15メートルくらいの高さはあったであろう。大変なことになったと思わず声を上げる。御柱の下に駆けつける人、周りの群集をかき分けようと声をあげる人が見える。
 と、突然画面が切り替ってしまい、前に行われたお祭りのVTRを放映し始めた。事故の状況はどうしたことかと気がかりなのに、その後、まったくその詳細が説明されず、関係のない録画を流し続ける。的外れの放映を続ける無神経さにいたたまれなくなり、ケーブルテレビにどうしたのかと電話すると、現場の判断で、画面を切り替えたという。一般の視聴者だけでなく、落ちた人の知り合いで、画面を見ていた人も多いのではないか。皆の関心はその後がどうなったか早く知りたいということであろう。現場は何を判断したのか。ピンボケといわざるを得ない。視聴者の気持ちを現場に伝えるようにと言っても、現場には伝えられませんと、木で鼻を括ったような返事。
 17:10頃事件が起き、その後、18:45のNHK長野放送が(後に、全国向け放送でも)現場やその後の状況を報道しても、ケーブルテレビは知らん顔である。2時間くらい経ってから、亡くなった方の氏名をたった2行の文字テロップで、しかも1~2秒間しか、放映しない。
 ケーブルテレビとはいったい何かという疑問が沸いた。ケーブルテレビの画面編集の責任者(ディレクターといわれる人種か)は報道機関としての意識を持ち合わせていないのではないか。報道機関なら、しかも実況放映していたのだから、生じた事件の詳細を真っ先にリアルタイムで視聴者に知らせる責務があったのではないか。
 お祭りのその他の場面でも、画面の選択ですっぽかされたような気持ちになることが多かった。御柱の先端を三角錐状に斧で刻む作業、御柱の根元を穴に差し込む作業、ロープを巻く作業、等々いろいろな場面で、作業を最後まで見届けたいと関心が高まる中、突然無関係なシーンへ画面が切り替えられてしまう。ディレクターは何を考えているのか、訳が分からない。
 不満が強まり放送会社を変えたいと思って気がついた。難視聴地域のケーブルテレビは独占企業なのだ。変えようがない。したがって競争がないから無神経な放映がまかり通るのであろう。貧弱な放映を監視・監督するのは誰か、総務省なのであろうか。
 この文章を書いている現在(5月10日13:20)まで、事故の詳細は放映されていない。(青)

音にかかわる感性

2010-05-05 09:40:48 | Weblog
青さんが、珍論・奇説(その2)の中で「現代音楽は、現代音楽なるものは心地よい陶酔感とは縁遠い。耳障りな不協和音、転調、まごつくようなリズムの変化、聞いていて心地よいどころではない」と述べている。
音にかかわる感性について調べかかっていたので、これがトリガーとなった。

2009年11月の電子情報通信学会誌の感性情報学特集でも、音楽のことを感性の側面から、いくつか取り上げている。音楽はヒトの五感の聴覚にかかわる。さらにヒトには時間感覚という第六感があるなどの記事に興味がそそられる。細かい内容は学会誌の記事にゆずるとして、音にかかわる感性について愚考を述べてみよう。

ヒトの脳として特徴がある大脳は何層かにわたる階層構造になっているという。コンピュータのソフトウェア階層構造に酷似している。
コンピュータの場合はハードウェアを駆動するためには機械語がある。最も下層の部分であり、コンピュータの設計者しか扱えない。それでは不便なのでアッセンブラという言語が造られ、ここからプログラマの仕事になる。ただしアセンブラ・レベルのプログラマはハードウェアの内容を熟知していることが求められる。
さらに上位のプログラム言語には、C言語、FORTRAN、BASICなどがあり、ハードウェアの知識から開放される。最近ではアプリケーションに特定したSPSS、 MATLAB、 MATHEMATICA、 EXEL、POWER POINT、WORDなどソフトウェアが普及している。コンピュータの場合は四階層の構造になっているといえる。

ヒトは誕生直後から、遺伝子の中に組み込まれていない感性の育成が始まる。初期段階の感性の育成を一次感性と呼ぶことにする。いわばコンピュータの機械語に相当するもので、生後の幼児を観測すると立って歩く頃までの音に対す感性の生育である。この頃はガラガラと音のするオモチャ、母親の呼びかけに反応できるようになる。

やがて単なる音ではなく、音韻の感性が養われる。つまり簡単な音韻が理解できる。この頃からヒトとしての能力が発揮できるようになる。単純な音の音楽にも興味を持ちはじめる。このことを音に関する二次感性と呼ぶことにしよう。眠りを誘う心地よい旋律として、子守歌で魂が休まり、温和な眠りにつく。この頃の音に関する感性を再度呼び起こすのが、天井の高い教会の中に響く荘厳な音楽であり、様々な民謡に織り込まれた子守歌であろう。

安らぎの中にあるとアルファ波を含む脳波が観測できる。
アルファ波を活性化する音楽もある。

余談であるが、アルファ波が顕著に表れる人の脳波を観測したことがある。いくつかのサンプルを基にすると、そのアルファ波発生は異常に多い。聞いてみると時に精神的に不調なことがあるという。アルファ波が異常に発生するのもよくないことを知見したことがある。アルファ波がどこから発生し、どのような効果があるかということは、いまの生理学では解明されていないらしい。

音の二次感性の上位には言葉がある。言葉のセマンティクス、つまり意味がわかるようになる。音楽で言えば音の組み合わせの和音である。発育の程度によるがヒトの場合は2-4歳である。コンピュータのソフトウェアではアセンブラと対比できる。

やがて音韻の組み合わせから、記述的な内容に進化する。言葉の組み合わせによってセマンティクス、つまり意味を持たせて相互の理解ができるようになる。音楽ではメロディーになり、うれしさ、愉快さ、悲しみとか、怒りを表現する。第三次の感性と位置づけておこう。コンピュータではいわゆるBASICとかC言語のプログラミング言語に相当する。
現代音楽では、このような階層構造が破壊されていると解釈できそうである。現代音楽を好む世代は、音にかかわる幼児体験が貧困、もしくは異常であったか、逆にあまりにも優れた音楽環境であったことに対する反逆なのだろうか。

ここまで書いてきて、フト疑問が起こる。
勇壮な太鼓の演奏は、音楽だろうか。極めて単純な音韻によるものであり、太鼓を叩くリズムで様々な表現をする。あるときには遅いリズムで静かに叩いて緩やかな移ろいを表現し、時には大きく、早いテンポで怒るがごとくに打つ。
太鼓の演奏、現代音楽ではない。
単なる喧噪にしか思えない現代音楽とは異なる。電子情報通信学会誌の中で識者がいう第六感に響くと解釈しておこう。それであれば現代音楽としても取り入れなければならない感性といえそうである。

さらに上位、つまり第四次の音にかかわる感性がある。プロフェッショナルなレベルということもできる。最近放映されたアンジェラ・アキの伝記のような番組を見て、アキは第四次の感性を持ちあわせた音楽家との印象を深くした。

脳の前頭葉の構造もこのような感性の成長と共に階層化構成されているのではないかと思う。最近の脳科学に関する研究では、赤外線による観測、あるいは機能的MRI(原理的には血流の測定)によって血流の盛んになる場所を特定しようとする内容が多い。もし感性の育成過程がヒトによって異なり、前頭葉の発達がそれに依存するとすれば、血流が盛んな場所も個人差があると考えている。
脳波を観測していると、測定環境にもよるが、個人差が大きいことに気がついているからである。
(納)

雑音源のオーケストラ

2010-05-04 16:10:04 | Weblog
青さんの珍論・奇説(その2)から思いついた、とんでもないオーケストラ演奏のおはなしである。

音源は雑音、しかもガウス雑音がいい。ダイオードから発生する熱雑音は手軽である。
これを音源として、多数の音響フィルタを並べる。これらのフィルタはそれぞれ違った特性を持つ。楽器に似せても良いし新たなフィルタを構成してもいい。

幸いにしてディジタル化技術によっていかなる特性のフィルタも構成できるようになっている。百次にまでに及ぶフィード・フォワード・ディジタル・フィルタが設計できる。どのような独創的な音響になるか楽しみである。

ステージには多数のフィルタから出力されるスピーカが並ぶ。
音源は熱雑音である。ディジタル・フィルタとアンプがこれにつながりスピーカに出力されている。指揮者は多分コンピュータがかかわる。このコンピュータにヒトの指揮者がコントロールしてもいい。レーザーダイオード指揮棒でオーケストラの指揮をする。

微妙な旋律とその変化はどうするか。それについての腹案はある。

悪い夢を見ているかって。
いやいや、技術的には実現可能である。
皆さんがしゃべっている声は、のど元にある単純な声帯のパルス状振動を口腔と鼻腔のフィルタで言葉の発生を行い、あるいは声楽にする。人の場合は無声音とか摩擦音などと言われている雑音に近い音韻もあるが、これは雑音そのままでも模擬できる。

ディジタル・フィルタで先進技術を誇っているテキサス・インスツールメント社、ディジタル・フィルタの宣伝を兼ねて、いかがなものだろうか。
(応)

珍論・奇説(その2)

2010-05-02 23:43:14 | Weblog
 宗教に帰依させるmotive forceは、‘情緒的’な陶酔感や不安感を刺激するものではないか。その陶酔感や不安感を高揚させるための宗教音楽がクラシック音楽の起源だとすれば、古典的なクラシック音楽が脳の奥深い本能的情緒部分を刺激して、心地よい陶酔感をもたらすのもうなずける。
 一方、現代音楽なるものは心地よい陶酔感とは縁遠い。耳障りな不協和音、転調、まごつくようなリズムの変化、聞いていて心地よいどころではない。音楽評論家が、現代音楽は驚きを楽しむものだと言ったのを思い出す。いくつかの概念が頭の中にあって、それらから期待されるものに反するから驚くのであって、驚きは知的な反応、もう少し言えば前頭葉的反応だ。前頭葉的反応を楽しむのが現代音楽だといえるかもしれない。現代音楽に本能的情緒の陶酔感を期待するのは間違いなのだ。
 つまり、「古典的クラシック音楽vs現代音楽」は「本能情緒的vs前頭葉的」と言えるのではないか。この奇説は両者の音楽を聴かせながら脳のどの部分の血行が盛んになるかを調べることで検証できるであろう。
 もっとも、あまり脳のことに深入りすると、脳が得意の納さんに逆襲されそうだ。(青)