炉端での話題

折々に反応し揺れる思いを語りたい

精神障害の子供達のこと

2010-12-30 13:55:19 | Weblog
2010年12月22日朝のNHKのニュースで子供達の精神障害に関する報道があった。
大まかな内容を述べておこう。最近になって子供の精神的な病気が増えていること、そのための医者が少なく手薄なことから、予約しても数ヶ月も待たされ、診察時間も数分程度しかないという。適切な診断を受けずに医薬品の処方が行われる。症状が改善しない場合、その量だけが増やされる。適合しない医薬品が過剰に処方され、そのために生じる副作用により、新たな症状に苦しむということであった。
ある心理学の専門家によると、精神障害の中でも子供の発達障害は、心理学の知識を持った福祉士によるカウンセリングで正常な生活に戻すことができるという。不登校児童の中には発達障害が原因となり、それが子供達の自殺にまで追い込むケースもあるようだと述べている。
大学の医学部は、病気を発見しその治療を行うことが主な目的として医者の育成教育が行われる。名医は、病気となった原因を正確に診断し、その原因を外科的に除去するとか、あるいは適切な投薬によって治療を施す。的確に診断をくだす名医にはまことに頭が下がる。
子供達の発達障害の発見と治療は医者の役割であるとして、心理学のカウンセラーとは一線を画している、とある心理学専門家は実情を吐露する。もとより精神障害にかかわる医学的診断は精神科の医者が下さなければならない。精神障害が顕在化する前に、いくつかの前兆があるという。幼児、児童、さらには思春期に至る子供達の精神的な発達障害は、幼稚園の先生とか小中学校の先生方もある程度の心理学での研究成果を元にした知識を備え、前兆をとらえて適切に対処できるようにしておくことが望ましい。現在もカウンセラーが小中学校に配置されている例も多いそうであるが、現場の教師によると必ずしも適切に機能していないという。
発達障害などによる精神的な障害、医者に訪れなくともよいような初期段階であれば、これを克服できる場合がある。精神障害が顕在化して、多くの患者の問診に多忙な医者に頼る前に善処する必要がある。様々なストレスによる精神的な苦痛を受けたとき、これまでも牧師とか僧侶が相談にのってこれを克服した。ある地方では、お坊さんが、ソロバンとか書道の私塾をお寺で開き、そこで子供達は手習いのかたわらカウンセリングも行っていた。いま、塾に通う子供も多いようだが、塾ではカウンセリングをおこなっているのだろうか。またテレビ・ゲームで過ごす子供達が多いという。先天的に発達障害の素質があれば、その障害の顕在化を促進することも危惧される。
幼児、児童の生活環境にあって、子供達の発達過程に適切な指導とカウンセリングが行われる地域社会の展開が、金銭による子供手当の支給などよりも重要な課題になっている。
(能)

Vertical Villageの災害救援対策

2010-12-28 16:40:47 | Weblog

  高層・超高層建物の中にいる人間は高層・超高層マンションの住人だけではない。高層・超高層オフィスで働いている人も大勢いる。高層・超高層建物の数はどんどん増えている(たとえば港区では、高さ100mを超える超高層建物が80棟もあるという)から高層・超高層建物人口も増え続くであろう。平面的に広がる人の集まりを“村”と称するならば、縦に広がる人の集まりをvertical villageと呼ぶのだそうだ。

 ところで、高層・超高層建物の地震等の災害時の救援対策が注目され始めている。先に、「水が捨てられない」と書いて、地震時の高層難民化を危惧したが、建築に詳しい(応)さんから貴重なコメントをいただいた。数階ごとに水浄化装置を設置しておくべきだという提言である。そこで調べてみたら、水浄化装置ではないが、やはり数階ごとに防災・備蓄倉庫を設けることを義務付ける動きが自治体で始まっている。しかしこの備蓄は食料、飲料、救護品などが主で、排水についての考慮は十分ではない。せいぜい、簡易トイレだ。

 ついでに、水浄化装置は極微細な孔があいている薄膜を通して水を濾過するものだが、わが国のこの薄膜の製造技術(東レ)は世界のトップレベルだという。すでに、沖縄の水道(全体の10%程度を供給している)で実用化されているとのことだ。

 高層・超高層建物のについての問題意識は遅れていると言わざるを得ない。未だ、建物の揺れ(長周期振動)とか倒壊防止(制震)策や風圧対策などが主で、vertical villageが孤立化する、いわゆる、高層難民の救援対策をもっといろいろな角度から真剣に検討してもらいたいものだ。(青)


いつまで政治権力争奪ゲームを楽しんでいるのですか

2010-12-26 16:33:58 | Weblog

 政治のことより、自分の専門に関して喋っている方が、はるかに気が楽なのだが、腹膨れる思いに耐えられなくなった。

 

政治家はうぬぼれが強くないとつとまらない職種なのであろうか。あるいは、話をすり替えて責任を他人に転嫁する術に長けていないと生き残れないのであろうか。

いい加減なことを口走り、党の信用をがた落ちさせた人物とか、不透明なお金の話を国民に直接説明しようとしないで、私たちのクリーンな政治への期待をいっぺんにしぼませた人物などが、現在の衆参ねじれの一因をなした、と普通の庶民には見えるのに、現在の政治的混乱をまるで他人の所為のように批判している。一体、くるくると言うことを変えるような男が人々のリーダーになれるのであろうか。自分の徒党にしかしゃべらず(しかも都合よいことだけ)、国民に誠実に話しかけようとしない男が一国の宰相になれるのであろうか。

 

不思議なのは、挙党体制という言い草だ。外から見ていると、挙党体制を築かなければならないと言っている連中が、徒党を組んで党内野党の振舞をしているように思える。党の分裂と言う脅しを使って、向こうがこちらの意のようにしろというのが彼らの言う「挙党体制」のようだ。「挙党体制」というお題目も、衣でまぶした権力争奪闘争の手練手管なのであろうか。

いろいろ言うのはよい。しかし、議論の結果が決まったら、それが前進するように皆で力を合わせるのが挙党体制ではないのか。意にそぐわなければ出て行く、といわんばかりの狭量な態度を直ぐに示すのでは、一体、挙党体制を壊しているのは誰なのかという気がしてしまう。

 

徒党を組んでいる連中の低俗な政治意識にはうんざりする。幹事長の努力が実を結ばないのを見て、「これで幹事長の次期代表の芽はなくなった、と徒党の幹部がほくそ笑んだ」という新聞報道を見て、唖然とした。彼らの眼中には「徒党の親分に勝たせる」という矮小な目的意識しかないのであろうか。親分が勝てば自分たちも権力のうま味を吸える、という単なる権力欲しか彼らにはないのであろうか。

チルドレンといわれる徒党も情けない。自分を当選させてくれた親分を救わなければと息巻いているように見える。そうではないと思いたいが、もしそうなら、考え違いをしないで欲しい。みなさんを当選させたのは親分ではない、国民だ。親分のために恩を返すといった博徒の世界のような思考パターンから早く脱却して、いま国民のために(政治家はこの言葉をよく口にするが、実際には自分たちの権力欲のためではないのか)どう行動どうすべきか、と言う大義にたってもらいたいものだ。

 

かつての保守政治の利権と金権の腐敗にうんざりして、クリーンな新しい政治へ私たちの期待は膨らんだ。それを実現するのは容易ではないが、壊すのはあっという間だ。私たちの期待をぶち壊した男たちによって、日本の政治がよろめいているようだ。今、失望を通り越して、日本が潰れるのではないかという不安が拡がる。与党内でも、与党vs野党でも、政治家は権力闘争に明け暮れていて、誠に不真面目極まりないと言いたい。

 

以上は、メディヤの誇張された報道による印象で、実際は地道な努力が行われている、と言うのであれば救われるのだが。(ロバート・ニールセン)

 


水が捨てられない

2010-12-22 18:40:37 | Weblog

  高層マンションの地震時の心得を聞いているうちに、やはり大変な事態になると恐ろしくなった。建物自体はまず倒壊しないだろうと言うことであったが、それで安心してはいられないのだ。まず、エレベータが止まる。メンテナンス技術者が引っ張りだこになるので、直ぐに駆けつけてくれるとは限らない。復旧するのに1週間ぐらいは覚悟しなければならないという。私の住居は14階にあるので、階段を使って上り下りするのは、まず無理だ。つまり、1週間ぐらいは篭城することになる。これを「高層難民」と言うのだそうだ。

食べ物は簡易食品でも買い込んでおけば何とかなる。問題は水なのである。浴槽にでも貯めておけばよいと思っていたが、その水を使うことができないのだ。排水管が壊れていれば、排水が漏れ出し、建物の基本構造体を傷めてしまうのだそうだ。漏れがないことが確認されるまで、排水はまかりならぬという。炊事くらいは許されるとしても、水洗トイレは使えない。しかも1週間もだ。近いうちに簡易トイレの見本をまわすから、各家庭で買っておくようにというお達しであった。

それにしても、大規模建物の配水管の漏水箇所をどうやって見つけるのであろうか。また、その箇所が分かったとしても、予めメンテナンスのための設計がなされていなければ、修復工事は気が遠くなるほどの作業に違いない。

まさに高層建物の致命的なアキレス腱だ。ちなみに、「大規模建築物の給排水設備等の安全対策に関する基準の検討」(平成215月)と言う報告書には、排水設備に関する要求事項として

(1)配水管、排水水槽の耐震性能を確保すること

(2)排水設備(トイレ設備)の排水機能を確保すること

(3)排水設備が損壊した場合のトイレ機能確保が配慮されていること

(4)排水設備の復旧が円滑に行われるよう配慮されていること

(5)配水管の建物接続部、排水枡などの地盤沈下対策がとられていること

などのお題目が書かれているが、これらがどう実現されるのであろうか。雲をつかむような話だ。(青)


カッパドキア、むかしは

2010-12-22 09:53:37 | Weblog
カッパドキアはトルコのアナトリア半島のヘソにあたると前回の「カッパドキア、いまは」で述べた。ここは黒海と地中海に面したアナトリア半島のほぼ中央付近にある。
むかしは、カッパドキアにシルク・ロードの一部があったという。つまり遙か中国大陸の西安あたりから、ヨーロッパに向けた隊商は、このカッパドキアを通った。シルク・ロードは東西方向、そして黒海から地中海に抜ける西北のロードもこのカッパドキアを通過している。アナトリア半島のヘソは、十字路でもあった。アナトリア半島の高原は平たく続き、そして高い山々が遠望できるから、高原を進む隊商はこの山々を目当てにしながら進路を定めたことであろう。

想像をたくましくしていると、そのラクダの隊商の列に馬に乗って襲いかかる盗賊も浮かんでくる。隊商達はラクダを円座に座らせて一団となり、屈強な若者の武者達にこの襲撃を守らせる。次の隊商宿に援軍を求めに伝令を走らせる。
このような想いは、次の都市であるコンヤに至る途中、いまもって残る隊商宿がもたらした。遺跡となっている隊商宿は城壁に囲まれた小さな町である。その大きさは、いま日本の各地に見られる郊外のショッピングセンタとさほど変わらない。城壁の内側は石畳があり、ラクダが休んだと思われる地面がある。大きな隊商がこの宿に着いたならば、突如としてバザールが開かれたであろう。盗賊の襲撃に対処するために、小さな隊商群は、寄り集まって、武装グループを雇い、コンボイとなっていたことも想像できる。旅は道連れとは盗賊からの自衛手段である。

現地ガイドによると、オスマン・トルコ帝国はこのような隊商宿をシルク・ロード上に設置し、貿易にかかわる隊商群の保護を行ったという。当然ながら隊商達は、その保護に対して税金を支払うことになる。自ら運ぶ商品をバザールで売りさばく。いまでもトルコでは商品に値段を表示していない。売り手と買い手の商談で値段が決まる。シルク・ロードの商取引の習慣が、いまなお現代に残されていることを観光旅行客は知っておかなければならない。
イスタンブールには大きなバザールの市場がある。そのバザールの様子、日本では原宿の竹下通り、あるいは鎌倉の小町通りとおもえばいい。昔の隊商宿で開催されたバザール、規模は遙かに小さいであろうが、その様相と雰囲気は同じであろう。
さてこれらの隊商は無事ヨーロッパまで商品を届けることができたであろうか。多分栄華盛況を誇ったオスマン・トルコ帝国の中で消費されてしまったであろう。その史実はトプカピ宮殿に残された博物館の宝物からも伺い知ることができる。

オスマン・トルコ帝国はシルク・ロードを支配し、その事実上の結果としてシルク・ロードは閉鎖されたことに等しい。そこでポルトガルに端を発した大航海時代をもたらしている。調べてみるとオスマン・トルコ帝国は地中海全域を支配していた時代もあり、地中海の交易に多額の関税を課したとある。それはアナトリア半島を横切るシルク・ロードの保護の一環であったとも推察できる。

さらにそのむかし、紀元前336年に即位したマケドニアのアレキサンダー大王は、この地を通過して、ペルシャに遠征したとも伝えられている。我々がカッパドキアの後に訪れたヒエラポリスの遺跡には、温泉がいまでも湧きでており、この温泉をアレキサンダー大王はこよなく好んで逗留したとガイドが語った。

またモンゴル帝国が、13世紀にはアナトリア半島の大半を領土としていた史実から、カッパドキアは、すっぽりとモンゴル帝国であったことも確かである。現地トルコの美しい女性ガイドは、トルコにはモンゴルの血を引く人が多く、日本人とも先祖は同一であるという。その証拠にトルコ人の赤ん坊は、日本人のそれと同じ蒙古斑があり、さらにトルコ語の文法も日本語と同じと説明する。我々のグループ・ガイドとして勤め始めに親しみを込めて語ったので、あるいは外交辞令が含まれているとしても「そうなのか」とうなずいたものである。

カッパドキアを観光で訪れるならば、軽気球に搭乗し、地上の奇岩を眺めることも一興だが、歴史をひもといておくこともお勧めする。
(納)

カッパドキア、いまは

2010-12-21 09:39:22 | Weblog
トルコのカッパドキアは日本でも有名である。しかしトルコの地図をみてもその地名はない。カッパドキアとは「美しい馬」という意味であり、その解説はウィキペディアが詳しい。トルコの地図を開けば、カイセリ(Kayseri)、アクサライ(Aksaray)、ニーデ(Nigde)、という地名がみつかる。この3点を結んだ範囲の中にネビシェヒル(Nevesehir)が見つかればそれが中心地である。さらに詳しい地図ではギョレメ(Goreme)が認められるであろう。そこに世界遺産ギョレメの国立公園がある。トルコのほぼ中心に位置している。
トルコのアナトリア半島は、北は黒海に面し、南は地中海に面している。アナトリア半島全体が高原になっており、アナトリア高原とも呼ばれている。いわばカッパドキアはトルコのヘソの部分にあたるといえば解りやすいであろう。
カッパドキアの標高は1000メートル程度というから、11月半ばの観光ならば、さぞかし寒いのではないかと多くの冬シャツを持参した。しかし夏シャツの下着で過ごすことができた。たぶん地球温暖化のせいではないかと思っている。

カッパドキアの地域にある浸食によってできた奇岩とか、キリスト教が迫害をおそれて生活した地下都市などを見て回り、それなりの感慨もあったが、これらの記述はインターネットを検索すると、軽気球の乗船体験記を含め、すばらしい写真とともに山のように現れるからここでは割愛する。

 バスの車窓からみるアナトリア半島の高原地帯は田園風景が続く。肥沃な土地のように見える。しかしながら露出している岩は石灰岩であるから、トルコのアナトリア半島もバルカン半島の生成と同じではないかと推察する。長年にわたってトルコの農民が肥沃となった土地に改良したのであろう。現地のガイドは、ところによっては三毛作も可能だという。そこで疑問がわく。農作物にとって重要な灌水はどうするのか。

首都のアンカラから3-4時間走ったところに塩湖(Lake Tuz、Tuzはトルコ後で塩のこと)がある。長径80キロと短径50キロあり、流れ込む川はあっても流れ出る川がないから塩湖になっていて、雨期と乾期では湖の広さが変わるという。深さは数メートルしかない。塩分はイスラエルの死海ほどではないが、大変に濃くて乾期には塩が採取できるという。トルコではこの塩湖の塩が国内需要の大半をまかなっているそうである。

アナトリア高原の盆地になっているが湖はないところが多い。川の痕跡はあっても水は流れていない。そのような場所をバスの中から眺めていると、延々と農場が続く。よく観察すると数千ボルトと思われる三相交流の動力線が、これらの農場の上をはい回るように敷設されている。所々に電柱から降りる導線があって、その先にトランスも見えるから、これは農地に水をくみ上げるポンプがあるのに違いない。灌水は電力による地中流からの揚水である。

そこで思いめぐらせる。アナトリア高原は石灰岩であり、盆地には塩湖以外には湖がなく地中流となっている。しかも1000メートルの高原である。
そう、そうなればこの高原の地中に未だ発見されていないような石灰岩の洞窟があってもおかしくない。現地のガイドにこの疑問を投げかけると「はい、黒海の方に世界最大といわれている洞窟があるようです」という。それを聞いて、いや黒海ではなく地中海側にも巨大な石灰岩の洞窟があるはずと思ったのである。
洞窟の調査だけではない。旅行の途中で管総理大臣がレア・アースの探査をモンゴル政府と行うことに調印したというニュースを聞いたが、このトルコにもレア・アースの鉱脈があるかも知れない。トルコの鉱業もあなどることのできない量の供給を世界に行っている。日本の山師が貢献できそうである。

農地はあるが森林はない。全くないと思っていると植林した様子も見受けたが、いかにもお粗末である。地中から水をくみ上げて灌水しているから木を長年にわたって育てるほど余裕はないからであろうと同情の念をもって納得する。日本では孫子の代のために植林をしてきた。植林は長年にわたって続けなければならない。アナトリア高原でも土地に適した植林事業ができればトルコの将来も明るい展望が開くであろう。

車窓から眺めて、いまひとつ気になることがある。トルコでは地震が多い。理科年表を見ても大きな地震の記録が残されている。つい最近では、1999年8月17日、トルコ北西部で発生したマグニチュード7.8の地震で、死者約1万7千人、被災建物約24万4千棟など、甚大な被害があったという。
新築中の建物は、コンクリートの柱を造り、その柱の間を煉瓦で埋める様な工法を行っている。スジカイの構造物はない。スジカイの代わりに壁に強度を持たせることにもなっていない。このような構造では、いかにコンクリート造りといえども倒壊する可能性は避けられない。次に大地震があれば新築住宅にも被害があると思ったものである。

次にトルコを訪れるときには地下足袋と脚絆、鍬とスコップ持参で山野を巡り歩く旅はどうかと夢を描いたものである。そのためには一時的でもイスラム教徒になる必要があり、おのれの年齢を考えると実現性はない。
日本のお若いひとたち、もし就職難で職が見つからなければ、いかがかなものだろうか。
(納)

ギリシャの旅紀行

2010-12-19 21:59:15 | Weblog
わずか3-4日の旅行でその国の事情をすべて掴むことはできない。しかしながら現地を訪れ、その地で見聞きしたことは、テレビの映像から伝わる内容とは異なって肌に伝わることも確かである。ここでは今回の旅行から得た知見、それらを独断的に述べるに過ぎないと承知している。

ギリシャはEC加盟国、その中にあって経済的な破綻をきたしつつあり、EC諸国の支援を得て回生を行っている最中である。今年の10月3日の新聞報道では中国の温家宝首相が10月2日にギリシャを訪問し、パパンドレウ首相と会談している。その後の記者会見で温首相は財政再建下にあるギリシャが広く国債発行を再開すれば、中国が購入する意向を示したという。このことはテレビでも報道されていたので注目していた。中国はあり余る外貨を使ってギリシャの国債を抱え込み、中国の経済的な支配下に組み入れようとしていると思った。かりにギリシャの国債の大半を中国が持つことになれば、その国の経済は中国の手中に収まり、平和的に支配下におくことができる。モンゴル帝国はかってバルカン半島にまで侵出したが、このときは武力を用いた。その史実と二重写しになって思い起こされる。

キリシャは古代史にも残る文明国であった。世界史をひもとくとギリシャは西暦395年にキリスト教を信奉したコンスタンティヌス大帝が設立した東ローマ帝国の一郭に組み入れられた。その後約千年近くにわたりビザンチン文化の栄華の中にあった。1453年、東ローマ帝国の滅亡とともにオスマン・トルコ帝国の支配下で呻吟し、オスマン・トルコ帝国の衰退化に伴い、1830年にはギリシャ王国を設立してトルコとの戦役を繰り返し、西欧圏に復帰しようとした。第一次世界大戦と第二次世界大戦にもギリシャは巻き込まれた。大戦後は1967年に軍事クーデターによる軍事政権が政治を掌握したが、1974年には、この軍事政権は崩壊し、1975年に憲法改正、1977年には社会主義政党が政治の実権を握り、一時は当時のソビエト共産圏よりの政策をとっているとの批判もあったが、1952年に加入した西欧圏のNATO加盟、1981年に加盟したEC共同体の体制は維持して現在に至っている。その根底にはギリシャ正教の教義があるものと考えられる。
日本は第二次世界大戦後65年を平和な内に経過しているが、その間にもギリシャは政治的混乱ばかりではなく、内乱にも見舞われており、そしていま経済的な困難な事情にある。旅行者として見たとき、いまは平穏な市民生活を送っているように見える。しかしこれは経済を支える一つの基盤に観光業があることから、旅行者はお客様として歓迎されていることを知っておかなければならない。
遺跡の観光で、私は折に触れ観光客に「どこからおいでですか」と英語で問いかけたものである。記憶に残っているのはスペイン、チェコ、ドイツ、アイルランドがあり、「エーゲ海の島々」でも記したように中国、韓国、インドからの観光客で賑わっていた。不思議に思ったのはアメリカからの観光客と言葉を交わすことは無かった。例外中の例外として、アメリカ在住、しかもシリコンバレーに存在するIT関連会社に勤めているという中国人と話し込み、アメリカの雰囲気を味わったことがあった。
ギリシャ国に所属する3000近くの島々を離れて観光バスによる移動の途中では、ギリシャの山河に接する。窓の外は険しい山脈に沿って時には制限速度120キロの高速道、そして山あいの道を辿る。その山の道、80キロの制限速度標識がある。これは日本の制限速度標識とは思想が異なると思わざるを得ない。この制限速度を超えると数百メートルの谷底に落ちる可能性があるから、絶対に守らなければならない危険制限速度である。
田園風景は少ない。後でウイキペディアによる資料を見ると、主要な農産物は世界第3位の生産量であるオリーブ(200万トン)世界8位の綿、同10位の葉タバコであり、いずれも地中海性気候に合った作物で、食料全体は自給できないという。
工業は未発達のように思えた。バスの窓から見る高圧電線は低く、しかも主要な動力線はあまり太くない。高圧電力線を見ればその国の産業力が判断できるというのが私見である。ギリシャでは風力発電が山間に散見されたのは特徴的であった。ちなみに後に訪れたトルコでは風力発電は見あたらなかった。
現地ガイドは、かっては日本の自動車工場があったが撤退したという。そういえば、アテネの市街の道路に駐車して埋め尽くされていた自動車は、ドイツ、フランス、イタリア、スェーデン、韓国、日本など諸外国の輸入車であった。

山あいの中をバスは走り続け、デルフィの近くヘリコン山の麓に突如として現れた荘厳な寺院が世界遺産のオシオス・ルカス修道院であった。953年に没した聖人ルカスによって建立が始められたという。山奥にたたずむ代表的なビザンチン様式の修道院である。オスマン・トルコ帝国のイスラム教を柱とした政治と一体化して支配下にあっても、なお守り続けたギリシャ正教の伽藍が残されている。
その境内、土地のお婆さんが摘み取った野草を日なたで取りそろえていたので声をかけた。にっこりとほほえんで写真を写させてくれた。野草は大根の葉に似ており、同行したガイドは、この野草をゆがいて食卓に添えると説明してくれた。田園の少ない山間部では野草が貴重な資源である。観光では土地の人とのふれあいは少ない。オシオス・ルカス修道院での野草摘みのお婆さんの触れ合いが思い出の一こまとして残る。

ギリシャはバルカン半島の南部に位置している。このギリシャの山々はほとんど石灰岩である。バルカン半島北部のクロアチアも石灰岩の山々が連なっていた。石灰岩は海中で育った珊瑚が成因であると聞いているから、バルカン半島全体が海中であったことを物語る。それが隆起し、さらに氷河の浸食によって山塊が生まれたことになる。水を抜き取った湖の底の様な谷が山裾に広がる。氷河の痕跡である。その山々の連なりの上に白い山がそそり立って見えるとすれば、それはスイスの光景と同じに映る。

その険しい山際に古代のデルフィ遺跡がある。この遺跡には、神殿の柱が残り、野外劇場の石造り半円形の座席列、また別の場所には運動競技場が残っている。ギリシャ観光局の案内によると、デルフィでは、オリンピックと同様の競技大会「ピュティア祭」が4年に1回開催されていたそうである。この大会は紀元前582年に始められ、当初は8年毎に音楽と文芸の神アポロンにちなんで詩、演劇、演説、音楽などのコンテストがメインに行われ、運動競技も実施されていたという。野外劇場は、いまでもコンサートができそうな形で残っている。デルフィ遺跡の近くにはスキー場もあり、冬場は欧州からのスキー客で賑わうということであった。

観光バスはカランバカに向かう。そこには世界遺産のメテオラ修道院群がある。その中の主要な修道院は、標高613メートル、側のピニオス川の河床から475メートルの高さにそそり立つ狭い断崖・絶壁の岩の上にある。当地で購入した資料によると、もともとは21にのぼる修道院が在ったが、現在は6つの修道院が残され、他の15の修道院は廃墟となっているという。11世紀頃から修道僧が住みつき始め、その中で聖ステフェン(Saint Stephen)修道院は1350年頃から建造が始まり、当初は木造の僧院であった。ここに点在するすべての修道院は数百年の年月をかけて建造されたという。
修道僧とか尼僧はこの険しい崖をよじ登って少しでも天国に近く、世俗を離れて天空の僧院に住み込み、毎日を祈祷、聖書の書写、イコンの作画、木彫、ビザンチン音楽の修熟、自らの生活に必要な仕事に従事したという。いまなおその生活を守って修行を重ねている僧侶と尼僧がそれらの修道院を守っている。案内書には階段が取り付けられて往来が安全かつ容易になったのは1923年と書かれている。それまでは垂直の岸壁をロック・クライミングよろしくよじ登るか、物資を運び込む縄袋を上から巻き上げる中に入ることしかアクセスできなかったという。オスマン・トルコ帝国の宗教的な迫害を逃れるギリシャ正教を守る手段であったのではないかと想像する。

オシオス・ルカス修道院とメテオラ修道院を訪問して、ギリシャ正教が営々として残ってきたことは驚きであり、現地ガイドにこのことを問いかけた。ギリシャ正教の修道院存続のためにオスマン・トルコ帝国の支配者に多額の税金を支払ったそうである。また調べてみるとオスマン・トルコ帝国は、その支配にあたり、宗教に関しては比較的寛大に対処していたらしいことも知ることができた。

世界遺産メテオラ修道院をあとに、観光バスはギリシャの中程にあるテッサロニキの都市に向かった。テッサロニキに近づくと河岸の平野が広がり、農場もある。そのテッサロニキの停車場から、トルコに向けて夜行列車の寝台車に乗り込んだ。発車時刻に40分遅れて動き出し、途中のギリシャとトルコの列車内のパスポート・コントロールのため、二度にわたり長時間停車する。トルコのイスタンブール到着は定刻から3時間遅れであった。ギリシャとトルコは、この列車の運行のようにいまだに外交的にもしっくりしていないらしい。

この両国に日本の鉄道事業の売り込みをするためには、定刻どうりに列車運行を導入することで販路が開くと確信を持ったものである。列車による人の往来が活発になれば、宗教の課題は別として、両国間の外交的なきしみも薄れるのではなかろうか。
(納)

エーゲ海の島々

2010-12-14 10:12:22 | Weblog

ギリシャの旅行では、エーゲ海のイドラ島(Hydra Is)、ポロス島(Poros Is)、エギナ島(Egina Is)を訪れる一日観光船の客となった。旅行社はエーゲ海とクルーズの広告を行っているが、正確にはサロニコス湾(Saronikos Gulf)に点在する島々であり、最初に訪れたもっとも遠いイドラ島はアテネから約60キロの距離にある。東京湾入り口付近の久里浜から大島の岡田港程度の距離である。

アテネのピレアス港にアクセスする。バスの窓からは数万トンはありそうな巨大な貨客船があり、このうちの一つがこれから乗船する観光船なのかと期待がふくれる。東京港とか横浜港のように港に近接するコンビナートはない。コンテナを積み卸しするクレーンも見あたらない。ややあって目的とする観光船のそばにバスが着く。巨大な貨客船ではなかった。

観光船の大きさは、数千トン程度で乗客定員は数百人と推定した。ギリシャのアテネを訪れる世界のあらゆる国からの観光客がこの観光船に乗っている。乗客の様子をみるとインド、中国、韓国、日本からの観光客が目立つ。インド、中国からの観光客は、最近の経済発展を裏付けるように若い旅行客が多い。特徴的なことにはインドの観光客は子供ずれのカップルが多く、一方中国からの客は家族ずれがほとんど見あたらない。インド、そして中国の様相が遠くギリシャ・アテネの地にも及ぶ。日本からの観光客は時節柄もあってかほとんどが老年の域に達した御夫妻であったとしても、日本は老いつつあるとの実感を持つ。私もその老年の構成員である。しかしながら、3名の若い女性が、わがグループのメンバーとして存在していることは、いささかなりとも優越感を添えてくれていた。

個人ツァーとして参加している二人の子供を連れたに日本人の若い御夫婦に巡り会った。声がけすると、大林組の会社員で海外派遣され、アラブ首長国連邦(UAE)のドバイ首長国政府が発注した無人運転鉄道システム「ドバイ・メトロ」の工事にかわっているという。立ち話程度しかできなかったが「がんばってくださいね」といって別れた。日本人にも子供を連れた御夫婦が参加していたのである。一服の清涼剤としての効果をかもしだしてくれた。

 

11月も半ば過ぎであるが、日本での10月初旬のような暖かさのもと、サロニコス湾は静かな波の海であった。観光船は大きな動揺もなく波をけたててはしる。

イドラ島の小さな入り江の湾に観光船は船尾のみ接岸して観光客を上陸させる。その入り江の岸辺には土産店が軒を連ね、カフェの店先の路上にはテーブルと椅子が並ぶ。

あらかじめ知らされていた観光案内によると、この島には自動車はなくロバしかいないという。入り江にはギリシャ特有の石造りの家々がひしめきあい、その間の小路は自動車が入り込む隙間はない。観光客を目的とした店には興味が薄れ、路地の奥にあるスーパーという文字に惹かれて踏み入れた。そこは観光客とは無縁の存在であり、入り江に立ち並ぶ華やかな商店の台所の役割を果たしていると見た。イドラ島は、イギリスの薄命だったダイアナ姫が惹かれた島であるという。ダイアナ姫もひょっとするとこのようなひなびたスーパーに足を運んだかもしれないとフト思った。

 

ポロス島は小さな島である。ギリシャの地図を購入し、さらに航空写真などで後から調べてみると、数百メートルの距離で本島に接近しているが橋ではつながっていない。島の近くには様々なヨットとか小型の船が繋がれている。見たところヨットはグラスファイバー製であるが、小型の船には木造船もある。それほど贅沢ではないように思える。小高い丘に狭い山道を登って、薦められた一望の景色を楽しみ、別の狭い住民が使う生活の道をたどって船に戻る。

 

エギナ島では、観光バスで遺跡を訪ねる。紀元前500年頃に建造されたというアファイア神殿、夕日に照らし出され、古代の神々の幻想に浸った。この島はピスタチオが名産品であるという。とっぷりと暮れた中で工場に案内されてピスタチオを試食し、思わぬほど大量に買い込んでしまった。500グラムの袋入りが6ユーロであったと記憶している。

 

エギナ島からアテネの港までは、数時間の闇の中の静かな航海である。乗船客サービスのショウが行われ、さらには乗船客を巻き込んだ激しいギリシャの踊りとなる。われらがグループの若い女性も連れ出されてクルクル巻きにされて踊っていた。同行者からは賞賛の拍手が湧き起こり、ギリシャの観光船の中でナデシコの意気を世界から参加した観光客に披露した。私は自己流のドジョウスクイの振り付けならば参加できそうであったが同行した者から厳格に阻止され、おかげで恥じをさらさないですんだ。

一日かかるこのアテネからのいわゆるエーゲ海クルーズは、後から調べてみると日本円で一万数千円程度という。お勧めできるクルーズであった。

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私のささやかな楽しみ

2010-12-12 12:32:23 | Weblog

 久しぶりに山里から街に出て、会合に出席した。「お変わりありませんね」とか、中には、「前より元気そうですね」と嬉しいことを言って下さる方もいる。

しかし困るのは、「いま、何をしていますか」と尋ねられることだ。顔をあわせる殆どの人がそう尋ねる。中には、「近くにゴルフ場もあるでしょう、毎日、楽しめますね」と助言めいたことを言う人もいる。「何もしていません」と答えると、まず例外なく怪訝そうな顔をなさる。忙しく精力的に動き回っている都会の人々には、何もしないと言うことが不可解なのかもしれない。「家庭菜園などもしないのですか」…、いや、まだ何か言いたげだ。そう、「さぞ退屈でしょう」と言って、納得する積りかもしれない。

何もしていないが、何も感じていないということではない。山里には新鮮な感動が一杯あるのだ。まあ、少々お付き合いください。

まず、透明な空気。周りは、ピントがきっちり合った写真のようにくっきりと見える。木々の枝を通して見上げる空は碧さをとおりこして、黒味を帯びているようにさえ見える。東京ではこのような碧さを見たことがないので、何か新しい発見をしたような気分になる。吸い込む空気は胸の奥深くでひんやりして、すがすがしい。森から吐き出される酸素が充ちているからであろう。唐松から降り注ぐ霧のような樹液を吸い込んでいるのかもしれない。

次に静けさ。全く無音なのではない。自分の足音が聞こえる。56月や10月頃は、小鳥の声で溢れる。シジュウカラやイカルの美声に、こちらも口笛を吹いて答えたくなる。夏は、セミの轟音だ(今年はどうしたことか少なかった)。冬近くなると、積もった落ち葉を踏むかさかさと言う音が心地よい。時には、林を吹き抜ける風の、ごぉーっという地響きのような音が頭上で渦巻く。空気が裂けるような物凄い雷鳴に、恐怖を覚えるときもある。深夜、遠くでヒューンとなく鹿の声を耳にすると、やはり静かだと感じる。

毎日、同じ道を散歩するが、季節に応じて変わり行く森の風景を見飽きることはない。春には生命が溢れるような若々しい緑。少しずつ木々が色づく秋。山肌を埋め尽くした唐松が黄色く染まる。散歩する道は殆ど私ひとりだ。ぶつかりそうになる自転車はいない。森を抜けでると、近くの稜線の向こうに、甲斐駒、北岳などの南アルプス、宝剣などの中央アルプス、さらには、御岳山、乗鞍などの頂が見える。霧が峰が大きく広がるので、北アルプスの山々は、残念ながら見えない。振り向けば、赤岳、弥陀岳、横岳、天狗岳の猛々しい姿。冬にはみな真っ白に輝く。はるばるとした自然のスケールに自分まで膨らむようだ。

車で足を延ばせば、1日でメジャーな観光地まで往復できるが、近くを回るのも楽しい。上高地へは、人ごみが多いので殆ど行かない。

食べ物の楽しみをあげよう。しかも、決して高価ではない。直売所で手に入れるトマトやトウモロコシのなんと甘くみずみずしいことか(昔はどこでも、みなこんなだった筈だ)。我が家の庭でも、ジコボウ(茸)や蕗などが取れる。近くのスーパー(JAが経営している)では、土地の皆さんが午前中に持ち込む野菜を手に入れることができる。信州産の果物もおいしい(引き締まった甘味)。お米も、そば(特に赤そば)も、牛乳も(農業大学校産は特に)おいしいですよ。近くには、小麦粉をしっかり使った(都会では、無理に膨らませているが直ぐにぺしゃんこになる)おいしいパン屋さん(11時頃焼きあがった直後のものを買ってくる)もある。と言っても実際に味会わなければ分かっていただけないと思うが、都心と山里を往復するたびに、都会ではなんと不味いものを、しかも、高値で食べていたことか、と痛感する。

 

C. W. ニコルさんが森の生活のすばらしさを語るのを聴いて、つい、こちらも調子に乗り、上のような話を長々と友人にしていたら、「近くに医院があるのですか」と尋ねられた。山奥の藪の中に住んでいるわけではない。相手を安心させるために、行きつけの診療所の様子まで事細かに説明してしまった。

建物は瓦屋根、平屋建ての風雅な作り、内部は、天井裏(梁木が縦横に渡してある)、壁、床にいたるまで、まっさらな木肌だ。コンクリートの床や冷たい漆喰壁などない。トイレまで白木作りだ。診察室、ベッドが置かれた病室、医療機器の部屋、待合室、みなゆったりしている。待合室には温水暖房のパネルのほか、趣のある大きな鉄製のまきストーブまで据えてある。誰が設計したのかすばらしいtasteだ。先生はゆったりと話してくださるし、看護師さんたちは人懐こい笑顔を向けてくれる。この診療所には、柔らかいぬくもりがある。

 

「厳しい世の中、そんな太平楽を言っていてよいのか」とお叱りを受けそうである。少々後ろめたくなったので、この辺で止めておこう(青)

 


多様性

2010-12-09 17:06:06 | Weblog

動物、植物の多様性の重要性についてはよく喧伝されるところであり、C. W. ニコルさんもその著書「誇り高き日本人でいたい」でも力説されている。人間も同様で、いろいろな人がいるから新しいアイディアや可能性が生まれる。全ての人が全く同じであったら、人類はとんでもない誤りを犯すか、同じ状態に停滞するかして、やがては衰退してしまったことだろう。

このところ、評価はやりだ。会社に入社するときに評価され、社内研修で評価され、昇進のために評価され、しまいには会社を追い出されるために評価される。企業ばかりではない。教育現場では教師の評価がしきりと云々された。大学評価、研究評価しかり。血液検査をされて、あれこれ注意を受ける健康診断も評価だ。

人をいろいろな尺度(属性)で測定することは別に悪いことではない。社交性はあるか、意志が強いか、プラス思考か、陰気か、友達は多いか、等など。しかし、測定することとそれをまとめて評価(結論付ける)することとは別だ。人はどうしても高い評価を得ようとするから、あらゆる人に共通な尺度を設け、共通の価値観で評価すると、人々を一定の型に押し込めることにならないか。ゆっくり仕事進めるけれども陽気であるとか、人付き合いは苦手だけれども理詰めだとか、それぞれの違いを容認し、それぞれのよさを積極的に生かすように評価しないと、人間の多様性を圧殺してしまう。他とは違う発想の人がいるから新しい発見が生まれる。新しい道が開ける。誰でも自分なりの存在場所(すなわち、identity)を見つけることができる。同質の人間ばかりでは、何と息苦しいことか。

人々を一定の型に押し込めると、社会は堅苦しいものとなり、それぞれの人々が活きいきと生きがいを見つけるのが難しい世の中になってしまう。評価に際して心しなければならない。(青)


アクロポリスの丘

2010-12-09 10:40:20 | Weblog

ギリシャのアテネ、アクロポリスの丘には紀元前432年にたてられたパルテノン神殿があり、あまりにも名高い。アクロポリスの丘は、意外に高い。標高156メートルと言われたが実感としてはそれ以上に思われる。

 

パルテノン神殿を背にしてアテネ市街を見下ろして驚かされた。なんと高層建築が見あたらない。どの国の都市でも競って高層ビルを建てている現代、アクロポリスからの市街は、大理石の石ころが転がっているように見えるだけである。古代の都市景観を守るために高層建築を規制しているのであろうと推察する。

パルテノン神殿も美しいが、アクロポリスから眺めるアテネの町並みも美しい。

 

その市内の道路は、駐車した自動車で埋め尽くされている。聞くところによると市内道路は駐車禁止ではないという。このあふれかえる自動車は、アテネの町並みにはふさわしくない。

タクシーと地下鉄の乗り方も現地添乗員が説明してくれた。タクシーの初乗り基本料金は2.8ユーロだが、運転手は方角が同じならば別の客を5人まで相乗りさせるという。乗客は差額を支払うが、均等割ではないそうである。運転手にとって有利な計算方法だと感心しながら聞いていたが、詳細な計算内容については記憶が正確ではないからここでは記さないでおこう。

地下鉄は1ユーロ(ウィキペディアには0.5ユーロと書かれているが)であり、乗り始めにその時間を明示する有効化を行ってから90分間は乗り放題であるという。この有効化を行わないで乗車し、これが発覚した場合は60倍の罰金を科せられるそうである。

 

アクロポリスの丘に立ち、アテネ市街を散策する交通機関利用方法を想いながら、遙か彼方の丘の神殿を眺めたものである。

(納)


ギリシャ・トルコでのウォッシュレット -炉端長老談-

2010-12-07 09:36:28 | Weblog

やあ、ギリシャ・トルコ・エジプトのパッケージ・ツァーはどうだった。ギリシャはEC圏の中でも国家運営の財政事情が悪くなり、民衆もいらだっているといわれていたので心配していたところだ。

 

おっ、ピスタチオのお土産かい。ギリシャのエギナ島の名産、そこで求めたというの。

おーい、ばあさん、ビールがあいそうだ。一本頼むよ。

 

ツァーの中に若い大学生のお嬢さんが3名いたって。この就職難にもかかわらずすでに就職が決まった4年生なの。そうか。老人が多いツァーの中で花を添えていたことだろうな。目に浮かぶよ。

 

ギリシャとトルコのトイレ事情のことかい。旅先のトイレは極めて重要だ。

それもいいではないか。

ギリシャの日本人現地添乗員から「使用後の紙をトイレに流してはいけない、側においてあるウエスト・バケットに収めなさい」と最初に忠告されたのか。うん、それでおまえさんは、そのたびごとにシャワーを使って紙を節約していたというの。

いや大変だなぁ。大げさなウォッシュレットだ。いやおおげさなシャワートイレだ。

 

「ギリシャにはウォッシュレットが売り込めるかもしれない」といったら、くだんのうるわしき令嬢等から「あります、あります」と答えたって。しかも使い方を念入りに説明されて驚いたと。そう、驚いたことはよくわかるよ。

あっけらかんと話をする理由を聞くと「古きよき時代の皆さんは、トイレの話題はタブーですよね」と言われたって。

ワッハッハッ。こいつはいい。

 

そこでピスタチオ持参で話し込みにきて、美しい令嬢の前で反論できないウップンばらしに尻を持ち込んだってわけか。

 

そう古きよき時代にはトイレのことを御不浄ともいい、お互いにその話題にはふれなかった。御不浄では現物がそのまま残り、その場の空間は、息もできない臭気の密室だったからねえ。重量がありすぎるとオツリをいただくこともある。思い起こすと気分が悪くなり、食欲も減退する。

たまさか他人の後から、ウォッシュレットのある空間にさまよい込むことなんて、あの時代に比べれば、まことにかわいいものだ。

 

ときにウォッシュレットは、ギリシャとかトルコに売り込めそうかな。うん、ギリシャは可能性があるとして、電力事情から考えるとトルコはまだまだっていうのか。当分はおそるおそるバルブをひねることですみそうか。

 

おっ、ビールが効いたのかい。その廊下を出た先にある。うちはINAXだから、シャワートイレだ。ウォッシュレットはTOTOの商品名さ。

(納)


ヤマモトヤマ

2010-12-06 11:08:54 | Weblog

エジプトのギザのピラミッドを2010年の11月末に観光客として訪れた。

この地を訪問したことのある知人から、土産品を売る現地の商人は「ヤマモトヤマ」といって近づくということを聞いていた。

確かに「ヤマモトヤマ」と聞こえる。また別の商人は「ヤマモト・リンダ」といい、別の商人は「ヤマモト・モナ」という。最近になってモナが登場している。いずれも「ヤマモト」がつく。

 

ややあってわかってきたことは、黄色人種の識別に用いているらしいことである。「ヤマモト」はエジプト人にとって言いやすい表現であると現地添乗員は説明してくれた。「ヤマ」はエジプト語では意味があるが「モト」は意味がないそうである。

「ヤマモト・・・」は、他の外国で物売りが呼びかける「シャチョー」「オニイサン」「オネエサン」と同じ意味を持ち、ギザでは韓国人、中国人から日本人を識別する目的をもっている。

「ヤマモト・・・」に反応すると、絵はがきを見せて「イチドル」、また「センエン」といって土産品物を目の前につきだす。さらにはラクダを引きながら「タダ」と呼びかける。現地添乗員はラクダに乗るのはタダだが、降りるのにはお金を請求されると注意された。

 

エジプトのギザでは、日本人の識別コードが「ヤマモト・・・」であることを現地で理解した。

(納)


バルカン半島の片隅 一宗教の国トルコ                  

2010-12-04 15:12:46 | Weblog

バルカン半島は歴史的に大きな波浪にもまれた国々が存在する。今年の4月はバルカン半島の北側からスロベニアとクロアチアの観光旅行に参加した。そのときバルカン半島の歴史的な国家の変遷に多くの課題があることを見聞した。親しい友人の誘いもあり、11月半ばからバルカン半島の南部を訪れるエジプト・ギリシャ・トルコ大周遊15日間というタイトルの観光旅行に参加した。

 

かってバルカン半島の一部であるブルガリアの黒海沿岸にあるバルナという都市に学会参加のため1990年に訪れたことがある。ベルリンの壁崩壊直後であるが、まだソビエトの共産圏の影響が色濃く残っていた。世界地図を見ると、このバルナという都市はトルコのイスタンブールから300キロほどしか離れていないのでトルコから接近できないか試みたが不可能であった。モスクワ、あるいはウィーンからしかアクセスできない。結局はウィーンからブルガリアの首都ソフィアを経由してバルナを訪れた。ブルガリアに逗留して初めてトルコには深い怨恨があることを知らされたのである。イスタンブールからバルナには接近できない理由があった。ブルガリアをトルコの厳しい支配から解放したのはロシアであることから親ロシア的であり、バルナはロシア人の訪れる黒海沿岸の保養地である。逗留したホテルの名前はヤー・チァイカであった。1963年世界初のロシアの女性宇宙飛行士テレシコワの呼び出しコードネームはヤー・チァイカであった。「わたしはかもめ」という意味である。このヤー・チァイカ逗留時に抱いたトルコに対する心の隅に残る疑問を明らかにすることも今回の観光旅行の大きな目的でもあった。

 

まずはトルコから語り始めよう。

トルコは一つの宗教、つまりイスラム教を信心する人民から構成された国である。もちろんキリスト教もあるが極めてマイナーであることから一神教の国と断言できる。1923年にトルコ共和国が樹立されたときに政治と宗教は分離された。1453年にメフィミット2世がイスタンブールを攻略して東ローマ帝国が滅亡して以来、約500年間にわたりバルカン半島はもとより、広く中東地域に君臨したオスマントルコ帝国は政治と宗教は一体であった。

一神教であるイスラム教は、政治と一体化すれば他の宗教は政治的な弾圧が加わっていたことは否定できない。

 いまトルコでは小さな集落でさえ存在するモスクに礼拝し、一日に朝昼夜5度に渡り礼拝する一神教のイスラム教徒の国である。多くの観光バスは同じ場所でトイレ休憩をし、また昼食を摂る。時に額に礼拝ダコのある立派なトルコ人運転手に出会わす。異教徒の外国観光客を運ぶバスの運転のためにハンドルをさばくのである。彼は運転中に礼拝できなかった罪、乗客をおろしたあとに厳しい礼拝をするに違いない。

宗教と分離して行われる政治体制の中で外交はどうだろうか。詳しいことは外交官の御意見を拝聴しなければならないが、個人的な印象としては全方位外交と受け止めた。国土の広さは日本の約2倍、人口は2009年の統計によると7480万人である。日本人口と比べて2/3程度と見なせる。トルコ軍は約70万人とガイドは説明していた。徴兵制であり男性はすべて一定の期間兵役に従事しなければならない。その間の給料は10トルコ・リラと聞こえたので1リラを60円としてもいかにも少ない。ほぼ無給の徴兵制度である。トルコの軍隊は、NATO軍の中でも第2位の規模であり、人口の割にも強大な軍隊を持つことも全方位外交の礎となっている。

かってはEC加盟に政府として積極的に努力していたことは報道を通じて知っていたが、ギリシャなどのEC加盟国の財政破綻などから、ガイドの個人的意見としても「いまさらECに加盟する必要はない」という。

いまイスタンブールから首都のアンカラまで新幹線を建設中であり、来年開通予定であるとガイドは説明する。個人的に新幹線について質問する。日本は、地震に強い地盤工事と線路に関わっており、列車本体はイタリア、制御装置などはフランスとかドイツに依存して開発しているという。日本の新幹線開発に携わった技術者から聞いたことがある。新幹線などの新規鉄道事業はシステムとして一体化開発されるから、各個に寄せ集めることは費用対効果を損ねるばかりではなく安全性にも課題があるという。トルコの新幹線の開発状況が全方位的であることから、先に述べた全方位外交による独自路線の国家運営を行っているという印象を持ったのである。外国との経済交流政策も全方位的である。

 

総じて言えば、トルコは急速な育成途上にある。経済の成長率は6-7%/年と説明される。そこで、この旅行に同行した日本の若い人達に質問した。「何をトルコに売り、何をトルコから買ったらいいのだろう」と。質問した本人が、適切な答えを持っているわけではない。私のささやかな答えとして、全方位外交と経済自立を果たそうとしているトルコには、インフラ整備が必要であるといっておこう。例えばゴミ処理施設のプラント輸出がある。また広大なトルコ内部をバス旅行して気がつくのは電力供給のインフラ整備も欠かせないと思えた。原子力発電所の建設はすでにロシアと契約しているという。帰国後の新聞には地震に強い日本の原子力発電所にも関心を示し始めているという記事があった。

トルコから何を買うことができるか。この答えは若い人達からもなかったが、私にもない。強いて言えば大きな砂糖ダイコン(甜菜)の処理工場とそこに材料を運び込むトラックの列の後をバスがついたこともあるので、蔗糖だろうか。豊穣な五穀が三毛作でもたらされるという大地が広がるから穀物だろうか。いや日本は食物の自給自足体制を持ち直さなければならないから穀物であってはならない。

旅行中に北朝鮮が韓国の大延坪島(テヨンピョンド)に対する砲撃したというニュースが同行者の子息からメイルで届いて聞き及んだ。かってトルコ軍は国際連合軍に参加して朝鮮戦争で戦い、多くの犠牲を払ったというガイドの説明の後であった。

 

いまひとつの一宗教に近いギリシャの国の話題は次の機会に譲るとしよう。

(納)