炉端での話題

折々に反応し揺れる思いを語りたい

寒々とした大学

2018-12-01 16:57:50 | Weblog
 先ごろ20数年ぶりに大学の懇談会に出席し、学長の長い話を拝聴した。いろいろなキャッチフレーズがちりばめられた将来計画が述べられたのだが、どこかの企業の5ヵ年計画を聞いているようで、違和感を感じた。固められた将来計画に基づいた目的研究が強調され、大学とは本来どのようなものであるべきかと言う議論が全く聞かれなかったのが心残りであった。社会への貢献と言う視点は無視しえないが、好奇心に導かれた自由な発想の研究を行うのが大学の本質ではないか(大学以外では行えない)という考えは既に時代錯誤になってしまったのだろうか。いやそうでもあるまい。国家的認識が問われる問題だ。気持ちがもやもやしているうちに、10数年前に記した以下のようなブログを思い出した。

 ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」は、(ヨーロッパ大陸、アジア大陸、南北アメリカ大陸といった)大陸レベルでの流れを通して、文明の発展を俯瞰した名著であるが、その中の一節で、彼は次のように説き、自動車を始め、数多くの例をあげている。
 “「必要は発明の母」で説明できる事例は多い。(途中省略)(しかしいくつかの:私による注釈)著名な例に惑わされ「必要は発明の母」という錯覚におちいっている。実際の発明の多くは人間の好奇心の産物であって、何か特定のものを作り出そうとして生みだされたわけではない。発明をどのように応用するかは、発明がなされたあとに考え出されている。また、一般大衆が発明の必要性を実感できるのは、それがかなり長い間使い込まれてからのことである。しかも、数ある発明の中には当初の目的とまったく別の用途で使用されるようになったものもある。”
 彼のこの観察は極めて示唆に富む。今日、理工系の大学は直接的に産業に結びつく短期的な研究成果をあげるように求められている。しかし、歴史上見られる上述のような多くの事例からすれば、このような性急な態度からは後になって大きな影響を及ぼすような革新的な発明がなされるチャンスは低いといわざるを得ない。使い方がよく分からない発明を一般大衆に役立つように応用するのも大学の研究の一つの使命であろうが(本当は産業界自身の主要な使命なのではないか)、何か特定のものを作り出そうとするのではなく、しかし後年、社会的に大きな影響を及ぼすような「好奇心の産物」を研究しなければならないし、それがまた許されるのも、大学ではないのか。(好奇心というと、単に、調べたり、知ったりすることと受け取られかねないが、ここでいう好奇心は「もの作り」の好奇心である。)
 独立法人化で大学における研究の変質が懸念される。システムとして、これは大学レベルの問題ではない。大学をどう扱うかという社会全体の投資の問題である。
(エイモット)