炉端での話題

折々に反応し揺れる思いを語りたい

アジテータ

2014-07-22 13:37:20 | Weblog
 アジテータは現実を言わない。事実を単に言っていたのではアジテーションにならないからだ。アジテータは幻想を振りまき、聴く人をその気にさせる。
 何とかミックスで景気がよくなると人々に信じ込ませ、一時、株価が急上昇したが、景気がよくなるというのは幻想であった。物価は上昇しそのため国内消費は政府の言う想定内より大きくはずれ、過去の消費税導入時の落ち込み以上に低迷しているという。国内投資を表す機械受注統計も5月には前年同期比せ14.4%の減で、リーマンショック時の減少より大きい。日本円/ドルを高くすることで貿易収支は大きく改善されるといわれたが、赤字が続き、ここのところでようやくとんとんといったところだ。政府はそっと来年度のGDPの伸びの下方修正を言い出した。
 実際には起こりそうもない戦争シーンを並び立て、国民の恐怖心を煽っている。そのくせドンパチが生じれば必ず人命(自衛隊員)が失われるのは目に見えているのに、集団的自衛権の発動と自衛隊員の安全は別問題だなどとはぐらかし、自分たちには火の粉はかぶらないという幻想を植え付けようとしている。ドンパチやれば必ず反撃があるから問題はこじれ、致命的になるまで拡大する。これは私たちがかつての戦争で学んだことではなかったか。ドンパチで問題が直ちに解決するかのように思うのは幻想だ。
 政府はしばしば「国民の理解を得るようによく説明したい」と言うが、むしろ「国民の声を謙虚に聞き入れる」のが先だ。
 アジテータの第2の特長はやたらとキャッチフレーズを振りかざすことだ。曰く、「第3の矢」、「積極的平和外交主義」、「国土強靭化」、「美しい日本」、「骨太のなんとやら」、「岩盤規制に穴を開ける」エトセトラ、エトセトトラ。キャッしフレーズは耳に心地よく響くが、その実体は何か、よく考えると分からない。
 ついでに付け加えれば、アジテータには、その声を拡大するお先棒が必ず現れる。国営放送と見まがうばかりのどこかの放送局の番組編成がおかしくなっていることはつとに指摘されている。
 政府にはアジテータになって欲しくない。(青)

真空管式トランジスタ

2014-07-18 08:35:51 | Weblog
 米国学会IEEEの雑誌スペクトラムの最近刊号に真空管式トランジスタの記事が掲載されている。筆者は人生のなにがしかの期間にわたって旧来の真空管に関わったことがあるので興味がそそられた。
 よく読んでみるとトランジスタを真空中で動作させようという試みである。米国NASAのAmes研究所で試行している研究であり、いまだに初期段階ではあるが、これまでのトランジスタの十倍以上の速度となり、Tera Hz(テラヘルツ)レベルのクロックで動作する可能性が確かめられているという。
 これまでの通常のトランジスタは、半導体固体中で移動する電子、又は電子が欠如したホール素子が移動することを制御して、入力信号の増幅作用を伴う機能をはたしていた。したがって、電子又はホール素子の固体中移動速度によって動作速度が制限される。これまで達成されているシリコン半導体トランジスタの動作最高速度は40GHzといわれている。
 真空管式トランジスタでは、真空中で電子の移動を制御しようとするアイディアである。半導体中の荷電粒子の移動速度よりも真空中の電子の移動速度の方が早くできる。そのためには電子を放出するためのソースと電子を受け取るドレインを真空中に置き、この電子流を制御するゲートをソースとドレインの側に配置する。
かつての真空管では、電子の放出のためにソースは高熱で暖めて、熱電子を放出させていた。熱電子放出の代わりに、微細構造のソースとドレインの両端に単純に電界をかけて電子を放出させれば良いとするのである。思い起こせば、かつての真空管でも熱電子を放出しない冷陰極管という真空管もあった。
 冷たい電子を容易に放出する過剰電子のソース電極、さらに電子をたやすく収容できるような電子が不足するドレイン電極には、いかなる材料がいいのか課題はあるであろう。さらに旧式の真空管では熱電子流を制御するために格子(グリッドと呼んでいた)を用いていたが、真空管式トランジスタではこれに変わるゲートをどのような構造として配置すれば良いかなど、興味は尽きないが、今後の研究成果によっては、真空管時代が再来するかも知れない。
Ames研究所では動作電圧は10V程度であるが、同様な研究をピッツバーグ大学でも実施しており、1-2Vで動作していると記述している。
 はてさて、筆者は旧式真空管に深く関わったこともあり、数百本の真空管を捨てるに捨てられずにいる。当然ながら古い言葉で言えば、エミ減(正確にいえば熱電子放出能力の低下)した真空管もある。新に到来する真空管式トランジスタにはエミ減が起こるのだろうか。単純に考えれば起こりうるであろう。

 日本では、真空管式トランジスタの研究は進められているのだろうか。

(納)

非同期式学習のすすめ

2014-07-06 11:19:34 | Weblog
 かつては入学試験である程度学力レベルが選別されてそれぞれの大学に入ってきたものだが、最近は、大学の数が増えて、入学志望者を奪い合う羽目になり、入学試験の関門がどんどん緩くなった結果、大学レベルでも入学者の学力格差は広がる一方だ。
 そこで、どういうことが生じるか。ばらばらの学力の学生が一つの教室で教師の講義を一斉に聞くのだが、ある者は教師の話しに退屈し、ある者は教師の言うことにちんぷんかんぷんということになる。教師は一定のレベルを想定して話しをどんどん進めるから、講義についていけない(どころか、ついていこうとする努力を放棄する)ものが必ず出てくる。ばらばらの学力格差の学生が一斉にみな同じペースで教師の話しを聞かなくてはならない(これを私は同期式学習とよびたい)ということに無理があるのだ。
 物事を理解する時間が異なる各人が、皆、一斉に同じ速さで進もうとする学習方式の教育効果には限界があると思えてならない。各人が自分のペースにあわせて(あるいは、ときには前に立ち戻って)、しかも、自分の好きなときに、好きなな場所で、個別に学習する(これを私は非同期式学習と呼びたい)ことで、同期式学習の無理を補うことが、こうも学力格差が広がった現在の状況ではどうしても必要なのではないか。
 ならば、非同期式学習をサポートするようなもの(教材と言う言葉には抵抗感がある。誰かが教えるための材料ではなく、自ら学ぼうとするための学習材だ)が欲しいと言うことになるが、私は本という学習材に疑問を感じている(よい点は勿論あるのだが)。本はページを開くと先の方までさっと目に入ってしまう。いま頭を悩ませているずっと先のことだから当然レベルが上がっている。それをいきなり見るものだから、まず、難しそうだなと言う印象が先に入ってしまう。一歩一歩、目下のことに集中すればそれほど難しいことではないのに、この先入観が、先に進む意欲を萎縮させるのだ。
 教室で教師が黒板に書き込みながら話しを進めていく手法のよさに、このところようやく気づいた。学生の思考の進行とともに黒板にその内容を提示していくから、学生は先の恐怖感なしに、目下のことに精神を集中することができる(尤も、黒板に書かれたことをノートに写し取ることだけに没頭していては駄目だ)。こうして少しずつ理解のステップを進めるから全体としては難しそうに見えることも克服できるのだ(登山と同じだ)。やってみたら出来たというように、充足感すら味わえるであろう。
 非同期式学習材は、このように、その人のペースに合わせて一歩一歩進める(場合によっては引き返すことができる)(逐次進行)、その進行に合わせてその時点で焦点となっていることを提示する(逐次提示)、提示形式は文章または図、さらにはそれにナレーションをつける、こういったことができるものが望ましい。
 非同期式学習材にこのような機能を持たせることはITを活用すれば容易だ。つまり、非同期式学習材は電子的学習材の形をとることになるのではないか。ネット上に理学、工学に関する解説が多くアップされているが、従来の紙の教科書をただネット上に示しているだけのものが殆どで、上に述べたような形のものが少ない。私には不満だ(中には間違っているものや、要するこう覚えておけといったりするものもある)。
 現在電子書籍といわれるものは文芸書がほとんどだが、理学、工学系の電子的な学習材がもっと制作されてよいのではないか。理学、工学系図書の出版社はほとんどが消極的だが、従来の殻から踏み出し、積極的にこうしたものに挑戦して欲しいものだ。(ボブ)


ムラの考察

2014-07-02 16:40:30 | Weblog
 百年近く前には軍国ムラ、最近では原子力ムラといわれるものが重大な誤りを犯した。これらの例からムラの特性を考えてみると、次のようなことが見て取れる。
(1)同じ意見、主義のもの同志が集まる。いわゆる原発派の人たちが集まった。
(2)ムラの人間以外の(つまり、ムラの外側の)人たちの意見を聞かない。放射線の健康被害についての綜合的研究の必要性を訴える人たちがいたのに、事故を起こさないようすればよいのだと言って耳を貸さなかった。
(3)独善的な固有の理屈を捏ね上げる。原発の危険性を訴えたが、原発は安全だという根拠のない主張を強弁した。、
(4)徒党を組んで自分たちの主張を押し通そうとする。政界、学会、経済界を席巻した。
(5)ムラの外側を抑圧する。原発慎重派の人々はことごとく排除された。
(6)ムラはなかなか消滅しない。またまた原発派が息を吹き返した。
(7)上の(2)から判断のバランスを失い、誤りを犯しやすい。
 世の中が複雑になって、専門的な人々の分業でいろいろな業務が行われるようになると、必然的に専門家集団ができ、それを利用しようとする人々を巻き込んでムラが発生する。したがって、現代社会ではあらゆる局面でムラが存在している。
 ムラに個人で対抗するのは難しい。ムラに対抗するにはそれなりのムラを作らなければならないだろう。民主主義社会といわれるが、個人レベルの意見の集約ではなく(つまりこれは幻想だ)、ムラの意見の集約として物事が行われるていくのであろう。
 最近では、集団的何やらというムラが形作られつつあるようだ。(AO)