炉端での話題

折々に反応し揺れる思いを語りたい

電力伝送方式(2) -交流送電について-

2011-12-20 15:21:08 | Weblog
 前回のブログの内容に対して、いくつかの貴重なコメントを個人的にいただいている。その中に交流送電の損失が直流送電よりも大きいのではないかというコメントがあったので、少しばかりその理由を調べた。別の話題を拾いながら、ひもといてみよう。

 交流送電については、1982年に故人となられた水晶振動子の研究で高名な古賀逸策先生が東京工大の教授の頃に、先生の講義を聴講された方から又聞きした話題を思い起こす。古賀逸策先生は講義の雑談で「交流送電は動力であり、動力だから送電できる」という趣旨のことを話されたという。この話題は、筆者が直接聞いたわけではない。しかし、この短い説話は、筆者の頭の片隅を占有し続けている。教科書に書かれていない雑談は、その中に大先生の哲学があり、時には解決されていない課題もある。

 この雑談の内容に踏み込む前に、直流送電について少しばかり考えてみよう。
直流送電は、静的に蓄積された電気エネルギーから供給される。それは満々と水を貯めたダムと見なしてよい。ここで停止している状態から、バルブを開いて、急に出口から水を放流すると、それによって生じた水流は、これを補うように出口から水の入口に向かった方向に伝搬する。供給方向とは逆方向の現象である。
直流送電の場合も、これと同じような現象が起こると考えられる。定常電流は、電源から負荷に向かって流れる。急に負荷をかけた瞬間、電流は負荷の端子から流れ始め、これが電源方向に向かってその電流を補うように流れる。この現象は光速に近く伝搬する筈である。筆者はこのような現象を確認してはいないが、いまの技術では観測できるはずである。

 コメントの質問に答えるために、送電損失について記述する。
 直流送電の場合は、電流によって送電線の周りに磁界が生じる。磁界は静的エネルギーのフィールド(field、 界)であり、フィールドは重力場と同じような力の場であるから磁力ともいう。直流の場合、一定の電流が流れる場合は静磁界である。その静磁界を乱すものがなければ、電流に変化が生じないから送電損失はない。直流送電の場合の送電損失は、導体の抵抗成分によるものである。

 交流は周期的に変化する。海面上の波と同じ現象としてとらえられる。海面の波もそうであるが、波の形態を持つ現象は、水面が上下動するためにエネルギーを持っている。従って動的エネルギーといえる。直流が静的であることに対して、交流は動的である。

 電磁気学の教科書を見るとエネルギーを視点とした記述とか解説が乏しいように見受けられる。電気現象をエネルギーの視点から見直すと、わかりやすいとも思われるので、ここではエネルギーを視点とした解説を試みることにする。
水は高いところから低いところに向かって流れる。高いところにある水は、エネルギーのポテンシァルである。電気の場合は、電圧がこれに相当する。電気(ここで電気については、とりあえず未定義のままとしておこう)は、高い電圧から低い電圧に向かって流れる。つまり電圧の差がなければ、電流は生じない。高低差のない場合には、水が流れないのと同じである。電圧の差、このことを電位差というが、はエネルギーのポテンシァルとみなせる。電位差があるところに電気が流れるような負荷を繋ぐと電流が流れる。つまり電流という動的エネルギーが生じる。電流は水でいえば水量に相当する。外に対して作用するエネルギー量は、静的なエネルギーである電圧と動的なエネルギーである電流との積になる。これはある高さから流れ出る水の量によって外に作用するエネルギー量を表すことに相当する。

 交流の場合は、この電圧が周期的にプラス側とマイナス側に0ボルトを通過して変化する。先に、海面に生じる波を引き合いに出して、似たような現象と説明した。しかし細かく見ると同一視できないことはおことわりしておく。
電気は貯めることができる。化学的に貯めることができる装置は電池である。電池ではなくて、単なる平行な金属板、あるいは平行な線、さらには大地を片側とした金属物体は電気を貯めることができる。このことを電気容量と定義して、キャパシタンスと呼び、この機能を有する機器のことをキャパシター、日本語ではコンデンサー、という。
 全く電気の貯まっていないキャパシターに電圧をかけると、電気を貯めるための充電電流が流れる。キャパシターに貯まる電気が満杯になると電位差はなくなり、電流は流れなくなる。これは水がめに水を注ぎこむ様子と似ている。キャパシターに貯まった電気エネルギーのことを電気量という。

 さて交流の場合は、このキャパシターへの電気エネルギーの出し入れが起こる。直流では一度だけ満杯にすると漏れがない限り引き続き起こることはない。前に記述したように、導体と導体の間にはキャパシタンスが存在するから、交流電圧をかけると充電と放電を繰り返し起こすことになる。そのことから直流電圧ではなかった損失がキャパシタンスによって生じる。このことを交流送電の静電誘電損失とよんでいる。
 交流送電には、いま一つ磁界に関する損失がある。電流が流れることによって磁界エネルギーが生じる。電圧が下がり電流が少なくなると磁界エネルギーから、逆に電流が取り出される。電圧が0となれば磁界は消滅するが次には逆方向に電流が流れて、逆方向の磁界エネルギーが伝送線の周りに生じる。電流によって生じる磁界エネルギーはキャパシターと同様にエネルギーをポテンシァルとして保持することからインダクタンスとよぶ容量が存在する。この磁界エネルギーの変化に伴う損失のことを電磁誘導損失などと呼んでいるが、交流送電においては、上に述べた静電誘導損失に比べて少ないとされている。
以上が、直流送電とは異なった交流送電に生じる電送損失である。

 さて当初掲げた古賀逸策先生の「交流送電は動力」という話題に立ち戻ることにしよう。交流送電は、電圧がプラス方向とマイナス方向に変化する波動現象である。流れる電流、すなわち動エネルギ-も電圧が変化することによって方向が変わる。
ここで疑問が生じる。この電流源は、発電所の発電機である。それであれば電流が変化するたびに発電所と遠くに離れて所在する交流電力の消費端の間の電流は、電圧が変化するたびにこの長い区間にわたり、直流送電で急に電流が流れ始めたように、流れが変化するのだろうか。もとより交流送電の場合は、変圧器が途中に置かれるから、直接発電機の電流が家庭の電気機器に流れるわけではないが。
 ある電気工学の専門家は、「交流電流の変化は光速に近い速度で伝搬するから、発電機と消費端を直接つなぐ交互の電流として変化する」と説明するであろう。これが正しければ、古賀逸策先生の説話は理解できない。
 交流送電は、電圧と電流の積となった電気エネルギーが、海の波が伝搬するがごとくに発電機から消費端に送られると考えれば、交流送電が動力であるという説は納得できる。マックスウエルの電磁方程式、電磁波は運動エネルギーであることを示している。
筆者は、交流送電もマックスウェルの電磁波方程式によって表される電磁波と同じ形態の動エネルギーであると古賀逸策先生の説話をもとに考えている。このことをどのようにして実際に確かめればよいか、先生はその手法を提示されていたのだろうか、と考え込んでいる。
 調べると近代の交流送電線は、電磁波が伝搬する線路として設計が行われており、古賀逸策先生の遺訓は効をもたらしているように思える。
(納)

電力伝送方式(1) -直流送電について-

2011-12-11 13:03:08 | Weblog
 東日本大震災とこれに伴う福島第一原子力発電所の事故に関連して日本列島の送電系統について、ある方から「直流送電系統を用いるのはどうか」という課題が示された。電力会社の基幹となっている大電力送電系統は、例外なく交流送電である。

 しばらく思考を重ねて、個人的な意見として「静的な大電力輸送には直流送電がいい。しかし負荷の変動が激しい電力輸送には適さない」という回答に達した。従って災害等で、大きく負荷が変動するような場合、直流による大電力送電には課題が残る。

 現実に存在する直流電力送電として、日本では本州と北海道を結ぶ海底電線による津軽海峡の送電、紀伊半島と四国の海底送電があり、いずれも25万Vの高圧で、送電容量は津軽海峡は60万KW、紀伊水道は140万KWであるという。欧州でも、英国と欧州大陸、さらにはスカンジナビア半島との間の海底電線による電力輸送は直流で行われている。
 歴史的に見れば、直流送電はエジソンが開始していて、この事業は失敗に終わった。理由は、様々であろうが、私見として「負荷変動が大きい送電に直流は適さない」ということである。

 このことを別の物理的な現象から説明してみよう。
ウォーター・ハンマーという現象がある。
この現象のもっとも簡単な例は、流れ出る水道を急に止めたときに、ガタガタという音がすることである。流れ出る水は、運動エネルギーをもっている。それを急に止めると運動エネルギーは行き場を失い逆方向に伝搬する。水の中を衝撃が逆行する。これが反射して水流衝撃が往復すると、ガタガタという音を発生させる。これを読んでおられて「イヤ、我が家ではそのような現象はない」といわれる方があるかも知れない。その方の家には高級な水道栓が使われていて、水道栓の基にこの現象を緩和する装置が組み込まれているからである。
大きな問題となったのは水力発電所であった。水力発電を停止させるために、バルブを操作して水流を急に停止させると、大きな水流運動エネルギーは衝撃波となり逆方向に向かう。逆方向に巨大なダムが立ちはだかると、この衝撃波は反射して再び閉じたバルブに達してバルブを破壊する。これがウォーター・ハンマーの語源であり、この様な危険な現象を緩和するバッファが開発された。

 直流送電でも、このような水流で起こるウォーター・ハンマーと同じような現象が起こると考えていい。直流送電の場合について、解説してみよう。
 成書をひもとくと直流は、電源を切ることが難しいと書かれている。理由は電流を切るときにアーク放電を起こすからである。アーク放電とは雷とかアーク溶接を連想すればわかり易い。極めて高い温度に空気が熱されると空気分子は電離して電気を通しやすくなる。そのために低い電圧でも放電が持続する。アーク溶接もこの原理を用いている。ちなみにアーク溶接は一般には交流を用いるが低い電圧でもアーク放電が持続する。

 どうして直流電流を切るときにアーク放電が起こるのであろうか。
直流送電線に電流を流さないときには、周りに磁界は生じない。送電線に直流を流すと周りに磁界が生じる。1820年にエルステッド(H. C. Oersted) が発見した事象である。磁界は静的ではあるがエネルギーを持つ。電流が急に止められるとこの磁界も消滅しようとする。そのとき、磁界のエネルギーは、逆に送電線に高い電圧を発生(ファラデーの法則)させるから、これにより放電が起こり空気を電離させる。放電による高温で空気自体が良導体となり電流が起こる。これが原因となり、大きな電流が持続して流れて低い電圧でもアーク放電となる。

 ここまでのところでは急に直流電流を停止した場合のことを説明したが、直流送電において急激な負荷変動が多い場合には、これに似た現象が起こると考えられる。あるところで電流を切るとそれがウォーター・ハンマーの様に送電線の中を駆けめぐる可能性がある。ある場所では急激なパルス状の高電圧が届くこともあり得る。
 エジソンは、このような事象にまで気がつかなかったことから事業に失敗した、と筆者は想像する。

 しかしながら、一定量を静かに送電するためには、大河の水の流れのごとく直流送電が優れている。
 いたるところ岩だらけの山腹流は、それ自体が渦巻く流れとして、電気でいえば交流送電のごとくに見える。
(納)

成書談義

2011-12-03 18:30:57 | Weblog
 応さんはものを書きそれを遺すことの重要性をブログで述べておられる。それを拝見していくつかの思いが頭をよぎった。
(1)最近、ある技術系の国際学会に参加した時のパネル討論で、本を書くことの重要性が何人かのパネリストによって力説された。議論が産業界と大学との連携をどう強めるかということに移って行った時のことで、大学側の寄与として「本を書く」ことが持ち出されたことに私は驚くと同時に、強い共感を覚えた。
 かつて、私は仲間と、「大学の重要な使命は学問を創ることだ」などと大それた議論をしたことがある。だが、単に「学問を創る」と言うだけでは抽象的過ぎて、それ以上議論が深まらなかった。その後、それでは具体的に何だと頭に引っ掛かっていたが、或る時、「それまでいろいろ提案され、論じられ、実証された研究論文の成果(それぞれ重要な貢献だが、ばらばらだ)を体系的に成書にまとめれば、それがその分野の学問を新しく創ることになるのではないか」と思うようになった。
 ある分野に別の分野の人が参入して新しい刺激を相互に及ぼすことが契機となり、その分野が大きく発展するということがよくある。その際、新しく参入する人のためによくまとめられた成書が大いに役立つことが認識されて、上のような指摘になったのであろう。
 尤も、ここで言う「本を書く」ことは、新しい価値観に基づいて新しい体系を創ることで、単に、どこかの国の本の言葉を変えて出版することではない。
(2)最近は、書いたものがいつの間にか消滅していることも多い。宮田房近教授の「回路網理論」はきわめて独創的だが、廃刊になってしまった(古本市場と言うものがあり、そこで、結構、高値がついているものもあるが)。
 地方の図書館長をしている知人は、コンピュータの歴史展という価値ある企画を彼の図書館で催したが、時代を画した意義深い成書の展示会を催すのもよいのではないか。これだけで一般の人を引き付けるのは難しいであろうから、何かほかのものと結び付けるなどの工夫が必要かもしれない。IEEE Spectrumと言う学術雑誌にGood Textbooksという特集があった。「Vacuum Tube Amplifier」といった、学生時代に読んだ懐かしい書名を見つけて感銘したのを覚えている。
 シルバー世代に入ると古いものに目が行くが、それは単なる懐古趣味ではない。現在から見れば未発達な時代の創作物には、却って、人間の知恵の跡が読み取れて、感服することが多い。現在は、知恵をめぐらせるというより、シミュレーションに頼るといった腕ずくでものを処理することが多いようだが、「俺は紙と鉛筆だけで仕事をする」と豪語していた先輩を思い出す。
(3)人には後に何かを遺したいという、種の保存本能に通じるものがあるのであろうか。あるいは、自分が空漠と消えてなくなることへの、心もとなさがそうさせるのであろうか。私の友人は、自分が関わった技術開発の経緯がこのままでは風化してしまうと言って、連載ものを書き遺す執念を燃やしている。
 ヨーロッパでは成書を大切にする気風があるようだ。小さな都市の旧貴族の館を訪れると、必ずといってよいほど、立派な図書室があり、天井までの書架に美しく装丁された成書がぎっしり並べられているのを目にする。人智の集積が放つ重厚な雰囲気に、射すくめられるような気がする。
 印刷機が発明されるまでの中世では、成書は、主として、修道僧による手書きで作られた。大変な労作であり、僧院はその集積を大事に保存した。尤も、大量に複製できないので秘蔵とし、余り人手に触れさせなかったようだ(これが中世の人智の停滞の原因にもなったのだが)。したがって、当時は僧院が知識のセンターであり、立派な図書室を持つことが僧院のステータスでもあった。このような背景があるから、本の行間から何かを読み取り、装丁の作りから本を作った人の意志を感じ取る文化が残っているのではないか。手のひらの端末での無味乾燥な文字の羅列の便利さもさることながら、地球上から成書の世界が消えることはないであろう。
 このごろ、古書の価値が見直されているが、和紙で書かれた我が国の古書は水に濡れても文字がにじまず、読み取ることができるのだそうだ(尤も、濡れた頁の間に、乾燥した紙を挟み込んで水を吸い取るのだが)。(青)

エキスコン(12) -大消費電力の課題-

2011-12-03 14:45:09 | Weblog
 AOさんは、前回のGreen500でスパコンが多大な消費電力を要することから、電力を消費しないスパコンの開発の必要性を述べている。
 筆者も全く同感である。と同時に多くの疑問が湧きだしてくる。

 まずは、演算速度が速くなるといかなる物理的な現象、あるいは電気的な原因と論理動作の関係から消費電力が大きくなるのかである。電流切りかえに基づく論理素子が1960年後半から高速動作論理素子として利用された。米国ではECL(Emitter Coupled Logic)といい、日本では CML(Current Mode Logic)等と呼ばれていた論理素子である。常時電流を2つの素子に流しておいて、これを切り替えることで論理動作を行うために、大きな消費電流が必要である。
これは理解できる。
 しかしながら本来のコンピュータの演算などの論理動作に必要とする電力はいかなる量でなければならないか。その電力量は演算速度とどのような関係があるのか。さらにはどこまで、この限界に挑戦できるか。このことは専門家に是非とも解説いただきたいものである。専門家から明確な回答が得られないとすれば、若い世代の研究者・技術者が挑戦する価値のある課題である。

 ヒトの脳のエネルギー消費量は、その活動のために多くの血流が必要であるにもかかわらずコンピュータに比べると極めて少ないと言われている。
 何故だろうか。
 少しばかり調べた知識を元にすると、ヒトの脳は必要な部分だけしか動かないらしい。このことは脳の血流とか脳波の観測からいえる。コンピュータの動作の側面からみれば、非同期動作方式である。現在のスパコンからパソコンにいたるまで例外なく同期式による内部動作を「スリープ」しない限り行っている。いわば動作に関係ない部分に電力を消費している。

 コンピュータの歴史をたどると、イリノイ大学で製作されたIlliac Ⅱは非同期式コンピュータであり、この分野で大きな研究成果をもたらしている。最近では東京工業大学で南谷 崇教授の指導の基に、非同期式マイクロプロセッサTITAC2のチップが1997年1月に完成し、2月にテストプログラムによってすべての命令の正常動作を確認している。この非同期式マイクロプロセッサは、1997年4月にNHKでその実演の様子が放映された。最初に学会で発表したのは1997年8月のスタンフォード大学での"Hot Chips"であったと南谷先生は回想されている。南谷先生は、その後東京大学の教授として迎えられている。

 先般、南谷先生に非同期計算方式についてお伺いする機会があった。非同期式コンピュータの計算速度は同期式に比べてどうなのかという質問があり、この問いに対して次のように説明されている。
「自動車を運転しているとしましょう。交差点で赤信号のために停止します。青信号になって動き出すとき、前の車が発進してから次の車が発進します。車が数珠繋ぎになっているとすれば、次々にこれが連鎖するために遅くなりますね。非同期式コンピュータでも、このような現象と同じことが起こります」とわかり易い解説をされた。

 そこで筆者は考えた。赤信号から青信号に代わったとき、自動車の場合は速度を上げるために時間がかかる。コンピュータの場合は、直ちに高速に達し、同時に発進できるようにすれば、コンピュータの内部では発進遅延は起こらないのではないか。そのためには信号が変化したことを同時に知らせればいいのでは、と。そのような非同期式コンピュータはいまのところなさそうである。
 しからばヒトの脳の中での情報伝達は、交通信号で停止した自動車の列が動き始めるような様相なのか、あるいは群遊するイワシのように、群れを成した情報が脳の中で伝送するのか。
 またしても疑問が駆け巡る。
(納)

追記
 コンピュータをはじめとする情報機器の省電力化について、南谷崇先生の懇談を基にした「超消費電力化という革命が始まる」という記事が見つかったので紹介する。

この一冊!で想うこと                

2011-12-01 09:19:34 | Weblog
講談社の「この一冊!」がフト目にとまった。
「マイコン・ソフトウェア入門」に高校生のころ出会った篠木和久氏の想い出話である。想像するに、この本とのかかわりから篠木氏はパソコンにのめり込み、いまは講談社のブルーバックスの編集に携わる人生を過ごしておられるようである。
人生を左右するような「この一冊!」であったかも知れない。

この「炉端での話題」でも、青さんの話題などは時宜を得た内容であり、現在の歴史を刻々と書き連ねていることに感慨を持って読んでいる。しかしながらこの様な奥深い、あるいは歴史的価値をもたらすかも知れない記述が100年後、あるいは1000年後にまで、このまま残るであろうか。
クラウドと化している電子媒体による記述は、世代を超えて残りうるかという疑問である。クラウドはやがて雲のごとく雨散するのではないか。
一冊の本のようには残りそうもない。歴史的に残りそうなブログは、クラウドではなく蔵人(くらうど)に管理してほしいものである。
「炉端での話題」が後世に残るようであれば、根気よく時評を含めたいまの想いを書きとどめることができる。あるいは「この一冊!」の様な効果がもたらされるかも知れない。
本は形として、図書館に収まることができる。そして名著は何時までもそこに残る。電子媒体のブログは、その運営する機構が消滅すれば雨散する。
あるいは、すでにこのことに気がついて「炉端での話題」で気に入った内容があれば、ハード・コピーとして残しておられる方がおられるのではなかろうか。

調べてみると「マイコン・ソフトウェア入門」は、古書オークションにより1円で入手できる。この本の内容、その古書価値だけでは評価し難い。表紙は真鍋博による絵で、まことに格調が高い。
(応)