前回のブログの内容に対して、いくつかの貴重なコメントを個人的にいただいている。その中に交流送電の損失が直流送電よりも大きいのではないかというコメントがあったので、少しばかりその理由を調べた。別の話題を拾いながら、ひもといてみよう。
交流送電については、1982年に故人となられた水晶振動子の研究で高名な古賀逸策先生が東京工大の教授の頃に、先生の講義を聴講された方から又聞きした話題を思い起こす。古賀逸策先生は講義の雑談で「交流送電は動力であり、動力だから送電できる」という趣旨のことを話されたという。この話題は、筆者が直接聞いたわけではない。しかし、この短い説話は、筆者の頭の片隅を占有し続けている。教科書に書かれていない雑談は、その中に大先生の哲学があり、時には解決されていない課題もある。
この雑談の内容に踏み込む前に、直流送電について少しばかり考えてみよう。
直流送電は、静的に蓄積された電気エネルギーから供給される。それは満々と水を貯めたダムと見なしてよい。ここで停止している状態から、バルブを開いて、急に出口から水を放流すると、それによって生じた水流は、これを補うように出口から水の入口に向かった方向に伝搬する。供給方向とは逆方向の現象である。
直流送電の場合も、これと同じような現象が起こると考えられる。定常電流は、電源から負荷に向かって流れる。急に負荷をかけた瞬間、電流は負荷の端子から流れ始め、これが電源方向に向かってその電流を補うように流れる。この現象は光速に近く伝搬する筈である。筆者はこのような現象を確認してはいないが、いまの技術では観測できるはずである。
コメントの質問に答えるために、送電損失について記述する。
直流送電の場合は、電流によって送電線の周りに磁界が生じる。磁界は静的エネルギーのフィールド(field、 界)であり、フィールドは重力場と同じような力の場であるから磁力ともいう。直流の場合、一定の電流が流れる場合は静磁界である。その静磁界を乱すものがなければ、電流に変化が生じないから送電損失はない。直流送電の場合の送電損失は、導体の抵抗成分によるものである。
交流は周期的に変化する。海面上の波と同じ現象としてとらえられる。海面の波もそうであるが、波の形態を持つ現象は、水面が上下動するためにエネルギーを持っている。従って動的エネルギーといえる。直流が静的であることに対して、交流は動的である。
電磁気学の教科書を見るとエネルギーを視点とした記述とか解説が乏しいように見受けられる。電気現象をエネルギーの視点から見直すと、わかりやすいとも思われるので、ここではエネルギーを視点とした解説を試みることにする。
水は高いところから低いところに向かって流れる。高いところにある水は、エネルギーのポテンシァルである。電気の場合は、電圧がこれに相当する。電気(ここで電気については、とりあえず未定義のままとしておこう)は、高い電圧から低い電圧に向かって流れる。つまり電圧の差がなければ、電流は生じない。高低差のない場合には、水が流れないのと同じである。電圧の差、このことを電位差というが、はエネルギーのポテンシァルとみなせる。電位差があるところに電気が流れるような負荷を繋ぐと電流が流れる。つまり電流という動的エネルギーが生じる。電流は水でいえば水量に相当する。外に対して作用するエネルギー量は、静的なエネルギーである電圧と動的なエネルギーである電流との積になる。これはある高さから流れ出る水の量によって外に作用するエネルギー量を表すことに相当する。
交流の場合は、この電圧が周期的にプラス側とマイナス側に0ボルトを通過して変化する。先に、海面に生じる波を引き合いに出して、似たような現象と説明した。しかし細かく見ると同一視できないことはおことわりしておく。
電気は貯めることができる。化学的に貯めることができる装置は電池である。電池ではなくて、単なる平行な金属板、あるいは平行な線、さらには大地を片側とした金属物体は電気を貯めることができる。このことを電気容量と定義して、キャパシタンスと呼び、この機能を有する機器のことをキャパシター、日本語ではコンデンサー、という。
全く電気の貯まっていないキャパシターに電圧をかけると、電気を貯めるための充電電流が流れる。キャパシターに貯まる電気が満杯になると電位差はなくなり、電流は流れなくなる。これは水がめに水を注ぎこむ様子と似ている。キャパシターに貯まった電気エネルギーのことを電気量という。
さて交流の場合は、このキャパシターへの電気エネルギーの出し入れが起こる。直流では一度だけ満杯にすると漏れがない限り引き続き起こることはない。前に記述したように、導体と導体の間にはキャパシタンスが存在するから、交流電圧をかけると充電と放電を繰り返し起こすことになる。そのことから直流電圧ではなかった損失がキャパシタンスによって生じる。このことを交流送電の静電誘電損失とよんでいる。
交流送電には、いま一つ磁界に関する損失がある。電流が流れることによって磁界エネルギーが生じる。電圧が下がり電流が少なくなると磁界エネルギーから、逆に電流が取り出される。電圧が0となれば磁界は消滅するが次には逆方向に電流が流れて、逆方向の磁界エネルギーが伝送線の周りに生じる。電流によって生じる磁界エネルギーはキャパシターと同様にエネルギーをポテンシァルとして保持することからインダクタンスとよぶ容量が存在する。この磁界エネルギーの変化に伴う損失のことを電磁誘導損失などと呼んでいるが、交流送電においては、上に述べた静電誘導損失に比べて少ないとされている。
以上が、直流送電とは異なった交流送電に生じる電送損失である。
さて当初掲げた古賀逸策先生の「交流送電は動力」という話題に立ち戻ることにしよう。交流送電は、電圧がプラス方向とマイナス方向に変化する波動現象である。流れる電流、すなわち動エネルギ-も電圧が変化することによって方向が変わる。
ここで疑問が生じる。この電流源は、発電所の発電機である。それであれば電流が変化するたびに発電所と遠くに離れて所在する交流電力の消費端の間の電流は、電圧が変化するたびにこの長い区間にわたり、直流送電で急に電流が流れ始めたように、流れが変化するのだろうか。もとより交流送電の場合は、変圧器が途中に置かれるから、直接発電機の電流が家庭の電気機器に流れるわけではないが。
ある電気工学の専門家は、「交流電流の変化は光速に近い速度で伝搬するから、発電機と消費端を直接つなぐ交互の電流として変化する」と説明するであろう。これが正しければ、古賀逸策先生の説話は理解できない。
交流送電は、電圧と電流の積となった電気エネルギーが、海の波が伝搬するがごとくに発電機から消費端に送られると考えれば、交流送電が動力であるという説は納得できる。マックスウエルの電磁方程式、電磁波は運動エネルギーであることを示している。
筆者は、交流送電もマックスウェルの電磁波方程式によって表される電磁波と同じ形態の動エネルギーであると古賀逸策先生の説話をもとに考えている。このことをどのようにして実際に確かめればよいか、先生はその手法を提示されていたのだろうか、と考え込んでいる。
調べると近代の交流送電線は、電磁波が伝搬する線路として設計が行われており、古賀逸策先生の遺訓は効をもたらしているように思える。
(納)
交流送電については、1982年に故人となられた水晶振動子の研究で高名な古賀逸策先生が東京工大の教授の頃に、先生の講義を聴講された方から又聞きした話題を思い起こす。古賀逸策先生は講義の雑談で「交流送電は動力であり、動力だから送電できる」という趣旨のことを話されたという。この話題は、筆者が直接聞いたわけではない。しかし、この短い説話は、筆者の頭の片隅を占有し続けている。教科書に書かれていない雑談は、その中に大先生の哲学があり、時には解決されていない課題もある。
この雑談の内容に踏み込む前に、直流送電について少しばかり考えてみよう。
直流送電は、静的に蓄積された電気エネルギーから供給される。それは満々と水を貯めたダムと見なしてよい。ここで停止している状態から、バルブを開いて、急に出口から水を放流すると、それによって生じた水流は、これを補うように出口から水の入口に向かった方向に伝搬する。供給方向とは逆方向の現象である。
直流送電の場合も、これと同じような現象が起こると考えられる。定常電流は、電源から負荷に向かって流れる。急に負荷をかけた瞬間、電流は負荷の端子から流れ始め、これが電源方向に向かってその電流を補うように流れる。この現象は光速に近く伝搬する筈である。筆者はこのような現象を確認してはいないが、いまの技術では観測できるはずである。
コメントの質問に答えるために、送電損失について記述する。
直流送電の場合は、電流によって送電線の周りに磁界が生じる。磁界は静的エネルギーのフィールド(field、 界)であり、フィールドは重力場と同じような力の場であるから磁力ともいう。直流の場合、一定の電流が流れる場合は静磁界である。その静磁界を乱すものがなければ、電流に変化が生じないから送電損失はない。直流送電の場合の送電損失は、導体の抵抗成分によるものである。
交流は周期的に変化する。海面上の波と同じ現象としてとらえられる。海面の波もそうであるが、波の形態を持つ現象は、水面が上下動するためにエネルギーを持っている。従って動的エネルギーといえる。直流が静的であることに対して、交流は動的である。
電磁気学の教科書を見るとエネルギーを視点とした記述とか解説が乏しいように見受けられる。電気現象をエネルギーの視点から見直すと、わかりやすいとも思われるので、ここではエネルギーを視点とした解説を試みることにする。
水は高いところから低いところに向かって流れる。高いところにある水は、エネルギーのポテンシァルである。電気の場合は、電圧がこれに相当する。電気(ここで電気については、とりあえず未定義のままとしておこう)は、高い電圧から低い電圧に向かって流れる。つまり電圧の差がなければ、電流は生じない。高低差のない場合には、水が流れないのと同じである。電圧の差、このことを電位差というが、はエネルギーのポテンシァルとみなせる。電位差があるところに電気が流れるような負荷を繋ぐと電流が流れる。つまり電流という動的エネルギーが生じる。電流は水でいえば水量に相当する。外に対して作用するエネルギー量は、静的なエネルギーである電圧と動的なエネルギーである電流との積になる。これはある高さから流れ出る水の量によって外に作用するエネルギー量を表すことに相当する。
交流の場合は、この電圧が周期的にプラス側とマイナス側に0ボルトを通過して変化する。先に、海面に生じる波を引き合いに出して、似たような現象と説明した。しかし細かく見ると同一視できないことはおことわりしておく。
電気は貯めることができる。化学的に貯めることができる装置は電池である。電池ではなくて、単なる平行な金属板、あるいは平行な線、さらには大地を片側とした金属物体は電気を貯めることができる。このことを電気容量と定義して、キャパシタンスと呼び、この機能を有する機器のことをキャパシター、日本語ではコンデンサー、という。
全く電気の貯まっていないキャパシターに電圧をかけると、電気を貯めるための充電電流が流れる。キャパシターに貯まる電気が満杯になると電位差はなくなり、電流は流れなくなる。これは水がめに水を注ぎこむ様子と似ている。キャパシターに貯まった電気エネルギーのことを電気量という。
さて交流の場合は、このキャパシターへの電気エネルギーの出し入れが起こる。直流では一度だけ満杯にすると漏れがない限り引き続き起こることはない。前に記述したように、導体と導体の間にはキャパシタンスが存在するから、交流電圧をかけると充電と放電を繰り返し起こすことになる。そのことから直流電圧ではなかった損失がキャパシタンスによって生じる。このことを交流送電の静電誘電損失とよんでいる。
交流送電には、いま一つ磁界に関する損失がある。電流が流れることによって磁界エネルギーが生じる。電圧が下がり電流が少なくなると磁界エネルギーから、逆に電流が取り出される。電圧が0となれば磁界は消滅するが次には逆方向に電流が流れて、逆方向の磁界エネルギーが伝送線の周りに生じる。電流によって生じる磁界エネルギーはキャパシターと同様にエネルギーをポテンシァルとして保持することからインダクタンスとよぶ容量が存在する。この磁界エネルギーの変化に伴う損失のことを電磁誘導損失などと呼んでいるが、交流送電においては、上に述べた静電誘導損失に比べて少ないとされている。
以上が、直流送電とは異なった交流送電に生じる電送損失である。
さて当初掲げた古賀逸策先生の「交流送電は動力」という話題に立ち戻ることにしよう。交流送電は、電圧がプラス方向とマイナス方向に変化する波動現象である。流れる電流、すなわち動エネルギ-も電圧が変化することによって方向が変わる。
ここで疑問が生じる。この電流源は、発電所の発電機である。それであれば電流が変化するたびに発電所と遠くに離れて所在する交流電力の消費端の間の電流は、電圧が変化するたびにこの長い区間にわたり、直流送電で急に電流が流れ始めたように、流れが変化するのだろうか。もとより交流送電の場合は、変圧器が途中に置かれるから、直接発電機の電流が家庭の電気機器に流れるわけではないが。
ある電気工学の専門家は、「交流電流の変化は光速に近い速度で伝搬するから、発電機と消費端を直接つなぐ交互の電流として変化する」と説明するであろう。これが正しければ、古賀逸策先生の説話は理解できない。
交流送電は、電圧と電流の積となった電気エネルギーが、海の波が伝搬するがごとくに発電機から消費端に送られると考えれば、交流送電が動力であるという説は納得できる。マックスウエルの電磁方程式、電磁波は運動エネルギーであることを示している。
筆者は、交流送電もマックスウェルの電磁波方程式によって表される電磁波と同じ形態の動エネルギーであると古賀逸策先生の説話をもとに考えている。このことをどのようにして実際に確かめればよいか、先生はその手法を提示されていたのだろうか、と考え込んでいる。
調べると近代の交流送電線は、電磁波が伝搬する線路として設計が行われており、古賀逸策先生の遺訓は効をもたらしているように思える。
(納)