「ケイケンチ」という耳慣れない言葉がいろいろな所で言われだした。曰く、“これまでのケイケンチを踏まえてこれからの事を考えなければならない”、等々。まあ言葉はその時々の感覚に基づいて変わって行くものとすれば、そう目くじらを立てることもないが、NHKのニュースキャスターまでもが真面目の顔で口にするようになった。そこで、にわかに気にすると、ケイケンチとは何のことか分からなくなった。前後の脈絡から「ケイケン」が経験をさしていることは容易に見当がつく。問題は「チ」だ。わざわざ付け加えるこの「チ」は何なのであろうか。
「チ」は「値」ですか?すなわち、「ケイケンチ」=「経験値」。しかし、経験の値とは何だろう。そもそも「経験」には数値化するようなメトリックがあるのだろうか。
次に考えられるのは「知」。すなわち、「ケイケンチ」=「経験知」。過去の経験から得られる「知識」もしくは「知恵」と言うことか。しかし、「経験」という言葉の中に、過去の遭遇から蓄積された知識や感覚といった意味合いが既に含まれているので、わざわざ「知」を付け加えることもない。
全ての場合、簡単に「経験」で済むのではないか。むしろ、「チ」を付け加えることで「ケイケンチ」が何のことか分からなくなる。
単純に言えば済むのに、しち面倒臭い言葉が使われだしている。「検証」もその一つだ。検証には、対象とする何か(たとえば、正当性とか適合性)を証明(verification )するために調べるという意味合いがあった筈で、問題点の有無や今後の課題を単に調べるという事とは違うのではないか。もともと「検証」は専門的な用語だったと思うのだが、メディヤを含めて、政治家などが普通の場面で多く使うようになった。しかし、何を証明しようとするのか。だいいち、問題としていることが証明可能なのであろうか。単に調査と言ったほうが簡潔明瞭である。いや、ことはそう簡単ではないと言いたいのだろうか。
メディヤが書き立てているアベノミックスもそうだが、あいまいのままで、響きがかっこよく思える言葉を口にして、なんとなく分かったような気分にさせる現代の風潮は、ふあっとしたムード文化の時代と言ってよいかもしれない。(どこかの副総理が「経済なんてムードですよ」といったことがまさに象徴している。)
言葉の新しい風潮についていけない老人のたわごとと言われそうなので、もう止めよう。
(青)
「チ」は「値」ですか?すなわち、「ケイケンチ」=「経験値」。しかし、経験の値とは何だろう。そもそも「経験」には数値化するようなメトリックがあるのだろうか。
次に考えられるのは「知」。すなわち、「ケイケンチ」=「経験知」。過去の経験から得られる「知識」もしくは「知恵」と言うことか。しかし、「経験」という言葉の中に、過去の遭遇から蓄積された知識や感覚といった意味合いが既に含まれているので、わざわざ「知」を付け加えることもない。
全ての場合、簡単に「経験」で済むのではないか。むしろ、「チ」を付け加えることで「ケイケンチ」が何のことか分からなくなる。
単純に言えば済むのに、しち面倒臭い言葉が使われだしている。「検証」もその一つだ。検証には、対象とする何か(たとえば、正当性とか適合性)を証明(verification )するために調べるという意味合いがあった筈で、問題点の有無や今後の課題を単に調べるという事とは違うのではないか。もともと「検証」は専門的な用語だったと思うのだが、メディヤを含めて、政治家などが普通の場面で多く使うようになった。しかし、何を証明しようとするのか。だいいち、問題としていることが証明可能なのであろうか。単に調査と言ったほうが簡潔明瞭である。いや、ことはそう簡単ではないと言いたいのだろうか。
メディヤが書き立てているアベノミックスもそうだが、あいまいのままで、響きがかっこよく思える言葉を口にして、なんとなく分かったような気分にさせる現代の風潮は、ふあっとしたムード文化の時代と言ってよいかもしれない。(どこかの副総理が「経済なんてムードですよ」といったことがまさに象徴している。)
言葉の新しい風潮についていけない老人のたわごとと言われそうなので、もう止めよう。
(青)