炉端での話題

折々に反応し揺れる思いを語りたい

何故ディジタルテレビ放送なのか

2008-07-27 18:50:17 | Weblog
 もうじき、テレビのアナログ放送が打ち切りになるというので、ディジタル推進派は、勇んでいるように見える。しかし、どういう経過で、また、いかなる理由でディジタル移行が決まったのか、不勉強であった私には意識がない。一般の視聴者もほとんどわかっていないのではないか。
 従来のアナログ放送を打ち捨てて、ディジタル放送に変えようというのだから、なにかメリットがあるに違いない。だが、そのメリットがよくわからない。
 「画像が鮮明になる」と説明されるかもしれない。しかし、ディジタルテレビと従来のアナログテレビの両方を私はよく見ているが、前者の「画像が美しい」というメリットを満喫した覚えはない。だいいち、画像の美しさを生かした番組が殆どない。後者で普通の放送では十分で、そのような高精細な画面を放送する必要もないのではないか。医師が遠隔画像を見ながら診断したり手術するような場合は高精細画像がよいに決まっているが、そのようなことは、一般の放送とは別のネットワークで実施すればよい。
 「データの同時放送が可能である」というのもメリットに数えられそうだ。しかし、データの「同時放送」がどれほど必要なのであろうか。重大なデータを放送したいのなら、一般の番組画面を切り替えて放送すればよい。また、最近ではインターネットニュースが普及しているから(私は、最近では、こちらのほうを多用している)、それを使えば済む。
 「視聴者と双方向のやり取りがリアルタイムで出来る」という。私は、ディジタルテレビで「データ放送」の視聴や「双方向のリアルタイムのやり取り」といった面倒を試みたことはない。ただ、放送される番組を単に見るだけだ。大多数の視聴者も同様ではないか。特に、年配のシニアにとっては、ごちゃごちゃ操作する気になれないと思う。
 「電波の乱れが少ない」ともいわれそうだ。この根拠はよく分からないが、たとえばゴースト等の混信によって電波が乱れるならば、地域ごとのケーブルテレビ網を使えばよい(田舎の我が家はケーブルテレビ網に加入しているが、画像に不満はない)。
 「ディジタル放送に移行した後の電波帯を他に(たとえば次世代の携帯に)利用できる」という説明も聞いた。しかし電波帯を移すのとディジタルにするのと直接的な関連があるのだろうか(アナログのまま移せばよい)。
 最近のディジタルテレビ(セット)は複雑だ。試みたことはないがLANも出来るらしい(LAN端子なるものがあるが、ネットワーク環境が整っていなければLANは動かない)。最近、番組を10回コピーできるようにするとか話題になっているが、ディジタルテレビのソフトのアップデートが放送電波の中に組み込まれているらしい。とにかく複雑すぎる。そして高価だ。高い値段で買っても、多くの機能が冬眠中だ。携帯電話やパソコンでも普通の人は殆ど使わない機能を沢山盛り込んで(付加価値を高めるとでも言うのであろうが、ソフトの開発が大変だ)、値段を吊り上げている。普通に使っている範囲に機能を限定(縮退)して、低コストの機器を世に出す勇気も必要ではないか。
 そうか。いままでのテレビを捨てて、新しい高額のテレビを人々に買わせるというのが、ディジタル放送に移行する最大で唯一のメリットなのか、と疑いたくなる。よさそうなことを言って、いままであまり必要を感じていなかった人の購買心を刺激し、その結果として消費を拡大し産業を成長させるというのは、資源有限の地球時代の今日、考え直してもよいのではないか。何でもいままででよいという保守主義者ではないが、新しいことをするならもう少し本質的な発展を望みたいものだ。
 田舎のテレビは、アダプタを買うか(リースもあるらしい)、ディジタルテレビに買い換えなくてはならない。(青)

ゲーム脳とは

2008-07-21 10:10:06 | Weblog
中学校のある先生から、発達障害を持つ生徒が多くなっていると聞かされた。
自分の意見が通らないとカンシャクを起こす生徒や視線が定まらずキョロキョロする生徒、周囲の状況を見ずに立ち歩く生徒たちと今まででは考えられない行動をする生徒が確実に増加しているという。
1990年代に入り、発達障害の先駆けとしてLD(Learning Disability)が学校現場にも知られるようになり、また当時「ジャイアン症候群」と呼ばれていたADHDも今では定着し、さらにアスペルガー症候群といった発達障害も今では教育現場の中でよく使う言葉となっているという。
精神的な発達障害とみなされる。
学校現場から父兄にこのような発達障害があることを親などに連絡すると、自分の子供を精神障害者にするとはなにごとか、そんなハズはない、と受け付けてくれない。このような児童は、周囲の児童から避けられて孤立するから、「いじめ」であると思い込み、登校拒否にもつながる。
親は、学校でのいじめが原因であるときめつけて学校側の責任を追及する。
親の立場は、これまた理解できる。自分の子供は正常で発達障害などの病気ではないと信じたい。従って「精神的発達障害」という語はよろしくない。
ここでの提案だが、病名として明らかになりつつある精神的発達障害のことを総称して「ゲーム脳」というのはいかがであろうか。「ゲーム脳」として発達障害となる生理学的な理由は、すでによく寝る子は良く育つとはに記述しているので参考にしてほしい。
「お宅のお子さんは、『ゲーム脳』化のために社会性が遅れています」と親もしくは親権者に、その事実を理解していただくのである。

ここまで書いてから、ゲーム脳のことをインターネット検索したところ、森昭雄著「ゲーム脳の恐怖」という文庫本があり、かなり売れていることがわかった。そこで早速この本を読んだ。森氏の試作した「簡易脳波計」については、私も脳波解析を行ったことがある経験から、科学的な根拠についての検証が充分行われているかどうか疑問になった。私の経験では、β波といわれる脳波は、α波に比べて著しく弱く、しかも短時間に発生し、森氏の述べている周波数範囲13-30ヘルツの範囲を超えるβ波も存在する。また脳波の分野ではアーチファクトと総称する妨害が多く、β波を分離するのは難しい。ゲームを行いながら測定しているようにも文庫本に書かれている。まばたきしたり、眼球が動くだけで筋肉から発生する電気的信号、すなわち筋電流がアーチファクトになる。したがってβ波の観測には静かに目を閉じて安静にし、声さえ出さないようにしておかなければ観測できない。森氏が開発した簡易脳波計がどのくらい正確にβ波をとらえているか検証が必要である。
 また森氏はα波とβ波が同時に出ているという仮定のもとに、その比率を計測しているようであるが、これまで広く行われている脳波に関する研究結果では、β波が出るときにはα波が停止するとされている。α波のブロッキングといわれている。
 森氏は、ゲーム脳が脳に関する生理的障害とこの文庫本のなかで主張している。脳波の計測手法と相まって科学的な検証が必要である。

 私は、コンピュータによるゲームによって脳に障害をもたらすとは考えていない。ゲームに耽溺することがよくないことは確かである。夜間熟睡しないことで様々な生理的な障害を引き起こすことは、よく知られるようになっている。
 成長期にある子供達の発育時に、ジャイアン症候群と呼ばれているADHD、アスペルガー症候群といった発達障害を親たちにわかりやすく「ゲーム脳」化ということにすればいいとのではなかろうかと考えた。

それも課題が残る。
 先般のラジオ放送「子供の心相談」に耳をかたむけていたところ、大人に囲まれて育っているある子供、大人との会話ではうまくいくが、子供の社会ではうとんじられ、孤立しているということについての相談があった。社会性にかかわる精神発達障害である。少子化社会の問題点の一つであろう。これも「ゲーム脳」化といえるかもしれない。しかしながら「この子はコンピュータのゲームなどは一切やらせたことがないのに、どうしてゲーム脳化なのでしょう」と問われる可能性は否定できない。
 一般にわかり易く、しかも親たちにも「そうか」と受け入れてもらえる知育発達障害をあらわす用語はないだろうか。
(脳)

さらに方程について

2008-07-13 10:14:31 | Weblog
「方程式」の表題のもとに前に述べたところ、青さんから次の貴重なコメントがあった。
 再録する。
―――――――――――――――――
変数を演算記号で結んだものをExpression(直接的に言うなら「表現」、日本流に言うなら「式」)、二つのExpressionを等式記号で結び つけたものがEquationです。私は、これを等式関係(一つの2項関係ですから)と呼び、方程式とは違えて呼んだりしました。
―――――――――――――――――
まことに要領のいいコメントで感心している。成る程、式とはExpressionであると改めて認識した。
確かに微分方程式により物理現象を表現している。
記号も「=」だけではなく「<」とか「>」などが含まれていてもいい。ところで、この表現(式)を並べて方程式というのであろうか。

そこで「方程」について、インターネットで改めて検索してみた。
その中には
―――――――
「方程」とは「格子状に数を並べること」を意味し,また,方程の「方」は「比」,「程」は「求」であるという解釈もなされています。
―――――――
「方」は左右、「程」は大小の比較というような意味があると思われます。 つまり、「方程」とは、左右を比べてまとめるということです。
―――――――
などがある。
漢字辞典で調べると「方」は鋤きの形をかたどる象形文字と書かれている。「方向」「方位」「方針」「方面」など、鋤きの向きと考えられる。前の文では「並べる」と述べた。これは方向を揃えて置くと解釈したからである。
「程」とは漢字辞典によると稲束などを摘み重ねるという意味で「程度」「日程」「道程」などの派生語があり、前の文では「程」は、「順序よく積み上げる」と私は解釈している。
上記のインターネットの説明はいずれもあてはまらない。
これらの本来の意味は、二千年以上まえの九章算術の創始者に問わなければならないから想像の域を脱することはできない。教育の現場では「方」と「程」の意味を示し、各自ごとに解釈させることが最も適切であろう。

インターネット検索すると、「算数書」に関する論文があった。京都大学数理解析研究所講究録1257巻、150-162P,2002年刊行、城地 茂「『算数書』の成立年代について」である。
1983年に中国湖北省で「算数書」の竹簡200枚が発掘されたが17年間にもわたり非公開であった。これが2000年に公開されたという。これを調査研究した報告が城地氏による論文である。これによると、「算数書」は紀元前186年以前の編纂で、九章算術よりも200年以上も前であると記している。
この「算数書」には「方程」はなかったという。もともとなかったのか、あるいは腐敗散逸しているのかは不明とのことである。
九章算術については、中国語の文献がある。
科挙の試験にも用いられたといわれている。
九章算術では、小数点以下の表示はすべて分数である。計算は簡単ではない。
中学校以上の数学教育に携わる方々は、これらの古代の文献にも接しておかれることを炉端からお薦めしておきたい。
(応)

方程式

2008-07-08 10:19:28 | Weblog
方程式とは数学用語であるが、恋愛方程式とか勝馬方程式などのワケのわからない派生語がある。
方程式という用語にいささか違和感があるので調べてみた。

方程式は、中国西暦紀元前50年頃に編纂されたといわれている「九章算術」が起源である。調べてみると「九章算術」とは9つの章からなる算法をまとめた書である。
次に八章の「方程」の冒頭にある問題をわかり易いように翻訳して提示する。
――――――――――
上、中、下の稲束がある。
上三束、中二束、下一束から三十九斗の実がとれ、
上二束、中三束、下一束から三十四斗の実がとれ、
上一束、中二束、下三束から二十六斗の実がとれた。
それぞれ上、中、下の稲束の一束から何斗の実がとれるか。
――――――――――
という問題である。斗とは体積の単位でおよそ十八リットルである。
数学的な表現を借りると「三元一次連立方程式」である。興味がある方は、解答を行ってみてはいかがであろうか。
方程式の方程とは、「方」の並べるという意味と「程」の順序よく積み上げると言う意味からなる熟語である。従って本来の古書の「方程」とは、「連立等式」のことである。
ところが物理学などでは連立していない等式も方程式といっている。例えば波動方程式がある。波動方程式は等式であるから「方程式」にはそぐわない。

違和感を持ち始めたのは、英語では方程式のことをEquationというから「等式」であることに始まる。方程式、正確にいうと連立方程式のことを英語では複数形にして Equationsと表現する。
方程式と表現すると、いかにも格調が高く聞こえることから、恋愛方程式なる派生語が生まれる。恋愛連立等式ではサマにならない。
いま一つ私の持つ違和感は、コンピュータのプログラミングで使う「=」の記号にある。代入を意味し、必ずしも等式として扱わない。ただし条件文の中では等式として扱う。プログラミング初心者には混乱をもたらす。これはコンピュータ・プログラミング界のことであるから、直接ここでの話題とは関係がないが、つけ加えておくことにする。
「方程式」を「等式」と呼び、「連立等式」のことのみ「方程式」という提案をしても、いまさらなにをいうかと数学とか物理など学界から無視されるであろう。このことを方程式として立ててみれば容易に解ける。
 しかし、この提案を中学とか高校の教科書に採用していただければ、式の意味が明確になるので数学キライが減少するかも知れない。
(応)

パソコンの技術動向-2008年夏

2008-07-04 11:51:56 | Weblog
最近のパソコン技術動向である。
パソコンのマザーボードとかCPUなどの構成品を集めて自分で組み立てるのも趣味の一つであるから、折に触れパソコンショプを覗いてみる。単に積み木細工のように組み立てるだけであるからパソコンの自作などと大げさなことは言わないことにしている。
大きな動向はディスクファイルがTバイトの容量になっていること、内部メモリは2Gバイト、USBメモリも16Gバイトになっている。
私がコンピュータとかかわっていた1960年代、1ビットあたり100円はくだらなかったので、2Gバイトは、2000000000×8×100として計算すると1兆6千億円に相当する。計算違いがあれば御指摘いただきたい。
そのメモリがパソコンに収まる。1960年代には想像もつかなかったことである。
大容量が必要になった背景を考えてみる。
そのことはディスプレイを調べれば想像がつく。
ブラウン管ディスプレイは市場から消滅し、地上ディジタル対応ハイビジョン・ディスプレイがパソコンの分野にも進出し手頃な価格で提供されている。
高精細な動画を記録したい、あるいはこの動画環境でパソコン・ゲームを楽しみたいというのであれば、Tバイトのメモリが要求されることがうなずける。
このような若いひとたちがのめり込むパソコン環境でなくて、ワープロなど日常に利用するだけであれば、大容量ディスクの必要性はないであろう。
ハードディスクは、クラッシュを避けるためにフォールト・トレラントの一環であるRAIDが普及しつつある。RAIDにはいくつかのレベルがあり、耐性レベルの低いミラーリングと称して、単にファイルを二重化するものから誤り訂正機能を持つ高いレベルのものがある。しかもパソコンには直接接続しないで独立させて、ネットワーク接続する。ネットワークも無線接続あるいは家庭内の電力線経由のPLCモデム接続ができるようになっている。ケーブルを張り回さずしかも盗聴にも耐性がある。PLCとは、Power Line Communication の略称でり、電波法の改正で利用ができるようになったものである。

と、ここまで書いたところで「ピン・ポーン」と玄関に訪問客がある。
ローテクの呼出器なので立ち上がって応対にでる。
もとにもどる。
パソコンに向かっているのだから、パソコンの画面の一角に訪問客の画像がでて応対をしたい。
地上ディジタル放送を鑑賞しているテレビでも同じことを考える。「ピン・ポーン」が聞こえないときに配達証明郵便がとどき、不在でもなかったのに「不在通知書」を郵便受けに見いだしたときの想い、居留守を使ったワケでもないのでまことに不快である。
地上ディジタル・テレビ受像時、画面の一部に郵便配達の姿が映れば直ちに対応ができる。できれば遠隔地にある自宅についても、不正侵入者対策を含めてそのような構成をしたい。
そのような要求に応えるパソコン附属構成部品、テレビ附属構成部品は、いまのところ見あたらない。現在の技術を使えばできるはずであり、商品価値もあると思われる。
(納)