ベスビオ火山の大噴火で、西暦79年8月ポンペイの町は火砕流で埋もれた。この地を観光客として訪れ、その石畳の道路を見ながら様々に想像する。
著者が写した写真をよくよく御覧いただきたい。
大きな石が隙間なく敷き詰められている。
その石に深い轍(わだち)の跡がある。
この轍の跡は何を物語るのだろうか。
まずは僅かな年月で彫られた轍ではない。かなりの年月にわたって、人々がここで生活していたことがわかる。少なくとも数世代、すなわち100年程度はポンペイ街が栄えていたと想像する。それ以上の年月かも知れない。
この轍を作る車には金属のタガがはめられていたであろうとも考える。このように深く削ずられているからである。
さらに疑問は続く。
どうしてこのように集中したところだけに轍が深く刻まれるのか。
道路はポンペイ街全体にわたって水が勢いよく流れる程度の勾配がある。
上水道があったこともわかっている。観光案内人が復元した水道水の蛇口をひねって飲んでみせ、ウマイと大きな声で述べたことから伝わる。
公衆浴場もある。
ところが見渡したところ下水道はない。
勾配のついた道路が下水道になっていたのではなかろうか。
その想像を裏付けるように、写真でもわかるように道路の至る所に横断のための飛び石がしつらえてある。
車は飛び石の間は、通ることができる。
そこにも轍の跡は残っている。
汚水の流れがとどこおって、見えにくくなった隙間に車の車輪がはまりこんで空転し、その場所に深い轍が刻み込まれる、と改めて写真をながめながら想像する。イギリスとかフランスでは、中世まで道路が汚物の捨て場であったといわれているので、この想像はあたらずとも遠からずではなかろうか。
インターネットを探ると実に多くの議論が噴出しており、御丁寧にも論文まである。
ただし上記の説は見あたらない。
ポンペイを観光し、ここに住んでいた人々の二千年も前の車の轍を見ながら、自然災害に無知に近い、あるいは忘れがちな現代人への警鐘の響きをその中に聞き耳をたてたものである。
(応)