劇場と映画、ときどき音楽と本

オペラ、バレエ、歌舞伎、文楽などの鑑賞日記です

シアター・オーブの「王様と私」

2019-07-23 05:49:05 | ミュージカル
7月22日(月)の昼にシアター・オーブで「王様と私」を観る。2015年にリンカーンセンターで再演されて評判が良かった作品の引っ越し公演。日本人の渡辺謙が王様役をやったのが評判だったが、それ以上に歌姫ケリー・オハラがアンナ役をやっているので、見逃せない公演だと思った。基本的にはイギリスでの公演時のプロダクションのようだが、ケリー・オハラが出ているのだからありがたい。

ケリー・オハラは「ジキルとハイド」の続演中の途中からルーシー役を演じたが、やはり注目を浴びたのは2005年の「広場の光」で主演してからだろう。「パジャマ・ゲーム」「南太平洋」この「王様と私」、そして「キス・ミー・ケイト」と古い作品の再演の主役が続くが、歌唱力がある歌姫なので貴重な存在だ。新作では「マジソン郡の橋」の主役も演じているが、素晴らしい声なのでメトロポリタンオペラにも出演している。2014年には1「メリーウィドウ」のヴァレンシエンヌ役で出たし、昨年は「コジ・ファン・トゥッテ」のデスピーナも歌っている。そんなケリー・オハラが、「王様と私」のアンナを歌うのだから見逃す手はない。

月曜の昼の公演だが、劇場は満席でほとんどは中年のマダムで埋まっていた。男性は数えるほどしかいない。夜の公演をカップルで見たい演目だが残念な限り。

「王様と私」は1951年の初演だから、もう70年近く前の作品なので、今見て古臭いかというと、まったく古臭さは感じさせない作品だ。そうした意味ではミュージカルのマスターピースといえるかも知れない。それでも上演時間は1幕85分で2幕は70分だから、現在のミュージカルと比べると20分ぐらい長いかも知れない。それでも長く感じさせないのは、演出のバートレット・;シャーの力量だろう。

オリジナルでは凝った舞台装置で、転換に時間がかかったが、今回のプロダクションではほとんど暗転もなく場面転換の音楽部分は踊りを挿入してスピーディーにまとめている。踊りもジェローム・ロビンスのオリジナルを尊重して、それを踏襲している。そうした意味では再演としてはとても良くできた作品だ。ただ、アンナが子供たちと親しくなる場面の「ゲティング・ノウ・ユウ」のダンス場面で、子供たちがアンナの膨らんだスカートを模して踊る振付が省かれていて、好きな振付だけにちょっと残念だった。

ケリー・オハラのはもちろん素晴らしいが、日本人にとっては渡辺謙が主演しているのもうれしい。しかし、渡辺謙の演技はちょっとコミカル過ぎたかも知れない。もちろん、素敵な個性を持っているのだが、もう少し威厳を持った王様像を作っても良かったかも知れない。

全体的に大いに楽しめる舞台ではあったが、出演者の人数がこの演目にしては少なく、踊りが少し貧弱だったかも知れない。また、オケの弦楽器が少なくて、ほとんど弦楽器の音が聞こえないのも寂しい。最近は弦楽器があまり使われなくなったが、昔の作品なのだからきちんと弦楽器を入れてほしい。調べてみるとリンカーンセンターの公演では弦楽器は10人ぐらい(これでも初演時の2/3ぐらいだろう)だが、シアターオーブはぐっと少なかったのではないだろうか。

もっとも、今年のトニー賞の中継で観た「オクラホマ」などは、劇場がサークル・イン・ザ・スクエアだったこともあるのだろうが、伴奏が完全にカントリー音楽調となっていて唖然とした。だんだんと時代により人々の趣味も変わっていくのは当然だが、古典的な作品の音楽のサウンドは変えずに楽しみたいものだ。

帰りにスーパーを覗くと、小ぶりのワカサギが出ていたので、これをフリットにして夕食にした。

ジェームス・M・バーダマンと里中哲彦の対談による「はじめてのアメリカ音楽史」

2019-07-22 04:44:02 | 読書
ちくま新書1376の「はじめてのアメリカ音楽史」を読む。2018年12月に出たまだ新しい本。新書版で約300ページ。対談の形でまとめられているので、平易な文章で読みやすい。「アメリカ音楽史」となっているが、クラシックやポピュラー音楽はほとんど扱われずに、いわゆるアメリカのルーツ音楽と言いうか、民衆的な音楽の歴史がまとめられている。

全体は7章に分けられていて、①ルーツ音楽、②ゴスペル、③ブルーズ、④ジャズ、⑤ソウル・ファンク・ヒップホップ、⑥カントリーとフォーク、⑦ロックンロールという章立てになっていて、各章の終わりに代表的な録音のアルバムの紹介がある。音楽なので、結局は実際に音を聞かないとイメージが湧かないので、そうした点では適切な編集だろう。

巻末には、年表と図示された「アメリカ音楽の流れ」があって、結構わかりやすい。冒頭にアメリカの地図が示されている。アメリカ音楽のルーツは南部にあるとのことで、地名などが沢山出てくるので、地図は役に立つ。この本の簡単な地図では今一つ分かりにくかったので、僕は手元に大きな地図帳を置いて、それを見ながら読んだ。最近は地図帳ではなく、インターネットのマップを使うことが多かったが、本を読みながら参照するのは、やっぱり、紙の地図帳が使いやすかった。

バンダーマンはアメリカ南部の出身で、里中氏はビートルズの本などを書いており、二人は早稲田大学で教えている仲のようだ。いろいろな要素がまじりあって形成されたアメリカ音楽のいろいろなルーツを説明してあり、優れた本だと思った。しかし、多くの音楽があるので、この小さな本ではとてもすべては扱い切れずに、舌足らずな部分もありそうだ。そうした点で「はじめての」ということなのだろうが、本格的な本が読みたいと思った。

基本的には「歌」を取りあげてあるので、器楽系の記述や踊りについての記述は少ない。その分、地理的、歴史的な背景については、結構記述されている。

アメリカの南部というと、南北戦争で負けたし、奴隷制に固執した点などから、なんとなく遅れた地域で保守的な印象があったが、この本を読むと、アメリカ文化における南部の重要性が良くわかる。北部はヨーロッパからの移民文化が中心だったのに対して、南部では黒人の文化が生じ、ヨーロッパの亜流ではないアメリカの独自性という点では、南部の文化を語らずには、アメリカ文化が語れないということが良く分かった。

そうした点では、読むに値する本だった。

メトロポリタンの「トゥーランドット」

2019-07-20 10:26:24 | オペラ
新国立の「トゥーランドット」は歌手陣が充実していて、大いに楽しんだのだが、演出で若干不満もあったので、メトロポリタンの「トゥーランドット」を観てみた。2015-16のシーズンの上演で、演出は30年ぐらい前にフランコ・ゼフィレッリが残したものを、そのまま上演している。今年の6月に亡くなったが、ゼフィレッリの正統派演出は今でも世界各国で人気が高いことがわかる。特にプッチーニやヴェルディの作品の演出は見事というしかない。

日本の新国立劇場でも、開幕公演で上演した「アイーダ」の演出が残っているが、美術的にも素晴らしいだけでなく、出演者も多く、馬も出てくるなど、圧倒される。やはりオペラはお金をかけて絢爛豪華に作った方が面白い。

ところで、メトに残るゼフィレッリの演出した「トゥーランドット」だが、人数も、衣裳も、美術も圧倒的で、もちろん歌手陣も充実しているので大いに楽しんだ。この作品では、合唱を担当する北京の一般市民と、天上の存在となる皇帝が同時に舞台上に登場するので、その距離感をどう表現するかが問題になる。今回の新国立の演出では、皇帝や姫がまさに舞台の上部から巨大な装置ごと降りてきたが、ゼフィレッリの演出では、舞台の手前に北京市民の合唱が奥を向いて座り、舞台では主に官吏や宦官などが並び、その一番奥に皇帝が坐する形となる。

メトロポリタンも新国立も、舞台は4面分あるはずだから、奥行きを使った演出は新国立でも可能だが、今回の装置では舞台の奥面と両脇を高い壁で囲んだので、皇帝は上から現れる形となったのだろう。どちらが良いとは言えないが、それなりに工夫されている。

もう一つ気が付いた大きな相違点は、照明の使い方だ。新国立の舞台では、天上界の皇帝や姫を強い照明で明るく照らし、地上の市民たちは暗闇の中に置かれる形となったため、衣裳が地味なこともあり、新国立の舞台では、カラフ、ティムール、リューの存在があまりよく判らなかった。それに対して、ゼフィレッリの演出では、1幕と2幕は舞台全体が明るく、衣裳もカラフらが分かりやすくなっていた。照明を落とすのは3幕の前半の「誰も寝てはならぬ」の夜の場面で、夜明けと共に、再び舞台は明るくなる。

最近は照明技法が進化したためか、全体を暗めにしておいて、一部だけ妙に明るく照らしたりする演出が多いが、見づらいことおびただしい。オペラではやはり歌を聴きに来るのが目的なのだから、演出や美術は、それを補強して聴きやすくするのが当たり前だろう。演出過多の舞台はいい加減にやめてほしい。

新国立劇場の「トゥーランドット」

2019-07-19 13:25:16 | オペラ
7月18日(木)の夜に新国立劇場で、新製作の「トゥーランドット」を観る。芸術監督の大野和士が自ら指揮をして、バルセロナ交響楽団を呼び、スペインの演出家アレックス・オリエが演出を担当するなど、かなり力が入った作品。先に東京文化会館でも公演を行い、びわ湖ホール、札幌でも公演予定ということで、新国立だけでなく、東京都やびわ湖ホールなども共同制作した形か。夕方の18時30分開演で、終演予定は21時20分となっていたが、若干遅れて始まり、アンコールなどもあったので、終演は21時40分頃だった。客席は完全に満員となっていた。

舞台のセットは北京の街をモデル化したような形で、三方が壁に囲まれていたので、結果的に声が客席に良く届く印象だった。今回の歌手陣は揃っていて、素晴らしかった。ダブル・キャストになっているが、18日はイレーネ・テオリンがトーランドット姫を歌った。素晴らしい歌で聞き惚れたが、カラフ役のテオドール・イリンカイも圧倒的な声の強さで、聴いているだけでなんだか泣けてきた。主演の二人も素晴らしいが、その脇を固めるティムールもイタリアのヴェテランであるリッカルド・ザネッラートだし、日本人ではリューを歌った中村恵理がこれまた素晴らしかった。

結局、オペラはやはり声が第一だから、今回のように歌手が揃うとそれだけで、見ごたえというか聞きごたえがある。変に演出などを凝る必要はまったくないと思う。オケのバルセロナ交響楽団も厚みのある音で、大野の指揮と呼吸のあったところを聞かせてくれた。合唱は新国立と藤原歌劇団、びわ湖ホールのほかに、東京FM少年合唱団が入っていたが、人数的にものすごく多いというわけではないのに、素晴らしい迫力だった。これはセットの効果かも知れない。

演出は、読み替えなどではなくストレートなもの。ピンパンポンの3人が、酔っ払いのようにカラフに絡みながら歌う場面はなかなか工夫されていて、分かりやすいし、いいアイディアだと思ったが、最後の結末を意外性のある形に変えたのは、単に奇を狙っただけのように思えて感心しなかったし、感情移入しにくいものがあった。

衣装は、合唱の北京市民はまったく色のない物であり、天上の皇帝や姫が純白を装っていたのと対照的だが、カラフ、ティムール、リューの三人も北京市民と同じような地味な服で溶け込んでしまい、見ていて分かりにくかった。この三人にはもう少し色を使った衣装を着せ、1幕2幕でアリアを歌う場面ではきちんと照明を当てるようにすべきだろう。最後にリューが赤いドレスを見せるのを強調したかったのだろうが、前半ではどこで歌っているのか、分かりにくかった。

まあ、オペラなので歌と音楽が良ければ、あとはまあ許そうという気になった。新国立での公演でも、毎回こうしたクラスの歌手を聴きたいと思う。予算がなくて呼べないのかなあとも思うが、歌手のの質が低下すれば、つまらない演出だと腹を立てるかも知れない。しかし、歌手が良ければすべて良しという印象だった。

雨が降り出したので、まっすぐに家に帰って、冷凍してあったクスクスで食事。ワインはオレンジのリキュールをカヴァで割って飲んだ。


映画「プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード」

2019-07-18 06:58:00 | 映画
衛星放送の録画で「プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード」を観る。副題の「誘惑のマスカレード」というのは、仮面舞踏会でモーツァルトとソプラノ歌手が出会って恋愛関係になるので、そうしたのだろうが、あまり内容にあっていない感じ。モーツァルト像というと、映画版「アマデウス」を見てからは、なんとなく、あの映画に描かれた天才だが軽薄なイメージを刷り込まれてしまったが、この映画のモーツァルトは、真面目な好青年という感じで描かれている。

19世紀の末に、「フィガロの結婚」は封建制度批判的な感じがあるので、ウィーンではあまり受けが良くなかったらしいが、チェコのプラハでは大人気となったとオペラの歴史書には書いてある。そこで、モーツァルトはプラハに招かれて新作「ドン・ジョヴァンニ」を上演する。この映画では、チェコに呼ばれたモーツァルトが、「ドン・ジョヴァンニ」を書き上げて上演するまでを描いている。

モーツアルトの妻のコンスタンツァは子供と共に、温泉療養に行ったので、モーツァルトは単身プラハに乗り込み、そこでフィガロに出ていたソプラノ歌手と恋に落ちる。

一方、プラハで力を持った有力貴族で、モーツァルトを呼ぶ旅費を負担した男は、残忍な好色家で、次から次へと周りの女性を毒牙にかけていく。この貴族もモーツァルトが恋したのと同じソプラノ歌手に目を付けて、モーツァルトを付け狙ったりするのだが、そうしたエピソードがそのまま「ドン・ジョヴァンニ」に盛り込まれていくという展開だ。有名な石像の話や、騎士長殺し、従者とマントを取り替えて逃げる話などが盛り込まれる。

「ドン・ジョヴァンニ」のオペラを知っていると、ああ、このエピソードはあそこに繋がるのだなとわかって面白いが、オペラを知らないと、そこいらの面白さは半減してしまうだろう。

劇中に出てくる、「フィガロの結婚」や「ドン・ジョヴァンニ」の舞台場面も結構楽しめた。2016年のチェコとイギリスの合作で、英語版だった。プラハの旧市街の昔の街並みが映像でも美しくとらえられていた。