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玉三郎と鼓童の「幽玄」は食い合わせが悪い

2017-05-19 08:56:22 | 能・狂言
玉三郎のファンに誘われて、オーチャード・ホールの「幽玄」を観る。チケットは完売で、満席というのに驚く。結構、こうした企画に客が入るのだ。客層は余裕のありそうな中年から初老のご婦人が多く、まあ、松濤の有閑マダムといった感じ。オーチャード・ホールで16日から20日まで、その後、新潟、愛知を回り、9月には博多、京都の予定となっている。

さて、「幽玄」という題名から察するに能楽の根本的な世界を描くことにあるのだろう。舞台は2部構成で、1部は「羽衣」をテーマに50分、25分の休憩の後に、2部が70分で「道成寺」と「石橋」をテーマにしている。構成から考えても能楽由来は明らかだろう。演出と出演は玉三郎で、鼓童のメンバーは18人、そのほか花柳壽輔と花柳の踊り手が十数人といった感じ。作者の表記はチラシを観たが書いてない。古典芸能では作者なしなのかなあ、ちょっと心配する。

さて、日本の踊りは「舞」と「踊り」に分頼されており、「舞」は能楽が代表的であり、上方舞として関西に多く残る。一方、「踊り」は歌舞伎などに多く盆踊りなども代表的だろう。「舞」は旋回動作で、動きは少なくゆったりとしているのにたいして、「踊り」は跳躍動作を基本とする、と広辞苑にも載っている。「舞」よりも「踊り」はリズムが必要なのだ。

一方、鼓童は太鼓をたたく集団だ。音楽に旋律、リズム、和声などの主要要素があるが、太鼓や打楽器で表現するのは、明らかにリズムが中心となる。旋律や和声を太鼓に求めるのは中々難しい。だから、太鼓の伴奏で踊るのは基本的に盆踊りのように「踊り」なのだろう。

そうしたことから考えると、「幽玄」で表現しようする能楽の世界は「舞」であり、鼓童の得意とする太鼓のリズムは「踊り」であるから、両者は水と油、混ぜようとしてもすぐに分離してしまう性質のものだ。それを融合して新たな境地を開こうというのが、今回の企画なのかもしれないが、今回の舞台から見えてくるのは、両者の融合は簡単ではなく失敗に終わったということだけだろう。

1部の「羽衣」では、玉三郎は「舞」を目指しており、鼓童はリズムを封印する。その結果14人が裃姿で並び、締め太鼓をドロドロとリズムなく打ち続ける。これはもしかすると寄せては帰る波を表現しているのかも知れぬが、一方で眠気を誘う効果もある。そうした中で時折響く単発の太鼓音は、明らかに小鼓を模した音や演奏になっており、そんなことをやるのならば、最初から小鼓を使ってほしいと感じさせる。そうした玉三郎の周りには花柳流の「踊り」手が幾何学的なフォーメーションで群舞を「踊る」。うーん、観るに堪えない。

続く2部は、「舞」の世界すなわち「幽玄」の世界は吹き飛び、鼓童の太鼓のリズムに合わせて、玉三郎は「踊って」しまう。道成寺の白拍子花子は舞のように出てくるが、結局は自分も鼓を首から下げて、叩きながら、鼓童とリズムセッションを繰り広げて、果ては体操のような「舞」「踊り」を披露する。鐘入りでは終わらずに、再び鐘が上がると大蛇となって、珍妙な蛇踊が延々と続く。そう言えば、どこかの温泉旅館でこんな感じのショーを見た記憶がよみがえってきた。

2部の後半は「石橋」だが、いきなり5頭の獅子が出てきて、タテガミを振り回す踊りを見せる。歌舞伎の「連獅子」でよくやるパターン。あの見事な毛はチベット産のヤクの毛を使って作っているという話を聞いたことがあるが、あれだけの毛を集めるのは大変なのではないかなどと心配しながら観る。ここではもう「舞」は吹っ飛んで、ただただリズムに乗せた「踊り」一辺倒。「幽玄」の世界からは程遠いが、客席のご婦人たちは大いに満足していた。

2部の踊り手たちは、キャンドル・ライトを掌に載せて、客席から登場するが、この演出パターンは素人のベリーダンス発表会でよく見る演出。花柳流の人もベリーダンスを観にいくのかなあ。そう言えば、キャンドルの踊りの後は、ベールを使った踊りも多いが、羽衣もベールを題材にしているなと考えたりする。

鼓童も太鼓だけでなく、歌ったりもする。歌なのか謡いなのか判然としないが、十数人でユニゾンで歌っているように聞こえる。ムードとしてはグレゴリオ聖歌に近い。それはそれで斬新な試みかもしれない。

あまりに僕がブツクサいうものだから、玉三郎ファンからは、「良い点は言えないの?」と叱られた。しばらく考えた後に「鐘が良くできていて、鐘入りのスピード感が良かった」と答えた。このままでは帰れないと思い、行きつけのすし屋に電話して、少し早いが店を開けてもらって、いつもより余分に食べた。

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