見逃した古い映画を衛星放送でやっていたので、録画してみる。この作品はウィリアム・インジの小説の映画化なので、ちょっと気になっていたのだが、仕事が忙しかった時期で見逃してしまっていた。1978年の映画で、監督はマーヴィン・チョムスキーという、言語学者みたいな名前の人。知らなかったので、調べてみると、テレビの監督として活躍したようで、映画は少ない。
原作を書いたウィリアム・インジは、有名な劇作家で「愛しのシバよ帰れ」、「ピクニック」、「バス停留所」、「階段の上の暗闇」などの名作を1950年代に書いている。これらの作品は映画にもなったりしているので、多くのファンがいるかも知れない。
1960年代にも戯曲を書いているが、エリア・カザンの映画「草原の輝き」の台本を書いたのが有名かも知れない。1970年代に小説を二つ書いていて、その最初に書いた小説がこの「さよならミス・ワイコフ」だ。映画の日本公開題名は「さよなら」となているが、原題名は「グッド・ラック、ミス・ワイコフ」なので、「お元気で、ミス・ワイコフ」としたほうが内容にあっている。
内容は1950年代中ごろのアメリカ中西部の閉鎖的な田舎町での話。主人公のミス・ワイコフは、高校のラテン語の教師で、題名からもわかるとおりに独身女性。30歳代半ばだが、いまだに男性経験がなく、そのためにヒステリー症状を起こして「早期」更年期障害と診断されて、医師から男性と付き合ってはどうかと勧められる。
ところが、それまで男性と付き合った経験がないので、どんな男性と付き合うべきかわからなくなってしまい、黒人の若い男と関係をもったのが町の人々に知るところになり、町にいられなくなって、ひとり町を出ていく決心をする。そうした彼女に投げかけられた言葉が、「お元気で、ミス・ワイコフ」である。
まず、アメリカで公民権運動が本格化する前の黒人差別的な雰囲気が漂う1950年代半ばであり、その中でも特に閉鎖的な雰囲気を持つ中西部の小さな町を舞台にしていることがカギとなっている。これが、1930年代であれば、関係した黒人青年はリンチに会うかも知れない。1970年代ならば、町の人の対応も違うかも知れない。そうした、1950年代中ごろなのだ。
映画の冒頭で、ミス・ワイコフが高校の同僚の女先生と下宿先の保守的な夫人と一緒に、マーロン・ブランドとヴィヴィアン・リーの「欲望という名の電車」を見に行くという場面が出てくる。同僚の女性教師はブランドの体がすごかったわねなどと話題にして、あんな男に抱かれてみたいなどとおしゃべりするのだが、ミス・ワイコフはまるで不潔なものにでも出会ったような反応をする。
しかし、映画の進展とともに、ミス・ワイコフはヴィヴィアン・リーのようになっていくのだ。まあ、雰囲気としては、ジャンヌ・モローの主演した映画「マドモアゼル」に近い作品だろう。テーマ的にもそっくりだ。
なかなか、面白いテーマなのだが、この映画が作られた1970年代末の雰囲気かもしれないが、性的場面の描写が直接的過ぎて、僕などはちょっと嫌になってしまう。もっと上品に描けないのかなあと思う。テレビの監督なので、普段のテレビで描けない表現をと考えて張り切りすぎたのかも知れない。
というわけで、見逃していた作品を一つこなした。
原作を書いたウィリアム・インジは、有名な劇作家で「愛しのシバよ帰れ」、「ピクニック」、「バス停留所」、「階段の上の暗闇」などの名作を1950年代に書いている。これらの作品は映画にもなったりしているので、多くのファンがいるかも知れない。
1960年代にも戯曲を書いているが、エリア・カザンの映画「草原の輝き」の台本を書いたのが有名かも知れない。1970年代に小説を二つ書いていて、その最初に書いた小説がこの「さよならミス・ワイコフ」だ。映画の日本公開題名は「さよなら」となているが、原題名は「グッド・ラック、ミス・ワイコフ」なので、「お元気で、ミス・ワイコフ」としたほうが内容にあっている。
内容は1950年代中ごろのアメリカ中西部の閉鎖的な田舎町での話。主人公のミス・ワイコフは、高校のラテン語の教師で、題名からもわかるとおりに独身女性。30歳代半ばだが、いまだに男性経験がなく、そのためにヒステリー症状を起こして「早期」更年期障害と診断されて、医師から男性と付き合ってはどうかと勧められる。
ところが、それまで男性と付き合った経験がないので、どんな男性と付き合うべきかわからなくなってしまい、黒人の若い男と関係をもったのが町の人々に知るところになり、町にいられなくなって、ひとり町を出ていく決心をする。そうした彼女に投げかけられた言葉が、「お元気で、ミス・ワイコフ」である。
まず、アメリカで公民権運動が本格化する前の黒人差別的な雰囲気が漂う1950年代半ばであり、その中でも特に閉鎖的な雰囲気を持つ中西部の小さな町を舞台にしていることがカギとなっている。これが、1930年代であれば、関係した黒人青年はリンチに会うかも知れない。1970年代ならば、町の人の対応も違うかも知れない。そうした、1950年代中ごろなのだ。
映画の冒頭で、ミス・ワイコフが高校の同僚の女先生と下宿先の保守的な夫人と一緒に、マーロン・ブランドとヴィヴィアン・リーの「欲望という名の電車」を見に行くという場面が出てくる。同僚の女性教師はブランドの体がすごかったわねなどと話題にして、あんな男に抱かれてみたいなどとおしゃべりするのだが、ミス・ワイコフはまるで不潔なものにでも出会ったような反応をする。
しかし、映画の進展とともに、ミス・ワイコフはヴィヴィアン・リーのようになっていくのだ。まあ、雰囲気としては、ジャンヌ・モローの主演した映画「マドモアゼル」に近い作品だろう。テーマ的にもそっくりだ。
なかなか、面白いテーマなのだが、この映画が作られた1970年代末の雰囲気かもしれないが、性的場面の描写が直接的過ぎて、僕などはちょっと嫌になってしまう。もっと上品に描けないのかなあと思う。テレビの監督なので、普段のテレビで描けない表現をと考えて張り切りすぎたのかも知れない。
というわけで、見逃していた作品を一つこなした。