ある文化人類学者が、
現地の渓谷の調査に訪れ、
先住民族の男性に案内を頼んで、ある目的地まで向かった。
二人で歩いている途中、ある岸壁で、
男性が、突然、壁面に向かい、チョークで絵を描き始めた。
文化人類学者が、
「あなたはなぜ絵を描いているのですか?」と尋ねると、
彼は答えた。
「私が描いているのではない。神が私の手を使って描いているのだ。」
よく、冗談で、
悪いことをした後に、
「私がしたんじゃありません。私の手がやったんです。」なんて言ったりするけど、
あのプロセスは、それなりの意味があると思う。
自分がした感覚がない、ということは、珍しくなく、起こることなのだと思う。
善悪とは、無関係に。
私も、時々、
いま、ここで、声を出しているのは、自分であって、自分ではないような感覚があって、
そのときは、
頭に浮かぶことと、声を発することと、その声を聞くことが、同時に起こる。
主体と客体が一体となる。
全部の行為がとても軽くなる。
これは、たぶん、珍しいことではなく、
人ぞれぞれ、あらゆる場面で起こっている奇跡だ。