青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

梅田ピカデリー ~泉の広場上がる“松竹会館”

2022-01-26 | 昭和の映画館

大阪の昭和の映画館。まだまだご紹介が遅れています。何度も改装オープンしている梅田の「泉の広場」を上がった所、阪急東通り商店街と道路で隔たった一画に、梅田松竹会館はありました。

梅田松竹会館は昭和55年(1980年)3月、梅田松竹、梅田ロキシー、梅田ピカデリー1とピカデリー2の4つの映画館が入ってオープンしました。オープニングの上映作品は写真からも分かるように、高倉健の「遥かなる山の呼び声」、矢沢永吉の「ラン&ラン」、「あしたのジョー」と「1941」でした。

1番記憶に残る興行は、オープニングの地味な作品ではなく、「E.T.」です。4つの劇場の3つを全て「E.T.」にして、莫大な収益を上げた時の人の混雑は、それまでに経験がないほど。エレベーターが使えず、10階のピカデリー1から階段を歩いて降りたことが忘れられません。物凄い混雑でした。

ピカデリー1では「E.T.」、ピカデリー3では「マッドマックス2」「愛と青春の旅立ち」「フィラッシュダンス」、ピカデリー4では「男はつらいよ」シリーズと「壬生義士伝」を観ました。僕は行っていませんが、この劇場では多くの人々が「ハリー・ポッター」シリーズをご覧になったと思います。

もう1つ、この劇場で思い出深いのは、平成15年(2003年)から全席指定・定員入れ替え制になったこと。この為、前売り券も、当日に時間指定券に交換してから入場に。「今から映画に行こうか?」と思い付きで劇場に足を運んでも、入場出来ないこともあり、とても不便に感じるようになりました。

そもそも面白かった作品なら2回観ようとか、何度でも観るということが不可能になり、映画ファンにとっては、劇場での鑑賞スタイルが激変しました。この頃から、僕自身は映画館から足が遠のいたと記憶しています。

その後、梅田ロキシーはピカデリー3となり・・・

平成11年5月の写真ですが、この年6月に、「梅田松竹」は「梅田ピカデリー4」に館名変更しました。

僕が関東や海外で仕事をして、2010年代に大阪に戻って来るとピカデリー1~4が消えていたのに驚きました。たったの30年で消えるの?いや、いや、30年も続いていたんだと思い直しましたが。今は何十年も続くような娯楽施設は、すっかり姿を消しました。突然大ヒットして、あっと言う間にすたれてしまうものも少なくなりません。人の気持ちと同様、時代の移り変わりはとても早くなりました。

この劇場も今はなく、平成23年(2011年)1月16日に閉館、その後松竹は、大阪ステーション・シティシネマに移転しました。


失われたアーケード ~消えゆく“服部阪急”商店街

2022-01-25 | 昭和・懐かしい北摂の風景

シャッター商店街・・・消えゆく街の商店街が、こう呼ばれるようになったのは、いつの頃からだったでしょう。

阪急宝塚線・服部天神駅を下車、線路の西側に昔からあるパチンコ屋「服部会館」のある一帯は、「服部西商店会」という名の商店街でした。その目抜き通りを西に少し歩くと、左側にアーケードのある「服部阪急商店街」がありました。今もこの商店街はあるのですが、「ありました」と書いたのは・・・

現在ではこのように、アーケードが無くなってしまったからです。(左が往時の写真・右が現在の写真です。)

ここ「服部阪急商店街」は、昭和37年(1962年)に全蓋式アーケードを持つ商店街としてオープンしました。僕が子供の頃には大勢の人手で賑わっていたものです。

このアーケードのある写真にしても撮影したのは平成で、かなりお客さんの姿を見なくなってからのもの。それでも営業しているお店の数は、まだ結構ありました。

服部にも大型スーパーが沢山出来ました。この近くの渡辺病院前のテニスコートは「ニッショー服部西店」となり、その後「阪急オアシス」にリニューアル。この商店街を抜けて、駅側に歩けば「ライフ服部店」があります。地元の商店街の収益がダウンするのも時代の流れかも知れません。

そして、老朽化もあり、2015年にアーケードは撤去され、青空商店街として生まれ変わりました。

昔も今も変わらず営業しているお店もありますが、多くは閉店となり、今は本当に寂しい商店街になってしまいました。昔ながらのお店には、いろいろな品物があり、中にはスーパーや100均では手に入らない品物が少なくありません。

そういう品物は、インターネットやホームセンターで買うことが出来ますが、お年寄りには距離が遠かったり、ネットショッピングは敷居が高かったり・・。誰もが品物を手に取って確認し、楽しく買い物が地元で出来る。そういう社会は、もう帰って来ないと痛感します。何が便利で快適なのか?それを考えなければならない「時」が、近い将来やって来るでしょう。

「安ければ良い」・・そういう社会の求めに従って、物の値段がガラパゴス化して来た日本。日本人はiPhoneの値段が高いと言いますが、欧米では所得も上がっているので高いとは言われていません。モノの価格が抑えられ、同時にここ数十年給料も上がらない日本。安かろう悪かろう物をつかみ、買い物の楽しさを味わうことが明らかに減っていると僕は思います。

オーディオ機器等の、大人の趣味の玩具も種類がどんどん減って、昔はあったものが入手出来なくなっています。ゲームばかりが次から次へと発売されていますが、あれがあれば楽しく過ごせるの?僕には全く理解出来ません。


Billboard Live 大阪 ~カーラ・ボノフ

2022-01-24 | 素晴らしかった興行・イベント

大人の社交場・・それで思い出したのが、大阪の「Billboard Live 大阪」です。往年の大物歌手のステージが、温かい空間で時の流れに身を任せるように堪能できる。初めて行った時は、食事をしながらステージを聴く?アーティストに失礼だろうと思いましたが、慣れとは怖いもので・・。僕はBOXシートか、カジュアルエリアから楽しんでいました。ニューヨークでジャズを聴きながら食事だと、何とも無いのですが、日本国内で飲食しながらコンサートを楽しむのは、何か落ち着かない気分になります。

大阪のビルボードには何度も足を運びましたが、1番良かったのはカーラ・ボノフ!2016年1月18日のステージでした。

曲を聴きながらA3サイズのメニューの裏に、びっしりと演奏の感想と、これまでの彼女の活躍に対する意見を書き、ダメ元で電話・メルアドも書いて演奏後に手渡すと、暫くすると本人からの電話が掛かって来ました。帰り道だったので、最寄りの駅で降りてホームで会話しました。

それで翌日もチケットを手配して頂き、2日連続でステージを楽しんだことは思い出です。僕は英語が話せて損をしたことがありません!コロナ禍において、帰宅が早くなった方、外出する機会が減ってしまった人は世の中に大勢います。その中には、この機会に英語をマスターしたり、資格を取ったり・・・アフターコロナ後の社会のことを考え、転職に備えて努力をしている人が多いことも聞きます。

カーラ・ボノフ・・・もっと売れても良かったのに、日本ではリンダ・ロンシュタットなどに曲を提供した、ソングライターのイメージの方が強いのでしょうか?

写真は記念に頂いたCDです。「Billboard Live 大阪」、東京には「Billboard Live 東京」があり、どちらかに足を運ばれた方は多いと思います。あなたのお気に入りのステージは?

僕はJ.D.サウザーや、ジャズのヘイリー・ロレンのステージも良かった!シーナ・イーストンはイマイチでしたが。2014年2月25日ビルボード大阪での、カーラ・ボノフとJ.D.サウザーのジョイント・コンサートは最高でしたが、あれも演っていない、これも演っていないと贅沢な文句を言いたくなりましたので、やはりアーティストは1人でOK。大昔、甲子園球場で観た「カリフォルニアLIVE」(1981.9.13)を思い出します。

僕は臆病なので、コロナウイルスが蔓延し始めた2020年から2年少し今日まで、映画館もコンサートも観劇も観戦も控えています。安心して会場に足を運ぶことが出来る日が、1日も早く戻って欲しいと願いながら、不要不急の外出は控えています。


“ポルノ”が自動販売機で買えた!

2022-01-23 | 昭和・思い出は色褪せない

昭和と現在を比べた時、隔世の感があるのが「倫理基準」。今は「ヘア解禁」と、映画でも写真集でもボカシの入ったもの等はほとんど見かけません。僕が学生の頃に見た普通の洋画で、ヤボなボカシが入っていた作品も、今は市販のブルーレイでクッキリと女優さんのヘアヌードを観ることが出来ます。宮沢りえの写真集「サンタフェ」(撮影・篠山紀信)が発売になった時は、本当に大きな話題になりました。

今ではインターネット上では事実上、ボカシも何もないポルノというより、セックス動画が見放題。昔ブルーフィルムに取って代わった「裏ビデオ」見たさに、VHSのビデオデッキを学生から大人までが買い求めた時代が懐かし過ぎます。

松下がその販売網を使い、街のナショナルの看板を上げている電気屋が、VHSデッキをお客の家に持ち込み実演する。その時に使ったビデオが「裏ビデオ」。「今ビデオデッキを買うと、このビデオテープもサービスで付けますよ」という営業トークで、哀れポルノソフトを販売しなかった「ベータ」のソニーはVHSに駆逐されました。技術はベータが上でも、見たいソフトが無ければ売れない。世の中のエロ・パワーに世界のソニーが敗北しました。

話は戻って、昭和50年代(1975年からのほぼ10年間)には、ポルノ雑誌の自動販売機が物議をかもしました。人気の無い道路の側溝には、書店では売っていないようなポルノ雑誌、ポルノ漫画が捨てられていた時代です。大阪は梅田の阪急東通りなどの怪し気な書店では、中身を見ることの出来ないビニールに包装された「ビニ本」が販売されていました。そういう表向きの本でも十分エロいのですが、常連客などに更に高価な値段で販売する「裏本」もありました。今なら無料で見ることが出来る動画。昔は高いお金を払って雑誌を購入していた若者(おじさんも)が大勢いました。

そして、遂に登場したのがポルノ雑誌の自動販売機です。

ポルノ雑誌は通常の書店ルートでは販売していないので、出版業界の自主規制にはかからず、しかも人に会わずに買うことが出来る自動販売機は一種の「盲点」を突いたもので、一気に広がった記憶があります。写真は昭和56年(1981年)の大阪・吹田市内です。

この自動販売機、昼間には覗いても本の表紙が見えない。でも、夜はハッキリ見えるという「オーロラフィルム」等と呼ばれたシールが貼った自販機もありましたし、写真のようにポルノとは呼べない「GORO」「プレイボーイ」「平凡パンチ」等の男性誌もカモフラージュの為?に、一緒に販売されている自販機もありました。警察が検挙するような、当時は過激とされた「裏本」「ビニ本」は、勿論こういう自動販売機では販売されていませんでしたが、それでも人々を刺激するには十分でした。

タバコや雑誌パンなどを販売していた、今のコンビニというより駅の売店のような、街中のお店「〇〇商店」の公衆電話横には、コンドームの自動販売機が堂々と鎮座していたのを覚えている方も多いと思います。昭和って、今から振り返ると凄い時代でした。


80年代心斎橋 ~今とはこんなに違いました!

2022-01-22 | 昭和・懐かしい大阪の風景

昨日に続き、心斎橋筋の80年代を歩いてみましょう。例えが古いのですが、僕が知っている藤子不二雄原作の「怪物くん」や「パーマン」の主題歌は、僕の後輩達が知っているそれらとは違います。「オバケのQ太郎」は主題歌どころか、そもそも僕が知っているのは白黒アニメです。心斎橋のパルコも同じで、僕の知っているパルコはここです。

今のパルコは、そごう本店として1877年に開店し、2005年にそごう心斎橋本店として新築された建物を全面的にリノベーションした建物に入っています。かつては、そのすぐ近くの写真がパルコでしたが、1度大阪から撤退。約9年ぶりの2020年11月20日に、再び大阪・心斎橋への出店を果たしたのが現在のパルコです。

だから、僕のような年寄にはパルコはパルコでも、今のパルコは別物です。昔のパルコはソニータワービルの筋向いにあった、女性向きのファッション専門店ばかりを集めた8階建てのビルでした。7~8階は、イタリア料理・フランス料理などが入っていて、買い物は夜8時まで。食事は11時まででした。80年代に「パルコ」は、ダイハツが「ミラ・パルコ」という名前の軽自動車の限定車を、パルコと提携して発売したほどの人気でした。

そもそもソニータワービルの筋向いと書きましたが、ソニータワービルが現在はありません。(笑)

心斎橋筋の長堀橋よりにあった9階建て、72メートルのソニーのショールーム専用のビルでした。全体がソニーの商品展示場で、オーディオ・ビデオなどのあらゆる製品が揃っていました。ソニー・プラザもあり、輸入雑貨も手に入りました。

近くにある「ホテル日航大阪」は、昭和57年(1982年)9月にオープン。地下2階は飲食店、ディスコ。地下1階はショッピングフロア、1階は日航カウンター、2階はフロント、客室は11~30階でした。

心斎橋に買い物に行けば、必ず立ち寄ったのが「ヤマハ」。

レコード、CDの品揃えが豊富で、エレクトーンを無料で教えてくれるお姉さんがいたりして、音楽ファンなら1度は覗いたことがあるお店でした。

トラッドファンが好きな「ビバリーヒルズ」、ドイツの糸切りバサミ、フランスのロココ調鏡、アメリカのミッキーマウス型電話などを置いていた「リチャード」。書道用品の専門店「竹翠書院」、女の子がよく行く「玉屋」、2階に喫茶室のあるケーキ・ショップ「インナートリップ」。

お酒なら朝4時までやっている、のど自慢道場にもなっていたパブ「泥棒貴族」、ステンドグラスに飾られたパブ「リバティーハウス」、心斎橋タワービル8階にはラテンやポップスのライブが毎晩あるメキシコ料理店「エル・パンチョス」等のお店も忘れられません。