しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <聖絶>

2020-01-19 | みことば静想

しらゆり

「あなたの神、主が彼らをあなたに渡し、あなたがこれを討つとき、あなたは彼らを必ず聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。また、彼らにあわれみを示してはならない。」(申命記7:2新改訳)

旧約聖書、とくに申命記やヨシュア記を読むと、聖絶という神の命令に直面する。聖絶といえば聞こえはよいが、人間に対する聖絶とは、要するに絶滅、皆殺し、完全殺戮である。イスラエルが入って行く約束の地に住んでいた原住民たちは、あまりにも道徳的、倫理的腐敗がはげしかったので、神は彼らを聖絶するようモーセを通してお命じになった。ひとりも残さず、老若男女を問わず、あらゆる者を殺して存在をゼロにしてしまう。まことにすさまじい命令であった。▼もし私がカナン原住民のひとりであったなら、殺される以外に道はないのだから、恐怖にふるえながら殺されて行ったであろう。かつてある人が私に言った。「新約の神は受け入れられるが、旧約の神は信じられない」と。▼しかし、ここで改めて思うべき事実がある。それはイエス・キリストが当時のユダヤ人に「聖絶された」ということである。彼らは心の動機はともあれ、ナザレのイエスを「聖絶しなければならない詛われた瀆神者」と断定し、殺したのであった。この事実が私たちの前に大きく立ちはだかる。つまり、旧約時代における聖絶の思想がなければ、イエス・キリストの死はあり得なかったことになるのだ。▼旧約聖書はむごたらしさと呪いと殺戮にあふれている。どれだけ多くの人々、動物たちが、のろわれたものとなって屠られたことか数えることもできない。流された血が海のように満ちた旧約歴史、だが、それはただ一点、ゴルゴタにおけるイエスの死にすべて帰結する。▼イエスは全世界の罪を負い、聖絶された。イスラエルは、「神にのろわれ、聖絶された者を、なぜ神として信じなければならないのか。絶対にそんなことがあってはならない。」として排除する。これが十字架のつまずきである。しかしやがて全世界が、聖絶したお方が神であられる事実をみつめるときがやって来るであろう。「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13同)▼主イエスが聖絶された事実に心の目が開かれるとき、じつは「私の罪」が聖絶される。というのは、両者がひとつに結び付けられているからだ。そして、まったく新しいいのち、新しい私がキリストと共に出現するのを覚えるのである。