しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <身は鎖につながれても>

2016-12-18 | みことば静想

編み笠「私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。」(Ⅱテモテ2:9新改訳)

青空なのに氷点下5度という寒さ、分厚いコートに身を包みながら、一面の雪景色に囲まれた網走監獄(今は博物館となっている)を見学した。▼私は、とあるコーナーに来た時、おもわず足をしばらく止め、展示品に見入った。それは囚人たちを拘束する手錠、足錠、鎖、ロープあるいは鎖のついた重そうな鉄製重りなどの現物品であった。▼私に洗礼を授けてくれた恩師は太平洋戦争中、三年半近くを独房に入れられた。イエス・キリストだけが神であると主張したためだ。その結果としての実刑判決。刑務所に数珠のようにつながれて行くその時に詠んだ歌、「編み笠も、手錠も我に何ならむ。いばら被りしわが主思えば」を私も聞き覚えている。囚人たちのその様子もそっくり展示してあった。盗みや殺しをしたのならまだしも、間違った信仰との理由だけでつながれる。それはなんという屈辱であろう。私は、「十字架を負うとは、屈辱に身をわたすことなのだ」と思わせられた。▼それにしても二千年前の使徒パウロの時代は、さらに劣悪な牢獄と鎖だったにちがいない。イエスを主と信じる者にこの世が下す刑罰が、にわかに現実味を帯びて私に迫って来た。それとともに、信仰の火はどんな力をもってしても消すことができないのだ、との感動が体中をめぐり出したのである。偉大なのは、パウロでも恩師でもない。その内にあった聖霊と信仰の炎なのだ。この火はいかなる力を加えても消すのは不可能である。人間ではなく神ご自身なのだから。パウロの獄中書簡や牧会書簡を見よ、喜びがあふれ、からだは鎖にしばられていても、霊魂は地上のみか、神のいます第三の天まで自由自在に飛翔している。▼キリスト・イエスというお方が持つ迫力、形容しがたい復活の動力、私のごとき弱く小さい者にもそれが宿ったとは。感謝、畏れ、喜び、緊張などを全部ブレンドしたような気持ちになり、しばらくそこに私は立っていた。