しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <新しい契約>

2024-06-08 | Ⅰコリント
「食事の後、同じように杯を取って言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』」(Ⅰコリント11:25新改訳)

教会でもたれる会食は、聖餐式以外は世の中の食事会とおなじと考えてよいのであろうか。私はそうでないと思う。理由は、教会がキリストのからだであり、常にイエス・キリストが御霊によって臨在しておられるからだ。▼世の食事会のように、酒や魚、焼き肉などを食べながら汚れた話や交わりにふける、そんなものであってはならない。主は数千人の人々に食べさせる時、パンと魚を持って天の父に感謝をささげ、続いて人々に分けられた。エマオの夕食でも、御父に感謝しつつ、二人の弟子にそれを裂いて与えられたのである。それはどんなに敬虔な食事だったことか。▼キリスト者が食事会をするとき、そこにはいつも主イエスが同席しておられることをおぼえたい。固くなる必要は少しもないが、救われた喜びと御国への希望が満ちる愛餐のとき、それこそが私たちの霊性と健康を養うのである。


朝の露 <つまずきを与えない者>

2024-06-07 | Ⅰコリント
「ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。」(Ⅰコリント10:32新改訳)

キリスト者は十字架によって罪がゆるされ、律法の束縛から自由にされた。しかし、だからといって何でも自分の思うままに行動してよいか、といえばそうではない、とパウロは強調する。▼神の愛は私たちに自制を求める。それはすべての人が救われるのを神が望んでおられ、キリスト者は彼らが心を開いて救い主のもとに来るために、あらゆる労を惜しんではならないと言われるからだ。主もまた、「人があなたに上着をくれ、と言ったら下着も与えよ」と言い、「いっしょに一マイル行ってくれと言ったら、二マイル行きなさい」と言われた。つまり、救われたキリスト者は、もはや自分の心を優先してはならず、滅んで行こうとしている人の救いのため、できるすべてをしなければならない、ということなのである。▼やがて主がお出でになったとき、私たちの生涯は神の愛という定規(じょうぎ)で測(はか)られ、審判されるであろう。そしてそれだけが永遠に残るものとして評価される。あとは残らず燃え尽きてしまう。


朝の露 <パウロの使徒性>

2024-06-01 | Ⅰコリント
「私には自由がないのですか。私は使徒ではないのですか。私は私たちの主イエスを見なかったのですか。あなたがたは、主にあって、私の働きの実ではありませんか。」(Ⅰコリント9:1新改訳)

コリント教会にはパウロの使徒性を疑う人々がおり、しばしば議論されていたが、それに対する彼自身の反論が本章の内容である。▼そもそも使徒とはナザレのイエスと共に交わり、復活された主にお会いした経験を持つ人たちを指した。ところがパウロにはその経験がないではないか、というのがコリントの人たち(たぶん一部の人たち)の言い分であった。この疑問に対し、パウロは述べる。「いや、私はダマスコへの途上で復活し、天におられるナザレのイエスに直接会ったし、そのお声もハッキリ聞いた。そして異邦人宣教の命令を受けたので、生涯をささげてそれに取り組んでいるのだ。ギリシア人へ福音を伝えたのも、主の指示を受けてであり、その結果コリント教会が産み出されたという事実を知ってほしい。あなた方の存在こそ、私が使徒であることの証明なのだ」と。パウロの切々とした説得が私たちにも迫って来る。▼人がキリストに出会う、という時、その出会い方は千差万別である。しかしパウロの場合、その出会い方は圧倒的だったとしかいうことができない。その影響はキリスト教の全歴史において無比の影響力を与えているからだ。神はアナニアに、「あの人は・・・わたしの選びの器です」(使徒9:15同)と言われたが、彼の生涯を用いることによって、神はキリスト教の歴史を建て、その愛の無限の深さ、広さを世界の諸民族に浸透させつつ今日に及んでいる。誰が何と言おうと、なんびともパウロに匹敵する働きをすることはできなかったのである。その点において、当時のコリントの信徒たちはあまりにも皮相的であり、浅薄であった。とはいえ、パウロの弁明は書簡となり、福音の解明書ともなって全時代の教会を照らし続けて来た。じつに不思議な神のご計画としかいうほかはない。▼彼は生涯を宣教にささげ、最後はローマの片隅で囚人として死んでいった。その死に注目する者はだれもいなかったであろう。皇帝の死が帝国最大の行事として行われたのとはあまりにも対照的であった。しかしそれでよかったのである。いかなる人間も、偉大な人物としてあがめられてはならず、ただ栄光は(パウロではなく)神にのみ帰せられるべきだからである。


朝の露 <神はただおひとり>

2024-05-31 | Ⅰコリント
「さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、『世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない』ことを私たちは知っています。」(Ⅰコリント8:4新改訳)

世界には神々と名づけられたものが無数にあり、礼拝されているが、それらは実際には存在しないものである。これがパウロの確信であった。▼日本でも事情は同じで、人々は心霊現象とか超常現象などと騒ぎ、ニュースなどにも取り上げられたりしている。しかしそれらはすべて想像や錯覚(さっかく)、悪霊のまどわしによるもので、意味のないものである。私も若い頃、興味本位に書籍をあさったりしたが、イエス・キリストに立ち返ったとき、無意味であることをはっきり悟った。▼主は明言しておられる。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハネ14:6同)と。世間のことわざに、分け登るふもとの道は多かれど、おなじ高嶺(たかね)の月を見るかな(たくさんの宗教があるが、結局すべてはひとりの神に到達する、だから宗教はなんでも良い、との意味)とあるが嘘である。イエス・キリスト以外に救いはない。

朝の露 <未婚の人たち>

2024-05-25 | Ⅰコリント
「未婚の人たちについて、私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみにより信頼を得ている者として、意見を述べます。差し迫っている危機のゆえに、男はそのままの状態にとどまるのがよい、と私は思います。」(Ⅰコリント7:25,26新改訳)

差し迫っている危機、とパウロが言うのは何を指しているのだろうか。彼は日々休むひまもなく当時の世界を巡り、福音をあらゆるところに伝えていたが、そこで直面したのは、きびしい迫害とキリスト教に対する敵対感情であった。つまり、異邦人教会が生まれると同時に味わったのは、死ととなりあわせの環境だったのである。▼ローマ帝国は、パウロの頃はまだ福音の広がりを無視していたが、そのうちに全力をあげ、おそいかかって来るにちがいない、使徒は各地を回るうちに、そのような空気を肌(はだ)で感じ取ったのであろう。福音に対する仮借(かしゃく)ない迫害の時代が、遠からずやってくる。そのことに対する予感が、信仰者たちの結婚問題について、本章の意見となったと思われる。たしかに結婚は個人の自由だが、置かれている今の時代を読み取ることも大切だ。