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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <隠された宝のように>

2022-03-17 | 箴言

「もしあなたが悟りに呼びかけ、英知に向かって声をあげ、銀のように、これを探し、隠された宝のように探り出すなら、そのとき、あなたは主を恐れることをわきまえ知り、神を知ることを見出すようになる。」(箴言2:3~5新改訳)

わが子よ(1節)との呼びかけは、ソロモン王というより天の御父がキリスト者に向かって発した呼びかけのことばと味わうべきだ。そうすると、1~3節の知恵、英知、悟りとは受肉された神であるイエス・キリストを示していることがすぐわかる。▼ソロモン王は世界一の知恵者であり、権力も富も最高峰をきわめた人物であったが、私生活はほめられたものではなかった。それにもかかわらず、箴言の中で「やがて現れたもうイエス・キリスト」を指し示すことができたのは不思議というほかない。それにしても、ソロモンと異なり、私たちは御霊によってまことの英知である御子を知り、その道を歩む幸いを享受しつつあるとは、何たる幸せだろうか。箴言の箴とは体を治す鍼(はり)を意味する。知恵に満ちた主のおことばこそ、人の道を正しく治す鍼そのものである。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。」(Ⅱテモテ3:16,17同)

本章の最後の段落(16~22)では、神による思慮と英知が私たちを姦淫や不道徳から守ることを強調している。そもそも人々がこの罪悪に陥るのは、表面の快楽だけが目に映り、霊界の真相に気づかないからである、とソロモンは示唆する。▼そして彼は姦淫の奥に隠された実際の姿を描く。「彼女の家は死へと、その道筋は死者の霊の国へと下るこの女のもとへ行く者はだれも帰って来ない。いのちの道に至ることはない」(18、19)と・・。牧師の私にいろいろな所から伝えられる情報は、今の日本(むろん世界も同じなのだろうが)が、淫行や不倫の洪水だということである。真面目に生きようとする人たちをあざ笑う不道徳の生き方を、これでもかとばかりあおり続ける風潮が満ちている。その結果、若者から高齢者まで人間らしい生き方を失い、心もからだも傷つき悲しみ、倒れている人たちがいかばかりか。▼箴言は言う。その人たちは今どこへ行ったかを思え、と・・。死者の霊の国をよく見つめなさい、そこには嘆き、後悔、叫びが満ちているではないか、と。神が「人間に望まれるまじめな生き方」を笑い、踏みにじった者には永遠の審判が待ち受ける。そのときが来るまで留置されるのが死者の霊の国という獄である。その実相を深く思い、エリをただして生きることが本当の英知なのだ。何千年も前より聖書が告げる死後の世界の真実。万人が神と救い主キリストに立ち帰る以外、全人的救いと癒しはどこにもない、と知ろう。

 

 


朝の露 <わたしの叱責に立ち返れ>

2022-03-16 | 箴言

「わたしの叱責に立ち返れ。おまえたちにわたしの霊を注ぎ、わたしのことばを知らせよう。」(箴言1:23新改訳)

20節以下は、ちょうど主イエスがエルサレムの街角で呼びかけたおことばのようである。主は三年ものあいだユダヤの町々、村々を経巡り、神の国の福音を告げ知らせた。そしてそれらが真実の招きであることを、数々の奇蹟で証明されたのである。だが、彼らは奇蹟に驚きながらも、イエスがキリスト(メシア)であることを最終的には拒絶した。ここに記されたとおりだ。「わたしが呼んだのに、おまえたちは拒んだ。手を差し伸べたのに、耳を傾ける者はなかった。」(24)▼真の知恵とは、学問その他によって物事の理を明らかにすることではなく、モーセ律法をくわしく解釈することでもない。主イエス・キリストが永遠の知恵そのものであられることを、まず、心から信じ受け入れることである。「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。・・・キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ2:3~9同)▼しかし当時のユダヤ指導者たちは、それを理解せず、あくまでも律法の教条に拘泥(こうでい)した。その結果、「主を拒み、十字架につけたイスラエル」に何が待ち受けていたか。ローマによる仮借なき弾圧と、それに続く悲惨な流浪の歴史であった。だから何人であれ、知恵をはき違えることなく、一刻も早く主キリストに立ち返るべきである。

22~33節は、知恵(20)を擬人化し、ちょうど一人の人が呼びかけるように語った箇所である。が、そこに「わたしの叱責に立ち返れ。おまえたちにわたしの霊を注ぎ、わたしのことばを知らせよう」とあるのが興味深い。ペンテコステのとき、復活昇天された主イエスから真理の御霊がエルサレムの弟子たちに下り、教会ができたわけだが、それを預言することばのようだ。▼まことの知恵にいます真理の御霊は、そのときから福音を全世界に広め、神の国を完成させるため、今に至るまで働いておられる。もしこの御方の働きがなかったら、だれひとり十字架の真相に気づいた者はいなかったであろう。したがって御国に入る者も起こされなかったであろう。思えば神の御知恵ほど素晴らしく、栄光に満ちたものは存在しない。使徒パウロの叫びはもっともである。「しかし私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」(Ⅰコリント2:6~8同)


若者と誘惑

2021-09-22 | 箴言

私が家の窓から、格子窓から見下ろして、浅はかな者たちを見ていると、若者たちのうちに、良識のないひとりの若い者がいるのに気づいた。

彼は、女の家への曲がり角近くの街路を通って、その家に至る道を進んで行った。それは、たそがれの、日の沈むころ、夜と暗闇の始まるころだった。

すると、遊女の装いをして、本心を隠したある女が彼を迎えた。この女は騒がしく、頑なで、その足は自分の家にとどまらず、あるときは通りに、あるときは広場にいて、あちこちの角のところで待ち構えていた。

この女は彼を捕まえて口づけし、臆面もなく彼に言う。『交わりのいけにえをささげなければならないので、私は今日、自分の誓願を果たしました。それで私はあなたに会いに出て来ました。あなたを捜し求めて、やっと見つけました。私は長椅子に敷物を、あや織りのエジプトの亜麻布を敷き、寝床を没薬、アロエ、シナモンで香らせました。さあ、私たちは朝まで愛に酔いしれ、愛の喜びを互いに味わいましょう。夫は遠くへ出ていて、家にはいませんから。金の袋を持って行きました。満月のころに帰ってくるでしょう』と。

彼女は心動かすことばで彼を誘惑し、なめらかなくちびるで彼をいざなう。

彼はただちに、彼女の後について行く。牛が屠り場(場)に引かれて行くように、足かせが愚か者を懲らしめているかのように。

最後は矢が彼の肝(きも)を射抜く。それは、自分のいのちがかかっているのを知らずに、鳥がワナに飛び込むようなものだ。

子たちよ。今、私に聞き従い、注意して私の口のことばを聞け。彼女の道に、心がそれて行ってはならない。その通り道に迷い込んではならない。

この女は多くの者を切り倒し、殺された者は数えきれない。その女の家はよみ(地獄)への道。死の部屋に下って行く。

(箴言7:6~27新改訳)


朝の露 箴言31章 <真珠よりもはるかに尊い>

2017-10-18 | 箴言

さくら「しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。」(箴言31:10新改訳)

箴言は良い妻を持つことの大切さをしきりに強調している。反対に、「恥をもたらす妻は、夫の骨の中の腐れのようだ」(同12:4)と、きびしい警戒も怠らない。▼夫は妻によって賞賛され、妻も夫によって輝く。旧約聖書で目立つ賢い女性といえば、ダビデの暴走を止めたアビガイルであろう(Ⅰサムエル記25章)。心から神をおそれうやまい、霊的洞察力を持ち、それでいて謙遜であり、同時に決断力と勇気とを備えていた。ダビデがすっかり感じいって妻に迎えたのは当然と思う。▼イエス・キリストが十字架にいのちを捨てられたのは、最愛の妻を得るためだった。「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、・・・聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです」(エペソ5:26,27同)と記されたとおりだ。御父の側からすれば、愛する御子のため最高の美と愛に満ちたはなよめを創造し、与えることが何にも勝ってお慶びだったからである。▼驚くのは、その候補とされたのが、輝く御使いでも、人間の中の聖人君子とよばれるような義人でもなく(そもそも義人にふさわしい者などひとりもいないのであるが)、異邦人のように汚れ切った人たちであった、という事実である。それがやがて、新天新地において、美しさの極み、エルサレムの都として輝くのである。いわば産業廃棄物、ゴミの山のガラクタから、史上最高のダイヤモンドの結晶が出来上がるようなものだ。▼こうして比類なき神の叡智と無限の御愛、慈しみが天地に輝き渡ることになる。こひつじの新婦・天のエルサレムはその神の栄光により、美を輝かせるのだ。創造の傑作品として、永遠に・・・。もし貴方が、そのひとりとして選ばれていることを確信できるなら、この世でも来るべき世でも、もっとも幸せな存在というべきである。◆◆箴言はこの31章をもって結びとする。私は不思議に思う。というのは、最高の知恵者といわれたソロモンが箴言を閉じるにあたって、「真珠よりもはるかに尊い妻」を歌い、聖書最後の黙示録もそれに呼応するかのごとく、永遠の宝石であるこひつじの妻・天のエルサレムを結びとしているからだ。全能の神、イエス・キリストの父なるお方は、ご自身の永遠の叡智を世々にわたり輝かせるため、御子のために「しっかりした妻(賢き女・文語訳)」を造り出すことをもって良しとされたのである。


朝の露 箴言30章 <神のことばは純粋>

2017-10-17 | 箴言

姫路市街「神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように。」(箴言30:5,6新改訳)

旧約聖書は、神のことばが純粋であること、それに人の言葉や考えを付け加えたりしてはならないことをくりかえし命じている。特にモーセは申命記で二度もそれを命じた(4:2、12:32)。新約聖書の最後にもおごそかな命令がある(黙示録22:18,19同)。▼創世記から黙示録までが産み出された千五百年間、人類は聖書に匹敵する霊感に満ちた書物を、他に一冊も生み出すことができなかった。これこそ聖書が神のことばであることの証拠にほかならない。▼聖書に信頼することは、イエス・キリストに信頼することである。そうすれば、たとえ天地が崩れ去っても、人は主と共に永遠に生きることができる(マタイ24:35同)。今後も世界はますます混迷の度を深めていくから、私たちは、「拠り頼む者の盾」である聖書と、聖書が指し示す神の御子に信頼すべきである。まもなく、「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす」(へブル12:26同)と神の言われた時がかならず到来するのだから。◆今年(2017年)は宗教改革が起こり、プロテスタント・キリスト教が生まれて500年になる年である。宗教改革の最大の功績、むろんそれは神の摂理によるものだが、聖書を誰でも読めるように「当時の人間的権威」から解放したことだ。今日私たちが聖書を座右に置き、いつでも自由に読めるというのは、どんなに感謝しても、し足りない恵みである。◆明治初期、宣教師たちが日本に新教を伝えにやって来たとき、いち早く取り組んだのは日本語聖書の翻訳、発行であった。そして名訳といわれる文語訳ができた。今なお文語訳を愛読している人々は多い。かくいう私もそのひとり。聖書があれば、いかに迫害が起き、海外の扉が閉ざされてもキリスト者は生き残れる。神の息吹きにより生まれた聖書には「いのちがあり、力がある」からだ。プロテスタント宣教師たちは、過去の歴史からそれを学んでいたのである。◆もちろん、聖書があっても「曲がれることを言い出す人」はこれからも起きるであろう。しかし同時にかならず、それを糾し、矯正する働きも起きる。それが歴史の事実なのだ。使徒パウロのことばを心にきざみつけたい。「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感による(神のいぶきによる)もので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(Ⅱテモテ3:15~17同)